──ふと、目が覚めた。
 ぼんやりとした意識のまま枕元に置いてあった時計を見ると、今は朝の五時を過ぎたところ。目覚ましは六時にセットしているため、まだ数十分は寝ることができる。
 布団を被りなおし二度寝に入ろうと目を瞑るも、眠気はやってこない。このまま布団に包まれていればいつかは眠れるかもしれないが、眠ってすぐに目覚ましで起こされることになりそうだ。
 (こと)は小さく息を吐き出すと起き上がり、時計の目覚ましをオフにした。今日が休日であれば、迷わずに二度寝をしていただろう。
 両腕を天井に向けて上げると、ぐっと身体を伸ばす。数秒後、ふう、と小さく息を吐き出しながら、だらりと腕を下ろした。

「……今日は、いつもより早めに出てみようかな」

 ゆっくり準備をしても、いつもより一本早い電車に乗ることができる。準備を終えてから好きなことをして時間を潰すことも考えたが、せっかく早起きをしたのだ。わざわざ時間を潰して、いつもと同じ時間に出るのは勿体ない。

(本当は、こんな早い時間に学校なんて行きたくないけど。今日は、なんとなくね)

 そう、ただなんとなく、そう思っただけだ。
 その選択が、琴の世界を変える出会いに繋がることを知らずに。


 * * *


 まだ夏本番ではないというのに、暑い日が続く毎日。朝ですらじんわりと汗をかくときもあるのだが、今日はひんやりとしていて涼しい。校則上、今の時期は合服なのだが、それでも少し肌寒く感じるほどだ。
 改札に着くとICカードを当て、琴はホームへ続く階段を上る。隣にエスカレーターがあるが、今日はこの寒さを紛らわせるために敢えて階段にした。
 普段は使わない階段に若干の足の重さを感じるも、身体があたたまっていくのがわかる。ホームに着く頃には、肩で軽く息をするほどにはなっていた。
 それにしても、と琴は呼吸を整えながら辺りを見渡す。

(たった一本違うだけなのに、人の数が少ない)

 琴がいつも乗る時間の電車は、通勤と通学のラッシュの時間帯。その時間帯でもラッシュのど真ん中ではないが、席に座ることができないほど利用者が多い。
 それが、一本早くするだけで人の数がめっきり少なくなった。これなら席に座れるかもしれないと、琴は前から二両目の車両が停車する場所で初めて一番目に並ぶ。
 毎日、この二両目の車両に乗っている。理由は簡単、学校の最寄り駅の出口が近いからだ。
 鞄から英単語帳を取り出して眺めていると、カンカン、と踏切が鳴り始めた。ちらりと右を見ると、電車がこちらに向かってやってきている姿が見える。
 スピードを落としながらやってくる電車。勢いのある風が琴の制服のスカートを、黒い髪の毛をなびかせる。

(見ている感じ、座れそう)

 よかった、と電車が停車したのと同時に英単語帳を閉じて扉の横へ立つ。この電車を降りる人の邪魔にならないようにするためだ。
 プシュ、と音を立てて開かれた扉。数人が降り、入れ替わるかのように琴は電車に乗った。
 空席は結構ある。できれば、扉に近い端の席に座りたい。何気なく視線を動かしていると──ふと、雪のように白い男性が目に入った。
 髪も、肌も。透き通るほど白い。周りが黒や茶色で埋め尽くされているからか、その白さが際立っている。怪しまれるとわかっていても、その男性から目が離せない。
 なんて、なんて綺麗なのだろうか。美しい雪景色を眺めているかのような、そんな錯覚に襲われる。
 扉が閉まる音でようやく我に返り、琴は慌てて空いていた近くの席へと座った。そこは、探していた端の席ではなく、人と人の間の席。
 席のことよりも、男性のことで頭がいっぱいだった。鞄を抱え込むようにして持ち、英単語帳を開く。顔を俯けて勉強しているように見せかけ、ちらりと髪の隙間から男性の様子を窺った。
 男性が座っている席は、琴からは少し遠い。それでも、彼の美しい白さはしっかりとわかる。
 この時期にはあまり見ない冬用のベージュ色のカーディガンを身に着けてはいるが、袖から見える手、隠れていない顔、首筋。肌という肌が眩しいほど白い。
 そして、髪。よく見ると眉毛や睫も白く、染めているのではなく地毛のようだ。男性の後ろにある窓にカーテンが下ろされていなければ、日が差し込んでそれらはキラキラと輝いていたのだろう。
 では、目は。
 男性は眠っているようで、その目は閉じられている。
 一体、瞼の下には何色の瞳が──そこまで考えて、我に返った。

