「今宵は、百の妃を所望する」
家臣と皇后、百人の妃たちが一堂に会する玉座の間。水を打ったように静まり返るその中で、低い声はよく響いた。
その場にいる誰もが目を見開き、自分の耳を疑った。
後宮が開かれてはや半年。
一度も妃を閨に呼ばなかった皇帝が、今はじめて妃を所望した。
後宮内の者皆が、待ち望んでいた瞬間だ。
だがその妃が、有力家臣の娘である一の妃でも、稀代の美女と謳われる二の妃でもなく、よりによって百の妃とは――。
冷たい床にひれ伏したまま、凛風は恐ろしさに震えていた。
考えもしなかった事態に、胸の鼓動が痛いくらいに鳴っている。
どうして自分が皇帝の寝所に呼ばれたのか、まったく意味がわからない。
皇帝の寵を争うために存在するこの後宮で、自分だけはそれを望んでいないというのに……。
――ひとつだけわかるのは。
皇帝の寝所にはべる時、彼の寵愛を受けるその時が、自分と彼の最期の時。
今宵、皇帝の寝台が、血に染まるということだけだった――。
炎華國の北の外れ、高揚。
この地を治める貴族、郭凱雲の邸の裏庭にて、今年十八になる郭凛風は、寒さに耐え洗濯をしている。
桶に張った水に布をひたすと、あかぎれだらけの指が痛む。凛風は顔を歪め歯を食いしばった。
冷たい水での洗濯は、この季節もっともつらい作業だった。だがぐずぐずしている暇はない。日があるうちに言いつけられた仕事をすべて終わらせなければ、もっと痛い思いをすることになる。
この辺りで一番大きなこの邸には、当然召使はたくさんいる。
だが誰も凛風が継母から言いつけられた仕事を手伝ってはいけないことになっている。
今も水場でひとり、朝昼晩と道楽のように着替えるひとつ下の異母妹、美莉の衣装を洗う凛風を気遣う者はいない。
「凛風、凛風!!」
勘を立てた声で自分を呼ぶ声がして、凛風はびくっと肩を揺らす。
洗い物を一旦置いて水場を離れ、外廊下の階段の下で地面に膝をついて頭を下げる。
足音を立てて、継母がやってきた。
「凛風!」
「はい、お継母さま」
「お前、美莉の髪飾りをどこへやった? 赤い瑪瑙のやつだ」
件の髪飾りは、父が美莉のために都から取り寄せたものだ。彼女はそれを気に入っていて、よくつけている。
確か最後に使ったのは、三日前。〝買い物に行くので市場にいる貧乏人に見せびらかすのだ〟と言って出かけていった。
「確かこの間のお出かけの後、鏡台の引き出しにしまわれていたと……」
びくびくしながら答える凛風を、継母が苛立ちながら遮った。
「そこにないから聞いてるんじゃないかっ! 本当にお前はぐずだね! いったいどこへやったんだい!?」
「わ、わかりません。わたしが見たのはそれが最後です」
震える声で答えるが、それで許してもらえるはずがない。
「嘘言うんじゃないよ! 美莉が妬ましくてどこかに隠したんだろう」
「そ、そんなことしません!」
真っ青になって首を振る。そこへ。
「おだまりっ!」
叱責とともに頬を打たれる。衝撃で凛風は地面に手をついた。
「お前があの髪飾りを羨ましそうに見ていたのは知っている。白状をし! 髪飾りをどこへやった!」
鬼の形相で継母は凛風を追及する。
まったく身に覚えのない話だった。
赤い瑪瑙の髪飾りは繊細な銀細工でできている最高級品で、この辺りの娘には手に入らない代物だが、羨ましいなどと思ったことはない。
朝から晩までこの邸の中で、言われたことをこなすだけの生活をしている自分が持っていてもなんの意味もないからだ。
だがそれで継母が納得するはずがない。
こうなったら、凛風がなにを言っても無駄だった。このままではひどいことになるのは目に見えていた。
継母はことあるごとに癇癪を起こし、憂さ晴らしのように凛風の身体を棘のある木の枝で打つ。
そのため凛風の身体には背中や肩、腕にいたるまで醜い傷痕が残っている。
継母から着ることを許されている袖の短い衣では、腕の傷が見えてしまう。目にした人は皆眉をひそめた。
なんとかして彼女の怒りを鎮めなくてはと思うけれど、髪飾りの行方に心あたりがない以上どうしようもなかった。
「本当に知りません。私はひとりで美莉さまのお部屋に入ることはありませんから……」
「しらを切るんじゃないよ! ああ、口惜しい。今夜の宴につけさせたいと思っていたのに……」
今夜邸では、都からの使者を迎えることになっていた。彼らをもてなすために、宴が開かれるのだ。
宴には妹と継母も出席するが、当然ながら凛風は呼ばれていない。
血の繋がりという意味では凛風も正真正銘父の子だが、彼らの認識では郭家には含まれない。召使いか、それ以下の存在だ。
「どこへやったか早くお言いっ! 宴までに出さなきゃ、承知しないよ。この家から放り出すくらいじゃ済ませない。東の森へ捨ててやる!」
「ほ、本当に知らないんです!」
凛風は真っ青になって首を振った。
