幼い記憶の中の綺麗な高級住宅街は頭の中で綺麗に補正され美化されていった。
車で20分ほどのところにあるその場所は遠いわけでもなく、行こうと思えばすぐに行ける所にある。
しばらく離婚をしてからも定期的に会っていたお母さんはある日を境に家に連れて行ってくれなくなった。大きくなって段々とその理由が分かってきた。
昔の記憶は人並み以上にあるようで階段を降りた先に広がる池とそれを真っ二つに割るように架かる橋をいつまでも覚えていた。
記憶の中に存在し続けていた場所に向けてガソリンを消費していく。
団地の入口の信号を左折し、整備された並木道に入っていく。
公民館のような場所に車をとめ、池の方へ向かった。1歩ずつ足を進める度に呼吸が荒く、浅くなっていった。
脳内に再構成された部分と散らばった記憶の断片でできた場所と水晶体を通して脳に送られる現実が重なっていく。
実際その場所は、過去の記憶補正を遥かに超えるほど綺麗な場所だった。水面を見つめ、街灯の光の反射を目に焼き付ける。あまりにも現実離れしていたこの空間はもしかしたら夢の世界なのではないかと錯覚してしまうくらいに足元を中心に広がっていた。
懐かしさと緊張で目眩がしそうだった。少し油断すれば反時計回りに視界が狂ってしまいそうな感覚。
そのあまりに美しい景色を見てはっきりと思い出した。どうして水を好きになったか。それはこの場所が大好きだったからだ。
1人で来ようと決めていたのに、隣には一緒に歩いてくれる人がいる。けれどもし1人で来ていたら、きっと心が壊れてしまっていたかもしれない。幻の引力に引っ張られ、夢に閉じ込められずに辛うじて現実に留まれたのは水琴のおかげだったのだろうか。
進んでは足を止める。1歩ずつ確かに地面に足をつけて。
池に架かった橋に右足を踏み入れる。道しるべのように等間隔に配置された街灯を1つずつ目の横に見送っていく。三途の川を渡るようにこの橋を渡ることに何か深い意味があるかのように感じられた。石が敷き詰められた地面に靴の踵がぶつかり合う音がする。この音は今、この場所の一部になれているのだろうか。いやこの空間の一部になりたかった。死ぬ時はここがいいなと無意識に考えてしまうほどに。
心臓が痛い。気を抜けば苦しくなって息ができなくなってしまう。浅い呼吸が続き、手が震えていることに気が付いたのは橋を渡り切る寸前の事だった。


氷のように冷えきった左手に温かさを感じた。その温かさみをくれたのは大切な人だった。