土曜日の午前十時、私が約束の時間ぴったりに集合場所の市民プラザのロビーに着くと、すでに黒田君はいた。

 質素なソファーに腰かけ、制服を着ていなければくたびれたサラリーマンにも見えるような猫背な姿勢で、備え付けられたモニターで延々と流れている市のPR動画をぼんやりと眺めている。動画の中では地元出身のお笑い芸人が特産品や名所の紹介をしていた。

「面白い?」

「興味深いっていう意味でなら」

「インタレスティングだね」

「……英語は大丈夫なの?」

「何その言い方、失礼しちゃう」

 発音は完全にカタカナ英語だけど、意味はあっているはずだ。英語はいつも平均点よりちょっと高めに取れている。

「まあ、期末にスピーキングのテストはないし。じゃあ行こうか……一色さんも制服で来たんだ。生徒証は忘れなかった?」

「もちろん、ここに来る時は制服の方がいいし」

 黒田君は悪びれもせずに話題を変える。私も本気で怒っているわけはないので特に気にはならない。こうして同級生と軽口をたたき合う経験が久しぶりで、嬉しさで胸がずきりと痛んだ。

 三階建ての大きな建物である市民プラザの二階に今日の目的の市民図書館とそれに併設する自習室はある。一階はカフェと公民館のような広いスペースがあり、三階は市民の芸術作品を飾るギャラリーと市民が借りられる会議室という配置だ。

 私たちが制服で来た理由は市内に通う中学生であることを証明するため。中学生以下はなんとカフェの二百円以上の商品が百円引きになる上に、ギャラリーの入場料百円が無料になる。図書館はもともと誰でも無料だが、色々なことを考えると制服で来た方がお得ということだ。

 ちなみに昔高校生が中学生の弟の生徒証を使って割引料金でカフェで注文しまくるという事案が起きたため、生徒証プラス制服着用が必須となったらしい。

 面倒だが、黒田君のように大きくて社会の波にもまれたように疲れた顔をしている中学生だと、制服を着ていないと本当に中学生かどうか疑われてしまうから仕方がない。

「制服を着てることが抑止力にもなるんだろうね」

「よくしりょく? 何それ? 目が良く見えるようになるの?」

「視力じゃなくて……制服を着ていたらどこの中学の生徒か一目でわかるから、騒いだりゴミを置きっぱなしにしたりとかマナー違反をしたらすぐにその中学に連絡が行くでしょ」

「あー、見た目の特徴とか人数とかで先生たちならだいたい誰か分かるから怒られる。そうならないためにちゃんとするようになるってことか」

「そういうこと。だから一色さんも机に落書きとかしちゃだめだよ」

「はーい……ってそんなことしないよ!」

「ほんとかな……?」

 自分のノートや机には落書きしまくっているけれど、他人の物や公共の物にしたことはない、はず。


 図書館に併設された自習室は壁や扉で図書スペースとは区切られているので多少であれば会話をしても良いことになっている。もっとも、九時半開館であり十時を少し過ぎたくらいの現在では、私と黒田君しか利用者はいないが。

「さて、数学のテストは九割は毎回教科書の内容から出題される。数字が変わるくらいだね。残り一割は教科書には載っていないような問題だけど、当然教科書の内容を色々組み合わせて考えれば解けるようになっている。一色さん、九割、つまり五十点満点のうち四十五点以上取るにはどうすればいいか分かる?」

 自習室の長テーブルに隣り合って座った黒田君が数学の教科書の表紙を私に向けながらまるで先生のように尋ねる。少しの情熱と厳しさを感じる黒。私もいつになく真剣に頑張らなければと気合が入った。

「はい! 教科書の内容を完璧に理解することです!」

「その通り。あとは計算ミスさえしなければ九割は間違いなく取れる。さらに満点だって夢じゃないってことだよ」

 黒田君は簡単でしょ? とでも言いたげににやりとしながら私を見た。確かに理屈は簡単だけど、それができないからいつも六割止まりなのだ。

 自分はいつもできているんだよというにやけ顔にちょっとだけむかついたが、文句を言っても仕方がないので喉から出かかった「それができたら苦労しないんだよー!」という言葉を飲み込んで「うんうん」と頷いた。

