女官に教えてもらった湯殿は、城の敷地のはずれにあった。かつては皇帝と妃が湯浴みを楽しんだ場所だからだろう。
うっそうとした木々に囲まれて周囲からは見えないようになっている。
今は放っておかれているという話の通り、人気はまったくない。
女官に渡された案内図がなければ、そこに湯殿があるなど気がつかなかっただろう。
木々に囲まれた湯殿の先は小川のようになっていて、たっぷりの湯がそこから注ぎ込まれている。
もうもうと立ち込める湯気に、凛風の胸は高鳴った。行水でもなんの問題もないとは言ったものの、やはり湯に浸かれるのは嬉しい。
周囲を見回し、誰もいないことを確認してから衣服を脱いで岩場に置き、そっと足先をつける。
少し熱めの湯が気持ちよかった。
ゆっくりと入り、肩まで浸かって目を閉じると、湯の温もりが身体の芯まで染み渡る。
白い息を吐いて見上げると、頭上には満天の星。煌めく星を見つめながら、凛風は不思議な気持ちになる。
後宮入りしてからの凛風は想像していたよりも平穏な日々を過ごしている。
他の妃に虐められはするものの、食事と暖かい寝床が用意されている。
いつ、継母に呼びつけられて叩かれるかと怯えることのない安心な生活だ。
やりきれない用事を言いつけられて一日中走り回りくたくたになることもない。
こうしていると、自分に過酷な使命が課せられていることを忘れてしまいそうになる。
このまま時が過ぎ去って、皇太后が皇帝暗殺を諦めてくれればいいのにと願わずにはいられなかった。
そしたら、またいつか浩然と会えるかもしれない。大切な弟を抱きしめることができるかもしれないのだ。
――多くを望むのは危険だ。叶わなかった時に、つらい思いをすることになるから。
それはわかっているけれど……。
そんなことを考えながら湯に浸けて温かくなった両手を、凛風が顔につけた時。
「何者だ」
ガサッという音とともに、背後から低い声が鋭く凛風に問いかける。ビクッとして振り返ると、湯気の向こうに大きな黒い馬を連れた背の高い男性が立っていた。
「きゃ!」
思わず凛風は声をあげて顎まで湯に浸かる。突然のことに驚きすぎて、問いかけに答えられなかった。
女官からここは誰も来ないから大丈夫と言われていたのに……。
馬を連れている男性は、宦官の証である三つ編みはしておらず、役人の服ではない部屋着のような簡易な服装だ。
馬を連れているのだから、厩の役人のようにも思えるが、それにしても雰囲気が普通の人とは異なっていた。
漆黒の髪と切れ長の目、スッと通った鼻筋。
これほど端正な顔つきの男性を目にするのははじめてだ。
しかも背が高く逞しい身体つきではあるもののどこか高貴な佇まいでもある。射抜くような鋭い視線に、心が震えるような心地がする。
「答えろ。お前は誰だと聞いている」
再び威圧的に問いかけられて、凛風は慌てて震える唇を開いた。
「郭凛風と申します……! 百の妃にございます」
相手が誰かもわからないうちに、身元を明かすべきではないのかもしれない。
だが、とにかくこちらがあやしい者でないと示す必要がありそうだ。そうでなければ、すぐにでも命を取られかねない、そんな考えが頭をよぎるほどに、男性が放つ空気がぴりぴりと張り詰めている。
男が眉を寄せて呟いた。
「……百の妃?」
「こ、後宮長さまの許可を得て湯浴みをしておりました」
「なぜこのような場所で湯浴みをする。後宮には妃のための湯殿があるだろう」
「そ、それはその……。私は身体に醜い傷がありますので、他のお妃さま方のお目汚しにならぬようにと思いまして……」
凛風は、問われるままに事情をすべて口にする。その内容に、男性が目を細めた。
「傷? 後宮で揉めごとでもあったか?」
「え? い、いえ。そうではありません。古い傷でございます」
「……なるほど」
ようやく男性は納得して口を閉じる。そしてそのまま形のいい眉を寄せて考え込んでいる。
凛風の胸がドキドキとした。
実家の敷地からほとんど出してもらえずに育った凛風にとっては、彼くらいの男性と話をするのははじめてだからだ。
しかも湯気でよく見えないとはいえ、自分は肌を晒している状況。これ以上耐えられそうない。
なんとかあがれないだろうかと考える。
とりあえず湯の中で着替えと手拭いが置いてある岩場に近い場所まで移動して……。
だがその時、男性の隣の馬がぶるんとひと鳴き、かっぽかっぽと歩いてくる。
そのままざぶざぶと湯の中までやってきて、岩場と凛風の間に膝を折り身体まで浸かった。
凛風は目を丸くする。馬が湯に浸かるところなど見たことがない。
「黒翔、お前……」
男性にとってもこの行動は意外だったようだ。驚いたように問いかけ、手綱を引く。
だが黒翔と呼ばれた馬はどこ吹く風で気持ちよさそうに目を閉じて動く気配はなかった。
黒い艶のある毛並みと締まった身体つき、濡れたような黒い目の美しい馬だった。
「気持ちいい?」
思わず凛風は問いかける。久しぶりに馬をすぐ近くで見られて、少し心が浮き立った。黒翔は瞼を上げて凛風をちらりと見る。そしてまた目を閉じた。
口元に笑みを浮かべる凛風に、男性が訝しむように問いかけた。
「お前、馬が怖くはないのか?」
ハッとして、凛風は慌てて笑みを引っ込めた。
「こ……怖くはございません。実家では馬の世話をよくしておりましたから」
「馬の世話を? お前がか?」
そこで凛風はしまったと思い口を閉じる。後宮に上がるよう育てられた娘は普通は馬の世話はしない。不審に思われ、刺客だということがバレたら大変だ。
どう言えばこの場を切り抜けられるのか、凛風は一生懸命考えを巡らせる。だが頭が茹で上がるような心地がしてうまく考えがまとまらなかった。
のぼせてきたのだ。
パタパタと手で顔を扇ぐ凛風に、男性が眉を上げる。岩場に置いてある凛風の手拭いを取り、目線だけで合図してから、凛風に向かって放り投げた。
受け取ると、さりげなくこちらに背を向ける。今のうちにあがれということだろう。
凛風は素早くあがり衣服を身につけた。
彼から放たれる空気は異常なまでに威圧的だが、悪い人物ではないのかもしれない。
「ありがとうございました」
広い背中に声をかけると、彼は振り返り、湯から出てきた黒翔の脚を拭いてやっている。
言動はやや威圧的だが、その手つきは意外なほど優しかった。彼は馬に湯浴みをさせるためにここへ来たのだろうか。
「都では、馬も湯に浸かるのですか?」
脚を拭いてやった後、立髪を撫でる様子を見つめながら尋ねると、男性はちらりとこちらを見て口を開いた。
「血瘤をできにくくするためだ。熱い湯に浸かると血が流れやすくなる」
血瘤とは馬の脚にできる出来物だ。それで命を失うことはないが、場所によっては走るのに支障をきたす。
凛風も、実家では白竜にできないように気をつけていた。
