竜牙工房での作業を終えたその日の夜。僕はジレッタに言われた話を忘れることができなかった。
ベッドに座り、壁に背を預け、傍らに緋心を置いて。視線は正面の窓に固定している。
「ふぁぁ……もう寝なよ、侘助……」
閉じた本の中から眠そうな声だけが聞こえる。
「お前が言ったのが怖くてな」
「子供じゃないんだから……」
「無貌が単独犯とも限らないんだ。寝てる間に複数人で攻められたら死ぬだろ?」
「あのさぁ……じゃあ無貌が捕まるまで寝ないつもり?」
「……」
それを言われると何も言い返せなかった。まったくその通りである。これが馬鹿なことだと自分でも理解しているのだ。
「それでも一晩くらいは心配したっていいだろう?」
「まぁ、それで侘助の気が済むならいいんだけれどね……じゃあ私は寝るから。おやすみ」
「おやすみ」
さて、無音が訪れた。夜のニホン通りを歩く者はいない。カンテラの中で揺れる炎と作り出す影だけが唯一、この部屋の中で動くものだった。
シンとした空気が勝手に僕の感覚を鋭敏化していくのが気持ち悪い。まるで聞こえない音が聞こえてきたり、見えないものが見えたりしそうで不愉快だった。
かといって無闇に音を鳴らすのも気が引けた。この『リバーサイド芦原』には僕以外にも沢山の日本人が住んでいる。異世界に来てまで壁ドン案件などお互いにこりごりなのだ。
「ふぅー……」
それにしても緊張し続けるというのもストレスが貯まるもので、適度な息抜きは大事だ。
しかしそういう一瞬の油断が、一転して窮地になることもある。
「……う、寝てた」
一瞬の気の緩みから睡魔に飲まれていた僕は、いつの間にか横倒しになっていた体を起こす。
そして傍らに転がっているであろう緋心に手を伸ばし、伸ばし……ない!?
「何で……うわぁ!?」
正面に顔を向けると真っ黒のローブに身を包んだ何者かがジッと身を潜めて僕を見ていた。
いや、見ているのか? かぶったフードの奥の顔は何も見えない。闇のように真っ黒だった。
何者かは僕が気付いたのと同時に身を翻し、窓に向かって走った。窓はしっかり閉じたはずなのに半開きで、どうやら其処から侵入してきたのが分かる。
「逃げるな!」
手を伸ばす。指先がチリチリと熱を持ち、灼熱する。熱を持った指先を合わせ、弾いてパチンと鳴らせば魔力が放出される。放たれた魔力は流線を描き、描いた軌跡は形を持つ。
ローブの人物を囲った粒子は鉄へと変換された。全身を鉄の輪で縛られた其奴は為す術もなく地面へと転がった。
使ったトリックはもちろん、【術式:鉄魔法】だ。ただ単に行使しただけだから鉄魔法としての名前はない。ヒルダさんの【術式:火矢五連】のような技名のついた物もあるが、此処でそれを使ったら部屋が大変なことになる。拘束という選択肢が見事に正解だった。
ベッドから降りた僕はサイドテーブルの上に置かれたジレッタの表紙を小突く。すると眠そうな声が本の中から聞こえてくる。
「なんだ……まだ3時半だぞ……」
「捕まえたぞ」
「む……」
ひとりでに開いた本からジレッタが出現する。パジャマ姿のジレッタは床に転がる犯人……怪盗【無貌】を見下ろした。
「今回は侘助の読みが当たったな」
「ジレッタの助言があったからだよ。ありがとうな」
「ん」
さて、一体どうしたものか。フェイスレスは抵抗する様子がなく、微動だにしない。
隣に立つジレッタがフェイスレスの傍に寄り、しゃがんで顔を覗き込もうとしている。
僕からはフードで隠れて何も見えないけれど、さっきは真正面から向き合っても見えなかったんだよな……本当に顔がないのか?
