まず、ソフィアがスラム街に住んでいたことに少しばかり驚いた。その身綺麗な格好からは想像できなかったからだ。
 だが、ソフィアとボーイフレンドの住むというハリボテへ入った所で、その理由を知ることになる。

「ぐ、――ッ!!」
「スタク!」

 拷問を受けているような壮絶な悲鳴が耳朶(じだ)を打った。
 スタクと呼ばれた男がソフィアのボーイフレンドなのだろう。もはや人間と呼ぶには原型を失っているようだが。

 便宜上、〝植物人間〟と形容するのが適している。

 胸部中央を食い破るように咲く大きな薔薇。そこから(つた)らしきものが身体中を這い、顔の半分を埋めつくしている。
 マシーナ溶液を循環させているのだろう。重篤な状態であることは、素人にも分かる。

「背中と左腕。部分的ですが機人(きじん)化が進行している……いつからですか?」
「背中は半年前から……でも、ほんの小さな芽だったの。それが、いつの間にか広がっていって」

 言い淀んでいる。
 それが後ろめたい理由であることは、リーレニカも察しがついた。

機人(きじん)症は発症後急激にレイヤー()を目指して全身の細胞を変異させる。精神状態が安定していたとしても最長三日です。それを半年なんて……彼に何をしたんですか?」

 ソフィアはこちらに目を合わせようとはしなかった。
 そして答えた。懺悔するように。

「食べさせていたんです。花を」
「……何故?」
「彼、元々マシーナウイルスが少なくて、国立病院に通ってたの。だから善性マシーナウイルスを詰めたカプセル剤を処方されてて、でもそんなんじゃ足りなかった。担当医は『これ以上は出せない』とだけ。その日彼の背中があの状態に……」

 マシーナ欠乏症だけでここまでの機人(きじん)化が起こるとは思えない。
 善性マシーナウイルスを摂取しても減り続けるのなら、原因は別にある。だが何か事情があって医者に相談出来なかったというところか。
 ただし、容認できる事ではない。

「暫く経った頃、自然死で届出を出したわ。だから彼の戸籍はもうこの国には無い。その間彼の体は外気の微小なマシーナウイルスを吸収し始めたけれど、でも身体中のマシーナウイルスがなくなりそうになって……それで」
「高濃度のマシーナ反応がある『月ノ花』に目をつけた……。こんな状態になるまで、どうして医者に言わなかったのですか!」

 ソフィアは責められることは分かりきっていたように、リーレニカの言葉の上から被せて返した。

「言えるわけが無い! だって……そんなことしたら彼、殺されちゃう。この前の子みたいに」

 恐らく、ソフィアの判断は正しかっただろう。無論機人(きじん)の隠蔽など犯罪に等しいが、医者に助けを求めたところで根本治療はほぼ不可能だ。
 一度機人(きじん)化した人間は、もう元には戻らない。出来るのは、治療法が確立するまでに機人(きじん)化を遅らせる――マシーナウイルスを刺激しないよう、精神状態を強制的に平常にさせる――昏睡療法だ。しかし、それは最低百年は要する。もし彼が目覚めたとしても、その頃にはソフィアは棺の中だろう。
 だから、まともな医者は〝安楽死〟を提案する。

「でも、このまま苦しんだまま生かすなんて」
「私には彼しか居ないの……スタクはまだ意識もあるし」

 意識がある。
 それは一見、喜ばしいことのように聞こえる。
 だが、ここまで機人(きじん)化が明らかに進行しているのに人の意識があるのなら、別の問題が出ている証拠だ。
 ――〈レイヤー(よん)〉に症例はある。

「まさか彼、変異体に?」
「――やめて!」

 悲鳴に近い声で、ソフィアはスタクの上に覆い被さった。
 彼女の瞳には、スペツナズナイフを逆手に構えるリーレニカの姿が映っている。

「お願い、殺さないで。彼はまだ生きてるの。リーレニカさん、マシーナウイルスに詳しいよね? どうにか元に戻せないの?」
「ええ、今はまだ人でしょう。でもずっと人でいる保証なんで何処にも無いんです。大体、私は医者じゃない。それに私の知識は――」

 ――機人(きじん)を殺すためのモノだ。

「あなたにも大切な人がいるでしょう!?」
「あなただけが特別じゃない!」

 そう吐き捨てたところで、昔の自分に向けて言っているような錯覚に陥った。
 救えない命より救える命のほうが数えるのは容易(たやす)い。
 それは悪人であれ善人であれ、マシーナという存在は平等に命を奪う。

 リーレニカは後ろで見物を決め込んでいる魔女に声をかけた。

「……ここはマシーナ濃度が高いですね。ダウナさん」
「はぁい」

 ダウナは分かっていたように返事をする。

「マシーナ循環ポーションと、精神剥離素体は幾らですか?」

 彼女は丸いフラスコ瓶と小さな革袋を取り出し、見せびらかすように揺らしながら腕を組む。

「十万リペラよ。リーレニカちゃん、本気なの? 彼、素人の私が見てももう手遅れだって分かるけれど」

 ダウナの言うことはもっともだ。これから自分がしようとしているのは自己満足でしかない。
 だから、なおさら時間が惜しい。
 スペツナズナイフを懐に納め、淡々と交渉を進める。

「フランジェリエッタから退職金をまだ頂いてませんでした。支払いは後でも良いでしょうか」
「良いけれど……あなた、ただの生花店のアシスタントでしょう?」
「『元』アシスタントです。前業は看護師をしていたわ。必要がないから言ってなかったけれど」

 無駄話をするのは今じゃなくて良い。
 故に適当な回答をする。嘘も方便というやつだ。
 察したのか、ダウナは珍しく感情的なため息をつく。

「…………はあ。良いわ。私もマシーナ規制地区に指定されてからお金には困ってたし、ここでの事は忘れてあげる。ミスソフィア。部屋出るわよ」
「や、でも……」
「殺すならもうとっくにそうしてるわよ。私、機人(きじん)用の毒瓶だって持ってるんだから」

 先刻までボーイフレンドを殺そうとしていた人間と二人にしたまま離れるのはかなり気が引けるだろう。
 見た目の通り筋力の無いダウナが、なんとかして半ば強引にソフィアを連れ出す。
 施術するには最悪な環境だが、少なくとも最高の相棒を耳に提げている。不足は無いだろう。

「ダウナ嬢……感謝します」

 ここからが正念場だ。