(……何を、考えてるんだか)

 琴は視線を戻し、目を瞑る。周りとは違うからとまじまじと見てしまうなど、非常識な行動だ。そのような好奇の目で見られるのは嫌なはず。辛いはず。
 ──誰よりも、それをよくわかっているはずなのに。それなのに、気になってしまう。
 自分とは違う、正反対の色を持つ彼が。
 気が付けば見てしまっている。自然と、彼を捉えてしまう。

(どうして、こんなにも堂々としていられるんだろう。周りとは違うのに……でも、とても)

 とても、綺麗な人だ。
 開かれた英単語帳を見ることはなく、琴は男性を眺めていた。


 * * *


 琴が乗った駅から、三駅を通過した。乗客は徐々に増え、琴が座っている席からは男性が見えなくなった。
 あんなにも綺麗な白が、黒や茶色に埋め尽くされていく。その様子に、何故か残念な気分になっていた。開いていた英単語帳に視線を戻すも、既に覚えている内容。特にやることもなく、ぼんやりと眺めていた。
 まもなく四駅目に着くとアナウンスが入り、降りる乗客達が扉の前に集まり出す。普段乗っている電車でもこの駅で降りる乗客は多いが、それよりも多いかもしれない。
 そして、琴の学校の最寄り駅もここ。英単語帳を鞄に仕舞い、立ち上がって扉に近付いていく。こんなにも人が多いと、押されたり、自分が押してしまうこともあるかもしれない。気を付けなければ──そう思ったとき。
 ガタン、と大きく電車が揺れた。身体はその振動で大きく傾き、足元が絡まる。琴は慌ててつり革を見るも、掴めるところがない。身体を支えられそうなものも近くにない。
 気を付けなければと思っていたのに──と目を瞑ったが、誰かに左腕を掴まれた。琴の身体が支えられ、サラリーマンの背中にぶつかる手前でぴたりと止まる。

「大丈夫?」
「あ、ありがとうござい、ま……」

 頭上から聞こえてきた声に、琴は礼を述べながら慌てて振り向く。だが、その言葉を言い終えることはできなかった。
 そこにいたのは、琴が見ていた雪のように白く、美しい男性。
 思わず、息を呑んでしまった。

(目の、色が)

 瞼の下にあった瞳は何色なのだろうかと思っていたが、それは青空のように透き通った青色。今、その青色の瞳は、目を丸くしている琴の顔を映している。
 電車はゆっくりと停車し、プシュ、という音ともに扉が開かれた。この駅で降りる乗客に流され、琴の左腕から男性の手が離れてしまい、二人の距離が開いていく。

(まだ、ちゃんとお礼を言えていないのに)

 先にホームに降り立った琴は、あの男性が降りてくるのを待った。白い髪が見えたために声をかけようとするも、降りる乗客と乗車する乗客に阻まれて近付くことができない。その間に、彼は正反対の出口へと向かって歩いていく。
 追いかけようにも、人が多いホームで走るのは危険行為だ。琴は肩を落としながら、出口へと向かった。
 瞳に見惚れている場合ではなかった。助けてもらったのだから、まずは礼を言うべきだった。
 後悔ばかりが、琴の胸を占める。話せる機会にもなったのに、と。その後悔を吐き出すかのように、大きく溜息を吐いた。


 * * *


「おはよう。琴、今日は早いね……ってどした、その顔」
「舞ちゃん、おはよ……」

 学校に着いてから机に突っ伏していると、友人の舞が登校してきた。琴の前の席に座り、舞は心配そうにこちらを見る。
 当然だが、舞の目は黒く、髪も黒い。男性とは正反対の色。ただ、琴と同じように見えるが、舞の方がその黒の濃さが少し薄いという違いはある。