東の森は国の境、魑魅魍魎が現れる場所だ。迷い込んだりしたら人間の凛風はあっという間に喰われてしまう。
「私が見たのは三日前が最後です! 本当です」
「まだ嘘をつくのか!」
必死に訴える凛風の頬に、再び継母の平手打ちが飛んでくる。凛風は地面に倒れ込んだ。
それだけではあきたらず継母はもう一度腕を振り上げる。そこへ。
「お母さま」
鈴の鳴るような声がして、継母が止まり振り返った。
美莉が柱の陰から現れた。
「髪飾り、あったわ。二段目の引き出しに入れ替えたのを忘れてたの」
気楽な調子でそう言って、継母に向かってペロッと舌を出す。
「あら、そうなのかい。……それはよかった、安心したよ」
継母がさっきまでとは打って変わって、機嫌のいい声で答えた。
「だけど、美莉。淑女が舌を出すなんてそのような振る舞いをするでないよ。なんといってもお前はそこら辺の娘とは格が違う、郭家の娘なんだから」
猫撫で声でたしなめる。
「はぁい」
美莉が可愛く答えた。そして凛風を蔑むような目で見た。
「お姉さま、臭い」
「馬小屋のにおいだよ。美莉、お前は近寄るでないよ、においが移るからね。そしたら今夜の大事な宴で、お使者さまに不快な思いをさせてしまう」
そう言って継母は、凛風を睨んだ。
「いつまでそこにいるつもりだい? もう用は済んだんだから、さっさと用事に戻りな。本当にのろまなんだから。いいかい? 今夜の宴は、美莉にとって大事な大事な宴なんだ。絶対にお使者さまの前に姿を見せるんじゃないよ。万が一にでも、お使者さまの前に姿を見せたら、今度こそ東の森に放り出すからね!」
言い捨てて、くるりとこちらに背を向けて、妹の背に優しく手を添える。
「さぁ、お支度の続きをしましょうね。とびきり綺麗にしなくては。この日のために、お前を大切に育てたのだから」
もう凛風には用はないというように、さっさと廊下を歩いていく。
美莉がちらりと振り返り、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
十中八九、髪飾りの件は彼女からの凛風に対する嫌がらせだ。
彼女は凛風が継母に罵倒され殴られるのを見るのがなによりも好きで、こんな風に頻繁に凛風に難癖をつけ継母を焚きつける。
とはいえ、今回は枝で打たれずに済んだとホッとして凛風はまた洗濯に戻る。
平手打ちくらいなんでもない。日常茶飯事だ。
洗濯物を洗い終えた凛風は、それを抱えて邸の裏の物干場を目指す。
途中、三人の下女が集まって話をしているところへ出くわした。
足を止めて物陰に隠れたのは、自分の名前が聞こえたような気がしたからだ。
「でもどうして奥さまはあそこまで、凛風さまをいじめるのですか? 馬小屋で寝起きさせるなんて、尋常じゃないですよ。仮にも郭家のお嬢さまですよね? さっきも髪飾りがなくなったって濡れ衣を着せられて……私胸が痛くて」
どうやら、彼女は新人のようだ。
凛風が継母に虐げられていることに、異を唱える者はこの邸にはいない。
継母の怒りを買うのが怖くて、皆見て見ぬふりをする。
慌てて先輩下女が低い声でたしなめる。
「そんなこと、この邸で言ってはいけないよ。奥さまに知られたらすぐに暇を出されてしまう」
それに、もうひとりの先輩下女も同意する。
「奥さまはね、凛風さまのお母上さまが存命だった頃のお妾さんなの。凛風さまが生まれた一年後に美莉さまを生んだのに、自分は邸に入れてもえず、町はずれで暮らしてたのよ。だから、先の奥さまを恨んでるの」
「へぇー」
「奥さまは美莉さまを後宮入りさせたいでしょう? だから凛風さまは邪魔ってわけ。馬小屋で寝起きさせて召使い以下の生活をさせているのは、凛風さまが選ばれると嫌だからよ。こう言っちゃなんだけど、見た目では、美莉さまは凛風さまに勝てないもの」
都にある皇帝のための後宮に娘を入れるのはすべての貴族の望みである。
娘が皇帝からの寵愛を受け、皇后になれば権力を誇示できる。
有力者たちは皆、娘に後宮入りするのにふさわしい行儀作法を身につけさせ、美しく育てあげる。
「だからね、この邸で働き続けたければ、凛風さまのことは見ないふりをしなきゃいけないよ。ほら、宴の準備に戻らなきゃ、叱られるわ」
そう言って、下女たちは建物の中に戻っていった。
今の下女が言った通り、この邸では凛風はいないものとされている。
どんなにひどく叩かれても、飢えて動けなくなっていても、下女たちが助けてくれることはない。
先ほどまで胸を痛めていた下女もすぐにそれを心得て、凛風がなにをされていても気に留めなくなるはずだ。
それを悲しいと思っていたのは、もうずいぶんと前のこと。
今はなんの感情も湧いてこなかった。
洗濯物を抱え直して、凛風はまた歩き出した。
一日の用事を済ませると、もう日が落ちていた。