「というわけで教科書を読み込んでワークのテスト範囲の問題を全部解き直そう」

「えー? 簡単なのも?」

「うん。九割取るためには教科書レベルだと些細なミスもあってはいけない。分かったつもりが一番怖いからね。ほら、唇の上にペン乗せて遊ばないで、やるよ」

「はーい。なんか黒田君、先生みたい」

「ありがとう、一応先生目指してるから嬉しいよ」

「え? まじ? 小中高どれ? 何の教科? 何で先生になりたいの?」

「真面目に勉強したら教えてあげるよ」

 黒田君の言う通り、テスト範囲になっている全種類の問題を解き直してみた。確かに分かった気になっていたが実は解き方を忘れている問題もあって、その問題について質問すると黒田君は本当に先生のように優しく丁寧に教えてくれた。黒田君が数学担当だったらもっと頑張れるのに、なんて思うくらいには充実した時間だった。

 私のカラフルな数学のノートの続きのページは、数式や文字の黒だけで埋まっている。黒田先生に数学の世界に引き込まれ、色を使う隙が無かった。


 それから約二時間が過ぎ、私たちは一階のカフェで昼食をとることにした。カレーライスと飲み物のセットで五百円。中学生以下ならワンコインでお釣りがくる人気メニューだ。というよりも食事系のメニューはカレーライスかおにぎりしかない。市の公共施設なので運営費削減のための努力らしい。

 私は砂糖をたっぷり入れたホットミルク、黒田君はホットカフェオレとともにカレーライスを注文し、学校の机よりも少しだけ大きいくらいのテーブルに向き合って食べる。

「黒田君ってコーヒーは飲めるの?」

「飲めないことはないけど、苦いのはあんまり好きじゃないかな。でもコーヒーの匂いとか風味は好きだからカフェオレが一番好きかも」

「へえ、意外とお子様なんだね」

「いや、一色さんには言われたくないよ。シュガースティック五本は入れてたでしょ」

「頭使ったからさ、甘いものを補給しないと」

「気持ちは分かるけど、糖分の急激な摂取も体に良くないって聞いたことがあるからほどほどにね」

「はーい。ほんとに先生みたい……ってそうだ。教えてよ、黒田君が先生になりたい理由とかとか」

「とかとか?」

「ほら、理由だけじゃなくてどの学校かとか、教科とか」

「……まあ、一応そういう約束だったからね」

 黒田君はカレーライスを食べていたスプーンをカレー皿の淵に置き、カフェオレを一口すすり、彼を見つめる私のことをまっすぐに見つめ返し、「面白い話じゃないよ」と前置きしてから話してくれた。

「……一番得意なことが勉強だから。それを生かせるなら学校の先生かなって漠然と思っただけだよ。小さい子供は得意じゃないから中学か高校かな。教科は決めてない」

「本当に面白い話じゃないね」

「言うと思った。一色さんって結構思ったことすぐに口に出すよね」

 照れも怒りもせずに冷静に黒田君は言った。暑さも冷たさも感じない黒。

 心臓がギュッと鷲掴みにされたように痛んだ。勉強を教えてもらって、くだらない会話をして、友達の一歩手前にはなれたと思っていた黒田君に、私が一番嫌いな私の欠点を指摘されてしまったことは、今までの誰にされたよりも私を動揺させる。

 いつの間にか、手に持っていたスプーンをカレー皿の上に落としていた。持ち手の部分がルーに埋まってしまっている。

「ああ、何やってるの。ほら、スプーン持って、ティッシュは? ほら、俺のあげるから」

「ご、ごめん」

 カレールーからスプーンを救い出し、黒田君からもらったティッシュで持ち手を綺麗にして、黒田君と同じように皿の淵に置く。

「ごめん」

「そんなに何回も謝らなくてもいいよ。ティッシュなんてそんなに貴重なものでもないし」

「そうじゃなくて、思ったことをすぐに口に出すってこと。自分でも気をつけてるつもりだけど、ついポロって出ちゃうことが多くて、黒田君にも嫌なこと言っちゃってたような気がするし他の皆にも、だから……」

 友達がいない。その言葉は踏みとどまった。黒田君に惨めな自分を知られたくない、そんな出どころの分からない感情が、漏れ出そうになった言葉をどうにか止めてくれた。でも、察しの良い黒田君には、同じ教室で八ヶ月も一緒に過ごしている黒田君には、お見通しだった。