「何かあった? いつも私より遅いのに早いし」

 話しかけられ、琴はハッと我に返った。

「あ……今日は、早くに目が覚めちゃって。一本早い電車に乗ったんだ」
「なるほどね。それで?」

 言葉に詰まる。思い出すだけで落ち込んでしまうのだ。琴はくぐもった声を出しながら再び机に突っ伏し、小さな声で「どうしよう」と呟いた。

「どうしよう、舞ちゃん。わたし……お礼、ちゃんと言えてないの」

 いつもより一本早い電車にいた、雪のように白い男性。その男性に電車の揺れで傾いた身体を助けて支えてもらったのだが、初めて見た青色の瞳に見惚れ、礼を言いそびれてしまった。
 ──と一通りの経緯を話し終えると、琴は再び大きな溜息をついた。舞は「ふうん」と言った反応。その反応に琴は顔を上げ、舞の左腕を引っ張った。

「どうしたらいいと思う?」
「どうしたらって……また明日も同じ電車に乗れば?」
「……そっか、乗ってるかもしれないよね」
「え、逆に何で思いつかなかったの?」

 後悔ばかりで頭が正常に働いていなかったとしか言えない。笑って誤魔化していると、舞が腕を組んだ。

「それにしても、白くて青色の瞳の男性ね。ハーフなのかな」
「どうなんだろう。顔立ちはどちらかというと日本人のような……」
「でも、朝からそんな良い出会いがあったとはね。勿体ないなあ、本当」
「……そうだね、本当にそう」

 それを言われるとぐうの音もでない。
 琴や舞が通っている高校は女子校であり、まず出会いというものがない。
 校則も非常に厳しく、季節に合わせた制服を身に着けること。制服の改造など以ての外。スカートの丈は必ず膝下。靴下や靴は黒色。ヘアゴムも黒色──と言ったように、細かく定められている。
 制服は紺を基調としたセーラー服。合服のみ、袖とスカート以外が白になる。えりラインには差し色で赤が入り、スカーフも赤。
 もちろん、髪の毛も染めてはならない。コンタクトは禁止されていないが、カラーコンタクトは禁止。ピアスやネックレス、指輪などアクセサリー系も禁止。スマートフォンは持っていてもいいが、学校では触ってはいけないとされている。
 校則で縛られた、何とも窮屈な世界。だからこそ、舞は「勿体ない」と口にしたのだろう。
 それは、舞の言うとおりだと思う。勿体ないことをした。──琴と舞では、勿体ないと感じている部分は異なるだろうが。

「あ、そうだ。英単語帳見せて。今日小テストなのに忘れてきちゃって」
「いいよ、わたしはもう覚えてるから」
「やるなあ、さすが学年一位」
「……はい、英単語帳」

 舞に英単語帳を渡すと、琴は目を背けるように隣にある窓を見た。今日は天気が良く、澄み切った青空にちらほらと白い雲が浮いている。

(まるで、あの人みたい)

 あの男性は、琴の世界にはない、美しく眩しいほどの白と澄んだ青を持っていた。その色を思い出し、琴は小さく笑みを浮かべた。


 * * *


「琴、あなた進路はどうするの?」

 学校からもらった進路調査票を出すと、母はそれを見て琴に問いかけた。

「……まだ、決めきれてなくて」
「そう。でも、あなたなら道はいろいろとあるから。役立てる仕事に就きなさい」

 進路調査票を琴に返し、母はキッチンに立った。
 母も今は仕事でいない父も、琴の将来には口を出さない。言うとすれば、先程のように「琴なら道はいろいろとある」「役立てる仕事に就くこと」とだけ。
 琴は小さく「うん」と呟くと、進路調査票を手に二階の自室へと向かった。

(何も、わかってない。わかってくれてない)