凛風は盆に載った食事を持ち、寝床にしている馬小屋へ向かう。食事は一日これだけで、しかも下女のものよりもさらに粗末なものだった。
母屋から聞こえる音楽と笑い声、窓から漏れる温かい光を横目に、足音を立てぬよう外廊下を行く。
部屋から漏れるご馳走の匂いに凛風のお腹がぐーっと鳴った。
用事をこなしている間に小耳に挟んだところによると、都からの使者は、後宮に入る娘の選定に来ているという。
だから継母は、血眼になって髪飾りを探していたとたというわけだ。
彼女にとって美莉を後宮入りさせることは、なにより大切なこと。そのために育てているとことあるごとに口にしている。
後宮がどのような場所か、凛風には知るよしもない。
美莉が後宮入りすることにはなんの感情も湧かないけれど、この邸を出て継母と離れられるというのは羨ましかった。
五歳まで郭家の娘としてなに不自由なく育てられていた凛風の生活が一変したのは、弟の出産で母が亡くなったからだ。
母を失った傷がまだ癒えぬうちに、父の妾だった継母が妹の美莉を連れて邸に乗り込んできて、その日から、部屋も服も髪飾りも、凛風のすべてが美莉のものになったのだ。
政治にしか興味がなく、家族に対する情の薄い父が、幼い凛風をかばってくれるはずもなく、すべて継母に任せきり。
そもそも彼は一年のうち半分ほどを都にある別邸で過ごしていて、邸にあまりいない。
必然的に、この邸では継母が絶対的な存在となり、継母のすることに誰も逆らえなくなっていった。
はじめのうちは凛風をかばってくれていた乳母や下女たちも皆暇を出され、今はもう誰ひとり残っていない。
勝手に邸を出ることも許されず、下女以下の扱いを受ける凛風に、残された希望は……。
「姉さん、姉さん」
小声で呼びかけられて、凛風は足を止める。見回すと廊下の柱の影から、弟の浩然が顔を出していた。
慌てて周囲を確認してから自分も柱の陰に隠れ、浩然に向かって小さい声を出した。
「浩然、ダメよ。こんなところで私に話しかけちゃ。お継母さまに見られたら、あなたまで叱られる」
浩然が肩をすくめた。
「大丈夫だよ。今はお継母さま、お使者さまとの宴にかかりきりだから」
「だけどあなたも宴に出てるんでしょう?」
「今日の主役は美莉姉さんだよ。僕は先に挨拶を済ませて抜けてきた。なにも言われなかったよ」
そう言って懐から包みを出した。
「はい、これ姉さんの分」
受け取ると包みは温かい。中には、包子が入っていた。
「ありがとう……」
粗末なものしか与えられない、凛風にとってはご馳走だ。
「それからこれ」
次に彼は貝の殻を差し出す。中には油で練った薬が入っていた。
「昼間に医師さまのところでもらってきたんだ。手の傷に塗ると痛みが和らぐよ」
「ありがとう……。だけど無理しないでね。私は平気だから」
同じ母から生まれた子でも、父の唯一の息子で後継である浩然は蔑ろにはされてない。
美莉と同じように郭家の子として大切に育てられている。
それでも彼はこうやって継母の目を盗んで、凛風に食べ物や必要なものを持ってきてくれる。
「姉さんにこんな扱いをして、僕はお継母さまを絶対に許さない!」
浩然が拳を握りしめた。
「僕が家を継いだら、姉さんにつらい思いはさせないから。ううん、その前に、僕一生懸命勉強して、科挙を受けようと思ってるんだ。学問で身を立てて家を出る。姉さんを連れ出してあげるからね」
「ありがとう、浩然。でもあなたはこの家を継がなくちゃ。きっとお母さまはそれを願っておられるわ」
もうほとんど覚えていない母の記憶は、彼を身籠っていた頃。大きなお腹を幸せそうに撫でている母の笑顔だ。
『可愛がってあげてね、凛風。あなたのたったひとりの弟か妹になるのだから』
身体が弱かった母は、あの時すでに最後のお産になると気がついていたのかもしれない。まさかそのお産で命を取られるとまで思っていなかっただろうが……。
母のいなくなった浩然の世話は、雇われていた乳母の役目だったが、凛風も一生懸命手伝った。母を知らない浩然のために、母の代わりになれるように。
彼が赤子の頃は、まだ男子の出産を諦めていなかった継母に、浩然も冷遇されていた。味方のいない邸で、姉と弟は身を寄せ合い、絆を育んだのだ。
だが凛風十三、浩然八つになった年、状況は一変する。突如ふたりは口をきくことを禁じられ、凛風は馬小屋で寝起きするよう命じられた。
継母が男児を生むことを諦め、浩然は郭家の後継として継母の手で教育されることになったからだ。
そうして凛風は、十八になった今も変わらず、ずっと馬小屋で寝起きしている。
「こんな家、どうなってもいいよ。亡くなった母さまも大切だけど、今は姉さんの方が大切だ。学問所の老師さまがね、僕ならきっと受かるだろうって言ってくださってるんだ。……問題は父上が科挙を受けさせてくれるかどうかだけど」
「老師さまがそうおっしゃってくれるの? すごいじゃない!」