「湯に浸かって……確かによい方法ですね」
男性が凛風を見て目を細めた。
「本当に異な妃だ。馬の病にまで精通しているとは」
「え!? あ……いえ、その……」
「まあよい。……血瘤は、なってしまったら針で刺して溜まった血を出すしかないからな」
「針で!? それはいけません」
凛風は思わず声をあげた。
「傷が膿んで脚を失う馬もおります。それよりも、脚を指圧してやる方が……」
「指圧を?」
頷いて、凛風はそっと黒翔に近寄る。自分を見つめる大きな黒い目に、問いかけた。
「少し脚を触らせてもらってもいい?」
黒翔がふんっと鼻を鳴らす。
「ありがとう」
凛風は脚にそっと触れ、実家の下男から教わった通りに、脚を指で押してゆく。
黒翔は抵抗することなく気持ちよさそうにしていた。
男性が驚いたように目を見開き、そのままじっと凛風と黒翔を見ている。
その視線に、やはり不審に思われているだろうかと凛風は思う。
後宮入りするような娘が、馬の指圧をするなど本来はあり得ない。
今すぐにやめるべきだ。でもそれよりも凛風にとっては、黒翔の脚の方が大切に思えた。漆黒の毛並みを持つこの賢い馬が脚を失うなど耐えられない。
「予防にもなりますから、毎日湯からあがった後してあげてください」
凛風は、前脚、後脚すべてに指圧を施していく。
最後の脚を終えると、黒翔はぶるんと鳴いて、凛風の頬を鼻で突いた。礼を言っているのだろう。
凛風も艶々の毛並みに頬を寄せた。
「気持ちよかった?」
こうしていると故郷の白竜を思い出す。
凛風がいなくても大切にしてもらえているだろうか? 馬は一家の財産だから、心配ないと思うけれど……。
頬の温もりを心地よく感じながら目を開くと、男性が口を開いた。
「明日もこの時刻に」
「……え?」
「明日からも湯浴みに来るのだろう。今宵と同じ時刻にしろと言っている。ここは俺以外は誰も来ないはずだが、夜更けに妃がひとりで湯浴みをするなど物騒だ」
では彼は、明日から凛風が湯浴みをする間、なにごとも起こらぬよう見張っていてくれるつもりなのだろうか。
威圧的に言い放ってはいるものの、ずいぶん親切な内容だ。
でもそれに甘えるわけにはいかない。見ず知らずの人にそこまでしてもらう理由はない。戸惑いながら、凛風は首を横に振った。
「け……結構です。明日からは後宮内の湯殿にて湯浴みをしようと思います」
「それができぬから、お前は今宵ここへ来たのだろう」
「それは……そうですが。そのようなことをお願いするわけには……」
異様なまでの風格とはいえ、間違いなく彼はここの役人だ。
ならばさまざまな役割に従事しているはず。凛風のためにわざわざ時刻を合わせてもらうのは申し訳ない。
そう思い凛風は断ろうと思ったのだが。
「代わりにさっきの指圧を黒翔にしてやってくれ。こいつは気性が荒く、俺以外の者には身体を触らせない。俺がやればいい話ではあるが、お前の方が効果がありそうだ」
「他の者には身体を触らせない……」
呟きながら黒翔を見ると、まるで会話の内容がわかっているかのように、濡れた目が凛風を見ている。その目にまるで黒翔自身に頼まれているような気分になるが……。
「この時刻だ。わかったな」
迷う凛風に男性はそう言って、黒翔とともに踵を返す。
「あ……!」
凛風の答えを聞かずに、暗闇の木立の向こうへ去っていった。
予想外の出来事と、思いがけない成り行きに、唖然として凛風はその場に立ちつくした。
若い男性と言葉を交わすのもはじめてだったというのに、明日も会うという約束をしてしまったのだ。鼓動はドキドキと鳴ったまま一向に収まる様子がない。
やはり身分を明かしたのは間違いだった。
最下位とはいえ凛風も一応皇帝の妃。役人である彼は、放っておくことができなかったのだろう。役目の一環として、湯浴みの見張りを買って出た。
申し訳ないのひと言だ。明日きちんと断ろう。
凛風はそう心に決めて、自分も後宮への道を歩きはじめた。
厩に黒翔を繋いで振り返ると、月明かりの中に秀宇がいた。
「お疲れさまでございます、暁嵐さま」
「わざわざ待たなくてよい。奇襲を受けても俺を殺められる者などいない」
「それは承知にございますが、それにしても少しお戻りが遅いような気がしまして」
過保護な、と暁嵐は苦笑する。
だがそれも仕方がないのかもしれない。幼い頃から一緒に育った彼は、暁嵐が皇太后の手によって殺されかけたところを何度も目撃している。不意を突かれて万が一という可能性を心配しているのだろう。そのようなことになり皇太后が実権を握れば国は確実に破滅の一途を辿る。
早足に私室へ向かいながら、暁嵐は秀宇の疑問に答えた。
「湯殿に湯浴みをする女がいた」
「湯浴みをする女……でございますか」
「ああ、百の妃、郭凛風と名乗っていたな」
「なっ……! 百の妃ですと!?」
秀宇が目を剥いた。
「そ、それは今朝の話し通りではありませぬか!」
「声を落とせ、秀宇。清和殿の外だ」
叱責すると彼は一旦口を閉じる。結界の中に入りすぐにまた口を開いた。
「暁嵐さま、これは皇太后さまの罠にございます!」
「まぁそうだろうな」
暁嵐が一度も妃を閨に呼んでいないという状況で、順位の低い妃が何食わぬ顔で接触してきたのだ。
偶然ではないだろう。そもそも本来なら後宮か寝所以外で、皇帝と妃が顔を合わせること自体ほとんどない。
「とりあえず、しばらく様子を見る。お前は百の妃の実家を洗え」
私室に入ると、部屋の中は照明が落とされ、すぐにでも休めるよう整えられていた。
「様子を見るとは……まさかまたお会いになるおつもりですか?」
「もちろんそうだ。会わずして相手の出方を探ることはできぬだろう」
「で、ですが、あやしいなら身元を洗えばいいだけの話では!? なにも暁嵐さま自ら……」
「落ち着け、秀宇」
暁嵐は寝台に座り、ため息をついた。
「あの妃が刺客だとしても、閨の場でなければなにもできん。むしろ皇太后の尻尾を掴むまたとない機会だ」
百の妃が刺客であるという証を掴み、皇太后の名を吐かせれば、皇后一派を一掃する足がかりになる。
「とにかくお前は、百の妃の身元を洗え、必要ならば実家がある地方へ足を運んででもだ。わかったな」
有無を言わせずそう言うと、秀宇は渋々頷いて下がっていった。
暁嵐は寝台の上にゴロンと横になり、天蓋を見つめ考えを巡らせる。
百の妃、郭凛風。
わざわざ秀宇に言われなくとも、暁嵐とて限りなく黒に近いと踏んでいる。今のところ不審な点は状況だけ。それでも、生まれた時から命を狙われ続けてきた暁嵐の勘が、彼女は黒だと告げている。
あの場では、まるで暁嵐を皇帝と知らないそぶりを見せていたが、おそらくそれも策のうち。無垢なふりをしているのだろう。
なんならあの場で拘束し、無理やり吐かせてもよかったのだ。たかだか小娘ひとり、術にかければすぐに音を上げるだろう。