「だから友達がいないんだ」

 先ほどと同じ、黒田君は事実を淡々と告げる。

「知ってたの?」

「同じ教室にいるんだから分かるよ。仲良くなりたいのに失敗しまくってる姿は何度も見た」

「じゃあ、なんで私の誘いに乗ってくれたの? 友達がいない、誰からも必要とされていない私と、テスト前の大事な休日にどうして……?」

 言った瞬間口の中のどこかを噛んだ。かすかな血の苦みを感じる。

 自分で自分のことを嫌な奴だと思った。こんな言い方、必要とされていなくなんかない、大事な休日を潰す価値が君にはある、そんなことを言って欲しいという思いが見え見えだ。

「ノートを見せてもらったお礼だよ。一色さんがお礼に勉強を教えてって言ったからそれに従っただけ」

 あくまで冷静に、フラットに、決して暗い意味ではない優しい黒。私のイメージ通りの黒田君が答えた。

「一色さんがもともとそういう人だっていうのは知ってたから、何を言われても俺は別に何とも思わないよ。俺が知る限りあんまり間違ったことは言ってないしね」

 黒田君は私の思い通りになんかいかない。でも、その鮮やかで美しい黒は、きっと黒田君からしか感じられない黒田君だけの色。私という人間を知った上で私を見捨てないでいてくれる。

「さ、早く食べようよ。食べたらまた勉強だよ。あと半分以上残ってるんだから。俺に教わった以上は絶対に九割以上取ってもらわないと困る」

「うん」


 昼食後の約四時間、優しさの甘味と厳しさの苦みを持ったまるでカフェオレみたいな黒田君は、物理的にも心理的にも近すぎず遠すぎない距離を保って私と一緒にいてくれた。その距離感が嬉しくて、もどかしい。

 私は軽口をたたくこともなく真面目に勉強したのであった。


 テスト範囲すべての復習が終わり、この日の勉強会は終了となった。

「ありがとう、黒田君のおかげでテスト頑張れそうだよ」

「それは良かった。でも明日も自分でちゃんと復習するんだよ? 本番で自力で解けなきゃ意味ないからね。それに教科は数学だけじゃないんだから他もやるんだよ」

「う、うん……」

「一色さん、元気ない? さすがに疲れた?」

「え? そんなことないけど、どうして?」

「昼からずっとおとなしくなっちゃってたからさ、真面目なのはいいけどいつもの一色さんっぽくなかったから、もしかして友達がいないなんて言っちゃったせいかな。あれは言うべきじゃなかった。ごめん」

「黒田君が謝ることじゃないよ。友達がいないことは事実だし。私自身が思ったことを何でも言っちゃうってのもあって、本当のことを言われるのはなんとも思わない」

 黒田君は「それなら良かった」と微笑みながら帰り支度を始める。

 まだ、ここに誘ったもう一つの用事が済んでいない。いつもの私なら引き留めるのは簡単だったはずなのに、今は言葉が出てこない。失敗が怖いのだ。これ以上黒田君に近づいて、失敗して離れて行ってしまった時のことを考えると、今まで簡単に零れていた言葉が出てこない。心の中で手を伸ばし、鞄を持って席を立つ黒田君をただ見送った。

 だが黒田君は建物を出るまでは私と一緒にいてくれるつもりなのか、自習室の出入り口付近にある掲示板に貼られたポスターをぼんやりと眺めながら私の帰り支度を待っているようだ。
 
 簡素な文字とフリー素材の絵で作られたそのポスターには見覚えがある。年末までの期間、三階のギャラリーに市内の小中学生が描いた絵が飾られているというお知らせだ。

 そこには夏休み明けに描いてコンクールに出した私の数少ない受賞作も飾られている。ノートに描いた落書きなんか比じゃないくらいに本気を出して描いた花火の絵。それを黒田君に見て欲しくてここに誘ったのだ。勉強が終わったらギャラリーに誘うつもりだったのに、今は口も体も動かない。

「一色さん、俺、三階に行くけど一緒に来る?」

 そんな黒田君の導きに、私はやっと動き出すことができた。