「不審者情報だって」
 私がそう言うと、ムツミとメイも足を止めて掲示板を眺めた。
 掲示板には不審者情報一覧の項目にざっと十以上の不審者目撃情報が並んでいる。
「夏になると変人が湧くね」
「今日は、ハヤシが取り締まりなんだ」
「ハヤシかぁ。ハヤシのときは厳しいらしいよ、このまえ靴下売ってあげたオジサンが言ってた」
 メイが言った通り、世直し担当者の欄には『林 正義』と書いてあった。見回り中のハヤシは、『世直し』のタスキをかけて竹刀を持っているらしい。遭遇したことはないけど。

「靴下界隈では『竹刀の鬼』って呼ばれてんのよ、ハヤシ」
 メイの靴下にどれくらいの価値があるんだろう、ノンブランドの汗臭い紺ソックス。ただし、女子校の現役女子高生。
「その辺で噂になってるってことはハヤシも変態ってことでいいじゃね?」
「えー? そういうこと? じゃあ、私、ハヤシに靴下売ろうかな」
「臭いの売りつけてあげなよ」
「モニカひどい! メイの足が臭いみたいじゃん」
「大丈夫、大丈夫。メイの靴下、におい嗅いだことあるけど、そこまでだったよ」
「うーん、じゃあ商品価値はイマイチだね」 ムツミが真面目な顔でそう言ったから、私とメイはふき出した。
 その笑い声は廊下いっぱいに響き渡って、吹奏楽部のオーボエの低音と綺麗にハモった。
 
 
 
 ☆
 
「この前、マイカに靴下売ってること話したらさ、バレエシューズ売ろうかなって言ってたんだけど」
「マイカのだったら買うかも」
「ムツミって意外と悪趣味だよね」
「授業中に、ねり消し作ってるモニカには言われたくない。つうか、私もミユみたいにコンビニでバイトしよっかな」
 話の続きは駅まで向かう道でも繰り広げられ、私たち三人は歩道を占領するように横並びになってゆっくり歩いた。
 駅に繋がる道は、片側1車線の道路で、車はまばらだった。たまに白い軽のワゴンとすれ違うくらいだ。この静かな住宅街に、いつもと変わったことは特になかった。
 
「あー、ハヤシの補修マジうざかったよね」
 また脈絡もなく、メイの一言で話題が切り替わった。
「なんだっけ」とムツミが言ったから、私は心当たりがあることを言うことにした。今日は終業式で、本当は午前授業だったのに、私たち3バカは帰れるはずの時間に帰ることができず、午後からハヤシの補修を受けた。
 明日は私の誕生日なのに……。
「……つまりは、ニワトリが先か卵が先かという話です。今日はここまで」
「やば、モニカ似すぎなんだけど」
 ムツミとメイはゲラゲラ笑った。
 地味な私にだって、ハヤシのモノマネはできる。それくらい特徴的なダミ声で、40代独身の中肉中背で、不審者情報の中に書かれていてもおかしくないくらい、ハヤシは普通のおっさんだ。
   
「ハヤシってなんか最近変じゃない?」とメイが言うと、デコのニキビを引っ掻きながらムツミが続けた。
「わかるわかる。なんだろ、なんかウザさが進化してるっていうか……」
「意識高い系の動画見みすぎてインテリ拗らせてるんでしょ」
 私がそう返して、右側にいるムツミを見ると、ムツミの眉間に神経質そうなシワが寄った。
 
 ムツミの右隣にいるメイは、ムツミの一歩先を歩いたかと思うと、ムツミの方を振り向いて、ムツミのそのシワをメイの細い人差し指でツンツンしながら言った。
「わかるー、なんかさ、覚えたてのセリフを連呼するウチのオウムみたい」
「オウム並みのハヤシ、ウケる」
 ムツミがピリつているのは多分、ハヤシのせいじゃない。
 きっと前髪を切りすぎたせいだ。
「ムっちゃん、それオウムに失礼だよ」
 私がやんわり中和してパンの袋を差し出した。
「本当に頭いい人ってさ、相手に伝わりやすい言葉選びができる人なんだって、この前ママが言ってた」
「うわぁ、ムツミママさすが。どんまいハヤシ」
 嬉しそうに言ったあと、メイは一歩下がって、再び、ムツミの右隣を歩き始めた。
「だいたいさぁ、ニワトリが卵生む前提って、オスのハヤシに言われても説得力ないんですけど」
 ムツミが腕時計に見やりながら言うと、私たち三人はテーブルにぶちまけた金平糖みたいにカラカラと乾いた声で笑いあった。