……だが暁嵐はそうしなかった。
理由は、愛馬黒翔だ。
黒翔は人よりも知性があり、相手の本質を見抜く力がある。幼い頃からそばにいた暁嵐のみを信頼し、人間を寄せ付けない。その黒翔が、彼女に身を任せていたという事実が、暁嵐を思いとどまらせた。
彼女に二心あって、暁嵐に近づいているならば、すぐにでも黒翔が蹴り飛ばしていたはず……。
あの場ではどうするべきか判断がつかず、暁嵐は彼女と明日も会うことにしたのだ。少々強引に約束を取り付けたが、彼女が刺客なら好都合とばかりに明日も姿を見せるはず。
あやしいと思ったのなら、身元を洗えばいい。
秀宇の言うことはもっともだ。その方が安全だとわかっている。
だがそれでも暁嵐は自分で確かめたいと思ったのだ。早く皇后の尻尾を掴み、平和な世を作りたい。今まで数えきれないほど命を狙われてきた皇太后との決着を自分でつけたいという気持ちもある。
郭凛風の正体を暴き皇太后の名を吐かせれば、長年の恨みを晴らし母の仇を打つことができるのだ。
――明日には、必ず。
薄暗い中、空を睨み暁嵐はそう心に決めていた。
次の日の夜更け、同じ時刻に湯殿へ行くと、黒翔を連れた男性はすでにそこにいた。岩場に座り腕を組んでいる。凛風に気がつくと湯殿を顎で指し示した。
「お前が先に入れ。黒翔が入ると湯が濁る」
「わ、私の湯浴みは結構です。今日は黒翔の指圧だけ……」
凛風は、あらかじめ決めていたことを口にする。明日からはもうここへは来ないと言わなくてはと考えていると、男性が眉を寄せて凛風を睨んだ。
「それでは来た意味がないだろう」
「今宵は、黒翔の指圧をしにまいりました……ですが明日からは……」
「いや、そうではない」
男が言って、黙り込む。そして小さな声で「まどろっこしい」と呟いた。
「え……?」
「いいからさっさと湯浴みをしろ。俺はそれほど暇ではない」
威圧的な物言いに、凛風はビクッと肩を揺らす。そのような言い方をされては従うしかなかった。命令されると否と言えない。たとえ相手が父と継母でなくとも、凛風の身体にはそれが染みついている。
言われた通りに服を脱ぎかけて、男が鋭い視線でこちらを見ていることに気がついた。手を止めて恐る恐る口を開く。
「あの」
「なんだ?」
「……こちらに背を向けて……いただきたいのですが……」
命令とはいえ男が見ている前で湯浴みをする勇気はない。昨夜もそうしてくれたのだから今夜もお願いしていいだろう。凛風はそう思ったのだが、なぜか男性は怪訝な表情になる。不快、というよりはなぜそのようなことを言うのだと疑問に思っている様子だ。
「背を向けてほしいのか?」
「そ、そうしてくださるとありがたいです……」
頷きながら凛風は頬が熱くなるのを感じていた。湯浴みを見られるのが恥ずかしがるなど、見張りをしてもらっているのに不躾な言葉だったかもしれない。
男が、赤くなる凛風に気がついたように目を見開き咳払いをする。
「まぁ……そうか」
呟きこちらに背を向けた。
安堵して、凛風は服を脱いで湯に浸かった。
手脚を伸ばして目を閉じる。少し落ち着かないけれどやはり湯に浸かると気持ちいい。とはいえ、あまりゆっくりはできない。早々に髪を洗い、あがらなくてはと思っていると。
「おい」
男性の声とともに、黒翔がこちらに歩いてくる。そしてドボンと湯に浸かった。
「黒翔、お前は後だ。湯が濁るだろう」
男が言って手綱を引こうとする。
凛風はそれを止めた。
「わ、私は大丈夫です。こちらは上流になっておりますから、湯は濁りません」
気持ちよさそうにしている黒翔に向かって手を伸ばす。
「ついでに立て髪の手入れもしようか」
黒いたてがみを濡れた指で丁寧に梳いてゆくと、黒翔が嬉しそうにブルンと鳴いた。
自分の髪も洗い、湯から上がると、次は指圧を施してゆく。
自分を見つめる男性に、落ち着かない気持ちではあるものの黒翔の身体に触れるたび、綺麗な瞳と目が合うたびに胸が弾んだ。
「気持ちいい? 強すぎたら教えてね」
指圧が終わり黒い毛並みを手で撫でて立ち上がる。ふと思い立ち、黒翔の身体に手をついたまましばらく考える。恐る恐る振り向いて、思い切って口を開いた。
「あの……櫛をお持ちではないですか?」
「櫛?」
「は、はい。黒翔の毛並みを整えてやりたくて。濡れたから少し乱れておりますし……」
凛風が頼まれたのは指圧だけ。毛並みを整えてやるのは厩戸の役人である男性の役割だ。それはわかっているけれど、艶々の黒い毛並みに触れていたらどうしても整えてやりたくなったのだ。
男性が怪訝な表情になった。
その反応に凛風はドキッとする。毛並みの手入れは馬と人との信頼関係を築くための行為でもある。関係のない凛風にやりたいなど言われて、不快に思われたのかもしれない。叱られるかと不安になる。
けれど男性は首を横に振っただけだった。
「いや、今はない。……明日は持ってこよう」
その答えに凛風は慌てて口を開く。
「え? あ、明日は……!」
〝もう来ない〟と言わなくては。
でもそこで袖を引っ張られて振り返る。黒翔が凛風の袖を咥えて、濡れた目でこちらを見ていた。その目に、凛風の気持ちがぐらりと揺らぐ。男性の提案を断れば、もう黒翔には会えないのだ。
「……お、お願いします」
黒翔がブルンと鳴いて凛風の頬を突いた。そのくすぐったい感触に、凛風の頬に笑みが浮かぶ。男性には申し訳ないと思いつつ、また明日も黒翔の手入れができるのが嬉しかった。
「おやすみ」
いつまでもこうしていたいくらいだがそういうわけにはいかない。凛風は男性に向き直る。
「今宵はありがとうございました」
そして後宮に戻ろうと男性に背を向けかけたところ。
「きゃっ!」
濡れた地面に足滑らせ身体の均衡を崩してしまう。
目を閉じて地面にぶつかることを覚悟するが、いつまでもその衝撃はやってこなかった。恐る恐る目を開くと、代わりに逞しい腕が自分の腰を支えている。
驚いて振り返るとすぐ近くに男性の漆黒の瞳があった。彼が転びそうになった凛風を支えてくれたのだと気がついて息を呑んだ。
鼓動がドクンと大きな音を立て、頬が燃えるように熱くなった。凛風にとって男性とこれほど接近するのはじめてのことだ。動揺して息をすることも忘れてしまうくらいだった。
礼を言うこともできずにいる凛風を、彼は軽々と抱き上げる。
「っ……!」
突然の彼の行動に、驚き身を固くする凛風を抱いたまま彼は移動し、乾いた地面にそっと下ろした。その腕と仕草は彼が放つ威圧的な空気からは想像できないほど優しかった。
「暗いと足元が見えぬ。黒翔の周りはぬかるんでいるから気をつけろ」
「あ、ありがとうございます……」
混乱したまま目を伏せて掠れた声でようやく凛風は礼を言う。けれど再び彼の顔を見ることはできなかった。
「お、おやすみなさいませ……」
