部屋を訪れた紗希は、あれだけ散らかっていた部屋が閑散としていることに驚いた。
 部屋の奥には、シーツが掛かったキャンバスがひっそりと置いてある。神々しささえ放っている。
 恐る恐る近づいて手を伸ばそうとしたが、一瞬、戸惑う。これを捲ればすべてが終わる気がする。いや、何かが始まるのだろうか。様々な想いが巡っては駆け抜けていく。
 紗希は悠馬との日々を思い返していた。恋ではないが、大切でかけがえのない存在だ。
 幸せとは、ささやかな日常の積み重ねだ。
 当たり前に色味がついたのが幸せだ。
 そんなことを思い巡らせ、紗希はキャンバスを見つめ直した。
 何度もシーツに手をかけては元に戻す。逡巡を繰り返し、覚悟を決めた。
 たとえ後悔しても、悠馬と向き合う。自分が悠馬に伝えた言葉が、自分に帰ってきた。
 意を決してシーツを捲る。そこには見たこともない表情の自分がいた。自分の知らない自分。彼だけが知っている自分。
 柔らかな陽光に照らされた聖母のような微笑みを浮かべた自分がいる。
 これが悠馬の出した答えなのだ。ありのままを受け止めなければいけない。そんな想いが満ちてくる。
 どれほどの時間、部屋に立ち尽くしていただろう。長いトンネルで、出口を見つけて光が少しずつ大きくなっていくように、朝陽が東の空から昇り始めた。
 世界の動きは誰も止められない。世界はささやかな幸せが折り重なり、今日も回り続けている。
 紗希は止まっていた玩具が突然動き出すように、ビクリとして窓の外を見た。
 朝陽はすべてのものに降り注ぐ。同時に深い闇も生む。そんなことをふと思い、キャンバスをもう一度見つめ直した。
 紗希は迷いなく手を差し伸べた。
 キャンバスを手に取ると、部屋の中に、一筋の風が吹き抜けた。
 ふと、キャンバスが濡れていることに気付く。頬に手を当てると涙が零れていた。涙を拭ってスマートフォンを手に取り、悠馬に電話を掛ける。電話は繋がらない。
 紗希の心は穏やかだった。これが悠馬の出した答えなのだ。
 電話を握り締めたまま何かを悟ったように、紗希は窓の外を見上げた。
 外の世界は今までとは違う色彩で溢れていた。
 
 
 悠馬が母から聞いた話がもう一つ。
 涙絵は『二つの涙が重なり、初めて完成する』と――。