『なに、読んでるの?』

 わたしが肩をつついて、勇気をだして動かした指に、君はそっと、視線を向けてくれた。三ヶ月目の正直、わたしはこの瞬間を願っていた。君に話しかけられる動機を探し続けて。
 春の風が窓から吹き込んで、カーテンが踊る。満点の青空。君は、読書をしていた。綺麗な二重だなと、君の近くに来て初めて気づいた。瞳はブラウン。透き通ったブラウン。
 そして私が、邪魔をしたのだ。それが始まりだった。
 君は、文庫本を机に伏せて、手のひらを動かす。ゆったりと。

『なつめ、そうせき。わがはいは、ねこである』

 君の持っている本の表紙なんて隣だから視界に入る。聞くまでもないことを、話のネタが探しきれなくて、苦し紛れに問うわたしに、君は、葵真人(あおいまひと)くんは、不機嫌にも、怒ることも無く答えてくれた。無表情だったけど。今ならわかる。緊張してたんだよね。
 夏目漱石、吾輩は猫である。誰もが聞いた事のある文学の巨匠の作品だ。一年前、中学一年生の時にわたしは現国の授業でそれを習った。

『おも、しろ、い?』
『よんで、みる?』

 どうしよう、頷いた方がいいかな。
 わかりやすく固まったわたしに、君はまたゆったりと指を動かす。

『こういうさくひん、よまない?』
『……うん、どれがおもしろいのかとか、わからなくて』
 
 わたしの拙い手話にも面倒くさがらず付き合ってくれる葵くんは、冷たく見えるだけで、面倒見のいい人だなと思った。

 思い出す。わたしは三ヶ月前、ここに転校してきて、初めてわたし含め四人しかいない学級で、三人を前に自己紹介をした。

『はるさき、まどかと言います、よろしくお願します』

 すると穂波ちゃんと、雪乃ちゃん、葵くんは手のひらを挙げてパラパラと振ってくれた。
 手話の拍手はこうする。ここ数ヶ月で頭に叩き込んだ手話は、まだ使い慣れなくて、わたしの頭は混乱してしまわないように必死だった。

『春崎さんは途中失聴者だから、まだ手話が使いこなせてないの、手話で困ってることあったら教えたあげてね』

 先生の素早い手話に目が回りそうになりながら、それでもわたしは何とか先生の手話を読み取り、ぺこりと頭を下げた。
 興味津々といった様子でわたしを見る穂波ちゃんと雪乃ちゃんとは違い、葵くんは窓の外を見ていた。わたしに興味も関心もないみたいに。雲が風に揺れる様子のほうが、面白いらしかった。

 そこから、穂波ちゃんと雪乃ちゃんと仲良くなるのは早かった。ふたりはゆっくりと手話を使ってわたしが分からない単語を口で伝えれば、読唇してくれた。

『ふたりとも、すごいね。どうやって言葉を、覚えたの?』
『発声の、練習をしたりしたよ』
『私も。あとはもう沢山、文字に触れて、手話を覚えて、唇の動きを覚えて、って感じ』
『? なんの、動き?』
『く、ち、び、る』
『ありがとう』

 まるで包丁で何かを切るみたいな動作をするのが、手話では「ありがとう」という意味だった。わたしもそうやってお礼を伝える。同じようにぺこりと頭を下げてしまうのは癖だ。

『いつも、教えてくれて、ありがとう。わたしにも、出来ることがあったら、言って』
『いえいえ。わたしも新しい友達が出来て、嬉しいよ』
『私も』

 柔らかな笑顔で包んでくれるこの二人とは、高校も一緒だ。ろう学校はエスカレーター式だった。だから、葵くんも一緒。わたし達が和気藹々と話していたところでも、葵くんは表紙の分厚い単行本を読んでいた。どうやったら話せるだろう、わたしは三ヶ月の間、悩んでいた。


 閑話休題。
 私が次の話題に困っていると、葵くんはそれを察したのか、また指を動かす。

『みしま、ゆきお、って知ってる?』
『うん』
『その人の、ふどうとく、きょういく、こうざ、って本、おもしろいよ』
『へえ!』

 どうやら読書のきっかけも作ってくれようとしているらしい。
 葵くんと、初めて会話のキャッチボールが出来ている。私はそれが嬉しくて、昔の文学が何が何だかあまりわかっていないわたしに教えようとしてくれる親切な面を知れたのも相まって、わたしは笑った。
 葵くんが驚いたように目を見開く。でも直ぐにいつもの眼差しに戻った。

『ぼく、持ってるよ。貸そうか?』
『ほんと? うれしい』

 お願いします、と手話とともに頭を下げば、気にしないでいいよ、首を横に振られる。
 そこで会話が途切れそうになる。だからわたしは勇気をだして、自分から話しを続けてみようとした。迷惑じゃないといいな、怒らせないといいな、と思いながら。

『葵くん、話しかけられても平気?』
『? どういうこと?』
『その、あんまり、人との交流が好きじゃないのかなって勝手に思っちゃって』

 手話が追いつかなくて、思わず早口で話してしまえば、真人くんは少し考えるような仕草をした。わたしの唇の動きが分かりにくかったのかと思って、手話でもう一度言おうとしたら、それも首を横に振られる。
 真人くんは言葉を選ぼうとしているみたいだった。困惑しているようにも見えて、わたしは後悔する。もっと仲良くなってから聞いたほうが良かったかも。というか、こんなこと聞くのが間違いだったかな。
 わたしが内省していれば、葵くんは話し始める。

『話題がない』
『わだいがない?』
『うん、僕はファッションにも疎いし、化粧品にも、芸能人にも興味が無い。雪乃も穂波も僕を嫌ってるわけじゃない。ただ僕が本が好きだってことが知ってて、放っておいてくれてるだけ』
『あ、えと、』

 邪魔してごめんなさい、と言おうとした。するとそれを遮るように、葵くんは手のひらで制止する。

『でも話しかけられるのが、嫌いってわけじゃない。君が僕みたいに面白みのない人間に話しかけてくれて、嬉しかったよ』
『……えっと、ごめんなさい、もう一度』

 真人くんは嫌な顔せず頷いて、もう一度ゆっくりと手話をしてくれる。
 嬉しかったと言ってくれて、わたしの心は簡単に舞いあがる。たった三人しかいない同級生と仲良くなりたかった。それは葵くんも例外ではない。

『わたし、雪乃ちゃんと穂波ちゃんとも仲良くなりたかったんだけど、葵くんとも仲良くなりたかったの。わ、わたしとお友達とか、どうですか』

 さっきからずっと恥ずかしくて、手話が早口で曖昧な動作になる。握手を求めるように手を差し出せば、真人くんは瞬いて、そっと手を握り返してくれた。
 私は嬉しくて舞い上がる。嬉しい、と思わず口にも出ていたらしい。それを見て初めて葵くんは笑った。

『そんなに嬉しいの? 君はすごいね』
『どこが?』
『普通、仲良くなりたいですなんて、簡単に口に出来ないでしょ? 相当勇気がいると思う。あと、僕のことは真人、って呼んでくれていいよ』

 僕と友達になりたいと思ってくれてありがとう。
 胸の中に、ピンクの飴玉が転がる。
 柔らかく笑った君に、私は簡単に、恋に落ちてしまった。


『真人くんのこと、好きになっちゃった』

 真人くんが図書室に向かったのを見計らって、そう雪乃ちゃんと穂波ちゃんに伝えれば、二人は顔を合わせたあと、わたしに詰め寄ってくる。

『勘違いとかじゃなくて?』
『かもしれない。初恋もまだだし。でも真人くんの隣に座ってるだけでドキドキするの』

 そう言えば、雪乃ちゃんと穂波ちゃんは目を輝かせた。
 なんて惚れっぽいんだと思うけど、でも好きになってしまったのだ。

『わー! 青春!』
『わたし、応援するよ!』

 雪乃ちゃんと穂波ちゃんが抱きついてくる。私は嬉しくてくふくふ笑って二人を抱き締め返した。

『でもどうやって好きになってもらえるかもわかんないし、直人くんはわたしのことなんか好きにならないと思うんだよね』
『え、なんで?』

 雪乃ちゃんと穂波ちゃんは目を瞬かせる。

『直人くんには文学少女っていうか、優しくて賢い人がお似合いな気がするの。私みたいに賢くない、取り柄のない女の子より』
『待って』

 いつも穏やかで、春の日差しのように暖かな雰囲気を持つ穂波ちゃんが、厳しい目でわたしを見た。わたしはドキリとした。先生に呼び出された時みたいな気分になる。なにか悪いことしただろうか? 身に覚えがない。

『誰かに言われたの? 取り柄がないとか』
『え? うーん、でもわたし、本当になにもないよ?』

 成績も平凡、料理の腕も平凡、掃除だって得意不得意なんか関係ない、掃除機を動かして拭き掃除をして……、何が自慢できるのだろう。普通の、なんの取り柄もない女。

『そんなことないよ!!』

 穂波ちゃんが私の肩を掴んで言った。穂波ちゃんの唇が動くのを初めて見た。
 隣にいる雪乃ちゃんも激しく頷いている。私は首を傾げた。お母さんはいつもご飯が美味しいとか、掃除してくれてありがとうとか言ってくれたけど、でもそんなの当たり前だった。お母さんは私より忙しいんだから。