 母も、父も。自室に入ると扉を閉め、琴は背中を預けた。そのままずるずると滑るようにして床に座り込む。
 成績は学年一位をキープし、全国模試の結果も一桁。だから、両親はそう言っている──わけではない。
 琴が持つ瞬間記憶能力のことを言っているのだ。
 この能力を役立てる仕事に就け、と。
 成績が良いのも、全国模試の結果が良いのも。教科書を、参考書を、見てすべて覚えているだけだ。
 ずっと、そうしてきた。いや、そうすることしかできなかった。勉強をしている友人達を見ていると、自分は卑怯な手を使っていると感じる。
 実際に、言われたこともあるのだ。琴は卑怯だと。
 幼い頃から記憶力が良かった。両親も琴もそれについて深く考えたことはなく、気になりだしたのは勉強が本格的に始まりだした小学生の頃。一度見ただけの教科書の内容を一字一句間違えずに覚えていることなどから、両親が病院に相談し、この能力が発覚した。
 ──今でも思う。何故、話してしまったのだろうと。
 仲の良かった友人に能力のことを打ち明けた次の日から、琴はクラス全員から白い目で見られるようになった。
 テストは常に満点。そのたびに、クラスメイト達からはこう言われた。

『全部覚えているなんて卑怯』
『カンニング行為と変わらない』

 耐えられなくなり両親に泣きつくも「持っている能力を有効活用しているだけ」「羨ましい」と、わかってはもらえなかった。

(そんなにいいものじゃない。何も知らないから、そんなことが言える)

 瞬間記憶能力で覚えたことは、忘れることができない。
 だから、今でも鮮明にあの日のことを思い出してしまう。まるで、昨日あった出来事のように。
 そのことがあってから、琴は自分の能力について誰にも話さないようにしてきた。両親にも、相談することをやめた。苦しんでいることが伝わらないのであれば、したところで無意味なように思えたからだ。
 だから、両親は知らない。琴が、こんな力などなければよかったのにと思っていることを。

「わたし、普通の人になりたい……」

 就職するのだとしても。専門学校、短大、大学に行くのだとしても。将来、何をしたいか。何がしたいか。どんな自分になりたいか。琴には、何も思い浮かばない。
 ただ、普通の人間になりたいとだけ。


 * * *


 ──翌朝。
 昨日と同じ時間に起きられるように目覚ましをセットしておいた。ピピピ、と電子音が静かな部屋に響き、琴は寝ぼけながらそれに手を伸ばした。
 本音を言えば、まだ眠い。寝ていたい。いつもの時間の電車に乗りたい。
 そんな考えを吹き飛ばすかのように、琴は自身の両頬を手で挟むようにして叩く。じんわりと痛みが走り、思考が少しだけクリアになった。

「……今日は、ちゃんとお礼を言わなきゃ」

 ゆったりとした動きで制服に着替え、荷物を持って自室を出る。リビングに入る前に洗面所へ寄り、冷たい水で顔を洗った。
 リビングに行くと、母が朝食を用意してくれていた。それに手を合わせて食べ始めるも、うまく喉に通らない。
 ──緊張しているのだ。昨日と同じ電車に乗っているだろうか。男性に、会えるだろうか。
 もし、会えたら。どのように、話しかければいいのだろうか。
 何とか朝食を終わらせると、身支度を整える。いつもよりも時間をかけ、丁寧に。何度も何度も髪の毛を梳かし、鏡を見た。

「行ってきます」

 今日は昨日と違って灰色の雲が多く、青空も白い雲も見えない。何だか、嫌な感じがすると思いつつも、急ぎ足で駅に向かった。
 後ろから、母が傘を手に琴の名を呼んでいることに気付かずに。


 * * *


(嘘でしょ)

 今、琴は自分が出せる全速力で走っていた。
 土砂降りの雨が急に降ってきたのだ。男性に会えるかどうかばかりを考えていたため、今日の天気を気にせずに出てきてしまった。そのため、傘はない。いつも鞄の中に入れる折りたたみ傘も忘れてきた。
 全身を濡らしながら駅に着くと、誰もが傘を持っている。きっと雨予報だったのだろう。情けない、と溜息を吐きながら、ICカードを使ってホームへ向かう。
 今日は昨日のように階段を上る元気もない。エスカレーターで上がっていきつつも、心の中は帰りたい気持ちでいっぱいだった。
 このような姿で、男性に会えない。会いたくない。
 ホームへ着くと、琴は鞄の中を見た。椅子に座ろうと思ったが、全身が濡れているのだ。座ると他の客に迷惑をかけることになる。