「で、モニカはつまんない授業中、真剣な顔してなに考えてたの?」
「何って……」
 脳内で野鳥食べようとしてた、なんて見方によっちゃあグロいかな。
 みんなが楽しくなるような、もっとフワッと軽くて甘いことを言わないと、きっと私の居場所は簡単になくなってしまう。
 だから私は、なんとなく右斜め上を見て言った。
「マカロンかな」
「マカロン?」と不思議そうにムツミは私にそう返してきたから、私は小さく頷いた。
「マカロン。卵と言ったらマカロンっしょ? ハヤシの話聞いてたらマカロン食べたくなっちゃった」
「へぇ、マカロンって卵だったんだ」
 メイはよくわからなさそうに、曖昧にそう返事をしたように思えた。だから、私はこう続けた。
「そうだよ、卵の白味ばっかり食べさせられたダチョウのたまごがマカロン」
「あー、ウチもマカロン食べたい、シャトーサトー行こうよ!」
「行く行く! マカロン!」
「マカロン!」
 艶を通り越して、油ギッシュにも見える黒髪を振り回して、マカロンの舞を踊りながら私たちはスキップし始めた。
 女子といえば黒髪ロングのストレート、とりあえずストパーをかけとけば万事オッケーなんだ。



 ☆
 
 お店の看板には『シャトーサトー』の文字の横で、真っ赤なハイビスカスの上を三匹のイルカが並んでジャンプしている絵が描いてある。その下にあるボロボロの引き戸をスライドさせて、私たち三人はシャトーサトーの中に入った。
 
 すきっ歯のブラインドから射す夕日のオレンジが、薄暗い店内を染めている。
 年季が入ったショーケースのガラス越しに一瞬、ビー玉みたいな瞳と目があった。今日の店番は息子一人らしい。息子はショーケースのなかにあるショートケーキをずらしたあと、ショーケースのスライドドアを閉め、立ち上がった。
 シャトーサトーの息子は、私たちワニ女子の制服姿に弱い。
 正確に言うと私たちのうち、私以外の誰かの制服姿に弱い。だから3人で行くと、とんでもなくオマケをしてくれるけど、私単品のときは無愛想だ。
 ま、いいけど。
 
 今日も息子は七色のカメレオンを肩に乗せている。安くて美味しいけど、衛生的にどうなんだってことで、クラスの中でもシャトーサトー常連派と絶対無理派ではっきりわかれている。
 カメレオンが百円玉を口から出して息子の手のひらに出した。それを息子がお釣りとして渡してくる。この息子、おばあちゃんと一緒に店に出てる時はそんなことしないくせに、たかが女子高生だと舐めてるんだ。たかが女子高生がどれだけ噂話が好きか知らないのかもしれない。女子校のネットワークと結束力がどれだけのものかきっと知らないんだ。
 
 マカロン一個五百円、学生割で八十円。
 私たちはマイカとミユの分もマカロンを選んで、それぞれ箱に入れてもらった。
 箱にも、ハイビスカスとイルカのイラストがデカデカと入っている。
 
「子供たちにオマケし過ぎです! 教育上よろしくないですよ!」 
 私たちの後ろに並んでいた金髪のオバサンが、大きな声でクレームをつけてきた。
 するとシャトーサトーの息子は、おばさんに負けないくらい大きな声で言い返した。
「広告代じゃ! 気に入らないならアンタが出て行きな!」
 返り討ちにあったオバサンは顔を真っ赤にして口の中で、何かモゴモゴ言った。
 
 オバサンの持っているエコバックからは、収まりきれないネギと増量ポテチの袋が飛び出している。
 もしかしたら今日はオバサンのチートデイなのかもしれない。
 溜まりに溜まったストレスの蓄積が今さっき溢れたのかな。
 だとしたら、オバサンの肩に手を置いてイギリス紳士風に励ましてあげてもいいかなって思ったけど、オバサンの肩に黄色いインコが乗っているのに気づいてやめた。
 インコを髪に隠して外出するなんでマトモな人じゃないんだ。
 
 私たちは、手を繋いでドヤ顔でおばさんの周りを一周してから、ゆっくりとお店を出る。
 
 
 シャトーサトウの息子はいい人だ。
 だからきっと来世では、憧れのハワイアンジャンピングイルカに生まれ変われると思う。
 もし徳が足りなくて【地獄(じごく)】行きになったら、私が閻魔様(えんまさま)に彼の素晴らしさを伝えてあげよう。伝書鳩で。
 
 私たち三人は、マカロンを持ってルンルンスキップしながらミユのバイト先に向かう。
 二年前に買ってもらった腕時計の針は五時半を指していた。
 
 
 ☆
 
「ねぇ、ミユ大丈夫かな」
 制服姿でバイト上がりのミユは、コンビニ裏の駐車場でオジサンに何か話しかけられている。手足が細いわりに、お腹だけ不自然なくらいポコンと突き出ているオジサン。
 横から見たらイニシャルの『D』みたい。
 オジサンの顔は、ライオンの立て髪みたいにモジャモジャの毛で縁取られていた。
「あれってミユのお兄ちゃん?」
「ミユって一人っ子じゃなかったっけ」
 私たちは首を傾げてしばらく考えたけど、誰も答えを知らなかった。
「なに話してるんだろう」
 
