太陽が昇り、世界が真っ赤に染まり上がる頃。ある一人の少年が、震える片手にナイフを強く握りしめ、華奢な両肩からは想像もできないほどの重大な決心をした。
それは後に、『宗家荘殺人事件』と呼ばれ、日本全土に恐怖の糾弾を生むことになる。
小さな肩を上下に大きく揺らしながら、今にも窒息死してしまいそうなくらいに息を乱している。ちゃんと食べているか。そう問いたくなるほど、その少年は栄養のない牛蒡のように、醜い姿をしていた。
1
「やっほー、少年」
どこからか声がした。だけど、それに反応を示す余力はもう残っていなかった。
体が鉛のように重い。どうにかなってしまいそうなほどに重くて、苦しくて、吐き気がする。
「………」
「あれー? どした、そこにいるんだろ?」
少し甲高い声の女が、ある一角に佇む公園の、トンネル状のアスレチックを覗き込む。真っ赤なハイヒールの靴先が見えて、ぼくはこの姿を見られないように、さらに奥へとお尻を引きずる。それでも女は諦めてくれないようだ。
ぼくは少し、いやかなり、うんざりした。
「……帰ってください。僕のことなんかに構わず、早くあなたのおうちに帰ってください」
きっとあなたには、あなたを待ってくれているひとがいるんでしょう。あなたという存在を、とても大切に、割れ物のように繊細に、陽だまりのような温かい優しさで、愛してくれるひとがいるんでしょう。
だって、そんなの訊かなくたってすぐに分かる。その人の声を聴いただけで、ぼくはその人がどれだけ幸せな生活を送れているか、どれくらい愛されているかが分かる。
それは、ちょっと、いやかなり、残酷な能力だった。
「んー、そうはいかねえんだよなあ。あんたが大人しく家に帰ってくれないと、あたしだって『おうち』には帰れねえんだ」
「……どうして?」
あなたの人生に、ぼくは何の影響も害も与えていないというのに。それなのに、一体どうしてそんなことを言うの……?
少し離れた所で息を吐く気配がした。それからすぐに、女が口を開いたのが分かった。
「───だってあたし、これでも一応警官だからさー」
──ビクリ。肩が情けないくらい大きく震えた。
心臓がバクバクと鼓動し始める。体中のすべての穴から、ぶわっと大量の汗が噴き出てくる。僕はこれ以上ないほどに動揺していた。こんなに混乱して、不安な気持ちでいっぱいで、焦って、息ができなくて苦しくて、目の前が見えなくなったのは、これが初めてのこと。
だから僕は、こうなってしまった時の対処法が分からない。
「……少年?」
女の訝しげな声が少し離れた所から聞こえてくる。僕は体を限界にまで縮こまらせた。
「そんなに警戒しなくていいから。あたし、何もしないよ」
「……、」
「……それとも、何か警戒する理由でもあるのかな?」
急に女の声がワントーン低くなった。
ぼくの冷や汗は止まらない。体の震えも酷さを増している。
どうしよう、どうするべきか。
こんなにも慌てるなんて、ぼくらしくない。
今まではどんな時だって冷静に事を成し遂げてきたのに。自分の欲望の向かうままに、勝手気ままに何でもできたのに。
……っ、こんなところで、あっけなくこいつに捕まるのか?
必死で逃げ道を探そうと辺りを見回す。まだ希望は残されている。
「……っ、!」
その時、ぼくは見つけた。
小さな子供一人が通れそうな、壊れた隙間を。
「しょうねーん、早く出てきなよ。そうじゃないとお姉さん、ちょっと怖いことしちゃうよ」
脅すような声がアスレチックの外から聞こえる。
隙間から外に抜け出す前、ぼくは最後に女の赤いハイヒールを見た。
2
「白川、これを見てみろ」
先輩の増田さんに続いてかがみ込む。
そこには、片目が取れたクマのキーホルダーが落ちていた。
「うわ、汚な」
「おい、死体に向かってそんな口叩くな。もし呪われでもしたらどうすんだよ」
増田さんは慌ててあたしを見た。
「違いますよ。今のはクマに向かって言ったんです。だってほら、血だらけじゃないですか」
あたしは弁解しようと床に落ちていたクマを指さした。
「あ、ああ、なんだ。そうだったのか」
増田さんは冷や汗を垂らしながら引きつった笑顔を浮かべた。
……ほんと、これがベテラン警官だなんて信じらんないんだけど。
ビビりな増田さんとバディを組んで仕事をする身としては、そのビビり癖を今すぐに克服して欲しいと思う。