「なるほど、これが無貌の正体か」
「え?」
「魔道具の仮面だよ。目も口も鼻も覆っているが、まるで仮面がないかのように過ごせるようになっている」
フードの中に手を入れたジレッタが何かを取り外すようにもぞもぞと動かし、仮面を取ってしまった。
仮面からは革製のベルトが力なく垂れ下がる。どんだけガッチリ装備してたのか……それほど外れることを恐れていたのか。
仮面がなくなった後のフェイスレス。巷を噂でいっぱいにしていた怪盗の素顔が見れると思うと思わずゴクリと生唾を飲み込んでしまった。
そっと腰を下ろし、フードの奥を覗き込む。すると其処には褐色の肌の幼い子供の顔があった。
「こんな子供が……怪盗フェイスレス?」
「子供ではないです。成人してます」
「そ、れは、えっと、すまない」
急に喋り出して思わず謝ってしまった。だって口を開くとは思わなかったし、開いたと思ったらそれが見た目判断の訂正だったからビックリしちゃった。
「えーっと……フェイスレスさん?」
「そう呼ぶ人もいます」
「何で僕の刀を盗もうとした? 龍牙工房の剣も盗んだそうだけど、武器収集が趣味なのか?」
「武器に興味はありません。今回の盗みは仕返しです」
その言葉にジレッタを顔を見合わせる。ほら見ろ、という顔をするジレッタ。
「君の稼業の邪魔をしたのは申し訳ないとは思う。でもああしなければ工房主が殺される可能性もあったんだ」
「ですが貴方の行いでもっと大勢の罪のない人が死ぬことになります」
「そりゃ傭兵は戦闘が仕事だから……」
僕の言葉に、しかしフェイスレスは首を横に振った。
「そういう意味ではありません」
「え?」
「戦う意志もない一般市民が殺される、という意味です」
「それはどういうことだ? 話を聞かせてくれ」
傭兵団がそんなことをするはずがなく、しかしフェイスレスが嘘を言っているようにも聞こえなかった。
僕を見る目はとても真剣なもので、その目に映る僕は手を伸ばし、フェイスレスを縛る鉄の輪を魔力へと再変換し、拘束を解いていた。
ベッドに座り、壁に背を預け、傍らに緋心を置いて。視線は正面の窓に固定している。
「ふぁぁ……もう寝なよ、侘助……」
閉じた本の中から眠そうな声だけが聞こえる。
「お前が言ったのが怖くてな」
「子供じゃないんだから……」
「無貌が単独犯とも限らないんだ。寝てる間に複数人で攻められたら死ぬだろ?」
「あのさぁ……じゃあ無貌が捕まるまで寝ないつもり?」
「……」
それを言われると何も言い返せなかった。まったくその通りである。これが馬鹿なことだと自分でも理解しているのだ。
「それでも一晩くらいは心配したっていいだろう?」
「まぁ、それで侘助の気が済むならいいんだけれどね……じゃあ私は寝るから。おやすみ」
「おやすみ」
さて、無音が訪れた。夜のニホン通りを歩く者はいない。カンテラの中で揺れる炎と作り出す影だけが唯一、この部屋の中で動くものだった。
シンとした空気が勝手に僕の感覚を鋭敏化していくのが気持ち悪い。まるで聞こえない音が聞こえてきたり、見えないものが見えたりしそうで不愉快だった。
かといって無闇に音を鳴らすのも気が引けた。この『リバーサイド芦原』には僕以外にも沢山の日本人が住んでいる。異世界に来てまで壁ドン案件などお互いにこりごりなのだ。
「ふぅー……」
それにしても緊張し続けるというのもストレスが貯まるもので、適度な息抜きは大事だ。
しかしそういう一瞬の油断が、一転して窮地になることもある。
「……う、寝てた」
一瞬の気の緩みから睡魔に飲まれていた僕は、いつの間にか横倒しになっていた体を起こす。
そして傍らに転がっているであろう緋心に手を伸ばし、伸ばし……ない!?