 私たちは一度Uターンして、今度は細い裏道からコンビニに向かった。
 コンビニの外に置いてある物置が見えてきた。
 
 私たちはコンビニの駐車場にある物置の影に隠れて聴き耳を立ててみる。
 すると、困惑したようなミユの声が聞こえてきた。
「そんなことミユに言われても困ります」
 ミユが後退りしてこちらに近づいてくる気配がする。
「いいや、君みたいな学生じゃないと意味がないんだよ」
 ライオンDの声は、意外に早口で甲高かった。
「君たち若者はさ、自分自身のために一生懸命生きる意味とか方法を誰も教えてくれないことについて、なんで? って思わないの? 誰かのために生きることは尊くて、人は一人では生きていけないから、一人はみんなのために、みんなは一人のために生きていくって、それって本当に? どんな人にも良いところはあるって、それって本当に思ってる? そもそも嫌なやつの良いところなんて、なんでこっちが探してあげなきゃいけないの? それが当たり前って本当? だとしたら、自分のことで精一杯の人なんかそもそも存在しない世界ってことになるね。あぁ、だから『みんなのために頑張れない自分はいない方が良いんじゃないか』『みんなの期待に応えるのに疲れ果てました』って筋が通った結論に辿り着くのは当然のことなんだ。君は立派な優等生だよ、おめでとうさようなら。本当は、君みたいに周りのことを考えられる人が、自分の殻を破って思いっきり何かを成し遂げる未来があって、あなた自身の情熱で結果的に誰かを幸せにする素敵な未来を私は見てみたいと、心の底から思うんだけどね。
 だから、僕は誰かのために犠牲になる君もすごいと思うし、我儘に貪欲な君もすごいと思う。だってやっぱり、まだ見たことない何かを、せっかくなら見てみたいって思うもん。
 動物がなんで多様か知ってる? それはね、絶滅しないためなんだって。生存可能な場所を増やすため、外敵から逃げるため。つまり開拓者がね、これまでになかった変なことをやり出して、そこから新しい可能性ができていくの。停滞は腐るか、格好のエサになって外敵に食い尽くされるんだよ。それでもやっぱり、一人では生きていけないってのは本当だと思う。一人で行動はできるけどね。おじさんも君も、みんなみんな繋がっているんだ」
 ライオンDの声も近づいてくる。
「完全にヤバイ人じゃん」
「うん。赤い傘持ってたの見えたし、きっと誰か殺してきたんだよ」
 私も小声で続ける。
「傘で人、殺せるの?」
「わかんない、頑張れば殺せるかも」
 
 ニュースを見ていると、人の死は三行分の業務連絡だ。
 だけど犯人目線でドラマとか見ていると、犯人は額に汗かいてものすごく頑張って犯行におよんでいる。
 頑張って殺すエネルギーがあるなら、そのパワーで相手と距離とって生き続けた方がよっぽど楽なんじゃないかと思う。ただ、切羽詰まった生き物は「いつかアイツを始末する。そのためだけに、俺は生きてるんだ」とか、こちらが聞いてもいないのに勝手にベラベラしゃべりだすのがオチだ。
 
 
「どうしよう、ウチいまコーラしか持ってない」
「わたしメントス持ってるよ! ……あとはコンパスくらいしかないけど」
 私たちは覚悟を決めて頷いた。
 やるしかない。
 メイはコーラを振って、ムツミはメントスの包みを破く。
 私は物置から手鏡をそっと出して、ミユの様子をうかがった。
 後ろ姿のミユのスカートから伸びる脚は、静脈の青がうっすら透けるほどに白い。
 膝の後ろは、コンセントみたいなHのすじが浮き出ていた。
 ミユの足に見惚れていると、ライオンDの不快な声がかぶさってきた。
「ここで命題を一つ。自由が先か同調が先か、君はどう思う?」
 キモ、なに言ってんだこいつ。
 私は振り向いてムツミとメイに合図を出す。
 そして私たちは、物置の影から飛び出してミユの元にダッシュした。
 
 私たち三人がライオンDとミユの間に入ると、一瞬の沈黙が流れた。
 ライオンDは目を見開いて動かない。
 
 その隙に、メイがコーラのキャップをカチッと開ける。ペットボトルの口からはすぐにブクブクと泡が溢れ始めた。そこにムツミが、手に握ったメントスをザラザラと投入する。
 コーラの茶色い泡が噴水のように立ち上った。
 不意に私は、インド人が笛を吹いて壺からコブラを誘い出す情景を思い出した。
 
「くらえーーー!」
 メイが叫んでペットボトルの口をライオンDに向ける。私とムツミも、メイの両側から手を伸ばしてペットボトルを支える。
 
 ライオンDは驚いたように飛び上がると、その拍子に爆音でオナラを放った。
 
「くっさ!」
 思わずミユがむせる。
 ライオンDは顔を真っ赤にして走り去って行った。
 
 
 