「……これしかないよね」

 鞄から取り出したのは、小さなハンドタオル。仕方ない、とそれで身体を拭き始める。本来は手を拭くもの。これでは気休めにもならないが、何もしないよりはいい。
 ちらりと時計を見た。あと数分で男性が乗っているかもしれない電車が来る。来るが、もう乗る気はなかった。いつもの電車に変更し、その間に母か父にタオルを持ってきてもらおうと思っていたからだ。
 やがて、電車がホームに到着した。降りてきた乗客は濡れている琴に同情の目を向けていく。それが恥ずかしくて、琴は顔を上げることができなかった。
 せめて、男性がこの電車に乗っているかどうかだけでも確かめたかったが。
 電車は乗客を乗せ、次の駅に向かって走り出す。本来なら、乗っていたはずの電車。なんて情けないのか。

「え?」

 白いタオルが、視界に入ってきた。
 まだ親には連絡をしていないがと思いつつ顔を上げると、そこには──。

「やっぱり、昨日の子だった。これ、使って」

 雪のように白くて、それでいて青空のような男性が立っていた。
 何故、ここに。降りる駅は琴と同じ駅のはず。驚いていると、男性は恥ずかしそうに視線を逸らした。

「あ、怪しいよね。ごめん。電車の中からボトボトになってる君が見えて」
「……っ、い、いえ。あの、ありがとうございます。お借り、します」

 震える手で男性からタオルを受け取る。何とか手を動かして拭くも、頭の中は混乱していた。
 この時間の電車に乗って、男性に会おうとはしていた。会って、言いそびれている礼を言うつもりだった。
 まさか、こんな形で会うことになるとは。
 それにしても、また助けられている。恥ずかしいと唇を噛み締めていると、タオルが手から離れた。
 落としてしまったかと下を向くと、タオルが頭に被せられる。そのまま、わしわしと動かされた。

「さっきから同じところばっか拭いてるよ」
「嘘、す、すみません」

 くすくすと男性は笑みを溢した。
 見かねて代わりに拭いてくれるほど、同じところを拭いていたのか。失態に失態を重ねてばかりだ。

「僕は、雪野悠斗(ゆきのはると)。君も降りた駅から二十分程歩いたところにある芸大に通ってるんだ」
「わ、わたしは、初音(はつね)琴です。わたしは、あの駅から十分程歩いたところにある女子校に通っています。あの、昨日は、ありがとうございました」
「お礼なんていいよ。そっか、あの女子校って進学校だよね。すごいな、頭良いんだ」
「それは……」

 瞬間記憶能力があるから──とは言えず、琴は口を噤んだ。

「そういえば、綺麗な黒色の髪をしてるね」
「え……」

 髪の毛を拭く手を止め、悠斗は琴の濡れて束になった髪の毛を一房取った。誰にも言われたことがない言葉、されたことがない行動に琴の顔が赤くなる。
 タオルで琴の顔が見えていないのか、悠斗は何も気にせずに髪の毛を眺めていた。

「絵を描いているからか、人が持つ色を見る癖があって。君は純黒かな」
「純黒……?」
「これ以上の黒はない、完全な黒色ってこと。こんな黒は、滅多に見られないよ。本当に綺麗だ」
「そういえば、黒っていろんな黒がありますね」

 しまった、と右手で口元を隠した。
 色が違うとわかるのは、小学生の頃に色について学んだことを覚えているから。琴の能力であれば、そのときの記憶と見比べることができてしまうのだ。
 そのため、色の種類はわからずとも違いはわかる。同じ黒でも、その濃淡や別の色が混ざっているなどが。

「すごい、色の違いがわかるんだ」
「そ、それは」
「次の電車まで時間があるし、座らない? せっかくだし、話そうよ」

 拭いたとはいえ、まだ濡れている。このまま座ると席を濡らすことになるのではと思っていると、頭にかけられていたタオルが取られ、悠斗はそれを椅子に敷いた。

「これで大丈夫」
「あ、ありがとうございます」

 ちょっと待ってて、と悠斗は自販機へと向かった。琴はタオルが敷かれた椅子に腰掛け、時計を見る。
 次の電車が来るまであと十分ほど。思いがけず悠斗と話せることになったが、訊いてもいいものなのだろうか。
 悠斗の、色のことを。