 だから死んでしまった。わたしという重荷がいたから。

『円香ちゃんってもしかして自己肯定感低い?』
『え、なんて言った?』

 穂波ちゃんの唇が象る。じ、こ、こ、う、て、い、か、ん。

『え、普通じゃないかな』
『じゃあそんな最初から諦めちゃダメだよ! 真人がそんな好意的に話してくれてるんだもん! 絶対脈あるはず! ないなら作ろ! それに円香ちゃんは素敵な女の子だよ!』

 激しくもゆっくりな手話にわたしが自信なさげに頷くと、雪乃ちゃんもガッツポーズを作る。

『わたしたち応援するからね』
『うんうん、二人っきりにしてあげる』
『え、いいよいいよ、ふたりと話すのも楽しいんだよ。それにわたし、言ったりしないよ。真人くんに──』

 好きなんて。そう象ろうとした手を雪乃ちゃんに阻まれる。穂波ちゃんはわたしを見ずに、視線は出入り口を見ていた。
 私もそれに引き寄せられるように扉の方を見る。
 そこには、真人くんがいた。片手に文庫本を持って。

『……なに?』

 三人からいきなり視線を向けられて、困惑する真人くんが、そこにはいた。

 手話とともに首を傾げる真人くんに、雪乃ちゃんが笑って首を横に振った。

『なんでも、ないよ』
『君がそういう時、大抵なんでもない気がしないんだけど』
『やだなあ、そんな訳ないでしょ?』

 笑って誤魔化す雪乃ちゃんに、わたしは曖昧な笑みを浮かべて何も言わなかった。ふたりが影になってくれていてよかったなと思った。まだ出会ってひと月も経ってない人間から恋愛感情を抱かれていても怖いだけだろう。それに、確実に困らせる。それだけは嫌だった。
 見つめていられる、私と話してくれる、それだけで良かった。

 それだけで幸せだ。これ以上を望むなんて烏滸がましい。わたしはそう思った。

『春崎さん』
『?』

 肩が跳ねる。雪乃ちゃんと穂波ちゃんはいつの間にか机の前から居なくなっていた。何事かと首を傾げるわたしに、真人くんは、文庫本を差し出してきた。

『前言ってたでしょ? 不道徳、教育、講座』
『ああ! あれ?』
『そういえば図書室にもあったなって、図書室どこか覚えてる?』
『えっと……』

 言い淀むわたしに、真人くんは優しく微笑んだ。

『返す時、案内するよ。今回は僕の名前で借りてるから、また返却するとき言って』
『あ、ありがとう真人くん』
『どういたしまして』

 わたしの机に文庫本を置いて、自分の席に戻った真人くんに、わたしは顔が真っ赤になっている自覚があった。それを見られたくなくて、右にある二席を見れば、雪乃ちゃんと穂波ちゃんが微笑ましそうにこちらを見ている。わたしは今度こそ下を向いた。長い髪が帳になってくれて、真っ赤になった顔は見られていないと信じたかった。

 登校中、一年前より周囲を見る回数が増えた。文庫本を胸に抱えながら、信号のない四つ路を左右三度ずつ見て、また歩き出す。

(不道徳教育講座面白かった……)

 三島由紀夫と聞けば、わたしは割腹自殺の人、としか知らなかった。きっと難しい話ばかり書いて、素人のわたしには読んでもてんでわからない話ばかりしているものだと。
 だが不道徳教育講座には、実に不道徳だが、なるほど、と頷ける話も多かった。題名は過激なものもあったが、読んでみれば本当にその通りやれ、と書いてはあるものの納得できる理由が書いてあるからあまり反抗的な気持ちにもならなかった。それに軽妙な語り口調も面白くて、全然お堅い文章なんてものではなかったのも面白かったポイントだ。

 直人くんになんと伝えよう。どんな風に喋ったら、楽しんでもらえるだろう。
 そればかり考えていたのがいけなかった。左角を曲がれば、男の人とぶつかりかけて、そのまま転んだ。男の人はこちらを見て、ぺこりと頭を下げると、どこかへ行ってしまう。たぶん、すみませんと口が動いてたはずだが、見えなかった気もする。

(イタタタ……)

 立ち上がって、少し擦りむいた手のひらを見る。血は出てない。まあいっか、そう思って校門に向かう。
 すると背後から、トントン、と肩を叩かれた。勢いよく振り向けば、そこには真人くんが立っていた。

『ごめん、驚かせた?』
『ううん、平気。でもまだ音のごちゃごちゃした世界に慣れてなくて』
『それはそうだろうね。ぶつかられてたけど、大丈夫?』
『あ、見えてた? わたし鈍臭くて』

 そう言って頬を掻けば、真人くんは眉を顰めた。

『ぶつかってきた人が悪いよ、君は悪くないんだよ』
『でもわたしが見えてなかったから』
『相手、時計見て走ってたよ。遅刻しそうだったんでしょ』

 手話をしながら歩いていく。真人くんと登校できるなんて今日はいい日だなと思ったから、特に手を擦りむいたことは気にならなかった。

『今日真人くんと一緒に登校できたし、心配もしてもらえたから大丈夫』
『……僕と話せて、心配されるだけでいいの?』
『うん!』

 笑って力こぶを作ったら、真人くんは小さく笑った。笑ってくれるだけで嬉しくて、わたしまで笑顔になる。
 話しているうちに校門が見えてくる。立っている先生に挨拶しようとして、横で真人くんが唇を開いた。

『可愛いね』
『……え?』

 見間違いだろうか。わたしは思わず立ち止まってキョトンとした。真人くんは何でもない顔でわたしを見る。

『可愛いねって言ったんだよ。不道徳教育講座面白かった?』
『……!、う、うん、面白かったよ。ちょっと過激な内容だったけど、でもわたしの知らない目線からものを見てるんだなあ、こんな賢く纏められる人がいるんだなって』
『楽しんでもらえたようでよかった。図書室、今日案内するね』
『あ、ありがとう』

 何でもない顔で先生に挨拶する真人くんにわたしは呆然とするばかりだった。
 可愛いなんて、お母さんにしか言われたことない。施設に入ってからは、一度もそんな褒められ方されたことがない。しっかり者ね、と言われることはあっても、わたしに可愛げはないと思うのだが。
 悶々としながらわたしは真人くんと教室に向かった。真人くんは、正直者なんだろうか。


 体育が終わって、女子更衣室で雪乃ちゃんと穂波ちゃんと着替えている最中に、朝のことを話す。

『え!! 真人が円香ちゃんに可愛いって!?』

 穂波ちゃんが驚いたように目を開いた。雪乃ちゃんも同じような反応をする。

『う、うん、真人くんが言ってくれたの、唇の動きだったから聞き間違いじゃないのかなって思ったんだけど、手話でもおんなじ事言われて。真人くんってそういう人なの?』
『いやいやいや、真人にそんな褒められかたした事ないよ』
『そうなの?』

 雪乃ちゃんも穂波も力強く頷く。わたしは首を傾げた。

『おかしいなあ』
『何言ってるの! 真人も円香ちゃんのこと意識してるんだよ!』
『うんうん! 円香ちゃん子犬みたいに可愛いもん』
『子犬?!』

 何を言ってるのか、と怪しげな視線を向けたら、『わたしの言ってることが正しいんだって、間違ってないと思うよ』と雪乃ちゃんが念を押してくる。

『子犬は可愛いと思うけどわたしはそんな可愛さないと思うな……』
『何言ってんの、円香は可愛いよ』

 ぽん、と肩を叩かれる。可愛いと褒めて貰えて嬉しいけど、そんなことより。わたしは雪乃ちゃんを見た。

『! 雪乃ちゃん』
『あ、わたしも円香ちゃんのこと円香って呼びたいな〜』

 私は喜んで穂波ちゃんに抱きついた。そうすると雪乃もわたしたちを包むように抱きしめてくる。

『穂波ちゃん! 好きに呼んで! 私も二人のこと呼び捨てにしていい?』
『もちろん』
『ふふ、こちらこそだよ〜』

 嬉しい、と手と一緒にはしゃぐと、やっぱり、と雪乃は頷いていた。

『円香は子犬ね』


 昼休み、ろう学校はみんなでご飯を食べる。円になってみんなで給食を食べるのだ。主に雪乃と穂波の話を聞きながら、わたしは時々頷いて、必死に給食を食べていた。みんな手を使ってしか話せないから、最終的には無言になる。直人くんは最初から無言で話を見ているだけだった。話しかけられたら返事をするけど、食べるのに集中してる。食べ進めるのが早いなと思った。

