母の話を聞き終えると、僕は一息ついた。
 母は話し終えると、生温くなったコーヒーを乾いた口に運んだ。
 外の世界は、激しい雨が世界の輪郭をぼやかしていた。
 僕は言葉が出なかった。父の死の理由はこういうことだったのか。涙絵で、最も想いを伝えたい人を描く。僕はすぐに紗希のことを思い浮かべた。
「あなた、いま、絵を描きたくて描きたくてしょうがないでしょう?」
 母は僕の思いを見透かしたように言った。
 僕は、
「うん」
 と強い口調で答えた。
「わかるわ。あなた変わったもの。とても、優しくなった」
「そうかな……父さんのこと話してくれてありがとう」
「いいのよ。あなたには、やっぱり知っておいてほしかったから」
 母は俯きながら微笑んだような気がした。
「僕は紗希を描きたいと思ってる」
「そうね。そう言うと思ったわ。母さんは何も言わない。あなたが一番描きたいと思ったものを描きなさい。それが逆らえない宿命なの」
 僕のじっと見つめる母と紗希が重なった。
 母が用意してくれたコーヒーを飲み干し、僕は帰路についた。
 母があれだけ拒んでいたのに話してくれた意味。母は気付いていたのだ。僕を変えてくれた人がいることに。抗えない流れに僕が乗ってしまったことに。
 父はどれほどの想いで、母を描いたのだろうか。
 何かを犠牲にしないと、願いは叶わないのだろうか。
 命を賭してまで絵を描くということはどれほどの覚悟が必要だろうか。
 父は安住の生活を捨てた。それでも、元の世界のしきたりを守った。流れている血潮はどこにいても変わらないものなのだ。
 僕は、やはり父の子だ。
 面と向かって、死と向き合ったことなど一度もない。父はどんな風に亡くなっていったのだろう。誰も知らない森の中で、静かに息を引き取ったのだろうか。それとも、深い海に身を沈めたのだろうか。僕には想像出来なかった。
 僕は、紗希に会うべきなのだろうか。
 時間だけが、ただ、過ぎていった。