「ごめん。あたたかい飲み物を買いに行ったんだけど、もう冷たい飲み物ばかりで」
「すみません、気を遣っていただいて。大丈夫です」

 自販機から戻ってきた悠斗が琴の隣の椅子に腰掛ける。濡れて寒いだろうと、気を遣ってくれたのがありがたい。

「えっと、琴ちゃん、でいい?」
「は、はい」
「琴ちゃんは、僕の色は気にならない? 全然訊いてこないから、逆に僕が気になっちゃって」

 悠斗自らこの話を振ってくるとは思っていなかった。では、訊いてもいいのだろうか。いや、その前に伝えたいことがある。

「わたしは……悠斗さんのほうが、綺麗だと思います」

 え、と短く声を発すると、悠斗は目を丸くして驚いた。

「美しい雪景色のような白色に、青空のように澄んだ青色。初めて見たとき、目が離せませんでした。それに……」

 軽く唇を噛み、そこで言葉を止めた。顔を俯け、濡れたスカートを両手で握り締める。
 琴は、周りとは違うことを気にしてしまい、胸を張ることができない。
 けれど、悠斗は。悠斗は、周りとは違う色をしていても、堂々としていて。それもあり、目が離せなかった。

「ありがとう。そんな風に言われたのは初めてだよ」

 顔を上げると、そこには照れくさそうに笑う悠斗がいた。悠斗は背中を丸めると両膝にそれぞれ肘を置き、手を組む。少し顔を俯けると、琴を見た。

「僕は、アルビノなんだ」

 アルビノ。
 しっかりと調べたことはないが、テレビなどで耳にすることがある。メラニン色素の合成が減少、または欠損している、先天性の遺伝子疾患だと。
 では、悠斗の髪や肌が雪のように白いのは、瞳の色が爽やかな青空のように青いのは──。

「だから、琴ちゃんの黒色が羨ましい。僕には、持つことができない色だから」
「あ……」
「今日は雨で曇っていてよかったよ。外に出るときはサングラスが必須だからね」

 こんな風に、と悠斗は胸ポケットからサングラスを取り出し、それをかける。レンズの色はかなり濃い。これでは、色が──そこで、悠斗が言っていた意味がわかった。
 サングラスをかけていると、色がはっきりと見えなくなる。だから、雨で曇っていてよかったと、彼はそう言ったのだ。

「大体の人は、僕の容姿を見て驚く人が多いんだけどね。琴ちゃんは落ち着いてたし、どうして気にならないのかなって逆に気になっちゃった」

 悠斗はサングラスを取ると再び胸ポケットに仕舞った。

「い、いえ、その……とっても、気になってました。綺麗な色だなって。それに」
「それに? さっきも何か言いたそうだったよね」
「その……周りの人と違うのに、堂々とされていて。……わたしは、隠して生きているから」

 もしも、琴がアルビノであれば。
 きっと、帽子を被ったり、マスクをしたり。自分が人とは違うことを隠して生きていただろう。
 今でも能力のことを隠して生きているのだ。それが違う能力や周りとは異なる容姿を持っていたとしても、隠して生きていくことに変わりは無い。

「別に、堂々とはしてないよ。世知辛い世の中だしね、いろいろと言われることだってある。それでも、僕は僕だからなあ」

 でもね、と悠斗は顔を前に向けた。

「悩むことばかりだよ。こんな言い方はしたくないけど、周りの人とは違うから。……琴ちゃんも、何かあるんだよね?」
「あ……わたしは」

 カンカン、と踏切が鳴る音が聞こえてきた。ホームには「まもなく電車が参ります」と駅員のアナウンスが響き渡る。時計を見ると、琴が普段乗っている電車が来る時間になっていた。
 もう、十分が経ったのか。話していると、あっという間だった。本音を言えば、もう少し話していたい。何よりも──。

(悠斗さんが話してくれたのに、わたしが話さないなんて。それに……この人なら、わかってくれるかもしれない)