 私は今日も今日とて量の多い(他の子達には普通にはしい)給食を食べて、お盆を給食室に返しに行くところだった。

『ごちそうさまでした』

 調理員さんの中澤さん(勤続年数三十年の大ベテランさんらしい)に唇だけでそういえば、笑ってくれた。わたしも笑う。
 さて、教室に戻って真人くんに声をかけて図書室に行こう。振り返った。

「わあ!」

 思わず声が出た。真人くんはどこか申し訳なさそうに本を見せてきた。

『机の上に置いてあったから持ってきちゃったんだ、ごめんね』
『あ、そうなんだ。気にしなくていいよ』

 じゃあ連れて行ってくれる? と言えば、真人くんは頷いて人差し指を階段がある方へ指した。
 真人くんの隣で階段を登る。横顔を盗み見れば、長いまつ毛がひらひらと瞬きしている。

(綺麗だなあ)

 どうしてこんなに綺麗で、魅力的な人なんだろう。優しくて、微笑まれると胸がギュッとする。お母さんが笑ってくれるのとは少し違う胸の高鳴りだった。雪乃と穂波はどうして真人くんを好きにならなかったんだろう。不思議だった。

 ぼーっと見ていたら、どうやら気づかれてしまったらしい。真人くんがわたしを見る。

『何か僕の顔についてる? それとも見てるだけ?』
『わ、ごめんね。綺麗だなあって』

 今度は真人くんがキョトンとした。ついで、顔を背ける。

「あ、ごめんね」

 思わず口でそういったつもりだったけど、真人くんには届かない。肩をポンポン、と柔らかく叩けば、そこには少し、照れくさそうにする真人くんが居た。

『どうしたの?』
『僕のセリフだよ』
『え?』

 真人くんはわたしの顔をもう一度しっかりと見ると、ため息をつく仕草をした。

『えっ、ごめんね?』
『君はいい意味でも、悪い意味でも正直者なのかもしれないね。でもそんな普通の顔で、言ってたら、──されるよ』
『え? ごめんなさい、最後の、もう一回』
『いや』
『ええ!?』

 まさか拒否されるとは思わなくて、わたしは目を見開いて固まる。
 真人くんはそれ以上何も言わずに微笑むと、右を指差した。
 階段を登り切って右を見れば古い木製の扉がある。

 わたしは気を取り直して真人くんを見た。真人くんが唇で言う。

『と、しょ、し、つ』
『ここが?』
『結構広いよ、楽しみにしてて』
『うん』

 鍵を開けて、真人くんが先に足を踏み入れる。明かりをつけてくれたらしい、後ろに振り返って、真人くんは手招いた。わたしは図書室に足を踏み入れた。

「わあ!!」

 わたしは両手を目一杯広げる。口から歓声が出ていることだろう。身体に声が響いたから、きっと声に出ているはずだ。

 図書室はわたしが想像している以上に広かった。以前通っていた中学よりも、さらにもっと。

『先生に案内とかされなかった?』
『わたし、結構急に転校の手続きしたから、そんな余裕なかったんだと思う』
『そうなんだ。じゃあ、ようこそ、図書室へ。図書委員として歓迎するよ』

 手慣れた動作でカウンターの中に入っていく真人くんに、わたしは目を瞬かせた。

『委員会とかあるの?』
『ないよ、みんな好きに言ってるだけ。僕は本が好きなのが周知されてて、だいたい図書室を使っているのが僕だけだからってこと』
『へえ……』

 引き出しを開けて、判子のようなのを取り出した真人くんは、四角のチケットくらいの大きさの貸し出し表に判子を押した。あれで返却したと言うことになるのだろう。判子を押して、カードを本に挟むと、真人くんが顔を上げる。

『案内されてないんなら、僕が案内しようか?』
『え?』
『校内』
『……いいの?』

 恐る恐る答えたわたしに真人くんは小さく微笑んだ。もしかしたら気を遣わせているのかもしれない、内心そう疑っていた。だって、そこまで仲良くもないわたしに本を探して貸してくれて、その上返却の仕方や借り方まで教えようとしてくれて、さらには学校の中を案内しようかとまで言ってくれている。どう考えても気を遣ってくれているだろう。

『……そんなに、気を遣わなくていいよ』

 手話でも言うのも心苦しかった。口には出せない。だって、こんなにも嬉しいのに、全部全部、気を遣っているだけなんだと言われたら、心臓が破裂しそうなほど悲しかったので。
 わたしの言葉に、真人くんはキョトン、とした後、笑った。
 おかしそうに笑った。わたしは真人くんがこんなにも笑っているのを、初めて見た。また好きが深まる。どうかわたしを好きでいて、と思ってしまう。
 もう何も、全ての音が混ざって頭がぐらぐらするような、そんな耳が、かすかに笑い声を拾う。
 そんな声で笑うのね、僅かに聞こえる笑い声に、また胸が高鳴る。

『僕は面倒くさいことに、自分から進んで首を突っ込むタイプじゃないよ』
『なら……』
『僕と、友達になってくれるんでしょ?』

 握手、したよね?
 真人くんが首を傾げる。
 わたしは頷いた。

『友達になろうなんて、人生で初めて言われたんだ。勇気を出して話しかけてくれた、異性の僕に。本ばかり読んで、まともにコミュニケーションも取らなかった僕にね』
『それは、その、確かにその通りなんだけど。打算がなかったわけじゃないんだよ』

 だからそんな、純粋透明な理由じゃない。一人になりたくなかった、これからの学校生活で、嫌われ者になりたくなかった、だから話しかけて、仲良くなりたかった。それだけ。
 恋に落ちてしまったのは、全くの予想外だった。

『打算、のない人なんていないと思うけど』

 真人くんは当然のようにそう言った。
 上手く行きすぎていると思った。好きな人が、わたしと仲良くしようとしてくれる。きっと真人くんには真人くんの事情があるんだと思うけれど。

『どうしてそんなに、優しくしてくれるの?』
『……まだ秘密』
『秘密?』
『そう』

 カウンターに頬杖をついてそう微笑む真人くんは、本当にかっこよくて、わたしは思わず見惚れてしまう。

「かっこいい……」

 思わずそう零せば、どうやら真人くんに唇を読まれていたらしい。照れくさそうに笑われる。わたしの顔は真っ赤になった。

『ち、違うの!! いや、違わないんだけどね!?』
『ありがとう、そんな正面から褒められたの、初めてだな』
「ううう」

 真っ赤になってしゃがみこむ。顔が熱くて仕方ない。呻き声が頭の中で籠って響く。
 わたしのバカ。どうしてこんなに隠し事ができないんだろう。きっと真人くんももう気づいている。わたしが真人くんが好きだってこと。うそ、バレてる? 嘘って言って。誰に言うでもなく一人ごちた。
 蹲っていると、誰かが近づいてくる気配がした。真人くんだ。真っ赤な顔を見られたくなくて、また俯いた。

『ねえ春崎さん』
『……何?』

 恐る恐る視線を上げれば、そこには変わらず、優しい視線のままの真人くんがいた。わたしと同じ目線になるように、しゃがんでくれる。

『僕も円香って呼んでいい?』
『えっ』
『ダメ?』
『ダメじゃないけど……』

 どうして? と言いかけて、わたしはハッとした。
 真人くんも、わたしと仲良くなろうと、きっかけを作ろうとしているんだ。
 それを理解すると、わたしの胸は熱くなった。
 うん、うん、と頷く。

『好きに呼んで! 真人くん!』
『ありがとう、円香』
「わわ」

 眩しくて見ていられない。目を覆ったわたしに、真人くんはまた笑っているようだった。見えないからわからないけど、多分笑ってる。
 蹲る私に、真人くんはポンポン、と肩を叩いてくる。視線を上げれば、真人くんが立ち上がってこちらに手を差し伸ばしていた。

『円香、図書室の中、見て回ろう。そしたら昼休みが終わるから、教室に戻らないとね』
『うん』

 そしてわたしたちは図書室を見て回って、おすすめの本を教えてもらったり、自分が気になったものを手に取ったりして、真人くんと二人きりの時間を過ごした。
 真人くんの手話は変わらず少しゆっくりで、丁寧だった。雪乃と穂波と話しているときは、もっと早いし手で伝えなくても唇で伝え合っている場面も多い。
 やっぱり、年月がものを言わせるのだ。それは仕方ないなと思っていた。

 すると教室のライトが点滅する。始業五分前のお知らせだ。

『じゃあその本、借りる?』
『うん。案内してくれてありがとう、真人くん』
『真人でいいよ、円香』
『……うん』

 どうしてそんなに優しいの。期待させないで、ううん、期待させて。そう思った。
 わたしのこの気持ちなんてつゆ知らず、真人は貸し出しの作業を終えて、わたしに本を手渡してきた。

『教室に戻ろっか』
『うん』

 隣を歩く。わたしみたいな、何もない人間のこと、好きになってくれるわけないってわかってるけど、好きになって欲しいなと思った。
 炊事洗濯掃除くらいしか取り柄はないけど、これを取り柄と言っていいかもわからないけれど、あなたの恋人になれたら。
 きっと沢山、努力してみせるから。
 真人の少し高い肩を見ながら、そう思った。