凛風は声を弾ませる。
彼が、学問所でいい成績を収めているということが嬉しかった。彼が健やかに成長することだけが、凛風の望みだ。
その時、廊下の向こうで扉が開き、誰かが出てくる気配がする。
浩然が囁いた。
「じゃあね、姉さん。また食べ物持っていくから」
素早く離れて、見つからないように建物の中に入っていった。
凛風も急いでその場を離れる。足早に、邸の裏庭にある馬小屋を目指した。
郭家では白竜という馬を一頭飼っている。凛風が戻ってきたことに気がついて、前足でカポカポと地面を蹴った。
「ただいま。飼葉ちゃんと食べた?」
声をかけながら白竜の顔を撫でると、白竜は嬉しそうに凛風の頬を突いた。
「ふふふ、食べたみたいね」
馬小屋の隅の粗末な板を渡し、ぼろ布を敷いただけの寝台、そこが凛風の寝床だ。雨が吹き込む寒い日もここ以外で眠ることは許されない。
そこに食事と包子を置いて、凛風は白竜の身体を櫛で梳く。白竜が気持ちよさそうに目を閉じた。
馬の毛並みは、健やかかどうかの目安になる。どんなに疲れていても朝晩必ず櫛で整え確認するようにしていた。
もともとは年老いた下男が、白竜の手入れを任されていて、凛風に馬のことを教えてくれた。
凛風に同情的だった彼が継母に暇を出されて以来、馬たちの世話は凛風の役割となっている。
浩然と話すことを禁じられ、用がなければ母屋に入れないのはつらいけれど、寝起きするよう言われたのが馬小屋でよかったと今は思う。白竜と一緒なら寂しくはない。
手入れが終わると、凛風は寝台に座り食事をとる。
包子を食べながら浩然のことを考える。
小さな頃は怖がりで泣き虫、夜ひとりで廁へ行くこともできず泣いていたのに、学問所で科挙を勧められるまでに成長したのが嬉しかった。
彼は凛風の生きる支えなのだ。
東の森に放り込まれて魑魅魍魎に喰われるのを恐ろしいと思うのは、浩然がいるから。
浩然が成人し、立派にこの家を継いだのを見届けて、それをあの世で母に報告するのが、凛風のただひとつの望みなのだ。
それまでは、どんな扱いをされようとも死ぬわけにはいかない。
そんなことを考えながら食事を終えると、白竜が藁の上に横たわる。凛風を見て首を縦に振っている。こっちへ来いという合図だ。
凛風は寝台の上のぼろ布を手に、白竜のそばに横になった。
夜はよりいっそう冷えるが、こうやって寄り添って寝れば暖かい。艶々(つやつや)の毛並みに身体を寄せれば、途端に疲れが押し寄せてくる。
朝になればまたやるべきことに追い回される一日が待っている。目を閉じて、凛風はあっという間に眠りに落ちた。
母屋へ来るようにという父からの伝言を凛風が受け取ったのは、次の日のこと。使者が都へ帰った後の夜更けだった。
何年かぶりに入る父の部屋は人払いされていて召使いたちはいない。
いるのは、父の他に継母と美莉だけだった。凛風が部屋に足を踏み入れると、ふたりは怪訝な表情になる。
継母が眉を寄せて凛風を睨んだ。
「お前、誰の許しを得てここにいる?」
「わしが呼んだのだ。今宵の話は、凛風にも関わる話だからな」
父が言い、継母が不満げに口を閉じた。
凛風が冷たい床に跪くと、父が腰掛けに座る継母と美莉に向かって話しはじめた。
「今朝、お使者さまが都へと戻られた。お前たちも知っての通り今回の目的は、新皇帝の後宮に入る娘の選定だ。我が郭家も娘をひとり、皇帝陛下への〝生贄〟として差し出すようにとお話があった」
「〝誉れの生贄〟ね! やったわ!」
美莉が声をあげた。
「ついにこの日が来たのね!」
後宮入りする娘が〝生贄〟と呼ばれるのは、この国を治める皇帝が代々、鬼の血を引いているからである。
ここ炎華国は、本来は魑魅魍魎が溢れる荒れた土地。あやかしの能力を持たない人はその昔ただ喰われるだけの存在だった。
現在は、魑魅魍魎の頂点に君臨する鬼を皇帝として崇め奉ることにより、平穏な暮らしを維持している。
新皇帝が即位すると、新たに後宮が開かれて、人は生贄として娘を百人捧げることになっている。
生贄とはいえ、鬼の血を継ぐ子を生むのは、国のためになくてはならないこと。
その仕事を果たした娘の一族は繁栄を極め、家族は皆一生なに不自由ない生活が約束される。
そのため、後宮入りする娘は〝誉れの生贄〟と呼ばれるのだ。
継母もうっとりと目を細めた。
「ああ、嬉しい! さっそく準備をしなくては。明日にでも衣装屋を呼びましょう」
興奮する継母を、父が止めた。
「まぁ待て。わしは美莉を後宮入りさせるとは言っておらん。お使者さまは、郭家の娘ならば、姉妹のうちどちらでもよいとおっしゃった」
そう言って凛風を見る。その視線に凛風は目を見開いた。
この家で、娘といえば美莉のこと。馬小屋で寝起きして、邸の外へ出ることもない凛風は、世間的にはいないものとされているというのに。
なぜ父は自分を見るのだろう?