そのままくるりと踵を返して後宮に向かって足速に歩きだす。
少し冷たい夜の空気が頬を撫でるけれど、火照りは一向に収まらなかった。
身体に回された彼の腕の感触が、いつまでも残っているような気がした。
「暁嵐さま」
厩に黒翔を繋ぎ振り向くと、昨夜のように秀宇がいた。
暁嵐はため息をついた。
「過保護も大概にしろ」
「ですが……今宵、百の妃はいかがでしたか? 陛下に取り入るようなご様子は?」
問いかけられて、暁嵐はしばらく考えてから口を開く。
「……特にそのようなことはなかった」
「そうですか。慎重にことを進めるつもりなのでしょう。その気がないふりをするのは男女の駆け引きではよくある策にございます」
秀宇の言葉に、暁嵐は黙り込む。
鬼の力では人間の心を読むことはできない。だが生まれた時から命を狙われて常に間者を警戒してきた経験から、相手の視線や声の調子仕草から、だいたいの思惑を読む力が暁嵐には備わっている。
今夜は、全神経を集中させて郭凛風を観察した。
だが彼女は刺客らしい素振りは見せなかった。
暁嵐の気を引きたいならば、目の前で湯浴みをするなど絶好の機会。なにか仕掛けてくるかと思ったが、そんな様子はまったくなく、ただ戸惑うのみ。どちらかというと黒翔との触れ合いを心から喜んでいるように思えた。
将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。
その言葉の通り、黒翔から懐柔しようとしているのだろうか?
濡れた地面に足を滑らせ、転びそうになったのが唯一それらしい振る舞いといえばそうかもしれないが、その後の動揺は演技だとは思えなかった。
真っ赤になり、暁嵐を見ることもなく一目散に去っていったのだから。
「……ま、暁嵐さま」
やや大きな声で呼びかけられて、今夜の出来事を思い出していた暁嵐はハッとする。いつの間にか清和殿の中まで来ていた。
「百の妃の実家、郭家の件調べてまいりました。皇太后さまと交流はあるようです。ですが、郭家は皇太后さまのご実家と遠い縁戚関係にありますから、当然といえば当然。娘の件に関しましては、娘自身、後宮入りするまでは、都へ来たことがなかったようで判然としません。やはり一旦私が現地に飛ぼうと思います」
秀宇からの報告に、暁嵐は頷いた。
「そうしてくれ。お前が戻るまでには百の妃の思惑も突き止める」
「くれぐれも、毒婦にお気をつけくださいませ。調査は私にお任せいただき直接お会いになるのは控えるべきだと私は思います」
しばらく離れるからだろう。彼はいつもより強い口調で釘を刺す。
「わかった、わかった」
答えると、心配そうにしながらも下がっていった。
扉が閉まると、暁嵐は寝台へ横になる。
目を閉じると瞼の裏に、今宵の郭凛風の姿がチラついた。黒翔を見つめる愛おしげな眼差しと、語りかける柔らかな声音が脳裏に浮かぶ。どうしてか胸の奥がざわざわと騒いだ。
秀宇の反対に背いて逢瀬を続けるのは彼女の正体を暴くため、それ以上の意味はない。あたりまえすぎるその事実を頭の中で確認し、先ほどの秀宇の言葉を繰り返した。
「毒婦には気をつけろ……か」
そんなことはわかっている。いかに巧みに練られた策にも自分がはまることはない。
――だが。
暁嵐は目を開き自分の手を見つめる。
転びそうになった彼女を支えた時の感触がまだ残っているように思えた。あの瞬間、ふわりと感じた甘やかな香りと、すぐ近くで見た澄んだ瞳が、暁嵐の中の熱いなにかを駆り立てた。
目の前で転びそうになったからただ支えただけなのだ。それならばそのまま手を離せばいいはずが、ほとんど無意識のうちに抱き上げ安全な場所へ移動させたのはどうしてなのか……。
郭凛風、彼女と毒婦という言葉が、どうしても結びつかなかった。
「こちらは裁可……こちらは県令の意見を聞く」
昼下がり、皇帝が政務を行うための黄玉の間にて。
山積みにされた巻物に素早く目を通し、暁嵐は決断を下していく。案件によって、目の前に並ぶ家臣たちの意見を聞きながら。
皇帝としての責務は多岐に渡る。
一番大切なのは、鬼の力を持って魑魅魍魎から民を守ること。
ふたつ目は正しい政治を行い、飢える者がいない国づくりをすることだ。
暁嵐のもとには、国中からたくさんの意見が集まってくる。
「こちら、南江からの報告にございます」
役人が暁嵐の前に広げた巻物に目を通し、暁嵐は眉を寄せる。報告には、近頃山で魑魅魍魎らしき陰を見た者が複数いるとある。今のところ人的被害はないようだが、聞き捨てならない報告だ。
早速暁嵐は目を閉じて、意識のみを空高くに飛び上がらせる。こうすると身体は宮廷にあっても国土の隅々まで見ることができるのだ。南江に意識を向けると、結界がやや弱まっている箇所がある。
暁嵐はすぐにその結界を張り直した。先帝の結界から自分の結界を張り直す際は、実際に現地に出向く必要があったが、すでに自ら張った結界で国を守っている今は、ここからでもある程度のことができる。
「結界を強化した。もう案ずることはないと南江の者に伝えよ」
目を開いてそう言うと、役人が頭を下げた。
「陛下、ありがとうございます。次は、高揚の件にございます」
役人はそう言って、机の上に巻物を広げた。
高揚。
国の端のその地名と、百の妃郭凛風の姿が重なった。
毎夜彼女と会うようになってから、今日で十日目。逢瀬を重ねるにつれて、暁嵐は原因不明の苛立ちを感じるようになっていた。
彼女が刺客としてなにかをしたわけではない。
その逆で、まったくなにもないからだ。
毎夜暁嵐は、今宵こそ凛風は意味ありげな仕草で自分を誘うだろう、そしたら正体を暴いてやると思い、会いに行く。
だが一向にそんな様子は見られないのだ。
湯殿に来ると、彼女はまず遠慮がちに湯浴みをする。そして、一緒に湯に入りたがる黒翔を受け入れ、たてがみを洗っている。背を向けた暁嵐の背後から聞こえるのは、黒翔に話しかける彼女の優しい声音とそれに答える黒翔の鼻息。両者とも実に楽しそうだ。
そして湯からあがると嬉々として黒翔の世話をするのだ。指圧をして毛並みを整えている。
その間、彼女はほとんど暁嵐を見ない。
――これほどまでにわからないものに出会ったのは、生まれてはじめてである。
状況からみて彼女が刺客なのは間違いないはずなのに、彼女自身に、まったくそんな様子がない。
このふたつの現象の乖離に、苛立っているというわけだ。
この苛立ちは、早く正体を見せろというはやる気持ちからくるものだ。
早く皇太后の尻尾を掴み、宮廷に平穏をもたらすのが、皇帝としての責務なのだから。
彼女が尻尾を出せば好都合。
皇后もろとも処分してやる。
早くそれらしいことをしろ。
だが今凛風が暁嵐を誘惑したとして、自分はすぐさま彼女を捕え糾弾することができるだろうか……?