 あと、真人くんは本当に校内を案内してくれた。隣にいる真人くんが気になって、全然集中できなかったけど。

 
「円香ちゃん、最近どう?」
「どう?」

 夕食を終えて自分の部屋に戻って課題をしようとしていた時だった。
 施設の職員さん、前田さんに肩を叩かれた。

 疑問系で唇を動かす。声も一応のせて。わたしは失聴してまだ一年も経ってないから、なんとなく声の出し方はまだわかる。その感覚を忘れないようにね、と月一でリハビリも入れられている。
 中途失聴者であるわたしは、結構特殊な事情で失聴したのだ。それを知っているのは、前田さんと、後他の職員さんだけだろう。同じフロアで暮らして居る子とはほとんど話さないし、みんな、手話だってわからない。何かあれば唇を大きく動かしてくれるからそれを当てにしている。読唇術もこの一年でだいぶ鍛えた。

「そう、まだ聾学校行ったばかりでしょう? 友達とかできた?」
「でいました。仲良く、みんな、してくえますよ」

 すると、前田さんがわたしの後ろを見て顔を顰める。何事かと思えば、小学生らしい男の子がわたしを指さして笑っていた。
 わたしは曖昧に微笑む。何を笑われているのかわかっていたけど、別に怒ろうとも思わなかった。聾学校の周囲の人たちが理解があるだけで、みんながみんなこうして聞こえない人間に優しくしてくれるとは限らない。それはここ一年、二年で痛いほど体験したことだった。
 前田さんがその子を叱るのを遠巻きに見ていた高校生のお姉さんが、興味なさそうに自室に戻ろうとこちらに近づいてきたので、扉の前から離れた。するとその人は口パクで何か言う。

『き、に、し、ちゃ、だ、め、だ、よ』

 わたしが返事をする前に隣をすり抜けていったお姉さんの背中に礼をして、わたしは今も叱り続けている前田さんを横目にそのまま部屋に戻った。

 わたしがどうして児童養護施設に属するようになったのか。それは小学六年生の頃。
 我が家には母しかいなかった。父は幼い頃に他界し、お互いの祖父母も早くに亡くなったのだ。みんな癌で亡くなっていった。
 そして母はわたしを養うため、昼夜働きっぱなしになった。そしてわたしが小学六年生の時に、過労で倒れて病院に入院。そして、癌であることがわかった。
 わたしはその時、思った。ついにひとりぼっちになってしまう可能性が出てきたと。以前から働く母の代わりに掃除、洗濯、炊事の全てはできるようになっていた。でもわたしには働き口がない。小学生なんて誰が養ってくれる?
 家で一人、即席のラーメンを食べている時だった。いつも通りになった日常を過ごしていた。
 わたしは突然、耳が聞こえなくなった。
 病院に行くお金なんてない、わたしは母のことで忙しいふりをして、学校を休んだ。耳の調子が戻るまで。でもそれはいつまで経っても治らなくて、ついに、学校の先生にも聞かれるようになった。「本当にお母さんの看病が忙しくて休んでるの? あなたが体調を壊してるんじゃなくて?」
 鋭い人だなと思った。だからわたしは言った。耳が聞こえません、と。先生の声が小さすぎて何を言っているかわからないと。
 三十分も経たなかったと思う。学校から先生が来て、特例として学校の先生を付き添いに近くの総合病院に行くことになった。
 そこで、突発性難聴だと言われた。一週間半放置していたと言えば、耳鼻科の先生は難しい顔をした。

「難聴になる可能性は捨て切れないですね」

 そうですか、と言った自分の声すら、まともに聞こえなかった。

 それから、中学生になった。わたしはその時、左耳が聞き取りずらかったが、完全に生活に支障が出ているわけではないので、一般の学校に入ったのだ。
 そして、夏頃のことだった。
 友達は、わたしを大きな声で呼んだのだと言っていた。それなのに、円香が無視したと。わたし何か悪いことした? と膨れっ面になる友人に、「ごめんね」としか言えなかった。
 わたしはもうその頃、施設でお世話になっていたので、施設と母の病室を行き来していた。母は日に日に痩せていき、わたしはそれに連なるよう、耳が聞こえなくなっていった。
 この事実を、なんと伝えればいいのだろう。何度も言おうとして、そして、言う前に気づかれた。なんでもない顔で、母は言った。

「円香」
「うん?」
「耳、聞こえないの?」
「……うん」

 そこから洗いざらいに、全て話した。突発性難聴になったとして、失調する可能性はほぼないと言われていたが、わたしは両耳の聴力が検査を受ける度低くなっていっていると言うこと。将来的には失聴するだろうこと。
 つまり、わたしは、補聴器をつけた、耳の聞こえない人になると言うことを。

 母は、わたしの説明を聞いて一言、「ごめんね」と言った。泣いてはいなかった。でも、悲しさがまたほろほろと母の寿命を削っているようには思った。
 わたしはその謝罪を聞いた時、わたしが生まれてこなければ母もこんな苦労をしなくて済んだのにと思った。謝りたいのはわたしの方だったが、わたしが謝っても何も変わらないから、母を最後まで看取ったら、できるだけ人様に迷惑をかけず、そこそこの年齢で死のうと思った。

 母は一年生の秋の頃、亡くなった。
 痩せ細った体から魂が解放を求めて抜けていったようだった。
 わたしの聴覚も、母の死と共に衰弱していき、補聴器があってもほとんど聞こえなくなった。

 わたしは泣かなかった。母はようやく楽になれたんだなと思った。結局なんの恩返しもできなかったと人生を振り返る。
 葬儀は執り行われず、そのまま直葬だった。母は母の両親の墓に入った。

 わたしは正式に児童養護施設のお世話になることになった。母の形見は父と母の結婚指輪だった。
 大事にそれを机の引き出しに入れて、わたしは悲しさや苦しさ、虚しさを心の奥底に押し込めることにした。

 太陽は昇って、沈んで、雲は現れては消えて、波は行き、去り。
 私の死はいつ現れるのだろう。
 夕暮れの太陽が眩しかった。わたしの片頬、ブラインドを超えて、わたしにまでその熱が伝わってくる。
 そしてはっ、とした。今わたしは真人と図書室に来ているのだ、どの本が面白い、あれは君が読んだらどう感じるかな、そんな会話をしていた。あれからは真人ともどんどん距離が近づいているような気がする。休み時間、合わせたように図書室に向かって、会話をする機会も増えた。
 いけないいけない。しっかりしないと。
 真人を探そうとふと視線を横に動かせば、棚と棚の間、通路、私の背後に真人がいた。思わず肩を跳ねさせたわたしに、真人は手を動かした。

『悲しい顔してたね』
『……そう?』
『君は僕達の話をよく聞いてくれるけど、君の話はしないね』
『そうかな?』
『どうしたの?』

 真人の顔が眩しい。でも優しい瞳をしていることはわかった。
 わたしは。
 わたしは、口を開いて、唇をふるわせて。
 どうもしてないよ。
 そう言うつもりだった。

「お母さん死んじゃった……」

 言葉にして、涙が出そうになった。真人にはきっと、逆光になって見えない。

『なんて言ったの?』
『なんでもないよ』
『教えて、口、動いてたでしょ?』
『ほんとになんでもないよ』

 嘘つきに笑ったら、真人は、悲しい顔も、苦しい顔もしない、純粋な瞳でわたしを見ていた。

『僕の耳が聞こえてたら、君のこと、助けられたかな』
「違う。耳が聞こひない人だかあとか、そんらんじゃない」

 叫んだのが聞こえたらしい。わたしの形相に真人は驚いたのだろう。
 ふらりと足が動いて、わたしに駆け寄ってくる。
 こないで、醜いわたしを見ないで。

 見て。受け入れて。
 誰かわたしを愛して。

 わたしの頭の中はめちゃくちゃだった。
 冷静になろう。冷静に。早く胸の奥に激情を仕舞い込んで、何事もなかったかのように日々を暮らす。いつものことだ、出来るはず。今日は少し、鍵が緩んでるだけ。次から気をつけないと。

『ごめんね、ほんとになんでもないんだよ』
『……雪乃と穂波になら話せた?』
『言わない、誰にも言わない』
『君が壊れてしまったら、僕は耐え切れない』
『大丈夫、大丈夫だから』

 俯いて手話をする手を下ろしたわたしに、真人も同じように手を下ろした。
 気まずくて、視線を上げて、無理にでも笑って、もう帰ろうと言えばよかった。
 そう口を開こうとすれば、先に話し出したのは、真人だった。

『わかった、君の中で、僕が話してもいい人間になるまで、頑張るよ』
『何を?』
『君の心に近づけるように。そうしてもいいと思える存在になる』
『……どうしてわたしのこと、そんなに気にしてくれるの?』