 ☆
 
「『変質者発生。変質者発生。コンビニキングライオン ふれあいワンチャンス通り店周辺にて変質者の目撃情報が多数寄せられています。女子生徒に謎の持論を浴びせてイヤガラセする変質者が発生しています。眼鏡をかけていない中肉中背の男性。身長は百五十センチから二メートル、年齢は十代から九十代』だって」
 私がそう言い終わると、ミ、ム、メ、の三人がうんうんと頷いた。私たち四人はライオンDにメントスコーラを食らわせたあと、学校近くの比較的大きな公園まで走った。
 屋根がついているテーブル付きのベンチに私たちは座って、一息ついている。
 私の隣にはメイがいて、私とメイの向かいにはミユとムツミが座っている。
 そしてテーブルの中央には、シャトーサトーで買った箱をまとめて置いた。
 
 奥に見える野球のグラウンドには、誰もいなかった。グラウンドは7月のオレンジを反射して、眩しかった。
「絶対さっきの人じゃん変質者」
 メイが、ハンカチを額に押し当てて汗を吸わせながら呟く。
「もう、なんでミユが目ぇつけられなきゃいけないの」
 そう言ってテーブルに突っ伏したミユのボブ頭を、ムツミがポンポンと優しく撫でた。
「本当、他に変質者に絡まれてもいいやつなんて腐るほどいるのにね、神社の鳩に石投げる心の貧しい【餓鬼(がき)】とかさ」
「変人に絡まれるならミユよりモニカでしょ」
 私は驚いた。中学から一緒のメイに、そんなこと言われるなんて心外だ。
「え、何でよ?」
「だってモニカのモテ期ひどかったじゃん。ヨボヨボの町内会長にラブレター渡されたり、ヒッピーに一目惚れされて告られたり、あの時は変人ホイホイだったよね」
「あーやめてやめて、せっかく忘れかけてたのに」
 メイは私の背中をバンバン叩きながら爆笑して、ミユとムツミもつられて笑った。
 
 コンクリートの道にポツポツと小さな黒いシミができたかと思うと、あっという間に夕立がやってきた。
 
 
 
「ねぇ、さっき気づいたんだけど、ミユたちって生まれてからずっとランニングマシーンに乗せられてきたんじゃないかな」
「それって、さっきの変質者が言ってたこと?」
 私は困惑して尋ねた。
 ミユはライオンDに洗脳されてしまったのかもしれない。
「ちがうちがう、なんだろ。なんか違和感みたいなのをずっと感じてて、ミユはその違和感にしっくりくる名前をつけたいの。だって、本当にランニングマシーンに乗ってて、転ばないように走り続けてるとして、それに気づいたところで逃げられないじゃん? だけど、親とか先生に、それが当たり前なんだとか言われたら、じゃあミユたちの頑張りは、ミユたちが走り続けてるのは何のため? って感じじゃない? 大人って君たちの将来のためとか言ってくるけど、それがミユにはただの押し付けみたいな気がしてて、なんだろう、あんたの責任と自己満足をミユたちに押し付けんなって、めっちゃムカつくんだ。でもだからってグレるメリットないし、ガラ悪いのに巻き込まれるの怖いし、明日は明日の美味しいマカロンがあるし……。ただそれだけなの、贅沢な悩みって言われたら、そうなんだけど、だけど悩みは悩みなんだよね」
 ミユの声はだんだん小さく、涙声になっていった。
 うんうん、とメイが大きく頷く。
 メイが頷くたびに、メイの顎のふちからは涙がぽたぽた落ちる。
「わかるなぁ、ウチも考えたことあるよ。明日世界が滅亡するってウチだけが知ってる世界線でさ、きっとウチはなんにもできなくて、いろんな気持ちがごちゃ混ぜになってグズグズ泣いちゃってさ、ただそれだけ。だって眠くなるしお腹も空くじゃん? 大体私のせいで世界が滅亡する訳じゃないし、どうせ早起きしてもみんな寝てるしさ。それで、世界最後の日にいつも通りみんなはふざけて笑ってて、ウチだけ泣いててそのまま世界はパンって一瞬で終わっちゃうの。バカだよね、最後まで楽しめばいいのにウチだけ損してんじゃんってね。だけど解決できない悲しい気持ちに、誰も巻き込みたくなくて、そんなこと考えて、たまにお風呂で泣いてるんだ」
 私も涙を流しながら話す。
 ネトフリで観た『マイク果被音主(ハピネス)の数奇な運命』を急に思い出して泣けてくる。日系三世の果被音主は、ある日から年を取らなくなった。彼は誕生日の前日を永遠と繰り返し、誰にも誕生日を祝ってもらえない数奇な運命を辿っていく。
 涙は、我慢すればするほど余計に、溢れ出てきた。そして、同時にこんなことも思い出したから、それを口にすることにした。
「私も、私も……この前、お父さんが大きい柴犬になっちゃう夢みて、会話とか全然できなくなってて、すっごく怖かったんだけど誰にも言えなかったの」
「わたしもモヤモヤすることある。何人かでグループで固まってるの見ると、なんか気持ち悪くて。アリ軍団かよって。誰かの味方をしたら誰かの敵になるような雰囲気が超キライ。自意識過剰なくせに強がってるボスザルとか大キライ」
 きつい言葉を使ったムツミは、すごく苦しそうな顔をしていた。
 きっと嫌なことを生々しく思い出しているんだ。肩まで巻き込んで背中を丸くしたムツミは、まるで臆病なカメみたいだった。
 私は腕を伸ばして、両手でムツミの手をやわらかく包んだ。
 