「なっ……! あなた、まさか……凛風を後宮入りさせるおつもりですか?」
継母がわなわなと唇を震わせた。
「そのつもりだ。だからこの場にこいつを呼んだ」
「な、なれど……どうして!? この子は、このように痩せ細り、教養も身につけておりません。見た目も中身も後宮に相応しくな……!」
「まぁそう興奮するな、これにはわけがある」
唾を飛ばしてまくし立てる継母をうっとおしそうに見て、父は事情を話しはじめた。
「今宮廷は、新皇帝、暁嵐帝と、前帝の皇后さまが対立している状態だ。暁嵐帝は皇后さまのお子ではないからな。皇太后さまには輝嵐さまという立派なお子がおられる。当然、皇后さまは、輝嵐さまが即位されることを望んでおられる」
「そうなのですか……。ではなぜ暁嵐さまが即位されたのですか? 皇太后さまは、宮廷では絶大なお力があると、私のような者でも聞き及んでおりますのに」
継母からの問いかけに、父は渋い顔で首を振った。
「今年二十二歳になられる暁嵐さまが輝嵐さまより二歳年上だからということもあるが、一番の理由は前の帝の遺言だ」
「前の帝の遺言?」
「ああ。暁嵐帝は、鬼としてのお力が輝嵐さまよりお強いようだ。それで後継に指名された。……まぁ、そのあたりはわしら人間にはわからんことなのだが」
国の頂点に君臨する皇帝に必要なのは、なによりも鬼としての力の強さ。
人を狙う魑魅魍魎を押さえ込む力だ。
病がちだった前帝の晩年は、国のあちこちで人が喰われるということが頻発した。
ここ高揚でも、東の森に引きずり込まれた子供が帰ってこないことが続いた。
新皇帝が即位してからはそのようなことはなくなったため、皆安堵していたのだが……。
「輝嵐さまも前帝の血を引く立派な鬼でいらっしゃる。どちらが即位しても問題はないはずだ。なにもよりによって女官に生ませた子を世継ぎに指名せずともよいものを……」
父が苦々しい表情で吐き捨てた。
暁嵐帝の生母は、後宮女官だった女性だという。
「あなたさまは、皇太后さまによくしていただいておりますからね」
継母の言葉に、父は頷く。
「ああ、そうだ。今の郭家があるのは皇太后さまに取り立てていただいたからだ。……そして、今ももっとも信頼をいただいておる」
そう言って父はにやりと笑い、凛風を見た。凛風の背中がぞくりとする。嫌な予感がした。
「女官が生んだ子が皇帝になるなど、本来はあり得ないことだ。皇太后さまは、今の国の状況を大変嘆いておられる。そこで我らをお頼りになったのだ。輝嵐さま即位のため力を貸せ、と……。成功すれば郭家の領地は都近くへ変わるだろう。わしは要職につける」
「んまぁ! 都の近くに? なんてありがたいことでしょう! 私、このような寒い田舎は飽き飽きしておりましたの」
継母が盛り上がり、美莉も嬉しそうにする。
「して、我らはなにをすればよいのです?」
父が声を落とした。
「決まっておるだろう。暁嵐帝暗殺だ。輝嵐さまに即位していただくにはそれしかない」
「ひっ!」
継母が引きつった声を出し、美莉も固まった。世間知らずの女子でも、それがどれだけ恐ろしいことかくらいはわかる。
継母が震える声で尋ねた。
「そんな……。ですが、なぜ我らに? 皇帝のお近くにいらっしゃる皇太后さまなれば、屈強な家臣を使ってすぐにでも成し遂げられそうなものを」
それを、父が鼻で笑った。
「相手は鬼ぞ。普通の人間では敵わん。現に皇太后さまは、暁嵐帝の幼少期から何度も試みられたがすべて失敗に終わっている。暁嵐帝が四つの頃、真冬の夜の池に手足を縛られ沈められても翌朝には戻ってきたという話は、宮廷では有名だ」
「なれど、我らも人には変わりありません。皇太后さまにできないことが、できるとは思えませぬ」
継母の言葉に、父が不適な笑みを浮かべ、一段低い声を出した。
「平素ならばそうだ。だがひと時だけ鬼の力が弱まる時があるのだ」
「鬼の力が弱まる……?」
「ああ、これは皇帝にごくごく近しい者しか知らぬことだが、鬼の力は誰かと褥をともにしている時……つまり女を抱いている時は半減する」
「まぁ!」
ふたりのやり取りを聞きながら、凛風にもようやくこの話の着地点が見えてきた。美莉も同じことを思ったのか、不安げに眉を寄せている。