 以前より聞いていたことだった。なぜ? と。なんの得があってわたしに近づきたいんだろう。わたしはあなたが好きだから、勝手に周りをうろちょろしてるけど、真人にとってわたしはただの友達だ。
 人は大なり小なり損得を考えて行動している。損得勘定があるのは当たり前だ。わたしにだってある。でもわたしにとって、真人という存在は得でしか無かった。彼に近づきたいと思って始めた読書も、耳が聞こえなくなった今、わたしのいちばんの趣味になった。真人は優しく、わたしがくだらないことを話して、気を引きたいだけの時も、付き合ってくれた。わたしを大切にしてくれた。今みたいに。理由は秘密らしいけど、わたしは期待してしまう。でもそんな訳ないから、わたしは夢を見させてもらっているんだということにしていた。
 だからわたしは真人の言うことが信じられなかった。

『君のことが好きだから』
「え……?」
『だから、頑張って君が苦しいことを言える相手になりたいな』
『……私、の、どこが好きなの?』
『笑顔が可愛くて、仕草が可愛くて、僕の話をニコニコ聞いてくれて、僕が読書が好きって言ったら、自分も真剣に読んでくれて、いつも明るい。誰かのために常に気を使ってる』
『あ、えと……そうかな? あ、ありがとう?』

 真人が私の顔を覗き込むように近づいてくる。仰け反りかけて、そんなわたしを真人が微笑ましそうに笑んだ。

『君も僕が好きでしょ?』
『真人って結構饒舌なんだね』
『君には言わないと伝わらないと思って』

 綺麗なまつ毛だな、なんて現実逃避ぎみに真人の顔を見る。

『君はどう?』
『な、なにが?』
『僕のこと、好き?』

 わたしも好きだよ。
 そう言いたいのに、わたしの手は動かなかった。
 真人は小さく笑った。それは彼の心の傷を表しているようだった。

『そっか』
『待って違うの、わたしも真人のこと好きだよ』

 慌てて答える。
 でもわたしが幸せになっていいのか、その答えが欲しいの。

『別に無理に応えてくれなくていいよ、君が僕のこと好きでも嫌いでも、僕は君が好きだよ』

 優しい目だった。真人はいつでも優しい。わたしにいじわるすることなんてないし、分からない言葉だらけの私とも優しく会話してくれる。
 ここの人はみんな優しい。わたしは幸せ者だ。

『わたしは』
『うん』
『幸せが怖いの』
『どうして?』
『わたしは誰のことも幸せにできた試しがない』

 母の顔を思い出す。母はわたしを幸せにしてくれた。大好きだった。でもわたしは母が病気になっても何も出来ず、ただ死んでいくのを見ることしか出来なかった。
 換気のために開けられた窓から、さわさわと涼しい空気が入ってくる。わたしのスカートを揺らす。
 真人が手を動かす。柔らかな指先だなと、いつも密かに思っていた。綺麗な手。

『僕は君を好きになれて幸せだけど、そうじゃないってこと?』
『わたしを好きになって、幸せなの?』
『うん』

 なんのてらいもなく答えた真人に、わたしはまた、手のひらを上手く動かせなくなる。
 どうしてそんな、簡単に言えるの。わたしの何を知っていて、私を愛せるの。

『……やっぱり、わかんないや。ごめんね』
『うん、気にしなくていいよ。ひとつ言えるなら、頭の隅に僕のことを覚えていてくれれば、嬉しいな』
『うん』

 放課後、わたしは久しぶりに、ひとりで帰った。

 夕飯を食べている時も、わたしはどこか意識が胡乱げだった。ぼんやりする。私はどうしたらいいのだろう。自分が分からなかった。どうしてあの時、わたしも好きだと伝えた時、両思いになれたと喜べなかったのだろう。
 ぼーっとしていると、肩を叩かれる。
 のたのた首を動かせば、高校生のお姉さんがいた。あの時気にしなくていいと言ってくれた。

「どうしあしたか?」
『くちびる、よめるんだっけ?』
『はい』
『じゃあちょっと付き合って』
『え?』

 お姉さんはほとんど誰もいなくなった食堂で私の隣に座ると、メモアプリを起動させて、二人の間に置く。わたしに打てと視線を向けてくる。

『なんか、あった?』
【え? なにも、ないですよ】
『うそ、でしょ?』

 お姉さんの見通すような視線にわたしは、分かりやすく視線を落とした。誰かに話したかった。誰かに聞いて欲しかった。ずっとそうだった。でも、すぐに口に出す勇気はなくて、私は黙った。
 お姉さんはそんなわたしを見て言った。

『あたしで良かったら、聞くけど』

 わたしは躊躇って、でもやっぱり、ヒントでもなんでもいいから欲しくて、口を開くことにした。

【……好きな人に、好きになって貰えたんです】
『うん』
【……でも幸せに、なるのが怖い。幸せは、壊れやすい、取り戻すのも、難しい】

 母が休むのは、風邪やインフルエンザが酷くなった時。その時は必死に看病した。そして、授業参観、運動会、卒業式。母の姿を見る度、わたしは嬉しくて仕方なかった。夜、少しだけ早くなった帰りに、わたしは絶対目を覚まして、母に抱きついた。すぐまた眠りにおちてしまったけど、母はいつでも笑顔で迎えてくれた。
 でも母は死んでしまった。あんなに頑張ってたのに、あんなに必死にわたしを育てようとしてくれたのに。わたし達家族は別に欲張って幸せを得ようとしていたんけじゃないと思う。でも、ひとりで母の帰りを待っていた女の子は、結局暗い部屋で誰も返ってこなくなった部屋で、置いていかれることになった。
 幸せは怖い。母を失った時、わたしには一生消えない傷がついた、どう癒したらいいかも分からない。カウンセラーに辛いことは無い? と言われても、返事ができない。言葉には表せない大きさの傷だった。だから、説明ができない。なんと言えばいいのか分からない。でも多分、いちばん辛かったのは母だ。

『好きな人は、あなたの話を、聞こうとして、くれる人?』

 わたしは頷いた。

『じゃあ、その人と、話し合えばいいじゃない』

 わたしは目を見開いた。そんなの考えたこともなかった。わたしのこんな話、聞かせてどうするの? そうとしか考えられなかった。

【私の不幸な、身の上話なんか聞かせられて、どうすればいいか困るのは、相手の人じゃないですか?】
『あなたの、話を聞いて、迷惑がる、人間なんかと、付き合っちゃダメ』

 それもそうか、と気付かされる。お姉さんは大人だ。わたしが考えつかないことを沢山、教えてくれる。でも、好きな人に嫌われるのは、面倒がられるのは、辛い。

【でも、嫌われたくないです】
『それが誰かを好きになるって、ことだと思うわ』

 お姉さんは頬杖をついて、一見つまらなさそうな顔をしているけど、わたしへのアドバイスは的確だった。それに、口を読みやすいように、大きな口で、区切れを作って話してくれるからわかりやすかった。

【……嫌にならないかな】
『ならないよ。そんな、しょうもない男だったら、私がまた、聞いてあげるから、私に話しにおいで』
【お姉さん……】
『真奈美、って名前。そう呼んで』
【真奈美さん、ありがとうございます】
『どういたしまして』
【……話してみます】

 頑張って。
 ガッツポーズを作るお姉さんに、真奈美さんにわたしは笑うと、残していた夕食に手をつけた。
 心は少し、楽になっていた。

 部屋に戻って、ベッドに寝転んで、いつ真人に告げるか迷っていた。雪乃や穂波にも。
 すると、スマートフォンのバイブを感じてわたしは手に取った。
 メッセージが来ている。
 雪乃か穂波かと思えば、わたしは差出人を見て携帯を落としそうになった。慌ててメッセージを開く。

【誘いたい場所があるんだけど、今週の日曜日、空いてる?】

 真人からメッセージが来るのは、その夜が初めてのことだった。思わず寝そべっていた身体を起こす。

【空いてるよ、どうしたの?】

 首を傾げるスタンプを送れば、真人からの返事は早かった。

【白鷺ガーデンって知ってる? 花畑で有名なところ】

【知ってる! それがどうしたの?】

【一緒に行かない?】

(え……?)