「何で……うわぁ!?」
正面に顔を向けると真っ黒のローブに身を包んだ何者かがジッと身を潜めて僕を見ていた。
いや、見ているのか? かぶったフードの奥の顔は何も見えない。闇のように真っ黒だった。
何者かは僕が気付いたのと同時に身を翻し、窓に向かって走った。窓はしっかり閉じたはずなのに半開きで、どうやら其処から侵入してきたのが分かる。
「逃げるな!」
手を伸ばす。指先がチリチリと熱を持ち、灼熱する。熱を持った指先を合わせ、弾いてパチンと鳴らせば魔力が放出される。放たれた魔力は流線を描き、描いた軌跡は形を持つ。
ローブの人物を囲った粒子は鉄へと変換された。全身を鉄の輪で縛られた其奴は為す術もなく地面へと転がった。
使ったトリックはもちろん、【術式:鉄魔法】だ。ただ単に行使しただけだから鉄魔法としての名前はない。ヒルダさんの【術式:火矢五連】のような技名のついた物もあるが、此処でそれを使ったら部屋が大変なことになる。拘束という選択肢が見事に正解だった。
ベッドから降りた僕はサイドテーブルの上に置かれたジレッタの表紙を小突く。すると眠そうな声が本の中から聞こえてくる。
「なんだ……まだ3時半だぞ……」
「捕まえたぞ」
「む……」
ひとりでに開いた本からジレッタが出現する。パジャマ姿のジレッタは床に転がる犯人……怪盗【無貌】を見下ろした。
「今回は侘助の読みが当たったな」
「ジレッタの助言があったからだよ。ありがとうな」
「ん」
さて、一体どうしたものか。フェイスレスは抵抗する様子がなく、微動だにしない。
隣に立つジレッタがフェイスレスの傍に寄り、しゃがんで顔を覗き込もうとしている。
僕からはフードで隠れて何も見えないけれど、さっきは真正面から向き合っても見えなかったんだよな……本当に顔がないのか?
「なるほど、これが無貌の正体か」
「え?」
「魔道具の仮面だよ。目も口も鼻も覆っているが、まるで仮面がないかのように過ごせるようになっている」
フードの中に手を入れたジレッタが何かを取り外すようにもぞもぞと動かし、仮面を取ってしまった。
仮面からは革製のベルトが力なく垂れ下がる。どんだけガッチリ装備してたのか……それほど外れることを恐れていたのか。
仮面がなくなった後のフェイスレス。巷を噂でいっぱいにしていた怪盗の素顔が見れると思うと思わずゴクリと生唾を飲み込んでしまった。
そっと腰を下ろし、フードの奥を覗き込む。すると其処には褐色の肌の幼い子供の顔があった。
「こんな子供が……怪盗フェイスレス?」
「子供ではないです。成人してます」
「そ、れは、えっと、すまない」
急に喋り出して思わず謝ってしまった。だって口を開くとは思わなかったし、開いたと思ったらそれが見た目判断の訂正だったからビックリしちゃった。
「えーっと……フェイスレスさん?」
「そう呼ぶ人もいます」
「何で僕の刀を盗もうとした? 龍牙工房の剣も盗んだそうだけど、武器収集が趣味なのか?」
「武器に興味はありません。今回の盗みは仕返しです」
その言葉にジレッタを顔を見合わせる。ほら見ろ、という顔をするジレッタ。
「君の稼業の邪魔をしたのは申し訳ないとは思う。でもああしなければ工房主が殺される可能性もあったんだ」
「ですが貴方の行いでもっと大勢の罪のない人が死ぬことになります」
「そりゃ傭兵は戦闘が仕事だから……」
僕の言葉に、しかしフェイスレスは首を横に振った。
「そういう意味ではありません」
「え?」
「戦う意志もない一般市民が殺される、という意味です」
「それはどういうことだ? 話を聞かせてくれ」
傭兵団がそんなことをするはずがなく、しかしフェイスレスが嘘を言っているようにも聞こえなかった。
僕を見る目はとても真剣なもので、その目に映る僕は手を伸ばし、フェイスレスを縛る鉄の輪を魔力へと再変換し、拘束を解いていた。