皇太后が、郭家に要求していること……それはつまり。
「すなわち、皇帝の寵愛を受ける妃のみに暗殺の機会がある。我が家の娘にそれを実行させよ、と……」
「わ、私は嫌よっ!」
美莉が真っ青になって声をあげる。
凛風もまったく同じ気持ちだが、あまりのことに身体が震えて声が出なかった。
父が美莉を冷たい目で見る。
「お前にやれとは言っておらん。無事にことを成し遂げた暁には、郭家は輝嵐帝の恩人として盛り立てると皇太后さまからはお約束いただいている。だが、手を下した本人は無事では済まん。鬼の力は弱まるだけでなくなるわけではない。道連れにするくらいの力はあるだろう。万が一生き残れたとしても、皇族に手を下した者は死罪だ。美莉、お前には輝嵐さまが即位された際に後宮入りしてもらわねばならないからな」
その言葉に、美莉はホッと胸を撫で下ろし、勝ち誇ったように凛風を見た。
美莉、継母、父の視線が凛風に集まった。
家のために、命をかけて皇帝を暗殺する……その過酷な運命を課せられるのは。
「やれるな? 凛風」
目の前が暗くなるような心地がした。
どこまでも自分は、父にとって価値のない存在なのだと思い知る。
「なれど、成し遂げる自信がありませぬ……」
凛風は声を絞り出す。それが精一杯だった。
「やらねばならぬ。失敗すれば、我が家は破滅。わしとお前の大切な浩然も責任を取らされ、無事では済まぬ」
「ハ、浩然が……?」
まさかこれが、浩然に関わることだとは思わなかった。けれど、よく考えてみればその通りだ。皇太后の機嫌を損ねた家臣が無事で済むわけがない。
浩然が立派に成長するのを見届けて、亡き母に報告するのが、凛風の唯一の望みだというのに……。
父が立ち上がり、凛風の前へやってくる。
しゃがみ込み、床に膝をつく凛風の肩に手を置いた。
「お前は、浩然が可愛い。そうだろう? 成功すれば、郭家は繁栄を極める。浩然はお前に感謝するだろう。家の功労者としてお前の墓は、邸が見える場所に立ててやる」
それであれば死してなお、立派に成長した浩然を見続けることができるのだ。
彼は凛風にとっての生きる望み。彼の命と自分の命、比べることなどできない。
「凛風、できるな?」
「凛風?」
両親に囲まれる凛風を、美莉が蔑むような目で見ている。
どちらにせよ、凛風に選択肢などないのだ。
自分は、父と継母の命に逆らうことは許されぬ身。
否と言えば、すぐにでも棘のある枝で虫の息になるまで打たれるだろう。そしてその後、東の森に放り込まれる。
自分の行く末が黒に塗りつぶされていくのを感じながら、凛風はゆっくりと頷いた。
どーんどーんと銅鑼の音が鳴る中、今日はそこに百人の女が集められていた。国中から選抜された、皇帝の妃たちである。
到着してすぐに身元の確認と宦官による身体検査が行われた。その後、後宮に入る前に百人の妃の順位が言い渡されるという。凛風は他の九十九人の妃とともにその時を待っていた。
「あー、胸が鳴って痛いわ。二十以内に入らなければ、望みはないわよね」
隣に座る妃が、向こう隣の妃に話しかけている。
「あら、でも先の皇帝陛下は、後宮女官との間にもお子ができたじゃない。あまり数は関係ないのかも」
「でも、皇太后さまは、一のお妃さまじゃない? やっぱり賜る数が後だと、お顔を拝見する機会も少ないんじゃないかしら? 五十より下なら陛下の目に留まるなんて、目をつぶって針に糸を通すより難しいってお父さまから言われたわ」
後宮に入る妃は、百人と決められていて、一から順番に数を賜るという。
皇帝は気に入る娘が見つかるまでは、一の妃から順番に閨に呼び、寵愛する娘を選ぶのだ。
当然ながら、有力家臣の娘や見目麗しい娘から、若い数を賜ると言われていて、先ほど受けた身体検査の結果も加味される。
皆がなるべく若い数をと願う中、凛風だけは、真逆のことを考えていた。賜る数が若ければ、それだけ計画を実行する時が早まるからだ。
父は下級貴族で、自分は特別美しいわけではない。本来ならば、若い数を賜ることはなさそうだけれど……。
そう願う凛風の頭に、今朝までの出来事が浮かんだ。
後宮入りするために、父とともに生まれ育った家を出たのが四日前。朝早くに人目を避けて出発する凛風を、浩然は満面の笑みで見送った。