 これは、一体どういう意味合いを持っているのだろう。もしかしたら雪乃や穂波も誘っているかもしれない。

【雪乃や穂波も誘ってたり……?】

 恐る恐るメッセージを送る。返信が来ないたった数秒が怖くてわたしは天を仰ぐ。デートのお誘いだったらどうしよう。ドキドキして今すぐスマートフォンの前から逃げ出したくなる。でも一秒でも早く返事をみたいわたしも居た。

【ううん、二人きりだよ】

「うそ……」

 多分口から無意識に出ていたのだと思う。口が勝手に動いてしまうのは、仕方の無いことだろう。わたしは未だに自分の耳が聞こえなくなったことに自覚的ではなかったから。

【私と二人っきりでつまらなくない?】

 送ってから気づく。こんな返信、遠回しに断ってると思われないだろうか。違う。誘われて凄く嬉しいのに。どうしてこんな大事な時に、上手く返事ができないのだろう。

【全然】

 表示された返事に胸が締め付けられる。なんの飾りも無い言葉だから、余計だった。真人はわたしといて楽しいと思ってくれているんだ。嬉しい。どうしよう。
 わたしはベッドから勢いよく立ち上がると部屋の中を意味もなくウロウロした。

 スマートフォンをまた手に取って、ベッドに腰掛けて、返信を打つ。

【じゃあ行こう! どこで何時に待ち合わせする?】

【十一時に、羽場駅で】

 了解ですのスタンプを送って、わたしはベッドに背を倒した。

(かわいい服あったかな、ああ、私お化粧品なんて持ってない。どうしよう)

 最低でもリップくらいは塗っていきたい。
 誰に相談したらいいだろう、わたしは悩みに悩んで、職員さんに聞くと、ある部屋に向かった。

 扉をノックする。まもなく扉が空いた。

「なに?」
『お化粧を教えてください』

 メモアプリに文字を打ち込んで、画面を見せれば、真奈美さんはわたしを見て、手のひらで招き入れてくれた。

 真奈美さんはスマートフォンを取りだして、何かを打ち込むとわたしに画面を見せてきた。

【なんで?】
【デート、するんです、多分】

 へえ。真奈美さんが面白そうな顔で頷く。

【いいよ、でもあんたはまだ若いからファンデーションとか要らない、アイシャドウとかもあまり目立つのはね……。とりあえずリップと、眉を整えるくらいじゃない?】

【それだけで、可愛くなれますか?】

 眉を下げて真奈美さんの顔を伺えば、真奈美さんは突然その場で駆け足する。悶えている。

【ど、どうしました?】

【あんた、可愛いわね】

 私は狼狽えて、慌てて文字を打ち込む。

【そんなことないと思います】

【可愛いわよ】

 お姉さんが文字を打つスピードはわたしなんか亀だと思わされるくらい早かった。あとわたしは可愛いのだろうか。こんなに褒めてくれるんなら、否定しちゃいけない気もしていた。母も言っていた、他人からの褒め言葉は素直に受け取っておきなさいと。

【んじゃ、あたしの部屋入ってきなさい】

【ありがとうございます】

 真奈美さんの部屋に入れば、整理整頓された机と、綺麗なベッド、あとは洋服、CDの並んだ棚があった。
 そして全身鏡。

 年上の女の人の部屋に入るのなんて初めてで、不躾だけど見回してしまう。

 バイブ音がしてはっ、時を取り直すとわたしは画面を見た。

【鏡の前立って】

【はい】

 わたしは言われたとおり鏡の前に立つ。真奈美さんの動向を伺えば、なにやらクローゼットの前で服を物色していた。あれを取りこれを取り、ベッドの上にポイポイと並べていく。

 そして、少しして気が済んだのか、クローゼット前からベッドに行き、何着かを手に掴む。

 鏡の前に経つわたしに、真奈美さんはわたしの身体の前に服を当てた。同じように鏡を覗き込みながら。

『これはちょっと違うわね……』
「まなみさん?」
『今あんたに似合う服探してんの』
「へ、あいがとうございます」
『初デート?』

 真奈美さんの唇を読んで、わたしは少し顔を赤くして頷いた。

『気合い入れていくわよ』

 なにか決意したように頷く真奈美さんの熱意に押されるようにわたしも力強く頷いた。

 それからわたしたちは就寝時間ギリギリまであれやこれやと悩み、結論はデート前日に決めることにした。

【とうとう明日ね】

 食堂で夜ご飯を食べていたら、隣に真奈美さんが座ってきた。バイブでメッセージに気付いたわたしは、真奈美さんの方を見てうんうんと頷いた。

【はい、頑張ってきます】

 わたしのガッツポーズに、真奈美さんは少し笑った。


 そして当日、わたしは真奈美さんに背中を押されて、学校から一番近い駅で一人、集合時間の三十分前に着いていた。

(ちょっと早く来すぎたな……)

 職員さんからお小遣いは貰ってるから、貯めていたそれを今日使うことになる。一応金銭的心配は無い。
 あとは、この服とメイクに満足してもらえるか、どうか。
 真人、わたし眉毛も整えたし涙袋だって作って、アイシャドウも少ししたの。キラキラするのを瞳の上と涙袋の上に着けたの。服を選ぶのだって真奈美さんが本当に真剣に選んでくれたし、わたしもその服を着たわたしをみて、いつもよりは少し可愛いかもしれないって。だから、早く見てほしいな。

 スマートフォンが震える。
 画面を見れば真人からのメッセージだった。慌てて開く。

【右】

(右……?)

 左に向けていた身体を右に向ければ、そこには真人がいた。わたしの身体が面白いほど固くなる。

 カチンコチンになったわたしはそれでも真人に視線を向ける。真人は今どきでありながら、落ち着いたファッションで纏めていた。わたしには名称が分からないけど、似合っていて、素敵な姿なのはわかった。

(やっぱりかっこいいなあ)

 わたしが真人の格好をぼーっと眺めていると、真人が私の顔を覗き込んできた。

『おはよう』
『……!おはよう』

 慌てて手で伝えると、真人も返してくれる。

『待たせた?』
『ううん、わたしが早く来ただけ』
『楽しみにしてくれてたの?』
『うん』

 素直に頷いたわたしに、真人は笑う。

『やっぱり正直者だね』
『……あのね』

 何か言い出そうとするわたしに、真人が首を傾げる。

『今日、お洋服も可愛いの着て、お化粧もちょっとしてみたの。……どう?』

 カバンの肩掛け紐をぎゅっと握る。なんて、言ってくれるんだろう。真奈美さんと選んで、真奈美さんにお化粧もしてくれたんだから、大丈夫なはず。そう言い聞かせる。

 真人が手を動かす。
 初めて人の掌をこんなにも見つめた。

『かわいい、よ』
(!!!!)

『うれしい』

 わたしはあからさまに喜んでしまう。自分でも分かってしまうくらい、声に出して『やったー』と言っていることだろう。いや、言ってる。だって唇が動くのがわかるから。

 すると真人が近づいてきて、なんだろう、と思えば頭に手のひらが乗る。
 え、と思う間もなく、手のひらが頭を撫でる。

 固まっていれば真人は『嫌だった?』と不敵な笑顔で聞いてくる。わたしは黙って顔を赤くして首を横に振った。

『じゃあ行こうか』
『うん』

 改札に向かおうとすれば、そっと手を取られる。ばっ、と音がするほどの勢いで真人を見たけど、真人は普通の顔をしている。わたしは顔から蒸気が出ているんじゃないかと思うほど頬を赤くして改札機を通った。

 身体障害者の手帳を持っていれば、無料で入れる場所は結構ある。わたしは耳が聞こえなくなってから持つようになった。真人も持ってるらしい。真人が連れてきてくれた花畑のあるこの施設もそうだった。

『もうすぐ夏だからね、花も様変わりしてるんじゃないかな』
『そうだね、どんな花が咲いてるんだろう』

 唇と唇で会話をする。手は繋いだまま。ようやく慣れてきた、この感覚に。一度入場券を貰う時、離されてしまった時、もう手は離れたままかもしれないと少し落胆した。でも違った。真人はまた、当たり前のように手を繋いできた。それが嬉しくて、すごく安心した。まるで真人の「すき」が、掌から伝わってくるようだった。

 瀟洒な門を二人でくぐって、わたしは目の前に広がっていく景色に目を輝かせた。

『すごい!』
『すごいねえ』

 顔を見合せて笑い合う。

『牡丹の花が見頃らしいよ』
『へえ! わたし、どれが牡丹の花がわからないかも』
『きっと、紹介してくれてるよ』
『そうだね』

 へへ、と照れ笑いすると、真人は『かわいいね』とまた褒めてくれる。わたしはまた何も言えなくなって、顔を逸らした。真人は笑っているのだろう。振動が繋いだ手から感じられて、わたしは小さく頬をふくらませた。

 それからわたし達は色んな花を見た。ペチュニア、カリブラコア、サルビア、トレニア、バーベナ、薔薇。
 ハナミズキは枝から咲くものらしい。わたしはそんなことも知らなかったから、感嘆の声を上げる。

『漢字で、花水木、って書くんだ。知らなかった』
『花って、綺麗だしよく見かけるけどそれが何の花なのかは分からないよね、路傍にも咲いてるけど』
『そうだね』

 そして最後に牡丹の花を見に行く。
 咲き誇る様々な色は、デザインされたドレスのようで、とても美しかった。

「わあ」

 自分の声が体の中に響く。感動している声。今日は何度も上げた。

『綺麗だね』
『うん! すごく綺麗!』

 はしゃぐわたしに、真人は微笑ましそうだった。柔らかく微笑んでいる真人に、わたしの胸はどうしようもなく苦しくなる。でもそれが嫌じゃなかった。いやな苦しみじゃない。

(なのに応えられない)

 怖い。私は貧乏でも、足りないものが多くても、母といられるなら何でも良かった。でもそれも取り上げられてしまった。返して欲しい。帰ってこない。またそうなったらどうしよう。

