どうにも核を見付けられずに腕が疲れてきた巫女さんは、刺す手を止める。彼女の見下す視線の先には、無数の刺し傷によってだらだらと血を流している女の胴基、『鹿島さん』。まるで道端に落ちているゴミを見るような目つきで忌々しげに舌打ちをした巫女さんは仕方なく『鹿島さん』を放し、代わりに左足に指が掛かった『鹿島さん』の横腹を思い切り蹴りつけて壁に叩き付けた。しかし、いつの間にか左足を取り戻していた『鹿島さん』は敵わないと思ったらしく、妖域ごと移動しようと巫女さんがこじ開けた口へ向かって行った。

「雑魚のくせにこうも隠すのが上手いってことは、真っ二つにしてみないことには分からないってことか」

 言いながら弓と破魔矢を持ち、逃げる『鹿島さん』の後ろ姿へ狙いを定める。その時だった。右半身に強烈な痛みが走り、右手に力が入らなくなった巫女さんは、中途半端な体勢で破魔矢を放ってしまい、狙いを外してしまう。その際、破魔矢が左手の親指に掠り、その衝撃で指が少し裂けてしまった。しかし、そんなことにかまけている暇は彼女には無い。重く、鋭い痛みが右半身を苛み、堪らず彼女はその場に膝を付いた。

「ぐぅう……。の、ぞみ……お前……っ!」

 びきびきと血管が浮き出る程の力で抗おうとするが、彼女の皮膚を這う無数の蛇は嘲笑うかのように目を細めて、取り憑いている右半身を更に地面へ縫い付けようと手足の指先に集まってくる。まるで心臓に直接焼鏝でも押し付けられているような熱と痛みを伴う苦しみに、彼女は歯噛みしながら屈してしまった。
 巫女さんが苦しんでいる間にも、彼女の手から逃れた『鹿島さん』は、何とか開かれた出口に辿り着き、そのまま虫か何かのように這いずりながら出て行く。妖域が閉ざされ、周りの景色が元の色を取り戻していく。巫女さんが痛みと重力から解放されたのは、それから数分してからだった。
 痛みと熱が嘘のように引いていき、漸く立ち上がれるようになった頃には、『鹿島さん』の気配を辿ることは困難となっていた。今まで巫女さんの存在を知らなかった『鹿島さん』は、何をしようが、痕跡を残そうが、殆どの人間には見えもしなければ、除霊することもできない不可視の存在だった。それが、巫女さんが現れたとあってはそうもいかない。妖域を閉じる際、雑だが、粗方の痕跡を消されてしまったようだ。『霊視界』で視ても、僅かにそれらしい痕跡はあっても、追跡に至る程のものではない。後一歩のところで取り逃してしまったことに舌を打ちつつも、巫女さんは涼佑と交代した。途端、涼佑の左手に痛みが走る。

「いって……!? うわっ、血ぃ出てる!」

 思ったより深く切れている左手の親指に、慌ててポケットから取り出したティッシュで押さえる。流れた血を拭き取り、粗方血が止まったと分かるとすぐに気絶している真奈美に駆け寄った。あまり頭を揺らさないようにして肩を軽く叩きながら涼佑は声を掛けた。

「真奈美、真奈美」

 彼の声に真奈美は割とすぐに反応し、やがてゆっくりと目を開けた。意識を取り戻すと、彼女はすぐ身を起こそうとしたが、涼佑が慌ててそれを制止した。

「真奈美、頭打った可能性あるから、立つのはゆっくりな?」
「――うん、大丈夫」

 一瞬何か考えた真奈美だが、すぐにでも立ち上がり、服に付いた砂埃をはたき落とす。気絶など、日常生活の中でまず起こらない現象を体験した割には、平気そうな彼女の様子をさり気なく観察していた涼佑だったが、普段とそう変わりないので、それ以上心配するのは止めた。暫し辺りを見回していた真奈美だったが、不思議そうに首を傾げて涼佑の傍まで戻って来る。