『凛風姉さんが、皇帝陛下のお妃さまに選ばれるなんて嬉しいよ!』
涙を見られぬようギュッと抱きしめると、彼は父に聞こえないように囁いた。
『やっぱり僕、どんな手を使っても科挙を受けるよ。都へ行けばまた姉さんに会えるから』
彼が都へ来る時はおそらく自分はもうこの世にいない。どうか彼が凛風の死を乗り越えられますように、と願いながら別れの言葉を口にした。
『浩然、身体を大切にね』
浩然から離れて馬車に乗り込もうとすると、今度は美莉に引き留められた。
『お姉さまなら、きっと陛下の寵愛を受けられるわ……』
彼女はそう言って凛風に抱きつく。そして意地悪く囁いた。
『後宮妃は誉れな生贄と言うけれど、お姉さまは本当の生贄ね。せいぜい頑張りなさい』
都へ着いた凛風は、まず身体を綺麗に洗われて髪を整えられ、後宮入りするに相応しい衣を与えられた。そしていよいよ後宮入りする前日、不穏な客を迎えたのだ。
その女は、透ける薄い布が顎まで下がる傘を被り、でっぷりとした身体に真っ黒な衣装を纏っていた。
『そなたか、妾の願いを叶えてくれるという娘は』
客が口にした言葉に、凛風は彼女が何者かを悟る。自分に残酷な使命を課した、まさにその人だ。
『痩せておる。貧相な娘じゃ。本当にお主の娘か?』
皇太后が父に向かって問いかけ、父がやや焦ったように答えた。
『しょ、正真正銘、私の娘にございます。田舎娘ゆえ、都までの道のりで少々疲れてしまいまして。都のものを口にすればすぐにでも……』
『まぁ、よい。ならばそうじゃな……。うむ、むしろ好都合じゃ』
不可解な言葉を口にして、皇太后は手にしていた扇を凛風の顎にあてた。
薄く透ける布の向こう、自分を見る蛇のような目に、凛風の背中が粟立った。人を人と思わず、ただの道具としか見ていない者の目だ。
『お主は、必ずあの男の閨へはべらせてやるかの? 妾にはその力があるゆえ』
そして衣の合わせから、懐紙の包みを取り出して、凛風に差し出した。
『これをお前に授けよう。目的を達するためにはなくてはならぬものじゃ』
震える手で受け取ると、包みはずっしりと重い。開けると中から白い花の飾りがついた簪が出てきた。先端が紫色に染まり鋭く尖っている。
『その簪の先には、特殊な術をかけてある。閨の最中、その簪をあの男の喉に突き立てよ。もがき苦しみいずれ絶命する』
恐怖のあまり凛風の喉から、ヒュッという声が漏れる。動揺のあまり簪を持つ手が激しく揺れ、取り落としそうになるのを、皇太后の両手が凛風の手ごと受け止めた。
ゾッとするほど冷たい手だった。
その手が、何年かぶりに結い上げた凛風の黒い髪に簪を挿した。
頭に感じる簪の重みに、心までは押しつぶされそうな心地がした。
『その簪をいついかなる時も身につけているのじゃ。よいな?』
そう言って彼女は、凛風の頬を扇でつっと撫でて、ふふふと優雅に微笑んだ――。
「ねえ、あの簪なに? 悪趣味」
どこかからか聞こえてきたその言葉に、昨夜のことを思い出していた凛風はハッとする。
見回すと何列か前の妃ふたりが、凛風を見ている。
「雪絶花じゃない。あんなのを刺して後宮入りするなんて、あの子正気?」
眉を寄せて、ヒソヒソと話しをしている。さして隠すつもりはないようで丸聞こえである。
皇太后が帰って後、父から聞いたところによると、簪の白い花は雪絶花というらしい。可憐な見た目で衣服などの装飾にはぴったりだが、ひと株につきひとつの花しか咲かないことから、子宝に恵まれないという不吉な意味を持つという。
既婚で、まだ子を産んでいない女は、身に着けてはならないとされている。
皇太后が簪の飾りを雪絶花にしたのには理由があると父は言った。
『後宮は、陛下の寵愛を争うためだけに存在する場所。お妃さま方の間では足の引っ張り合いは日常茶飯事だ。高直な物がなくなることも少なくはない。万が一にでも盗まれぬようにというご配慮だ』
いくら美しい簪でも、不吉な物は盗られない、というわけだ。
「やだ、あなた……そんな簪、いったいどういうつもり?」
ヒソヒソ声に気がついた隣の妃が、ギョッとして凛風に問いかけた。
「……母の形見なんです」
凛風は、父に言いつけられた通りに答えた。
「だからって……。あなたまさか身体検査の時もそのままで?」
