紗希に礼を言い、カウンターで会計を済まして足早に自宅へ向かった。今日は青がどこまでも続く天気だったが、それ以上に、風の流れ、人の話し声、電車の音、クラクションの音さえも、すべてが色として認識できた。それぞれが輪郭さえも帯びて見える。世界はこんなにも色づいていたんだ。真新しい気持ちを手に入れたようで、僕は心底うれしかった。この気持ちをキャンバスにぶつけたかった。
 部屋に戻ると外の賑わいとは対照的に、静寂でどこかひんやりとした空気が流れていた。六畳一間の部屋が、なぜか荘厳にさえ感じられた。僕は早速筆をとりキャンバスに向かった。
 キャンバスは主人を待っていたかのように、静かに佇んでいた。
 筆を持ち、キャンバスの前に立つ。
 秘めたる想いほど強いように、内から外へ何かが殻を破って溢れ出してきた。
 零れだした涙は、今までにないきらめきを伴っている。それをパレットに乗せ、かき混ぜてみると、見たこともないような色彩が溢れ出した。こんな色は今までの涙絵では見たことない。思うままに筆を動かす。それは迷いも淀みもなく、筆を払うその瞬間までが、一つの大きな流れの中にある感覚。絶え間ない時間の流れ、移り変わる時代にも似た誰も干渉できない絶対的な流れ。
 時間が経つのも忘れ、気が付くと、針が零時を回るころだった。涙絵は完成した。黒を基調とした漆黒の中に、何億光年先まで届く光が散らばっていた。僕は絵を見つめながら様々な思いを巡らせた。紗希の言葉は、その中でも強く響いていた。自分と向き合う。それは、自分の内側に深く深く沈んで、耳を澄ますことだ。そうすると声が聞こえてくる。自分の深い部分と対話する。それが向き合うことではないかと思い始めた。
 突然、疲れが波のように押し寄せ、指先の感覚もあやふやになった。
 ベッドに横たわると、瞬く間に闇が僕を包み込んだ。僕は抗うこともなく、そっと、その闇に身を委ねた。
 出来上がった絵は、誰よりも紗希に見せたかった。だが、その願いは届くはずもない。決して破ってはいけない母との約束があるから。