 
 
 ☆
 
 六時、時計の針は一直線だった。
 細かい霧の雨が降り続くなか、私たちミ、ム、メ、モはめそめそ泣いていた。
 雨は涙みたいにぬるくて、地面に着いたそばから蒸発しているように、足元からムワッと熱気が立ち込める。
 
 これが全部チョコレートだったらいいのになと思う。
 それか、私が小さくなって、チョコレートファウンテンの二段目でチョコの滝を浴びに浴びたい。
 大人になってお金持ちになったら、きっとこんな夢だって叶うんだ。
 天井が水槽になっているリビングで空飛ぶクジラとペンギンたちを眺めながら、大きな犬を枕に漫画を読むんだ。螺旋階段を降りると地下にシアタールーム、壁一面は天井までとどく本棚。隠し通路はコンビニ直通。床に敷き詰められたマシュマロ、アーチ型の扉。そして、大きなトランポリンのベッド。
 
「マイカ、また痩せたよね」
 ムツミがポツリと言ったから、手元のスマホから顔を上げて私は答えた。
「うん、バレエの発表会前で身体絞ってるんだって」
「ほんとにストイックだね、あの子は」
「それにマイカは勉強もできるし、美人だし、それなのに……」
 私たち四人は揃って続ける。
「性格もめちゃくちゃいい!」
 ポップコーンがハジけるように、私たちは軽やかに笑い合った。
 
「共学に行ってたらモテたろうね」
 メイがテーブルに肘をついて頬づえをつく。
 肩にかかっていたサラサラの黒髪が前に流れてメイの横顔を隠した。
「そうだけど、ウチはマイカみたいないい子ほど、女子校選んで正解だったと思うよ。女子校って男がいないから取り合いとかないじゃん? 共学行ってたら妬みブス軍団にいじめられてたよ、きっと」
「確かに……、ミユのお姉ちゃん、女子校から男ばっかの理系大学に行ったけど、男女比率偏ってると案外平和なんだって。比率が同じくらいが一番ドロドロしてて面倒臭いらしい」
「人間だって動物だもん、そりゃ恋愛は争いの元になるよ」
「二次元にしか興味がないモニカに言われても説得力ないんですけどぉ」
 そう言って、メイが私の右頬を、人差し指の先でグニグニ押した。
 
 マ、ミ、ム、メ、モの女子校ライフでは、そもそも男子との接点が皆無で、恋愛について知っているマトモな知識と言えば、カップルの理想の身長差が二十センチということくらい。
 そんな環境にどっぷり浸かっちゃってるものだから、今更なに考えているか、わからないリアルの汗臭男子より、実在しているかあやふやなイケメン俳優の方がかえって、楽しいデートをイメージしやすい。そして何より友達と妄想がシェアできるし、私たち的には一夫多妻、リモート結婚はウェルカムだった。
 入学して三ヶ月後には、みんなとそんな話をし始めて、脳内彼氏とは未だに手を繋いだことすらないほど純な愛を育んでいるけど、入学一年後には想像妊娠というワードが各クラスで多発的に広がった。
 そしたらこの腹痛は便秘の腹痛なのかそうじゃないのかなんて、私たち素人がいくら話し合っても答えが出ないから時が来るまで待つしかない、と真剣に悩むところまで重症化している。
 というか、将来のことを具体的に考えれば考えるほど、これから先の人生って女でいるデメリットが年々増し増しで、毎回、将来の選択肢なんて「必死」か「絶望」の二択しかない行き止まりにぶち当たった。
 それを見なかったことにして女子校ライフに戻る、の繰り返し。

「ヨシ! イイコダ!」
 背後からカタコトの声が聞こえた。
 振り返ってみると、土砂降りの中で雨ガッパを着てコーギーを連れている人がいる。
 用を足したとみえるコーギーは、飼い主の顔を見上げていた。
「はぁ、可愛い……欲しい。」
 私たち四人の口から、羨望ため息が漏れた。
 
 すると、私たちの視線に気づいたのか、コーギーがこっちを見て口をパクパクする。
「なんかウチらに話しかけてない? あの犬」
「メイのこと仲間だと思ってるんだよ、きっと」
 私はメイの妄想話を軽くあしらって、スマホに視線を落とす。
 隣に座っているメイが、今度は私の腕を掴んで嬉しそうに言った。
「見て! こっち来た!」
 視線を向けると、コーギーがすごいパワーで飼い主を引きずってこちらに向かってくるのが見える。
 何枚も重なっている夕立のベールを、コーギーはグングンぶち抜いて近づいてくる。
 その度に、雨でボヤけてよく見えなかった姿が、だんだんと浮かび上がってきた。
 
