己の全てを懸けた最後の一撃。
 聖剣ジョワイユーズに、俺の全てを預ける。
 振り下ろした聖剣が魔王エンリルの絶対と思われた防御結界魔法アエギス・オービチェを……砕いた!
 今だ! 今しかない! これが届かなかったら終わりだ!

「うおおぉぉぉお!」

 渾身の力を振り絞って駆ける俺は獣のように吼えていた。
 あと少し! あと少しだけ動いてくれ俺の脚!
 もう少し! もう少しだけ持ってくれ俺の剣!
 突き出した聖剣の切っ先が、玉座から動かないエンリルの眼前にまで届く。
 エンリルはなおも微動だにしなかった。
 その顔には怒りも驚きすらも浮かんでいなかった。ただ口元に微かな笑みを浮かべていた。

「ディビーナ・ユースティティア!」

 仲間たちが残してくれた最後の魔力を全て注ぎ込み、神聖魔法を発動する。
 聖剣から迸る神々しい光の渦が、エンリルの巨躯を崩していく。
 エンリルは声を上げなかった。
 静かに己の最期を受け入れているようにも見えた。
 頼む! これで決まってくれ!
 聖剣を握る両手が小刻みに震える。限界などとうに越えていた。
 まさに消え失せようとしているエンリルの口が一言のみを発した。

「……見事だ」

 完全に消失するエンリル。
 それを見届けたかのように消失する聖剣ジョワイユーズ。
 刹那の静寂。

「ミシェル!」

 俺を呼ぶ声に振り返る。
 クロエが俺の名を呼びながら駆け寄ってくるのが見えた。
 ルドヴィクが、ギュスターブが、ニナが、満身創痍の仲間たちが俺に笑顔を向けている。

「終わった、のか……」

 全身の力が抜ける。呼吸を整えることさえ億劫に感じる。
 俺たちの戦いは終わった。そうだ、終わったんだ……。
 五年。気付けば五年もの月日が経っていた俺たちの戦いは今、終わった。
 魔王のいない世界が、始まる。
 これで世界は変わる。やっと変わるんだ。
 駆け寄ってくるクロエに向って、俺は新しい世界への一歩を踏み出した。

 Fin.

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 俺はエンドマークを打った。
 約二十八万字の長編を書き上げた達成感が込み上げる。

「ふう……よしっ」

 物語を完結させたという充足感を味わいながら立ち上がる。
 壁の時計は午前一時を指していた。
 俺にとって初めての長編小説である『ミシェル戦記』を書き始めたのは半年前だった。
 職場と自宅を往復するだけの毎日の中に小説を執筆する時間が加わったことで、俺の生活は変わった。
 途中でスランプなんかもあったが、いま思い返せば総じて楽しかった。
 そう思えることが何より嬉しい。
 一人で祝杯を挙げるために冷蔵庫を開け、キンキンに冷えた缶ビールとグラスを取り出す。

「乾杯……!」

 空きっ腹にビールを流し込んだ。こんなにビールを旨いと感じたのは初めてかもしれない。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 それは待ち望んだ日だった。
 十月も下旬になったというのに、最高気温が二十七度という珍妙な前日の陽気を引きずるように、空気が纏わり付く土曜日。
 俺は自分が書いた小説を初めて手に取っていた。
 紙に印刷された本というものは俺にとって特別な意味があった。
 紙の本が好きだ。
 実際に紙のページをめくるという行為は、スマホやタブレットでは得られない快感だと思う。
 五十冊の同人誌を受け取ったのは昼下がりだった。
 二〇二三年十月二十一日の十四時から十六時という指定時間通りに届けてくれた宅配業者さんに感謝しつつ、段ボール箱を開ける。印刷されたばかりの本の匂いに感動すら覚える。
 一冊を手に取ると、B六判で五百四ページの厚みと重みを感じた。
 文学マーケットという文学作品限定の展示即売会に二十五歳で初めて参加すると決めた時、いきなり長編を出品するのは無謀だと思った。
 それでも、最初の本は本当に出したい本にしたかった。
 自分の空想をありったけ込めた物語。
 それを形にしたかった。
 五百四ページで五十部。約十二万円の出費は大きかったけど、いま手に持っている本が与えてくれる満足感には代えられないと思う。

「さて……」

 俺は深呼吸してから『ミシェル戦記』と記された表紙をめくった。
 その刹那、意識が飛んだ。

 意識を失っていた時間が、どれくらいだったのかは分からない。
 意識が戻った時、俺の眼前にあったのは祭壇だった。

「は……? 教会……?」

 三鷹市下連雀のワンルームマンションにいたはずの俺は、天井が高くて荘厳な造りの聖堂としか思えない場所にいた。

「夢……?」

 思わず声が漏れた時、背後から女性の声がした。

「創造神様……?」

 俺はその声に振り返った。
 純白のローブを身に纏った、長身で朱い髪の女性が俺を見ていた。

「創造神たるユーゴ様でございますね?」

 女性の口調は確認するものだった。
 瑠璃色の瞳がまっすぐに俺を見つめている。

「クロエ・カミナードと申します」

 状況を飲み込めないまま、俺は別の驚きを持つことになった。
 クロエ・カミナード。
 それは、俺が書き上げ今まさに手に持っている小説『ミシェル戦記』のヒロインの名前だったからだ。

「驚かれておいででしょう。わたしも驚いております。創世神のお告げのままに創造神様が応現なされたのですから」

 俺は言葉を探した。
 何から訊けばいいのか。この場所について? 艶めく朱い髪を持つクロエと名乗る女性について?
 クロエと名乗る女性は、俺のことをユーゴと呼んだ。
 それは俺のペンネーム、千代田悠吾(ちよだゆうご)のことか?