「……か。陛下。いかがいたしましたか?」
尋ねられて、暁嵐はハッとする。巻物に書かれてある内容はそれほど複雑ではないのに、いつまでも決断を下さない暁嵐を家臣は不審に思ったようだ。
「お疲れですか、陛下。一度休憩いたしましょう。小吃と茶をお持ちいたします」
家臣が周りに指示を出す。
疲れは感じていなかったが、集中力が途切れている。とりあえず暁嵐は頷いた。
従者たちが心得て、巻物と使っていた硯や筆を片付ける。
それを見るうちに、暁嵐の頭に、昨夜の郭凛風の様子が浮かんだ。
昨夜暁嵐は、あまりにも黒翔のみに関心を向ける凛風に、水を向けてみることにした。あり得ないことだが、刺客としての役割を忘れているのではないかと思ったのだ。
いつもの通り黒翔の手入れを終え帰ろうとする彼女を呼び留め、問いかけた。
『毎夜黒翔の手入れ、ご苦労。なにか礼をしよう。望むことを言ってみろ』
彼女が刺客なら、またとない機会だ。これ幸いとなにかをねだるだろう。
すると彼女は首を横に振った。
『な、なにもございません……。湯浴みを……お付き添いいただいている代わりですから』
この答えについては予想通り。まずは無欲なふりをするだろう。だが何度か促せばなにかを望むはずだ。刺客としての役割を果たすための足がかりになるなにかを。
『いいから申してみよ』
少々強引に促すと彼女は頬を染めて眉を寄せ、しばらく考える。そしてしどろもどろになりながら望むことを口にした。
『ならば……筆と紙をいただけますでしょうか? できれば……その、字を習うことができる教本も』
まったく予想外なその答えに、暁嵐は不意を突かれ、不覚にも次の言葉が出てこなかった。なぜ今この状況で筆と紙を望むのだ。
『……や、やはり結構です。分不相応なものを願い出てしまい申し訳ありませんでした』
恐縮し帰ろうとする彼女を引き留めさらに続きを促すと、つっかえながら事情を説明する。故郷にいる弟に文を書きたいのだという。
『まだ十三なのです。母親を亡くしておりますから、寂しい思いをしているかと……』
だが彼女は字が書けないのだという。
『昼間は時間がありますから、その時に手習いをしたいと思いまして……』
後宮の妃が日中にやることといえば、身体を磨くか茶会に興じることくらい。手習いをしたがる妃など聞いたことがない。
いやおそらくは、これも彼女の狙いなのだ。他の妃は望まぬようなものを望み、家族を大切に思う娘のふりをして、暁嵐の気を引こうとしている。
そうに違いないと思いながらが、どうもしっくりこなかった。
「……筆を用意してくれ」
机を片付ける従者に向かって暁嵐が言うと、彼は手を止め首を傾げた。
「筆……にございますか?」
「ああ、少し細めのものだ。それから紙と手習のための教本も。子が字を習う時の一番易しいものを夕刻までに一式頼む」
「御意にございます」
秀宇がいなくてよかったと思う。
でなければ妙な物を準備させると不審に思われてしまっただろう。
なぜ彼女に乞われるままに、望む物を贈るのか。
尋ねられても、今ははっきりとした答えを出せる自信がなかった。
とりあえず凛風の出方を探るため、策に乗るふりをする?
いや普段ならそのようなことはしない。相手の意図も読めないうちに、そうするのは危険だからだ。
ではなぜ自分は彼女に筆と教本を贈ろうとしているのだ?