 琴と同じ、周りの人とは違う悠斗なら。

「あの……連絡先を、交換してください」
「うん、いいよ」

 お互いのコードを読み取り、連絡先が登録される。

「わたし、この電車に乗らないと遅刻するんです。悠斗さんは?」
「僕はいつも朝練がしたくて早く行ってるだけなんだ。今日はゆっくり行こうかな」

 電車がもうすぐやってくる。立ち上がり、椅子に置いていたタオルを洗って返そうと手に持つも、それはすぐに悠斗が琴から取ってしまった。

「気にしないで。ほら、電車が来るよ。あ、あとこれ。使って」
「え? で、でも、悠斗さんが」
「折りたたみ傘もあるから。あ、ほら来たよ。いってらっしゃい、頑張ってね」

 悠斗が持っていた傘を手渡され、琴は電車へと向かう。後ろを振り向くと、悠斗が笑み浮かべながら手を振っていた。
 ぎこちなく振り返すと、そこにちょうど電車がやってきた。勢いのある風が、濡れた身体を冷やしていく。
 昨日とは打って変わって乗客が多く、座れそうにない。とはいえ、扉の近くに立てたのは奇跡だろう。
 これならすんなりと出ることができそうだ。胸を撫で下ろし、ホームにある椅子に座っている悠斗を見た。スマホを見ているのか──と思っていると、ブ、と鞄の中に入れたスマホが震えた。取り出して通知を見ると、悠斗からメッセージが送られてきていた。

『人が多そうだね。今日は転けないようにね』

 追加でクマのキャラクターのスタンプが送られてきた。可愛いが、シュール。こんなキャラクターが好きなのだろうか。笑ってはいけないが、口元が綻ぶ。
 少しして、電車が動き始めた。悠斗がこちらを見て手を振ってくれていたため、琴も手を振る。昨日は遠い存在だったが、今日は。
 姿が見えなくなったあと、琴は悠斗へメッセージを打ち始める。それは、あの日以来、誰にも打ち明けなかった琴の秘密。

『わたしは、瞬間記憶能力を持っています』

 深呼吸を一つしてから、琴は送信ボタンを押した。


 * * *


 学校までは悠斗が貸してくれた傘で濡れずに済んだ。が、制服や髪は乾いておらず、すぐに保健室で着替えるように言われてしまった。

「すごい濡れたわね。ほら、タオルでもう少し拭きなさい」
「す、すみません」
「制服を入れる袋……はないわよね。職員室から持ってくるわ」

 養護教諭が保健室を出て行き、琴一人となった。濡れた制服を脱ぎ、体操服へと着替える。制服はベッドを汚すわけにはいかないと畳んで床に置くことにした。
 借りたタオルで頭を拭いていると、ホームで悠斗に拭いてもらったことを思い出す。気を遣ってくれていたのだろう、優しい手つきだった。

(……とても、優しい人だった)

 あ、と琴は声を出し、鞄の中からスマホを取り出す。校則上、学校内にいるときは触ってはいけないことになっているが、今は誰もいない。
 電源ボタンを押すと、ロック画面には通知が一件表示された。
 それは、悠斗からのメッセージ。

『瞬間記憶能力って、一瞬で見たものを覚えることができるっていうのだよね?』

 廊下の音に耳を澄ませながらロックを解除し、そのメッセージに返事を返す。

『そうです。わたしは、見たものをそのままの状態で覚えることができます。それはずっと残り続けて、いつでも鮮明に細部まで思い出すことができます』
『それって……覚えたことは忘れられないってこと?』

 はい、と打とうとしたが、足音が聞こえてきたためスマホの電源を落として鞄の中に仕舞い込んだ。
 ガラ、と音ともに扉が開かれ、養護教諭が入ってきた。手には大きな半透明の袋。

「ごめんね、袋はこれしかなかったわ」
「いえ、入れられるだけありがたいです。ありがとうございます」
「それにしても、学年一優秀なあなたでもこんなことあるのね」

 成績のことを言われると、あの日の記憶が勝手に浮かんでくる。
 卑怯な手を使っている。カンニング行為と変わらない──と。
 こういうとき、琴は特に返事をせず、笑みを浮かべて誤魔化すようにしている。床に置いていた制服を袋の中に入れ、鞄と一緒に持った。

