目の前に並べられた(あさ)()を前に、暁嵐はふわぁとあくびをする。建物の外から差し込む朝日を、少し(まぶ)しく感じて目を細めた。
 厳しい冬が終わりだんだんと春めいてきた。そろそろ初夏の国家行事、()(エン)(サイ)の準備をしなければと思っていると。
「お疲れのご様子ですね、陛下。昨夜はよく眠れませんでしたか?」
 朝餉の給仕をする従者に問いかけられる。
「いや、大事ない」
 暁嵐は首を横に振った。
 鬼である暁嵐の体力は人のそれとは比べものにならない。だから疲れてはいるわけではないが、昨夜、あまり寝ていないのはその通りだった。
 昨夜の、郭凛風について考えていたからだ。
 筆と紙を渡された時の驚いた様子と、嬉しそうに教本を開く姿、自分の名を目にした時の澄んだ涙は、真実の姿だったと暁嵐は思う。
彼女は本心から自分の名を書けるようになりたいと望んでいる。
 暁嵐を皇帝だと知らないのも、おそらくは本当だ。彼女は、目の前にいる暁嵐を殺めようとしてあの場にいるわけではない。
 一方で、状況が限りなくあやしいのも事実だ。
 暁嵐の身の回りに起こる変化に対する違和感は、いつも例外なく皇太后に繋がっていた。今回もなんらかの形でやつが関わっているに違いない。
 このふたつの事実から導き出される答えを、暁嵐は探している。
「陛下、昨日用意させていただきました紙や教本ですが、あちらでよろしかったでしょうか? 教本は絵つきのものの方がよかったかと少々迷いましたが……」
 問いかけられて、暁嵐は彼が昨夜凛風のために教本を用意した従者だと気がつく。
「ああ……あれでよかった」
 本当は絵つきのものがよかったのだが、自分が教えることにしたためもう必要ない。
 従者が安心したように表情を緩めた。
「それはよかったです。どなたかに差し上げるものだったのですか?」
「まぁ、そうだ」
 気まずい思いで暁嵐は頷く。
あの教本を暁嵐自身が使うわけがないから、そう答えるしかない。では誰に?と尋ねられたらどう答えるべきかと一瞬身がまえるが、とくにそのような様子はなく、彼はにこやかにまた口を開いた。
「どなたか知りませんがそれは喜ばれたでしょう。陛下からの賜りものならば、その子の上達も早そうだ」
 彼は暁嵐が教本をあげた相手を子供か、あるいはその親だと思ったようだ。そう言って納得している。
「私も家で待つ妻に贈り物をしたくなりました」
 従者たちは皆城に泊まり込み役目に従事している。家に帰るのは数カ月に一度の休暇の時のみだ。
「そなたには、妻がいるのか?」
 なんとなく興味が湧いて暁嵐は尋ねる。今まで従者たちの家族のこと、とりわけ妻についてはまったく関心がなかったが。
「はい」
 従者が頭をかいた。
「一昨年一緒になりました」
 夫婦なのに別に暮らすのはつらいだろうという考えが頭に浮かぶ。こんなことを思うのもはじめてだ。
「ならば、同じ家で生活したいだろう」
 暁嵐が言うと、彼は苦笑した。
「私の方はそうですが、妻の方はどうでしょうか。子ができてからは私などそっちのけで子にかかりきりにございます。ですから、贈り物でもして気を引いていないと、休暇で帰っても知らんぷりされてしまいます」
 少し(おど)けて大袈裟に肩を落としてみせる彼に、暁嵐は笑みを浮かべる。知らんぷりされるとはいっても夫婦円満だというのが見て取れる。
 夫婦がいて子ができる。このあたりまえの光景を守るために自分はいるのだと思う。
「ならば、さっそくなにかよいものを家に届けさせよ」
「はい、そういたします。ですが直接喜ぶ顔を見たいとも思いますので、休暇の時にしようかなとも思います」
 のろける彼に、暁嵐はふっと笑う。
 でもそこで、なにかが心に引っかかり食事をする手を止め考える。
『喜ぶ顔』という言葉に、昨夜、教本を受け取った時の凛風が、頭に浮かんだからだ。
 目を輝かせて心底嬉しそうに教本を開いている姿に、暁嵐は今まで感じたことのないむずがゆいような不思議な気持ちを抱いた。そして、教本に書かれてあることが理解できず肩を落とす様子を見て、思わず自ら字を教えることにしたのだ。
 今考えても、どうしてそんなことを買って出たのかわからない。
でもそこに、彼女のために筆と教本を用意させた時の疑問の答えがあるような気がした。
 なぜ自分は、凛風が筆や教本を望むのか、その意図がわからないままに彼女にそれらを、与えたいと思ったのか……。
 妻のことを思い出して幸せそうに笑う従者の顔を見ながら、暁嵐は考える。
 でもすぐに、まさかそんなはずはないとその答えを打ち消した。それは自分にはないはずの感情だ。ましてや相手は刺客としての疑いがかかる人物だというのに。
「陛下、そろそろ謁見の時刻にございます」
 別の従者から声がかかり、暁嵐は頭を切り替える。
 それがどのような気持ちだとしても自分には関係ない。やることは変わらないのだから。
 頭の中でそれを確認し、謁見へ向かうため立ち上がった。