「どうした? 真奈美」
「何か『鹿島さん』の手掛かりが残ってないかなって」
「手掛かりかぁ。なぁ、巫女さん。『鹿島さん』は……」

 涼佑の声にすぐ傍に出てきた巫女さんはむすっとした表情のまま、一言だけで応える。

「……逃がした」
「ああ、そういう」

 涼佑が納得していると、悔しげに唇を歪めた巫女さんは彼に食ってかかる。

「なんだ。私だって失敗することもあるぞっ」
「誰も何も言ってないだろ。まぁ、そう気落ちするなよ。誰でも失敗はするって」
「ふんっ……。次こそは絶対に逃がさないからな」

 余程『鹿島さん』を取り逃がしてしまったことが悔しいのか、イライラを表に出す巫女さんは取り敢えずそれ以上刺激しないようにそっとしておこうと思い、涼佑は真奈美へ向き直る。

「取り敢えず、『鹿島さん』に遭ったって、直樹達には報告しておこう」
「うん」

 その時、涼佑達が来た方向から丁度友香里達が歩いて来る。直樹と絢はまだ口喧嘩をしており、もう友香里は二人を止めることを諦めたらしかった。その証拠に涼佑と真奈美を見付けると、さっさと二人から離れて合流してきたからだ。視線だけで「何とかしてよ」と訴える友香里に、涼佑は真奈美へ耳打ちする。二人の喧嘩は最早最初の話題から遠くかけ離れている。

「だから、おれの方がガチャ運強ぇし!」
「強いのはガチャ運だけじゃない! ガチャが強いだけで人生に何の影響も無いじゃん! バカじゃないの?」
「ああっ、今こいつバカって言った! 他人のことバカって言ったぁ! 最近そういうの、叩かれるんだぞぉ! これは立派なモラハラですねぇ!」
「あんたこそ、よく意味分かってないでしょ! モラハラってのは精神的な嫌がらせのことよ! 私のは正々堂々とした悪口じゃないっ!」
「もう、何かよく分からなくなってるだろ。絢」
「だいたいねぇ――」
「絢、ストップ」

 絢の口は彼女の背後に回った友香里の手によって物理的に塞がれ、漸く閉口した。直樹と絢の間に割り込んだ真奈美も、涼佑の助言通りにただ一言発する。それは物の見事にざっくりと彼の心を抉り取っていった。

「直樹くん」
「な、何だよ。真奈美」
「かっこ悪い」
「ぐほぁ……っ!?」

 真奈美の一言は直樹には流石に効果覿面らしく、物理的に攻撃を受けた訳でも無いのに、彼は己の腹を両腕で庇うように抱き、そのまま頽れそうになったが、少年漫画の主人公の如く、ざりっと砂埃を踏み、何とか地面に膝を付くことは無い。「くっ、効いたぜ。今のはよぉ……」と漫画のキャラクターになりきったセリフ付きだ。その姿を、友香里の手を退かした絢は冷たい目で見て言い放った。

「バカなんじゃないの?」
「んだと――」
「直樹くん」

 また絢に突っかかろうとした直樹を真奈美が再度止める。彼女にしては珍しく、きっと彼を見据えて言った。

「絢も直樹くんも、なるべく仲良くして欲しい。二人は私の大事な友達だから。ちゃんとして」

 言葉自体は少ないが、真剣なその眼差しに二人は根負けしたように項垂れ、「分かったよ」と答えた。仲直りした、と真奈美は判断したのか、涼佑の方へ向き直って「終わったよ」とだけ報告した。「終わった、のか?」と涼佑は思ったが、満足そうな真奈美を見て、「終わったんだろうな」と納得するしかなかった。
 二人の口喧嘩が終わったところで、彼女は『鹿島さん』について詳しい話を始める。

「それで、私が見た『鹿島さん』の話だけど……」
「えっ!? 会ったの!?」

 驚く直樹達に真奈美は頷く。「質問は後でね」と言って、彼女は続けた。

「私が調べた話と実際の『鹿島さん』の姿が、ちょっと合致してなくて」
「そうなの?」
「うん。現時点で『鹿島さん』は本当だったら、最初に襲った男の人のパーツを持ってるはずなの」
「そうか。最初の男は確か、バラバラにされてたんだっけ」
「うぅ。思い出させるなよぉ」

 少々顔色を青くさせる直樹に構わず、真奈美は「でも、違ってた」と首を振る。

「今回の『鹿島さん』には、男の人のパーツなんて、付いてなかった」