二人が出会ったのは二十五年前。
 僕と紗希のように、同じ大学で知り合った。寡黙な父から母に声を掛けられるわけもなく、真剣な眼差しでキャンバスに向かう父に、母から声を掛けたそうだ。
 二人が恋に落ちるのに時間は必要ではなかった。
 あらかじめ、そうなることが決まっていたかのように、二人は強く惹かれあい激しく愛し合った。
 そんな生活が二年ほど、穏やかに緩やかに続いた。二人は幸せだった。
 それぞれの特色は違っても、どちらかが躓けば、片方が手を差し伸べて歩き出すまで待っている。
 そんな関係だった。
 あるとき、母はある真実を知らされることになる。
 その真実は、想像も出来ないほどのことだった。
 普段は寡黙な父が、自分から母に語り出した。
 父はある種族の生き残りだという。外見は人間と全く変わらないが、ある特殊な能力を備えている。
 それが、涙で絵を描くこと。
 代々、その種族のみで継承される、唯一無二の能力。
 その種族は、本来深い渓谷に住んでいる。小さな集落をいつくか持ち、季節ごとに渓谷から渓谷へ移動して暮らしている。大半が温厚な性格で、絵を描きながら慎ましい生活を送っている。日々の争いから遠ざかり、優しさとぬくもりだけで世界が作られているような、そんな理想の世界。
 そんな世界の中で、父は人一倍、人に伝えたい気持ちが強かった。芸術とは、人に評価されて初めて価値を持つものでもあるからだろうか。
 父はその世界を出る決意をする。もっと、自分の目で外の世界を描いてみたくなったのだ。その衝動は、表現者として抑えられるわけもなく、ある決断をするまでに至る。外に出ることは、破門されることと同じ。もう二度と、その中に戻れない。父はそれを覚悟で、外の世界に出ていった。そこで母と出会った。
 母はそんな父を受け入れ、深く愛した。母の大らかな性格は、決して人を肩書や結果で判断するものではなかった。父もそれを感じて母に心を許した。
 二人で暮らし始めて間もなく、二人は結婚を決意する。どちらも学生だったので、簡単なことではなかった。母の両親からは、ひどく反対された。でも、二人の決意の前には、どんな人間も折れざるを得なかった。
 母の両親は、
「仲良くやるのよ」
 とだけ言って、最後は送り出してくれた。
 二人は大学を辞め、父は絵を描き続けて、母は外に仕事に出た。
 生活は楽ではなかった。それでも良かった。ただ、大切な人が隣にいる。そのことが流されそうな日々さえも忘れさせてくれた。
 そんな日々の中、自然な流れで僕が生まれた。
 母は一層、仕事に励み、父は変わらずに、絵を描き続けた。
 ある日、父が一枚の絵を見せたいと母に言った。母はもちろん頷き、家事の手を休め、シーツの掛けられたキャンバスの前に立った。
 父がシーツを捲ると、母の肖像画が描かれていた。それはまるで、キャンバスの中で母が息づいているようだった。母の意志の強さ、大らかさ、父への愛、すべてがその絵では表現されていた。
 母が涙に気付いたのは、父に指摘されてからだった。
 父は、
「これが涙絵だよ」
 とだけ言って母にキャンバスを渡し、静かに家を出て行った。
 母は感覚的に、これが最後のメッセージだと気付いた。