『円香?』

 とんとん、肩を叩かれてはっとする。わたしは慌てて笑顔を作った。

『綺麗だね、持って帰りたいくらい』

 冗談っぽく言えば、真人は少し考えるような顔をしたあと、『持って帰れるかも』と言った。わたしは首を傾げる。

『ついてきて』
『うん』

 花園から離れて、キッチンカーのあるエリアに出れば、そこには大きな花屋さんがあった。街では見かけない、本当に大きな花屋さんだった。

「すごい」
『そうだね、調べてきたかいがあった』
『調べてきてくれたの?』
『うん、楽しんで欲しくて』

 わたしは自然と笑顔になる。ここに来て何度笑っただろう。真人はわたしを笑顔にさせる天才だなと思った。
 色んな花があるなかで、わたしはカラフルな牡丹の花に近寄る。

『持って帰るって、買っていくってこと?』
『そう、僕にプレゼントさせてくれない?』
『えっ?』

 いいの?
 真人の顔を伺えば、もちろん、と笑顔を浮かべてくれる。

『じゃあ、この牡丹の花を一輪ずつ』
『わかった』

 そう言って、真人は店員さんにスマートフォンを向ける。店員さんはすぐ察したようにこちらに近づいてきた。
 指をさして、この花とこの花と、と伝えれば店員さんはその通りに花を摘んでくれた。
 そして綺麗に包装されて、真人が受け取る。
 店を出て、すぐに、真人はわたしに花を手渡した。

『どうぞ』
『ありがとう、ほんとにいいの?』
『うん、少しでも思い出に残って欲しくて。あっちの雑貨屋さんに花瓶も売ってるみたいだから、見てみる?』
『そんなことまで調べてくれたの?』

 驚いてしまったわたしに、真人はその日初めて照れくさそうに笑った。

『初めて好きになった子とのデートだから、失敗したくなくて』
『あ、ありがとう……』

 顔を赤くするわたしに、真人は『喜んでくれたようでよかった』と笑う。
 それから雑貨屋さんに寄って、お昼ご飯を食べて、お喋りをして、帰り道、一日中繋いでいた手は、離れてしまうことを嫌がっているようだった。

『ねえ』
『うん?』
『どうして、わたしのこと誘ってくれたの?』
『純粋に、君とどこかへ行ってみたかったんだ。君の心に近づきたいって言っでしょ? だから、まずは君に僕を知ってもらうことも大事かなって』
『そっか、誘って貰えてすごく嬉しかったよ。すごく楽しかった』

 お互い顔を見合せて、笑い合う。
 

『じゃあ』
『うん、気をつけて帰ってね』

 真人の背を見送って、わたしは駅のホームに向かう。
 こんなに幸せをくれる人に、わたしは何ができるだろう。繋いだ手は、ずっとあったかかった。
 夜にずっと悩んで、わたしは決心した。真人はわたしを大切にしてくれた。ならわたしも、真人を大切にしたかった。わたしが過去を話して、真人との未来を考えることが、一番、誠実な事なんじゃないだろうか。
 牡丹の花がわたしをみている。
 心の飴玉は、いつか無くなってしまう。きっとそれは、真人の心からも。
 もうひとつ、もうふたつ、いくらでも、あげられるものなら。
 私は眠りについた。明日のために。


『そっか、それは真人と話してきな』
『うん、わたしもそれがいいと思う』

 あれから少しして雪乃と穂波にかいつまんでことを話せば、やはり真奈美さんと同じような意見を言った。

『というか、そんなに辛かったのに、よく明るく頑張ってここで生活してたね。円香は偉いよ。幸せになって欲しい、私はそう思う』
『真人もわかってくれると思うよ、二人で幸せがなんなのか、手探りで探してもいいんじゃないかな?』
『うん、ありがとう』

 二人の気持ちを受け取って、私は時計を見ると、まだ時間はあるな、と図書室に向かった。

 明かりのついた図書室に着くと、わたしはそっと足を踏み入れた。
 真人はカウンターの中で本を読んでいた。
 私はそれに近づいて、目の前に立つ。
 真人は少しの間気づかなかったけど、わたしの見つめる視線に気づくと、固まった。
 私は手を見せる。

『今日の放課後、空いてる?』

 真人は机に本を伏せる。いつもと違う雰囲気。真人はなにか察したように頷いた。

『空いてるよ』
『わたしの話、聞いてくれる?』
『いいよ』
『楽しい話じゃない』
『それでも構わない』

 君が話そうとしてくれることなら、なんでも聞くよ。

 涙が出そうになって、ぐっと堪える。今泣いてる場合じゃない。わたしはありがとう、とお礼を言うと、図書室を去った。


 放課後のことばかり考えながら授業を受けて、ノートとペンを閉まって、帰りの用意をする。雪乃と穂波に手を振って、わたしは、真人のいない席を見た。

『図書室で、待ってる』

 先にそれだけ言って、図書室に行ってしまった。
 私は荷物を背負うと、図書室にまで歩き出した。

 階段を上がって、右の扉。
 図書室と引き戸を開けて、カウンターに向かう。
 来訪者を知らせるライトが光る。
 真人は微笑んだ。

『カウンターの中、入っておいでよ』
『いいの?』
『いいよ』

 わたしはカウンターの中に入るのを防ぐための木の板を上に開いて、中に入った。

『ようこそ』

 両手を広げる真人に、わたしはクスクスと笑った。
 すこし、緊張していた空気がほぐれたような気がした。

『今日の数学難しかったね』
『そう? 僕古文の方が苦手かな』
『うそ、真人一通り得意だと思ってた』
『そんなことないよ、あ、この前円香が読んでた本、僕も読んだけど面白かったよ。ラストがすごく切なかったけど』
『読んでくれたの?! そうなの、ラストは辛いけど、最後は主人公なりの幸せと答えを得るんだよね』

 わたしと真人は駄弁って、駄弁って、会話のネタがなくなって、お互い黙る時間ができるようになってから、よくやく、忘れかけていた本題を思い出させてくれた。

『で、話ってなに?』
『……』
『いつでもいいよ、話し始めたかったら言って。そうじゃないなら、また今度にしよう。いつでもいいんだよ』
『……ううん、今日する』

 スカートの上のプリーツ生地を握りしめる。手汗が出てきて仕方ない。
 するとふと現れた手のひらがわたしの手のひらを包んだ。

『ゆっくり、ゆっくりね』

 真人は優しく微笑んでくれた。私の手のひらの甲を親指で撫でる。
 わたしは大きく息を吸って、吐いた。手のひらを言葉で象る。

『……わたし、お母さんが半年前くらいかな、に亡くなって、今児童養護施設で暮らしてるの。結構楽しいよ、だからそれは大丈夫』

 親切なお姉さんもいるし。
 真人が頷く。

『わたしの家はお父さんが夭折してて、頼れる親戚もいなくて、お母さん朝も昼も夜も働いてたの。夜も遅くに帰ってきて、でもお母さんに会いたいからって、夜更かしする日もあったりした』

 玄関口で三角座りをして母を待つ時間は寂しいけどドキドキもして、もしかしたら早く帰って来るかもと淡い希望を持っていたりして。そして朝起きれば、母の姿はなくても、私の身体はお布団の中に入れられていた。おにぎりとお味噌汁の朝食に、わたしは毎朝母の愛を感じた。

『お母さんとは、……十年くらいかな、二人暮しだった。別に裕福だったわけじゃないけど、幸せだったよ。テスト用紙机に置いて寝たら、お母さんがすごい! ってメッセージ書いてくれるの。……それが嬉しくて、小さい頃はよく百点とったな』
『うん』
『お母さんは、すごく無理してたんだと思う。いつも朝早く行って、夜帰ってきて、ご飯なんていつ食べてたんだろうって。……そんな生活してたら、身体壊してもおかしくないよね。だからわたし役に立ちたくて、家の掃除も、洗濯も、料理も、自分でやるようになった。お風呂掃除もね。お母さんはわたしの下手くそな卵焼きも美味しいよ、ってメモを残してくれた。嬉しくて、何回も練習してるうちにそこそこの腕前になったの。……すごいでしょ?』

 私がおどけて笑ってみせれば、真人も柔らかく微笑んでくれた。それが嬉しくて、でも母との思い出を振り返るのは辛くて、痛いほどの幸せを感じさせてくれる。

『……それでね、去年のことなんだけど、春頃、とうとうお母さんが倒れちゃって。職場の人が救急車呼んでくれたみたいなの。じゃあ、もう、……末期の癌です、って。初期症状がない癌だったんだって。お母さんの横に座って、久しぶりにお母さんの顔みたら、すごい痩せてた。どうしてわたし、気づかなかったんだろうって』
『うん』

 真人は優しく首を縦に振る。私のぐちゃぐちゃの手の動きから、話したいことを拾ってくれる。

『それから病院と学校と家の往復になって、ある夜、いつだったかな、春も終わりの頃くらいだと思う。わたし、突発性難聴になったの。突然聞こえないな、と思ったんだけど、病院にいくお金が欲しいなんて、言えなくて、放置してた。でもそれがビックリなことに、先生にバレちゃって。お母さんの看病で大変なのもあるけど、それだけじゃないよね? って』

