高校に入学してから徐々に落ちていた成績が1年生の学年末テストで急降下したことをきっかけにとうとう親の堪忍袋の尾が切れた。

 それからの流れはあっという間だった。

 私の知らぬ間に学習塾との契約を完了させ、塾のクラス編成の為のテストを受けてこいと修了式の朝に言われたのがつい1週間のこと。

 そしてただ今、入塾テスト中。

 既に国語と数学のテストは終わり、残すは英語のみ。それもすでに解き終え、ぼんやりと窓外を眺めていた。

 夜の帳はとっくに下りていて、街灯や車のライトが道を照らしている。
 残念なことに今日は雲が空を独占してるから月も星もでていない。

 不幸中の幸いは雨が降っていないこと。
 一応折り畳み傘は持ってきたけど、振らないことに越したことはないからね。

 ふと時計に視線を向けると、残り時間は10分を切っていた。

 ここらでもう一度見直しをしておこう。

 一問一問ずつ確認していくと、最後の記述問題で"light"と書くところを間違えて"right"と綴っていることに気づいた。

 すぐに書き直そうと腕を動かしたら、その拍子に消しゴムが落ちてしまった。

 ――あー⋯⋯⋯。

 少し身を乗り出し消しゴムを探すと、前の席の机の脚と椅子の脚の間にあった。
 そこならしれっと拾いに行ける距離。
 でもこれは模試ほど重要ではないにしろ、クラス編成に関係するテストだから、席を立ったらカンニングを疑われてしまうかも⋯⋯。

 そこで手を上げテスト監督に拾ってもらおうとしたけど、全然気づいてくれない。

 さっきまで存在が気になるぐらいうろうろうろうろ歩き回ってたのに、なんで今は呑気にパイプ椅子に座って本読んでるの⋯⋯!?

 いくらなんでもタイミングが悪すぎる。

 でも視界の端に移ったらまだチャンスがあるかもしれない⋯⋯!

 藁にもすがる思いで腕を大きく左右に振ってみたけど――全くと言っていいほど効果はなかった。

 こうなったらこっそり拾いに行こうかな!?

 そう思った瞬間、前の席の人のスニーカーが消しゴムをこん、と蹴った。

 ――終わった⋯⋯⋯。

 脳内で試合終了を告げるゴングがゴンゴンゴンと鳴り響く。

 完全に消しゴムの行方を見失ってしまった。

 私の予想だと前の席とその前の席の間にありそうだけども。あくまで予想に過ぎないし。

 自分の直感を信じて席を立つのはリスクが高すぎる。
 ここで予想が外れて消しゴムをキョロキョロ探すはめになってしまえば、正真正銘不正行為になる。

 それだけは絶対にダメ⋯⋯!!!