 風でフードが脱げた飼い主は、メガネのオジサンだった。
 オジサンは、毛刈り前の羊みたいに癖毛が爆発している。

 
 私にとってオジサンは、ひとグループの塊、いわゆるオジ軍団にみんな所属している。
 オジ軍団の一号二号三号……。彼らの個性といえば、ハゲかハゲじゃないかくらいだ。
 だけど、あのオジサンから見た私たちは、もっと見分けがつかないと思う。
 同じ制服、同じ黒髪、お揃いのカバン、まるい顔。
 私たち五つ子なんですと言ったら、お母さんスゴイね、とだけ返ってきそうだ。
 それはいつも、私たちがはみ出さないように気をつけているから当然のことで……誰だって、自分と同じような属性を持っている人を見るとほっとするし、そうじゃない人を見るとびっくりする。
 単純にそういうこと。
 敵じゃないことを示す基本的な防衛本能。
 最初から、ありのままの私を受け入れて! なんて、そのスタンスが図々しいよ。仲良くなってからお互いを知っていく方が平和的なんだ。
 だから、きっと多様性とか言われるものの対極にある属性集団が多いのは、誰かが悪いんじゃなくて、ただの自然現象なんだ。
 
 コーギーと、左手がリードで繋がっている羊オジサンは屋根の中まで入ってきたところで立ち止まった。
 
 頭からずぶ濡れた羊オジサンは、肩で息をしている。
 リードを持っていない方の彼の右手には、大きな三角定規が握られていた。
 
「わんちゃん触っていいですか?」
「ネェ、キミタチ。僕と一緒にシーシャバー行かない?」
 急に流暢な発音で羊が囁いたから、私たちは慌てて飛び退いた。
「『変質者発生。変質者発生。クレイジーシープ公園付近にて変質者の目撃情報が多数寄せられています。三角定規の先端で女子生徒のスカートをめくってイタズラしている変質者が発生しています。眼鏡をかけた中肉中背の男性。身長は百五十センチから二メートル、年齢は十代から九十代』」
 ミユのポケットから、機械的な声が流れる。ミユは驚いたようにスマホを切った。そしてスマホをテーブルに伏せて置く。
 
 メイは右足から紺ソックスを脱ぐと、見せつけるように羊オジサンの目線の高さで揺らした。
「どうせ、こういうの好きなんでしょ」
 メイの手は震えていた。
 私には、メイが私たちの身代わりになろうとしているように見えた。
 私も、メイの隣に並んで自分の靴下に手をかける。
 ミユとムツミも同じ気持ちだったのか、私たち四人は雨が降りしきる公園で横一列に整列をして、指先でつまんだ紺ソックスを誘うようにプラプラ揺らした。
 コーギーが飛び上がってメイの靴下にかぶりつく。
 コーギーは目を丸くして靴下を吐き出して、苦しそうに三回えずいた。
 そのあと、狂ったように首を振り回して吠えた。そして、ダッシュで雨が降り続いている世界の方へ走っていき、【畜生(ちくしょう)!】と悪態をついた羊オジサンも犬に引きずられて走り去って行った。
 
「やっぱりメイの靴下臭いんじゃん」
「ウチ、発狂って、生で見たの初めて」
 私たちは、人類で初めてAI読み上げ機能に救われた女子高生だと思った。
 アリガトウテクノロジーミセスエーアイ。

 
 
 ☆
 
 錆びれたアーケードには、『サファリボボンボンボンボン盆祭り』の垂幕が下がっている。
 腕時計の針は7時半を指していた。
 私たちミ、ム、メ、モは横に広がって信号を渡り、ゲーセンに向かう。
 
「ハヤシ、ちゃんと見周りしてんのかなアイツ。肝心なときにいなくて頼りになんない」
「今頃、パパ活女にでもひっかかってたりして」
「実際、不審者って男だけじゃないもんね」
「日々のストレスでムシャクシャしてやっちゃいました。迷惑かけるつもりなんてありませんでしたぁ」
 モザイクで加工した声を真似てメイが言ったから、私もダミ声で答えた。
「日々ストレスにさらされてんのは私たちの方なんですけどぉ」
 みんなで笑ったあと、なんとなく一瞬静かになって、私たちは同じタイミングで深いため息をついた。ほっとした、のため息だ。
 こうして、私たちはだらだら歩いている。次の交差点を渡れば、ゲームセンターはすぐそこだ。視線の先には、ドーム型のアーケードが広がっていて、その左右に白い蛍光灯の線が一直線に伸びていた。
 たい焼き屋の前で、パンダが何かのイベントがやっているのが見えてきた。
 
「なにやってるんだろう」とムツミが珍しく、そのイベントに食いついたみたいだった。
「行ってみようよ。ミユやってみたい」と行って、ミユは勝手に私たちム、メ、モの一歩先に出た。
 だから、私たちもそのあとに続いて、駆け足でミユのあとをついて行った。
 