 すごいよね、学校の先生って。
 小さく笑えば、真人も笑い返してくれる。幸せな事だと思った。
 私の頑なだった胸の内は、少しづつ、大きな氷が解けるように、ほどけていった。

『突発性難聴は後遺症があっても難聴になるくらいで、完全に聞こえなくなるとか、そんなんじゃないよってお医者さんは言ってくれた。わたしもそうなんだ〜、って。でもわたしの音はどんどん小さくなっていく一方だった』

 先生たちがおかしい、と眉を顰めるのを、わたしはただ見ているだけだった。

『ああ、これが天罰ってやつなのかも、って思ったの。……お母さんに無理をさせ続けてた。でもそれならわたしにだけにしてくれたらいいのに。お母さんは何も悪くないのにね。でも、笑っちゃう、結局耳が聞こえなくなったら働き口もないもん。……どちらにせよお荷物だよね』

 自嘲ばかりが浮かぶ。下手くそな笑いを浮かべて、でも真人のことは見れなかった。俯いてしまう。耳の聞こえない人をお荷物だなんて言うわたしは最低だけど、これが世間の純粋な意見だろうなと思っていたから。

『それで、それで……。お母さんが亡くなる前に、私はいつもお母さんと会う時は補聴器を外して、唇の形と微かな音から言葉を探してたの。でもそれがバレて。「耳、聞こえなくなっちゃったの?」って。もしかしたら先生か誰が伝えてたのかな。わたし頷いたよ。じゃあお母さん、そっか。って。……泣いてなかった。でも、泣きそうな顔はしてた』

 ごめんねと言われて、何を返せばいいのか分からなかった。わたしに謝ることなんかない、わたしこそ謝らないといけないと思っていた。でも謝れなかった。わたしが謝罪すれば、母は悲しむだろう。母に謝り返されるなんて、死んでも嫌だった。母は何も悪くなかった。これまで一度だって、母のせいで不幸になったことなんてなかった。

『お母さんはその年で亡くなっちゃった。お葬式もできなかった。私の耳も少ししたら、ほんとに聞こえなくなった、全部が雑音って言うか、はっきりした音がないの』

 言いたいことわかるでしょう? と首を傾げれば、真人は首を縦に振った。

『でも補聴器があって初めて、僕は音を聞いたから、円香の本当の苦しみは分からないね』
『いいの、わからなくて』

 こんな気持ちを真人に味わって欲しいとは思わなかった。私は最後、結論を言おうとした。

『怖いの』
『うん』
『幸せはいつか壊れてしまう。幸せだったかも分からない、お母さんはわたしを養うために死んでしまった。何のためにあれだけ働いてたの? わたしだって、お母さんのこと幸せにしたかった。将来いい職について、今までお疲れ様って。ずっとそばにいて欲しかった』

 ううん。

『そばにいなくてもいいの。生きてさえいてくれれば』

 でもそれも叶わなかった。わたしは一人になり、これからも独りなような気がした。誰といても。
 そして、今気づいた。
 そうだ、わたしは母に生きていて欲しかった。わたしの傍に居なくていい、たまにわたしのことを、思い出してくれたらいいから。わたしのこと、施設に預けたって全然良かったから。
 でも、わたしはあの母の命が削られていく音のする中で、紡がれていた生活が大好きだった。一人で玄関で眠って、母の腕に抱かれて布団に戻っていく。綺麗な形のおにぎりを食べて、おふときざみ揚げのたくさん入ったお味噌汁を飲むのが好きだった。

『幸せが、怖いの』

 涙が出そうだった。もう、ずっとそう。でも泣けなかった。わたしの頭の中はぼんやりしていた。母の口から「あんたさえ生まれて来なければ」とか、なにか、わたしを否定するような暴言が投げつけられていたら、反抗もできたけど、母は最後までわたしに優しく、死んでいった。

 真人は黙って、手のひらをどう動かそうか迷っているみたいだった。言葉を選んでいる。
 そしてゆっくりと、紡いでいく。

『君が、お母さんに不幸ばかり撒き散らしていたという認識は、……僕は違うと思うな。たしかに君はお父さんとお母さんから愛されて生まれて、お父さんが若くして亡くなって……、お家が大変なことになったのは辛いことだよ。そして君を養うため東西奔走することになったお母さんも大変だったと思う。でも、君をお荷物だなんて思って育ててたわけじゃない。君といたかったんだよ、……どれだけ辛くてもね。君と一緒にいたかったんだ。愛してるから。お母さんも君と一緒だったんだよ、君はお母さんの笑顔を見るのが好きだった、お母さんは君の笑顔を見るのが好きだったんだ。……愛しているから。それだけで頑張ろうと思えたんだよ。君がお母さんの微笑みひとつで努力できたようにね』

 わたしの手は震えて、うまく言葉を紡げない。
 いつの間にか流れた涙が止まらなかった。

『施設に入れたらいいとか、……思ってしまうことはあると思う。君はお母さんが大好きだもんね。でもね、それはお母さんにだって言えるんだよ。君と居たかったんだ。施設に入所したら、……もっと規則正しくて、ご飯に困らない、お金に困らない、何かあったらすぐ誰かが聞いてくれる、病院に連れてってくれる。……一人ぼっちだけど、もっと安全で、安心な暮らしを娘に提供することが出来る。でも君のお母さんはそうしなかった。朝も夜も働いて、クタクタで疲れていても、……君が玄関で自分を待って眠ってしまっている娘の姿に、手放しがたさを感じていたんだよ。それがこの子の幸せにはならないかもしれないとわかっていても』

 滲んだ視界で、真人の言葉を読む。
 母に不幸にされたとは一度も思ったことがなかった。でも真人に言われて気づいた。母も私を不幸にしていると思っていたのだろうか。
 おにぎりを握っている時、お味噌汁を作っている時、娘にこんな生活を続けさせなくてもいい場所に連れていった方がいいと思ったのだろうか。悩んでいたのだろうか。
 もしそう悩んでいたなら、生きてるうちに言えばよかった。もっと言えばよかった、もっと大好きだと。あなたといること以上に幸せなことなどなかったのだと。
 そして、聞けばよかった。わたしがいて幸せ?と。ならきっと、頷いてくれたのだろうに。
 もっと話す時間が欲しかった。もっと抱きしめあえる時間が欲しかった。それだけで、お金なんてなくても幸せだった。でもお金なんて紙と硬貨にわたしたちは振り回されていたのだ。それがこの世だった。

『僕は、こう思ったよ。君は、どう?』
『わたしがいてもよかったの?』
『そうだよ、君のお母さんの幸せは、君がいたから成り立ってたんだ。きっとね』

 手のひらで乱暴に拭っていた涙を、真人が拭ってくれる。

『幸せは怖い。この世にあるものはみんな儚いよ。でもその上じゃないと、幸せは成立しない』

 幸せだけの世界は成立しないんだ。
 真人の言うことは本当だ。不幸があるから幸せがある、幸せがあるから不幸がある。

『幸せな時は笑いあって、不幸な時は離れないように
手を繋ごうよ。僕の手を取って、君がこの世界にいる限り、離さないでいるから』

 私の涙を拭っていた手のひらが、わたしの手を取る。

『頷いて、きっと幸せにするよ』
『……うん』

 頷いて見せれば、君は笑ってくれた。それだけで、胸が温かくなる。
 お母さん、わたし、お母さんのこと忘れないよ。ずっと大好きだよ。愛してる。またもし会えたら、どれだけ幸せだったか、教えるね。そして、今言いたいことは。
 私を産んでくれて、ありがとう。




『円香』
『なあに?』
『デートに行かない?』

 秋になって、真人と恋人になって少し経った。
 わたしは真人の提案に驚いて、でもそういうものかと納得する。そしてちょっと顔が赤くなる。恋人っぽいことをするのが、少し恥ずかしくて、嬉しい。

『慣れないね』
『うぅ』
『可愛いね』
『……そうでしょ?』

 開き直ってふん、と顔をあげれば、真人は笑った。

『可愛いね』
『でしょ?』
『どこに行きたい?』
『……もしかしたら嫌かも』

 首を傾げる真人に、恐る恐る、表情を確かめながら手を動かす。

『お母さんの、お墓参り……』

 真人は驚いたようだった。目を見開く。
 流石に早すぎたかも、後悔したわたしに、真人はくったく無く笑う。

『僕を紹介してくれるってこと?』

 ううう、と唸ればなんだか察されたらしい。真人は楽しそうだった。

『行こうよ』
『ほんとにいいの?』
『いいよ、まずはお花屋さんに行かないとね』
『……うん』

 ようやく笑ったわたしに、君は同じように笑ってくる。

 お母さん、素敵な彼氏を紹介するね。わたしと同じで耳が聞こえないけど、読書が好きで、とても賢い人なの。それに、とても優しい。お母さんも好きになるよ、きっと。

 待っていてね。