巻物を片付ける役人を見ながら、暁嵐は考え続けていた。
少し乱れた艶のある黒い毛並みを櫛で力を入れて整えてゆく。もう一方の手で身体を優しく撫でて、呼吸に乱れがないか確認する。先ほどまでは湯上がりで少し早くなっていたが、もうずいぶん落ち着いた。
「はい、今夜はこれでおしまいね」
そう言って黒翔の身体を優しく叩くと、ぶるんと鳴いて凛風の頬に鼻を寄せる。凛風はその顔を抱きしめた。
目を閉じて艶々の毛並みと温もりを感じとると、ひと時の間だけ自分に課せられた過酷な使命を忘れることができる。凛風にとって一日のうちで唯一心が解れる時だ。
「いつまでそうしてるつもりだ?」
背後からの呼びかけに、慌てて頬を離し振り返ると、男性が自分を睨んでいた。凛風の湯浴みと黒翔の手入れが終わったらすぐにでも帰りたいのに、ぐずぐずしている凛風に苛立っているのだろうか。
彼と会うようになって十日が経った。
その間、黒翔とは心を通い合わせる仲になれた。凛風にとって黒翔は大切な存在で、自分もまた彼に信頼されていると感じる。
一方で、男性とはまったくだった。
彼はいつも岩場に腰かけ長い脚を組んで、どこか不機嫌に凛風と黒翔を見ている。
それとは逆に凛風は、彼の方をまともに見られず話しかけることもできなかった。転びそうになったところを助けてもらった時のことが、心に残っているからだ。
あれくらいの出来事は、彼にとってはなんでもないことなのだろう。だが凛風にとってはそうではない。人生ではじめての異性との接近だったのだ。
突然のことにもかかわらず、素早く自分を支え軽々と抱き上げた逞しい腕と、すぐ近くに感じた温もりを思い出すだけで、顔から火が出そうな心地になる。その彼とまともに口をきける自信はなかった。
見張りをしてもらっておきながら失礼だとわかっていても、彼がいる方向を見ることなどできず毎晩帰り際に礼を言うのが精一杯だ。
昨夜は彼から黒翔の指圧の礼をしたいと話しかけられたが、動揺しまともに話せた自信はない。そんな風にしか振る舞えない自分が情けなくて申し訳なかった。
彼には昼間の役割があるにもかかわらず、毎夜凛風の湯浴みに付き合ってもらっている。負担になっている上、こんな態度しか取れないのだからもうやめにするべきだ。
だがもはや凛風にはそれができない。湯浴みの見張りを断れば、もう黒翔に会えなくなるからだ。
「も、申し訳ありませんでした。今宵もありがとうございました」
凛風は頭を下げ、黒翔から離れる。そそくさと後宮に戻ろうとすると。
「待て、昨夜頼まれたものを持ってきた」
意外な言葉を口にして、男性が差し出したのは、筆と紙、教本だ。
「私に……ですか?」
驚き、すぐに受け取らない凛風に、彼は不満げに口を開いた。
「昨夜、欲しいと言ってただろう」
「は、はい。……ありがとうございます」
慌てて凛風は受け取るが、まだ信じられなかった。
確かに昨夜、なにか必要なものはないかと尋ねられた際、筆と紙が欲しいと答えた。本当はもっと強く断らなくてはならなかったのに、動揺して本心を言ってしまったのだ。でもまさか本当に持ってきてくれるとは思わなかった。
突然手にした贈物に、申し訳ないと思いつつ凛風の胸は高鳴った。これがあれば浩然に文を送ることができる。返事が来れば浩然の様子を知ることができるかもしれない。
どきどきしながら、さっそく受け取った教本を開いてみる。そしてそのまま眉を寄せて固まった。
「どうした? 教本がほしいのではなかったか?」
「は、はい……ありがとうございます。ただ、少し難しく思いまして……」
教本には絵がなく、一度も手習いをしたことがない凛風には、なにが書かれてあるのかさっぱり理解できなかった。
「……でも、やってみます。ありがとうございました」
とはいえ自分でなんとかするしかない。自信はないがやってみよう。そう心に決めて凛風は教本を閉じる。
すると男性が、手を差し出した。
「貸せ」
凛風から筆と紙を受け取り、平らな岩場に紙を広げて墨を磨る。
「文を書くならば、まずは自分の名からだ」
唐突な彼の行動に驚く凛風にそう言って、白い紙に大きく文字を書いた。
「お前の名だ。まずはこれを練習しろ」
促されて男性の手もとを覗き込み、凛風は息を呑んだ。
白い紙に黒々と書かれた『凛風』という文字に胸を突かれ、心の奥底から熱い思いが湧き上がるような心地がした。
父がつけたという自分の名を、凛風はあまり好きではなかった。
母に呼んでもらった記憶はもはやない。
名を呼ばれる時は、継母に罵倒され叩かれる時だからだ。
でもはじめて目にする自分の名は、堂々として美しく見える。まるで今この瞬間に、彼によって名がつけられたかのように思えるくらいだった。
「私の名前……綺麗……」
目の奥が熱くなって鼻がつんとしたかと思うと、あっという間に目の前が滲んでいく。継母に叩かれても過酷な使命を課せられても泣かなかったのに、どうしてか今は涙をこらえることができなかった。目から溢れた雫が、白い紙の端にぽたりと落ちた。
「……申し訳ございません」
素手で頬を拭いそう言うと、男性が咳払いをして、少し掠れた声を出した。
「明日はこれを他の紙に練習し、持ってくるように。書けるようになったら次は弟の名を教えてやる」
その言葉に、凛風は目を見開いた。では彼が、凛風に字を教えてくれるということだろうか?
「……よろしいのですか?」
「教本が役に立たないのでは、筆も紙も無駄になる」
ややぶっきらぼうなその答えに、凛風の胸は感謝の気持ちでいっぱいになる。湯浴みに続き迷惑をかけることにはなるけれど、今の凛風には彼しか頼れる人がいない。
「ありがとうございます。しっかり練習してまいります」
頬が熱くなるのを感じながらそう言うと、男性が凛風から目を逸らし、筆を置く。そしてこちらに背を向けて黒翔の手綱を取った。
帰るのだ、そう思った瞬間に凛風は彼の背中に呼びかける。
「あの……!」
高鳴る胸の鼓動を聞きながら、考えるより先に問いかける。
「名を、教えていただくことはできますか?」
男性が振り返る。
「……名を? 俺のか?」
「はい」
答えると、彼は訝しむように目を細めそのまま沈黙する。
その反応に、凛風の胸はドキドキとした。
名を尋ねてはいけなかったのかもしれない。役人である彼にとって後宮妃との関わりはよくないことなのかも。
それでも凛風は知りたかった。
好きではなかった自分の名を、美しい字で書いてくれた彼の名を。
けれど彼は、なにかを考えるように沈黙したまま答えない。
やはり不躾なことだったのだと凛風が諦めかけたその時、こちらに戻ってきて、再び筆を取る。そして新たな紙を敷いて、大きく『陽然』と書いた。
「陽然だ」
彼の名も、自分の名と同じくらい美しいと凛風は思った。
岩場に並ぶふたつの名に、凛風の鼓動がとくとくとくと速度を上げてゆく。どうしてかわからないけれど、ずっとずっと見ていたい、そんな気持ちになるような不思議な光景だ。
「陽然……さま」
声に出すと、陽然は頷いて自分の名を書いた紙を手に取る。用は済んだとばかりに今にも破り捨てそうになるのを、凛風はとっさに止めた。
「それも! ……いただいてはいけませんか?」
頬がかぁっと熱くなる。不思議そうに凛風を見る彼の視線が痛かった。
変なことを言っているのはわかっているが、どうしても破り捨ててほしくなかった。もう少し自分の名と彼の名が並ぶのを見ていたい。
「せっかく書いていただいたお手本ですし……その。お手本はたくさんある方が……」