 イベントスペースは、折り畳みの事務テーブルの脚を隠すように『現金掴み取りチャレンジ』という幕が付いていた。テーブルの上には、木織のザルと、アクリルの四角い箱があり、その中には、青々とした千円札がたくさん入っていた。
 そして、テーブルのうしろに突っ立っている白黒のパンダくんは、肩から『サファリボボンボンボンボン盆祭り』と書かれた緑の蛍光色のタスキをしていた。
 普通、こういうイベントってマスコットの隣に係員のお姉さんとか、いるはずなのに、なぜかこのイベントはパンダ一匹が突っ立って、ユラユラしているだけだった。
 
「これ、どうやるの?」とミユが聞くと、「ん!」と言って、パンダはテーブルに置いてあるアクリルの箱を右手で指した。
「えー、やってもいいの?」ミユが聞くと、パンダはそれを無視して、なぜか右手の黒いグローブを外し、そして、右腕を二の腕までたくし上げた。
 パンダの右腕はすでに生々しい人間になっていて、青い血管が浮き出て筋肉質だった。
「え、キモ」とメイが、私たちが言いたかったことをすぐに言語化してくれた。
 ただ、まだ靴下のことを気にしているらしく、メイの機嫌は直ってなさそうだった。
 パンダはその腕をアクリルの箱に突っ込んだ。
 
「え、パンダがチャレンジするシステム? クソゲーじゃん」ムツミがそう言ったから、私たちはゲラゲラ笑った。
 だけど、パンダはそんなことお構いなしの素振りで、右手を箱の中でゴソゴソとしている。

 ただ、パンダの顔はなぜか、右から左へ流れていき、左側をじっと見つめていた。
 そもそもアクリルの箱に気を配る気なんてないのかもしれない。
 たぶん、彼は何時間も暑い中、こんなことをさせられて、もう、何もかもが嫌になっているのかもしれない。
 私はそんなことを考えながら、再び、人の腕したパンダがアクリルの中でゴソゴソしている姿を眺めることにした。
 
 そうして、右手いっぱいにくしゃくしゃと千円札を掴み、パンダは右腕をアクリルの箱から取り出した。
 あとはアクリルの箱の隣にあるザルに掴んだ千円札を入れるだけだろう。
 そう思っていたのに、なぜかパンダは千円札を握ったまま、左側の方へ歩き始めた。
 
「はぁ? 意味わからないんだけど」
 ミユはバカにしたように言った。
 だけど、パンダはそれを無視してスタスタ歩いて行く。
 
 パンダが向かった先にはバレエレッスン帰りのマイカの姿があった。
「あ、マイカじゃん」
 私は驚いて、思わず口にした。
 パンダはマイカの前まで来ると、ぶっきらぼうにお札を掴んだ拳を突き出す。
「ん!」
「ケンちゃん?」
 マイカが首を傾げて尋ねと、パシッ。という音が響いた。
「痛っ」
 明らかにパンダから低い声がしたあと、パンダの右手から無数の千円札がヒラヒラと落ちていった。
 パンダの右隣に竹刀を持った白いTシャツ姿の男が立っていた。
「え、ハヤシじゃん」
 ムツミがそう言ってくれたから、私の二重に驚いているのは、間違いじゃなかったんだと、よくわからないけど、安心する。
 ハヤシが着る白いTシャツには、『正義』と黒の明朝体でプリントされていた。そして、肩からかけているタスキには、『ワニ女子高等学校 世直し係』と書いてあった。
 ハヤシはさらに、パンダの左太ももを竹刀で叩き、もう一度辺りに乾いた音が響いた。
「あいててて」
 どてっと尻餅をついたパンダは、這うようにして四足歩行でマイカから離れていく。
 逃げるパンダの尻を、ハヤシが粘着質に追いかけては竹刀で何発も叩いた。
 パンダはやっぱり四足歩行のほうが似合う、私はそんな当たり前のことを思った。
 
 
 
 ☆
 
 駅前の広場をオレンジ色の常夜灯が照らしている。
 広場にあるいくつものベンチでは、何組かの男女がいい感じのムードを醸し出していた。
  
  
 マイカ、ミユ、ムツミ、メイ、モニカ。
 午前ぶりに揃ったマミムメモの五人組も並んでベンチに腰を下ろした。
 空はもう、すっかり暗くなっている。
 
「マイカ大丈夫?」
「うん、私は平気だけど、さっきのパンダ幼馴染のケンちゃんかもしれない」
「あーあ、『竹刀の鬼』のハヤシにロックオンされたら半殺しだよ。靴下界隈のオジサンたちが言ってた」
「そんなことより、マイカと一緒に食べようと思ってマカロン買ってあるよ」
「やったー! 最高!」
 マイカの華やかな笑顔がはじけた。
 一人一箱ずつシャトーサトーの箱を膝に乗せた私たちは、宝石箱をあけるようにマカロンの箱をそっとあけた。
 マカロンは赤、黄、緑。
 いつ見ても可愛い。
 マカロンは芸術作品だ。美味しそうの前にとりあえず可愛い、可愛いは芸術だ。
 
