たまきが蕎麦屋の暖簾をくぐると、「おきゃーり」という母の声が飛んできた。

 たまきの家は老舗の蕎麦屋だ。先代の先代のそのまた先代のはるか江戸の時代から、蕎麦屋をやっている家系らしいが、その史実はいまいちあいまいだ。ひいひい爺ちゃんくらいまで蕎麦屋だったのは、間違いないらしいけど。

 夕方16時半過ぎ。この時間帯はそこまで混んでいない。19時くらいになったら、会社帰りのサラリーマンや、家族連れの客がどっと押し寄せる。古くて狭い店だが、味自慢の蕎麦屋だ。

 たまきが二階の自室に続く階段を上がろうとすると、

「ほら、持っていき、おやつ」

 母が持つおぼんの上には、月見そばがあった。たまきは汁がこぼれないよう、どんぶりを両手でそっと受け取る。関本と麺食べ歩きをしない日は、店のそばをおやつ替わりにしていた。

「ありがとう」

「たまには下で食べたらええのに」

 母は名古屋弁を話す。母方のおばあちゃんちが名古屋なので、母はこっちにきてもうずいぶん経つのに、変わらずずっと名古屋弁で通している。

 母の目はいちいち不満そうで、もっと言いたいことがあるのを我慢しているようにも見える。

「あのな、たまき、ちょっと話したいことが――」

 母の話が長くなろうとしたそのとき、

「おい、お客さん来てるぞ」

 厨房から父の声が飛んできた。

 母は「この話はまた後でな」と早口で告げると、たまきに背を向けたが、「誰もいにゃーじゃにゃーの!」と閉まったままの引き戸に向かって声を上げた。

 たまきが厨房を振り向いたら、父はたまきと目を合わせて、こくりと一回首を縦に振って頷いていた。母はいつも、たまきに小言ばかり言う。そのことにたまきがうんざりしていることを、父はよくわかっている。父は名古屋弁の達者な母の口には敵わない。だけどいつもこうして、さりげなく助け船を出してくれる。

 月見そばをすすれずとも食べ終わると、空になったどんぶりを厨房に戻しに行き、流し台で洗って水切りかごの中にひっくり返して置いた。

 父はそばを湯がきながら、油揚げの漬かったタッパーを冷蔵庫から取り出していた。

 母は客にそばを運んでいるところだ。

 たまきは音を立てないよう、そっとふたたび二階へと階段を上がっていった。