狐面は今のところ、デバイスを起動する素振りは見せない。どこまで行っても格下に見られている。
否、そう認識させている。
力にせよ何にせよ、底を知られないこと。それがリーレニカが「仕事」をする上で譲れないプライドだった。
しかし、なぜ自分を狙うのかすらリーレニカにはわからない。逮捕するにしても暗躍部隊を仕向ける必要はないはずだ。
どう見ても不当。普通では無い。
状況を整理する余暇を与えてくれるはずはなく、夜狐は地を蹴った。
想像を裏切り、相手はたった一蹴りで数メートルの距離を潰し、肉薄する。
――〝同期〟。
思念による指示。波紋を打つように白藍の格子線が広がり、〈白銀の世界〉が完成。
狐面から赤い行動予測線が伸びる。一本ではない。
大量の予測線がリーレニカを突き刺すように溢れ、視界を埋め尽くす。
人間一人からそれが出る事実に舌を巻く。本当にそんな動きが可能なのかと目を丸くした。
予測線の濃度はどれも差がない――つまり本意気。フェイントではない。尽くが全力――信じられないが。
予測線が役割を果たそうと輝度を上げた。
多重打撃が来る。距離を取る時間はない。
『使うか?』
――いらない。
Amaryllisの提案は殺害だった。手加減をして無傷でいられる相手ではないと暗に示している。
それは拒否した。
相手は機人ではない。
程度はどうあれ――ベースは人間だ。
狐面がリーレニカの腰下まで屈むと、次の瞬間、漆黒の蜃気楼から無数の腕が飛び出した。
――ちがう。無数に見えるだけだ。
極限まで肉体の速度を上げた、コンマ一秒差の多重打撃。
容赦なく浴びせられる両の拳がリーレニカへ殺到。
人間の体を殴打する音が、絶え間なく、激しく生まれる。
リーレニカの――右膝、顎、肩、腹、左側頭部、鼻、左足、右脇腹、額、右足、鳩尾、首――。
その全てを掌底で撃ち落とした。
「――!?」
驚異的な速度であるにせよ、完全に同時でなければ手数は問題にならない。
相手の攻撃にこちらの掌底を合わせるだけでいい。
正しい手順を踏めば、正しい結果が生まれるだけの事だ。
とどめの回し蹴りが互いに衝突し、突風が生まれる。周囲の枯葉が舞い上がり、二人の空間が綺麗になる。
一瞬、時が止まった。
狐面は表情こそ見えないが、信じられないといった動揺の色を漏らしている。
「お前――何者だ」
「いきなり襲ってきて言う言葉ですか」
「探り合う腹は必要ないだろう。我々が何者かなど知れているだろうに」
「言えば通してくれるのですか?」
「……」
押し黙る。
肯定も否定もしない。相手の纏う漆黒の蜃気楼。そこから微弱に漏れるマシーナ変化では感情を分析できない。
鬱陶しいと、リーレニカは眉根を寄せた。
〈夜狐〉という部隊を使うということは、理由は不明だが騎士団もなりふり構っている状況ではない証。事件に関与していると疑わしき人間は手当たり次第に尋問にかけるつもりなのか。
平民区画だからそんな不当が許されるとでも言いたいのか。
リーレニカはしれず、舌打ちをする。
今にもフランジェリエッタは捕まり、どんな目に遭っているかも分からない状況。
弁明をしている時間はない。ましてそれを聞き入れる耳が相手にあるとは思えない。
自分から情報を聞き出すにしても、身柄を拘束する工程は妥協しないのだろう。
ここで交わす言の葉がそもそも無駄。
ならば。
「待て!」
リーレニカは今度こそ踵を返し――疾駆した。
察するに、相手は人間ではない。
正しくは人をベースにした改造人間。
マシーナウイルスを効率的に循環させ、運動能力を限界まで引き上げた強化兵士。
なるほど非人道的な政策。一般公開しないはずだ。
だがリーレニカの所属組織では情報が入手できているレベル。中堅階級の〈青札〉まではその組織体制を共有しているようだ。
リーレニカは直線の逃走を嫌い、マンションの壁に備えられた室外機を足場に、屋上まで次々と跳躍した。
「Amaryllis、フランジェリエッタのマシーナ反応をポイントして」
『そんな悠長な事を言っている場合か?』
視界が開け、月明かりがリーレニカの姿を晒す。
漆黒の蜃気楼が目の前に躍り出た。
「アルファめ、しくじったな」
「――――」
新手。
〈夜狐〉は隠密部隊だ。一人のはずがない。
リーレニカは白銀の世界に映る情報を戦闘から解析モードに絞る。
漆黒の蜃気楼の秘匿情報を解析し、目を丸くした。
解析の完了を待たず、相手は掌に〈衝撃〉の命令式を携える。リーレニカの頭部を掴もうと詰め寄っていた。
もう一人――〝アルファ〟が路地から追従しようと追ってくる気配を感じる。
逡巡。思考の許される数秒。瞬きをする余裕などない。
リーレニカは再び地を蹴り――屋上から身を投げた。
「死ぬ気か」
呟く増援を鼻で笑う。
自由落下で加速するコウモリスカート。空気の膜を切り裂き、突風が全身を覆う。
二体の狐面がリーレニカの落下地点へ迫る。
〈夜狐〉という部隊がどこまでの規模で動いているかがわからない今、二人だけだという先入観に捉われてはいけないと判断した。
故に戦闘は路地裏の限定されたスペースへ誘い込む。
頭上の狐面と下で待ち構える狐面が、リーレニカの落下を受け止めると同時に意識を刈り取ろうとしているのを感じる。
リーレニカの瞳が金色に染まった。
「〈杭打ち〉――三本」
言下。
宙で見えない足場ができたように、リーレニカの落下軌道が変化した。
白銀の世界に映し出されたのは、紫陽花色の粒子集合体。自身で構築した、極度に圧縮した空気の塊。
「ベータ!」
ベータと呼ばれた頭上の狐面が体勢を変える。まさかリーレニカが空中を跳べるとは思うはずもなく、予想通り反応の遅れを生んだ。
空中を蹴る一歩目。
自由落下のエネルギーを大気中のマシーナ反応で拡散させ、生じた突風を地上のアルファにぶつける。
猛烈な突風に溶けたマシーナ反応の衝突で、アルファの掌から〈衝撃〉の命令式が霧散する。
この瞬間、実質的なベータとの一対一に持ち込んだ。
「お粗末なマシーナコントロールね」
リーレニカは更に二歩、宙を蹴り外壁に足を着ける。
身を翻し、捻った。
二回転。勢いを乗せた回し蹴りがベータの右肩を捉える。
相手の細腕が軋む感覚。手応えからベータは女性だと認識する。
漆黒の軌跡が尾を引き、レンガ壁に衝突――破砕した。
「……信じられん」
土煙の中、平然と降り立つコウモリスカートにアルファは驚愕しながらも構えなおす。
背後で激しく瓦礫を蹴り飛ばす音。
ベータが何事もなかったかのように立ち上がる。
だが間違いなく右腕は折れている。いくら漆黒のヴェールに身を包もうとも、蹴った本人の感覚を騙すことはできない。
しかしながら驚異的な胆力だ。負傷を隠す立ち姿から相当な訓練を積んでいることが伺える。
未だ状況は好転していない。
今の相手が単純に倍。手数で優位を取られた。
リーレニカは現状を認識し、直ぐに視線をアルファへ戻した。
――挟み撃ちか。
リーレニカは目を細める。
――問題ない。