「あの……どこから確認すればいいのか……ここは?」
「ガッリア王国の王都パリーズィにある聖母大聖堂です」

 クロエの口から出た固有名詞は全て『ミシェル戦記』のものと合致していた。

「……聖紀元暦は?」

 俺は『ミシェル戦記』で用いた異世界の暦で訊いてみた。
 聖紀元暦は地球の西暦とリンクしていて、ほぼ同じ時代という設定だった。

「一七七一年です」
「一七七一年? ですか?」
「はい。魔王討伐から十年が経っております」
「……ミシェルやルドヴィク、ギュスターヴ、それにニナは?」

 俺は勇者ミシェルのパーティーである他のメンバーの名を出してみた。

「いまは、それぞれの土地で役職に就いています」
「……本当に、俺が書いた小説の世界なんですね」
「はい。創造神様が描かれた世界です」

 創造神……? 俺は創造の神として、自分が創作した世界に転移した? いや、待て。

「創世神のお告げというのは?」
「昨夜、創世神がわたしの夢に現れ、本日の正午、聖母大聖堂に創造神であるユーゴ様が応現なさると告げられました」

 創世神……俺が設定した異世界の神が実在する……?
 創造神であるという俺とは別の存在、更に上位の存在として?

「理解が追いつきませんが……あの、ひとつお願いしてもいいでしょうか?」
「なんでしょうか」
「握手してもらってもいいですか。どうにも夢じゃないという確信が持てなくて」
「かしこまりました」

 クロエが右手を差し出す。俺はその右手を握ってみた。温かな手だった。

「ありがとうございます。どうやら現実のようですね」
「はい。わたしたちにとって現実の世界です」
「……今は俺にとっても現実、というわけですね……とにかく今は受け入れるしかなさそうです」
「実を言えば、わたしも半信半疑でした。しかし、創造神様は確かに今ここにおられます。今後のことは、わたしどもにお任せください」
「ありがとうございます。おかげで少し落ち着きました」
「まずはお役に立てたようで、何よりです」

 クロエがやわらかく微笑む。
 俺が書いた『ミシェル戦記』の結末から十年後ということは三十一歳。
 クロエから漂う大人の色香に今さらドキリとした。
 その時、こちらに近付いてくる足音に気付いた。
 足音の主は緋色の祭服を着た男性だった。

「いやはや、本当に創造神様が応現なさるとは……」

 男性は真剣な眼差しで俺を見つめていた。
 ロマンスグレーの髪をオールバックに撫でつけた長身の男性は、俺の前まで歩み寄ると深々と頭を下げた。

「ギュスターヴ・ドラクロワでございます」

 勇者ミシェルのパーティー、その主要人物は五人。
 その一人である神官ギュスターヴ。俺が設定した通りの年齢なら五十一歳。

「ギュスターヴ……さん?」

 頭を上げたギュスターヴは微笑を浮かべ、その黒い瞳で俺を見つめた。

「私に敬称など不要でございます。創造神様の応現に際するなど、まさに僥倖。身に余る光栄と存じます。今後のことは不肖ギュスターヴめにお任せ下さいますよう、伏してお願い申し上げます」
「俺は、これからどうすれば……?」
「創造神様は現人神(あらひとがみ)として、創世教会が責任を持って祀らせていただきます」
「……俺は、神様なんて器じゃないんですが」
「創造神様が元の世界でどのような立場におられ、どのような生活を送られていたのかは、この事態に際して考慮する必要はないかと存じます。創造神様はこの世界において神なのです」

 いきなり異世界に転移して、自分が描いたキャラクターと遭遇したら神だと言われる。
 神……俺が……?
 どうして俺は、こうも不安に感じるんだ……。
 そうか、俺はキャラクターたちに、幸福だけを設定しているわけじゃない。
 目の前にいるギュスターヴは愛妻家という設定だが、その最愛の妻は若くして亡くなっている。
 ストーリーの展開を優先させた結果として、不幸な設定は少なくない……。
 過酷な人生を歩んだキャラクターたちに、俺は恨まれていても不思議じゃないんだ。
 待て……今は不安より、確認が先だ。
 勇者や冒険者ではなく神様としてスタートした異世界……チートな能力なんかは無さそうだが……能力……そうだ、この世界が俺の設定した通りなら、まず魔力は必須。

「あの……俺は魔力を持っていますか?」

 俺の質問に答えたのは、クロエだった。

「失礼ながら、創造神様からは魔力を探知できません」
「そうですか……」

 クロエは通常のランク付けが出来ない超級の天才魔道士だ。そのクロエが探知できないのなら、俺は魔力を持っていないのだろう。
 俺は特別な能力を持たない千歳大希(ちとせだいき)、いや、千代田悠吾として異世界に来てしまったようだ……。
 力を持たない者が、力を持つ者に担がれるというのは、こんなに不安なものなのか……。
 しかし、この世界で他に寄る辺がないのも事実。ここは担がれるしかない。

「分かりました。今後のことは二人にお任せします」

 俺は事態を受け入れる覚悟を決めた。
 我ながら順応が早すぎると思う。もっとあたふたしてもいい場面だろう。
 俺が落ち着いている理由は一つしか浮かばない。
 自分が創り出したキャラクターたち。それが目の前に実在するせいだろう。