「はい」
すると彼女は眉を寄せて、凛風を避けるように座り直し、向こうの妃の方を向いた。
「よかった。少なくとも最下位になることはなさそうね。いくらなんでも、ここまでものを知らない娘に負けるわけがないもの」
その時、どーんどーんと銅鑼が鳴る。
がやがやと話をしていた妃たちが口を閉じると、前に役人が現れた。
妃の数の発表だ。
凛風の胸が痛いくらいに早くなった。
皇太后は、必ず閨にはべらせてやると言っていた。ならば、凛風には若い数が振りあてられるのだろうか。
「名を呼んだら、起立するように」
その場に静寂に包まれる中、役人が声を張り上げる。
「一の妃、李宇春」
すると中くらいの席に座っていた、ひときわ豪華な衣装を纏った少しふくよかな娘が立ち上がる。得意そうに頬を染めている。
「ありがとうございます!」
張りのある声で答えて膝を折り、着席した。
「お父上が、丞相さまだもの。きっともともと決まってたのよ」
「本人のお力ではないわ」
隣の妃たちが悔しそうに囁き合った。
「二の妃、陳花琳」
今度は前の席に座っていた娘が立ち上がる。ひときわ美しい妖艶な身体つきの娘だった。
「あの娘……! たいした家柄でもないくせにっ……」
「どうせあの身体で、お役人さまを誘惑したのよ。ふしだらね。ああはなりたくないわ」
そんなやり取りを繰り返しながら、次々に妃たちの名が呼ばれていく。
――そして。
「百の妃、郭凛風」
一番最後に自分の名を呼ばれた凛風は心の底からホッとした。
よかった。皇太后の力をもってしても、役人の算定を覆すことができなかったのだ。
立ち上がり頭を下げて再び座ると、隣の妃がくすくす笑った。
「百番目なんて、私なら今すぐ死んでしまいたいわ」
「本当、恥ずかしくて実家に顔向けできないわよね。でもあの娘、平気そうなのが、解せないわ。皆泣いてるのに」
実際、順位の低かった娘たちは皆一様に、泣き崩れている。立ち上がり返事をすることすらできない娘もいたくらいだ。
刺客であることを隠すためには、自分も泣き崩れた方がよいのだろうかと思うものの、そのように器用な真似はできなかった。
うつむき、好奇の目に耐えるだけだ。
また銅鑼が鳴り、妃たちが口を閉じる。
「これより、皇帝陛下が参られる。皆、首を垂れて待つように」
突然の宣言に、妃たちが一気に色めき立った。
「ついにこの時がきたのね! いったいどのような方かしら? 角を拝見することはできるのかしら?」
「あら、それはきっと無理よ。鬼の角はお力を使われる時にだけ、生えるという話だから。見た目は人間と変わらないけれど、精悍なお顔と屈強な身体つきは、宦官たちも見惚れるほどだという話よ」
凛風はひとりうつむいたまま、身を固くしていた。まさか皇帝がこの場に来ると思わなかった。
いずれ自分が手にかけなければならない相手を目にする勇気はまだないというのに。
もう一度、銅鑼がどーんと鳴る。
「皇帝陛下の御成」
役人の言葉に皆一斉に首を垂れる。
すると玉座の後ろの扉がギギギと開く音がした。こつこつという靴音を響かせて皇帝が部屋へ入ってきたようだ。しばらくして低い声が大極殿に響いた。
「面を上げよ」
周りの妃たちが言われた通りにする中で、凛風は頭を下げたままだった。どうしても勇気が出なかったからだ。
皇帝の顔を見てしまったら自分がしようとしていることの恐ろしさを実感して、すぐにでも逃げ出したくなってしまうだろう。
凛風がギュッと目を閉じた時。
「ご苦労であった」
皇帝が言って立ち上がり、入ってきた扉から出ていった。ギギギと扉が閉まると同時に、また妃たちがざわざわとする。
「あーん、あれだけ? もう少しお声を聞きたかったわ」
「だけど、噂通り素敵な方ねぇ。実家で拝見した肖像画以上だったわ。精悍なお顔立ちに切れ長の目。わたし、あのような美しい男性ははじめて見るわ。後宮入りしてよかったわぁ」
「本当に。それに驚くほど背が高い方なのね。逞しくて素敵だった……。鬼のお力を使われるところも見てみたいわ」
皆が皇帝の容姿について口々に褒める中、また銅鑼が鳴り、役人が声を張り上げる。
「では、これより後宮入りしていただきます」
周りが一斉に立ち上がる。凛風も皆に従った。