苦しい言い訳だと思いながらそう言うと、彼は紙をもとの場所に戻した。
「ありがとうございます」
「いや……だがやはり……異な妃だ」
掠れた声で呟いて、くるりとこちらに背を向ける。今度こそ黒翔を連れて帰っていった。
その後ろ姿を見つめながら、凛風は胸に両手をあてる。
速くなった鼓動は一向に収まらず、なにやら心がふわふわとして、湯からあがってずいぶん経つのに、頬がほかほかと火照っていた。
そんな自分の反応に、凛風は困惑する。こんな気持ちははじめてだった。
彼とのやり取りにいちいちドキドキしてしまうのは、はじめての男性との関わりに動揺しているのだと思っていた。情けないことではあるが、それは仕方がない。でも今胸にあるこの弾むような想いは、また違ったもののように感じる。
自分の名を美しく書いてもらえた喜びと、浩然以外の人に親切にしてもらうという慣れない状況に、心と身体が驚いているのだろうか。
「陽然さま」
彼の名を呟くと、どうしてかその自分の声音が甘く耳に響く。彼の名はこの世の中で一番特別なもののように思えた。
この自分の気持ちがいったいどこから来るものなのか……。
月明かりの中、岩場に並ぶふたつの名を見つめながら、凛風は考え続けていた。
目の前に並べられた朝餉を前に、暁嵐はふわぁとあくびをする。建物の外から差し込む朝日を、少し眩しく感じて目を細めた。
厳しい冬が終わりだんだんと春めいてきた。そろそろ初夏の国家行事、華炎祭の準備をしなければと思っていると。
「お疲れのご様子ですね、陛下。昨夜はよく眠れませんでしたか?」
朝餉の給仕をする従者に問いかけられる。
「いや、大事ない」
暁嵐は首を横に振った。
鬼である暁嵐の体力は人のそれとは比べものにならない。だから疲れてはいるわけではないが、昨夜、あまり寝ていないのはその通りだった。
昨夜の、郭凛風について考えていたからだ。
筆と紙を渡された時の驚いた様子と、嬉しそうに教本を開く姿、自分の名を目にした時の澄んだ涙は、真実の姿だったと暁嵐は思う。
彼女は本心から自分の名を書けるようになりたいと望んでいる。
暁嵐を皇帝だと知らないのも、おそらくは本当だ。彼女は、目の前にいる暁嵐を殺めようとしてあの場にいるわけではない。
一方で、状況が限りなくあやしいのも事実だ。
暁嵐の身の回りに起こる変化に対する違和感は、いつも例外なく皇太后に繋がっていた。今回もなんらかの形でやつが関わっているに違いない。
このふたつの事実から導き出される答えを、暁嵐は探している。
「陛下、昨日用意させていただきました紙や教本ですが、あちらでよろしかったでしょうか? 教本は絵つきのものの方がよかったかと少々迷いましたが……」
問いかけられて、暁嵐は彼が昨夜凛風のために教本を用意した従者だと気がつく。
「ああ……あれでよかった」
本当は絵つきのものがよかったのだが、自分が教えることにしたためもう必要ない。
従者が安心したように表情を緩めた。
「それはよかったです。どなたかに差し上げるものだったのですか?」
「まぁ、そうだ」
気まずい思いで暁嵐は頷く。
あの教本を暁嵐自身が使うわけがないから、そう答えるしかない。では誰に?と尋ねられたらどう答えるべきかと一瞬身がまえるが、とくにそのような様子はなく、彼はにこやかにまた口を開いた。
「どなたか知りませんがそれは喜ばれたでしょう。陛下からの賜りものならば、その子の上達も早そうだ」
彼は暁嵐が教本をあげた相手を子供か、あるいはその親だと思ったようだ。そう言って納得している。
「私も家で待つ妻に贈り物をしたくなりました」
従者たちは皆城に泊まり込み役目に従事している。家に帰るのは数カ月に一度の休暇の時のみだ。
「そなたには、妻がいるのか?」
なんとなく興味が湧いて暁嵐は尋ねる。今まで従者たちの家族のこと、とりわけ妻についてはまったく関心がなかったが。
「はい」
従者が頭をかいた。
「一昨年一緒になりました」
夫婦なのに別に暮らすのはつらいだろうという考えが頭に浮かぶ。こんなことを思うのもはじめてだ。
「ならば、同じ家で生活したいだろう」
暁嵐が言うと、彼は苦笑した。
「私の方はそうですが、妻の方はどうでしょうか。子ができてからは私などそっちのけで子にかかりきりにございます。ですから、贈り物でもして気を引いていないと、休暇で帰っても知らんぷりされてしまいます」
少し戯けて大袈裟に肩を落としてみせる彼に、暁嵐は笑みを浮かべる。知らんぷりされるとはいっても夫婦円満だというのが見て取れる。
夫婦がいて子ができる。このあたりまえの光景を守るために自分はいるのだと思う。
「ならば、さっそくなにかよいものを家に届けさせよ」
「はい、そういたします。ですが直接喜ぶ顔を見たいとも思いますので、休暇の時にしようかなとも思います」
のろける彼に、暁嵐はふっと笑う。
でもそこで、なにかが心に引っかかり食事をする手を止め考える。
『喜ぶ顔』という言葉に、昨夜、教本を受け取った時の凛風が、頭に浮かんだからだ。
目を輝かせて心底嬉しそうに教本を開いている姿に、暁嵐は今まで感じたことのないむずがゆいような不思議な気持ちを抱いた。そして、教本に書かれてあることが理解できず肩を落とす様子を見て、思わず自ら字を教えることにしたのだ。
今考えても、どうしてそんなことを買って出たのかわからない。
でもそこに、彼女のために筆と教本を用意させた時の疑問の答えがあるような気がした。
なぜ自分は、凛風が筆や教本を望むのか、その意図がわからないままに彼女にそれらを、与えたいと思ったのか……。
妻のことを思い出して幸せそうに笑う従者の顔を見ながら、暁嵐は考える。
でもすぐに、まさかそんなはずはないとその答えを打ち消した。それは自分にはないはずの感情だ。ましてや相手は刺客としての疑いがかかる人物だというのに。
「陛下、そろそろ謁見の時刻にございます」
別の従者から声がかかり、暁嵐は頭を切り替える。
それがどのような気持ちだとしても自分には関係ない。やることは変わらないのだから。
頭の中でそれを確認し、謁見へ向かうため立ち上がった。
大広間では、すでに暁嵐を迎える準備が整っていた。自分に向かって平伏する大勢の家臣たち、その向こうの後宮の妃たちを横目に玉座に向かう。
暁嵐は玉座に座り、凛風がいるであろう場所にさりげなく視線を送った。
彼女と会うようになってから、毎日そこを見る癖がついた。誰にも気づかれないように一瞬だ。
彼女は、暁嵐が面を上げる合図をしてもいつも頭を下げたまま。だから夜に会っている人物が皇帝だということに気が付かないのだろう。
今朝も凛風の席を見た暁嵐は、そこがぽっかりと空いているのに気がついて、眉を寄せた。
妃が朝の謁見を欠席するのが許されるのは、皇帝の寝所に召された次の日か、病の時……。
暁嵐はそこを見つめたまま、昨夜の彼女の様子を思い出す。
昨夜の彼女は、自分の名を見て感激して泣いていた。頬がいつもより蒸気しているように思えたものの、具合が悪そうではなかったが……。
「……か、陛下。いかがなさいましたか?」
低い声で丞相に尋ねられて、暁嵐は今が謁見中だということを思い出す。暁嵐の合図がなければ、皆平伏したまま、顔を上げることができない。
「いや、大事ない」
咳払いをして、皆に向かって口を開く。
「面を上げよ」
その後はいつものやり取りを滞りなくこなしていく。
だが、心はぽっかりと空いた凛風の席に向いたままだった。
なぜ彼女は謁見を欠席している?