 そのとき、誰かのスマホが鳴った。
「あ、ごめん。ママからだ。先に食べてて」
 そう言って、マイカはバッグからスマホを取り出したあと、左側の駅舎の方へ歩いていき、私たちの群れからはぐれた。
 それから私たちは無言でマカロンを食べた。
 例え、星が流れたとしても、私たちは見向きもせずにマカロンを食べ続けると思う。
 食後に、空になった箱をペシャンコにすると至福のマカロンタイムはあっという間に終わってしまった。
 
 隣に座っていたメイが急に大きな声を出して立ち上がったから、周りのカップルがざわついた。
「『変質者発生。変質者発生。本校、ワニ女子高等学校周辺にて変質者の目撃情報が多数寄せられています。通行人に棒状の凶器で【修羅(しゅら)】の如く襲いかかる変質者が発生しています。眼鏡の有無不明。中肉中背の男性。身長は百五十センチから二メートル、年齢は十代から九十代』って、これって不審者どころじゃないじゃん! 犯罪者じゃん!」
「心配しなくてもお前たちには興味ないよ」
 振り返ると、ハヤシが立っていた。
 見慣れたハヤシの顔は、ワニのようにゴツゴツと角の多い輪郭をしている。
 常夜灯の光と夜の闇の影が相まって、ハヤシのワニっぽさを際立たせていた。
 ハヤシが右手に握っている竹刀には、血らしき赤黒いシミがついている。
「こっちはお前らみたいな雑草なんてタイプじゃねぇんだよ。男が考える『女子高生』にお前ら雑草は入っていないんだ、自覚しろ。それに比べて加賀美はな、週三でバレエ、週二でボイトレに通ってるんだ。単語帳めくって登校するような女の子なんだよ、あいつは」
 ムツミの口から拍子抜けしたような声が漏れる。
「へぇ」
 ムツミの影から顔を出したミユは瞳を輝かせてハヤシに向かってグッドサインを突き出した。
「それって純愛だね! ハヤシ先生」
「おぉ、意外と良いヤツだな佐々木」 
 意表をつかれたようにハヤシワニは目を見開くと、頭を掻きつつ照れたようにはにかんで答えた。
 
「ハヤシ先生、さっきのはマイカを助けたってことですか?」
 ムツミが軽やかに質問すると、ハヤシは首と竹刀を振った。
「別に助けたわけじゃない」
 ハヤシは心からそう思っているように、真顔で言う。
「俺はただ、加賀美の生活圏内にいる変態を駆除して周っているだけだ。お前らみたいなモブなんてどうでもいい」
 
 なるほど。私たちはたぶん、加賀美マイカに感謝するべきなんだ。
 一本の美しい大木を保護する時に、人はその足元にあるコケも残す。きっと、それと同じことなんだ。
 
「変なやつに会う前にさっさと帰るかぁ」
「帰ろ帰ろ」
「先生、さようなら」
 私たちはハヤシにお辞儀した。
「気をつけて帰れよ、雑草ども」
 イケメンに言われるならご褒美だけど、冴えないハヤシごときに雑草呼ばわりされるのは腹が立つ。
 そんなことを考えていると、マイカが手を振ってこちらに戻ってきた。私たちミムメモも立ち上がって、マイカと合流する。
 そして、私たち5人は、マミムメモになって、駅の東口に向かって走り出した。
 
 
 
 ☆
 
 あーあ、今日もまた、ベッドに横になっている。
 
 私の足元では、ノラから家猫になったレオがイビキをかいて爆睡している。
 彼は野生をすっかり忘れてしまったらしい。
 こんなにダラダラしてて怒られないなんて、ただただ羨ましい。
 生まれ変わるなら、次は猫になりたい。
 誰もまだ気づいていないかもしれないけど、楽園の【天上(てんじょう)】界はきっと、猫だらけのはずだ。

 天井の白を見つめているうちに、今日会った人たちの顔を思い出した。
 私たちは同じ街に住んで、きっとこの街で死んでいくけど、たぶん一人一人から見た世界は違っている。
 そう考えると私には、それぞれの人が別々の世界のランニングマシーンに乗せられて転ばないように必死に走っているような気がした。 
 だから私は変わらない今日を何度も何度も繰り返すんだ。
「あーあ、今日がずっとループすればいいのに」
 そう呟いた私の頬を、一筋の熱い涙が流れた。
 
 時計の針が真夜中を告げる。
 デジタル時計が『ゼロ』にリセットする。
 この瞬間を待っていた。
 一日の終わりと始まりが混じり合うとき、私は勉強机の引き出しを開けて頭から飛び込んだ。
 今日がずっとループすればいいのに!
 
 ぐにゅ。
 私のオデコに大玉の練り消しがめり込んだだけで、ループ作戦はあっけなく失敗した。
 そうして私は十八歳の誕生日をむかえた。