 最終手段で"r"を塗りつぶして"l(エル)"にしようかな。見た目はかなり悪くなるけど、"l(エル)"って分かってくれるはず。

 そんな感じで悶々としていると、机の右端がとんとん、と小さく叩かれた。

 見ると、隣に座っていた男子が消しゴムを差し出してくれていた。

 彼が涼しげな顔で人差し指を口の前に立ててシーとしたとき、ストン、と胸に何かが落ちた気がした。

 ――あ、好きかも。

 ちょっと親切にされただけで好きになるなんて、我ながら単純だな、と思う。

 でもそんな呆れよりも、ふわふわとした浮遊感が胸に広がっていく。

 その奥でトクン、トクン、と鼓動が高鳴っていた。

 そして糸に操られているかのようなぎこちない動作で消しゴムを借り、間違いを書き直したところでテストが終了した。




 休憩時間に入り、教室全体の空気が緩んだところで隣の彼に話しかけた。

「あのっ、さっき消しゴム貸してくれてありがとう⋯⋯!」

 緊張のあまり声がうわずる。

 彼は私の動揺には触れずにヘラりと笑った。

「いーよいーよ。たまたま予備持ってたから貸しただけだし」

 彼が消しゴムを受け取るとき、少し手が触れた。たったそれだけで心臓が大袈裟に跳ねる。
 指長くて綺麗だな、なんて普段なら全く気にしないところに目がいってしまう。

 それらを悟られないように言葉を紡いだ。

「それでも助かったから、ありがとう」

 精一杯思いを口にした。

 あぁ、でも2回もお礼を言うなんて重かったかな。彼からしたらそこまで壮大な話じゃないだろうし⋯⋯。

 友達と話すときはそんなことで悩まないのに、彼が相手となると途端に何も分からなくなる。

 彼は頬杖をついて私の顔をじーっと見てきた。
 
「ってかさっきめっちゃ必死に手振ってたよね。それなのに先生全く気づかないから笑ったわー」
「え、見てたんだ⋯⋯」

 あのときは夢中で他の人の視線を気にしてられなかったけど、今思い返すとかなり大胆なことをしたかもしれない。

 頬がぶわっと熱くなって、彼から目を逸らしてしまった。どうしよう。まともに彼が見れない。

 彼はそういや、と話を続ける。

「結局消しゴム拾ったっけ? 終わって速攻俺に話しかけてきたからまだなんじゃ⋯⋯?」
「あっ」

 彼に借りた消しゴムを返すことで頭がいっぱいになっていて、肝心な自分の消しゴムの存在を忘れていた。

 慌てて取りに行くと、私の予想通り前の席とその前の席の間に転がっていた。それを拾い席に戻ると、彼は友達らしき人と話していた。

 そっか。みんな私みたいに一人で来たとは限らないか。

 納得したと同時に、彼と続きを話せなくなったことを少し寂しく感じた。いくらなんでも2人の会話に入る度胸はないしね。

 彼らの邪魔にならないよう静かに着席し、スマートフォンの電源を入れ、なんとなくインスタグラムを開いて暇を潰す。でも意識は隣で繰り広げられる会話に向いている。

 今はさっき受けた英語のテストの話で盛り上がっていた。
 どちらかと言うと彼が聞き手側で、友達の質問に答えつつ相槌を打っている。

「えっハルトその問題、答え3にしたん!? 俺2にしたわー。ミスったかもしれん」

 友達の驚いた声が私の鼓膜を揺らした。

 名前、ハルトくんっていうんだ。漢字はどう書くんだろう。「春人」とか「遥斗」⋯⋯かな。「陽斗」もありそう。

 名前だけでもこれだけ妄想だけが膨らむ。

 現実では彼と話せないまま、塾講師からの業務連絡を聞いて帰ることとなった。




 お手洗いに寄っていたせいで、他の人より塾を出遅れてしまった。いくら電気がついていても、人の気配の少ない建物の中を歩くのは怖い。

 足早に出ていこうと出口に向かうと、見覚えのある後ろ姿があった。

 ――ハルトくんだ。

 途端私の中の恐怖心は薄れ、胸が踊る。
 休憩時間に話していた友達はもう帰ったらしく、今は一人きり。

 これなら話しかけらそう。

 正直緊張するし、会話することを考えただけで赤面しそうだけど、このチャンスを逃したくない。

 せめてちゃんと自己紹介しようと決意し、一歩踏み出した。

「あ、の――」
「おつかれ〜!」

 ――⋯⋯え?

 私の精一杯の勇気は、他の女性の声にかき消されてしまった。歩みも止まり、ただただ目の前の光景に愕然とする。

「先輩もお疲れ様です。⋯⋯と言いたいところですがなんで夜一人で俺待ってんすか。危ないでしょう」
「え〜大丈夫だよ。もしものときはちゃんと叫ぶし」
「そういう問題じゃ――」
「お説教はいいから帰ろ? 送ってくれるんでしょ?」

 綺麗な女性がハルトくんの小言を受け流し、自然に腕を絡めた。ハルトくんはため息をつきつつも、彼女を受け入れている。

「しょうがないですね」

 その言葉には諦めというよりも愛おしさが滲み出ていた。2人はそのまま仲良く並んで帰路に着いた。

 私はこの一連の流れを呆然と見ることしか出来なかった。

 ややあって現実を受け止める。

 ――彼女、いたんだ⋯⋯。

 大学生と思われる可愛い女性。夜だというのに肌の白さがよく分かった。部活で日焼けして茶色くなった私とは似ても似つかない。

 違うところは他にもある。

 ミニスカートが似合う華奢な脚と腰まで綺麗に伸びたベージュ系の髪。
 対して私は筋肉がついて太くなった脚と、茶色が混じったような微妙な黒髪。

 自分の劣っている部分が次々と浮き彫りになっていく。

 たまらなくなって下を向くと、垂れた髪の中で枝毛を見つけた。

 ――あぁ、帰ったら切らないと⋯⋯。

 無意識にそんなことが思い浮かんだ。

 ――テスト疲れた。私も帰ろ。

 そう思うのに、根を張ったようにこの場から動けない。まるで心と身体が別人になったかのよう。

 何事もなかったかのようにするように、いつも通りの日常に逃げるように、ここから早く離れたいのに。

 そうしないと、変に気持ちが溢れだしそうで――⋯⋯。

 2人の後ろ姿を眺めながら、疲労と眠気と怠惰が混ざり合う頭でこれからの展開を想像する。

 もしまた彼の優しさに触れてしまえば、私はきっとときめいてしまう。それで気持ちが膨らんでもっと好きになってしまう。
 そんなことをしても何にもならないのに、その光景が簡単に思い描ける。
 だって私と彼はまだ何も始まってないから、気持ちの成長の余地を残してしまっている。
 これが振り向いてもらえるように頑張った後だったら違ったのかな。

 とにかくこのままじゃダメだ。どうにかして彼を忘れないと⋯⋯。

 だけど親には高い費用を払ってもらっているから、今更塾を変えて欲しいなんて言えない。
 だからせめてどうか彼とクラスが同じになりませんように、と切に願う。
 それと同時に、神様に縋るほど必死な自分に嫌気がさして、「はは、何やってるんだろう、私⋯⋯」と乾いた笑いが漏れた。

 なんで恋に落ちるのは簡単なのに、諦めるのには時間がかかるんだろう。

 呆気なさすぎて涙すら流れない、不完全なものだというのに。それにしがみついて、神様にお祈りまでして⋯⋯。

 もう2人の姿は見えなった。周りに人気(ひとけ)もなく、正真正銘一人きり。ここでようやく息ができた気がした。

 ぼんやりと天を仰ぐと、雲の間から月が出ていた。満月だというのに霞んでいて、独りよがりの光を反射している。風が吹けばすぐに消えてしまいそうだ。

 その弱い弱い光に思いを馳せる。

 私みたいだとらしくもなく感傷的になりながら。
 早く雲に隠れてしまえと叙情的になりながら。

 月はまだ瞬く。
 
 ちょっと好きかもって思った人に恋人がいた、だなんてありきたりな展開。

 言葉にすればたったそれだけで終わる話。

 でもね。

 私の中で不確かに芽生えたそれが、春の夜に浮かぶ朧月と、確かに重なって見えたの。



〈了〉