これも刺客としての策に関わることなのだろうか?
そんな疑問が頭に浮かぶが、それは些細なことのように思えた。
それよりも今この時、彼女が無事かどうかが気にかかる。
先ほど、自分には関係ないと切り捨てたはずの感情が、またむくりと頭をもたげるのを感じた。
彼女の身になにかあったのでは、という考えが頭をよぎる。皇太后側の人間は、皇太后の指先ひとつで瞬時に消されることも珍しくない。
「陛下、今宵は一のお妃さまにお渡りいただきます。よろしいでしょうか」
自分に向かって、いつもの質問をする丞相の顔をじっと見て、暁嵐は考える。
百の妃がなぜこの場にいないのか。彼女は無事なのかと尋ねたい衝動に駆られるが拳を作りどうにか耐えた。
凛風の思惑と状況を把握できていないうちに公の立場で彼女に接触するべきではない。それこそ皇后の思う壺だ。
「陛下?」
いつもより返答が遅い暁嵐に丞相が期待を込めた目で問いかける。
暁嵐は首を横に振った。
「いや、私は今宵どの妃も所望せん」
言い切って立ち上がり、玉座を降りた。大極殿を出て足早に外廊下を歩く。
付き添いの従者に内密で凛風の様子を尋ねようかと考えるが、やはり思い留まった。
彼女が無事であるならば、今宵も湯殿にやってくる。日が落ちればわかることをわざわざ今確認する必要はない。
朝日を見上げて暁嵐は自分自身に言い聞かせる。
たった一日だけのこと。
いつも忙しく政務をこなしているうちに、あっという間に日は暮れる。
――だが。
どうしてかそれが、今は途方もなく長く感じた。
「まったく! いったいどういうことにございます? お妃さまが謁見に出席しないなんて、後宮はじまって以来の大失態にございますよ!!」
大廊下に後宮長の小言が響く。凛風はうつむいて、それを聞いていた。
彼女が怒り心頭なのは、今朝凛風は寝坊して謁見をすっぽかしてしまったからだ。
昨夜、部屋に戻った凛風はいつものように寝台に入って目を閉じた。けれどどうにも胸が騒いで眠ることができなかったのだ。
はじめて自分の名前の字を目にした時の喜びと、それを書いてくれた男性の名前が胸の中をぐるぐる回って、頭は冴える一方だった。
仕方なく凛風は起き上がり、自分の名を書いてみることにした。心が落ち着くかと思ったのだ。墨を磨り、白い紙の上で筆を滑らせると、胸の中のざわざわは確かに少し落ち着いた。
だが今度は手習い自体に夢中になってしまい、『あと一枚、次が最後』と思いながら続けるうちに朝を迎えてしまったのだ。
もちろん謁見には参加するつもりだった。だがその前にひと休み、と思い寝台に横になったところ、次に目を開けたときはもう日が高くなっていたというわけだ。
もちろん時間になっても起きない凛風を女官が放っておくわけがない。おそらく、他の妃たちがそう仕向けたのだ。
〝私たちが起こしておく〟とでも言ったのだろう。
九十九の妃を含む数人が小廊下から顔を出して凛風が叱られるのを、くすくす笑って見ていた。
「うまくいったわ」
「だけど少し可愛そうね」
「あら寝坊したんだもの。自業自得よ」
心底楽しそうである。
「謁見への欠席は前日にご寵愛を受けたお妃さまか、ご病気の時だけにございます。今後は絶対にこのようなことがないよう十分にお気をつけくださいませ!」
もうかれこれ半刻ほど後宮長の説教は続いているが、内容は同じことの繰り返しである。
妃たちは飽きもせずに凛風を見てくすくす笑いながら話をしている。
「それにしても寝坊で謁見を欠席するなんて、もったいないことをするわね。一日のうちで陛下のお顔を見られる唯一の機会なのに」
「私なんて、毎日陛下の足音が聞こえただけで、胸がドキドキしてどうにかなってしまいそうなのに」
「あら私もよ、頬がぽーっと熱くなって、いつまでも治らないわ」
あれこれ言い合う妃たちの言葉に、凛風の胸がコツンと鳴る。
そのような状態には、なんだか身に覚えがあるような……?
「あーん、もっとお目にかかりたいわ。朝だけなんて全然足りない」
「そういえば五十二のお妃さまが、閨に呼ばれるよう願いをかけて陛下のお名前を書いた紙を部屋に飾って毎日お祈りしてるって言ってた」
「あらそれ素敵。眺めるだけで陛下のおそばにいるような気になれそう」
その話に、凛風はまた引っかかりを覚えて眉を寄せた。
妃たちは皆、皇帝の寝所に召されたいと願っている。彼を男性として慕っているということだ。
これが男性を恋しく思うということなのか、という普段の凛風なら気にも留めないことが頭に浮かんだ。
さすがの凛風もそうした気持ちがこの世に存在するのは知っている。けれど自分には関係ないと興味がなかった感情だ。
男性を恋しく思うと、胸がドキドキとして、頬の火照りがいつまでも治らない。相手の名前が書かれた紙を眺めたりして……。
と、そこまで考えて、凛風の胸がどきりと鳴る。
どちらも昨夜の凛風を彷彿とさせる話だったからだ。
昨夜は、部屋に戻ってからも胸の鼓動は治らず頬も火照ったままだった。
陽然からもらった彼の名前が書かれた紙は帰ってすぐに机の引き出しにしまったが、寝台に入り目を閉じるとどうしてかもう一度目にしたいという気持ちになった。意味もなく引き出しから出してしばらく眺め、しまい込む。けれどまたすぐに見たくなり出してくる、ということを何度も何度も繰り返したのだ。
どうしてあのようになってしまったのかいくら考えてもわからなかったが……。
でもまさか、と凛風はその考えを打ち消した。
そんなことあるはずがない。
妃たちの話から、男性を恋しく思うとどうなるのかはわかった。
でもやっぱり凛風とは関係がない話だ。よく似ているからって凛風もそうとは限らないのだから。
……けれど。
ならどうして、昨夜の自分はあんな風になってしまったのだろう……?
青筋を立てて説教を続ける後宮長をよそに、凛風はぐるぐると考えを巡らせていた。