「ありがとうございました」
「頭、乾かさなくていい? 水泳部でドライヤー借りてこようか?」
「大丈夫です。失礼します」

 保健室を後にし、琴は教室へと向かった。その足取りは重い。
 一人体操服で授業を受けることになるからではない。今日は、昨日受けた英語の小テストが返ってくる。
 おそらく、満点だ。それを見た舞や他の友人達は、口を揃えてこういうだろう。

「さすが、学年一位」

 その言葉が、琴の心を抉ることを知らずに。


 * * *


 ──予想通り、英語の小テストは満点だった。
 満点だったのは、琴のみ。

「勉強したはずなのになあ」
「あー、綴りミスってる」
「やっぱ初音さんはすごいね」
「学年一位は違うなあ」

 小テストの結果を受け取ると、クラスメイト達は口々にそう言いながら席に戻っていく。琴は笑みを浮かべながら、小テストを鞄に仕舞い込んだ。もう、見ていたくない。
 英語の授業が始まり、琴は黙々と黒板に書かれた内容をノートに写していった。本当は黒板を見て覚えるだけでいいのだが、教師によっては黒板の使い方が雑な者もいる。それを覚えると解読から始まるため、こうしてノートに写し、覚えるほうがいい。
 何より、こうしているほうが普通らしく見える。

「……で、昨日のハーフの人とは会えた?」

 授業を終えると、舞が話しかけてきた。その目はキラキラと輝いているように見える。そんなに楽しみにしていたのだろうか。

「うん、会えたよ」

 ハーフではなく、アルビノなのだが。
 そう思ったが、舞に言うつもりはなかった。悠斗も言っていたからだ。周りの人とは違うから、と。
 それに、と琴は視線を下げる。
 言えば、何を言われるかわからない。琴のように、言われたくないことを言われるかもしれない。それが怖かった。

「それでそれで?」
「……お礼を言って、連絡先を交換した」
「えっ、やるじゃん! いいなあ、何かもうドラマみたいじゃん」

 そこから恋に発展して、と妄想を膨らましている舞に、琴は笑みを浮かべることしかできなかった。
 悠斗に抱いているのは、恋ではない。おそらく、同族意識だ。──後々どうなるかはわからないが。

(そういえば、また返事来てるかも。……あ、でも、見れないや)

 トイレに鞄を持って行くのも不自然。スマホを取り出してポケットに入れるのも危険行為だ。

(また、帰りかな)

 悠斗の返事が気になり、ついそわそわとしてしまう。舞が何かを話しているが、それが琴の耳に届くことはなかった。


 * * *


 待ちに待った帰りの時間になり、琴は急いで教室を出た。階段を下り、靴を履き替えると小走りで校門を抜ける。
 少し離れてからスマホを取り出し、電源を入れた。立ち上がるとすぐに、ブ、とスマホが震え、通知が来た。
 続けて、通知が二件、三件と来る。すべて悠斗からのメッセージだ。タップし、そのメッセージを開く。

『僕は瞬間記憶能力を映画やドラマ、アニメや漫画くらいでしか知らなかった。実際、すごい能力だと思う』
『でも、忘れられないのだとしたら。それって、良いことも悪いことも関係なくってことだよね』
『そうだとしたら、かなり辛いと思うんだけど……大丈夫?』

 ──そのメッセージを見て、胸がいっぱいになった。
 こんなにも、琴を心配してくれた人は初めてだ。両親ですら、話してもここまで考えてはくれなかった。

(会って、まだ、一日とかなのに。どうして)

 震える手で文字を打っていく。
 辛いです、と打っては消し、大丈夫じゃないです、と打っては消し。しばらくして、琴は全く違う内容のメッセージを打って送った。

『悠斗さんは、将来の夢はなんですか?』

 続けて、メッセージを送る。
 根拠はないが、これで悠斗には伝わると思ったのだ。琴の気持ちが。

『わたしは、普通の人になりたいです』


 * * *


 ──数日後。
 今日は土曜日のため、学校は午前中のみ。いつも通りに授業を受け、今は帰っている最中──ではなく、とある場所へと向かっていた。
 それは、悠斗が通っている大学。芸大だと彼は言っていた。
 琴がメッセージを送ったあと、悠斗から「会って話さない?」と返事があり、会うことにしたのだ。
 悠斗と同じ電車に乗るようにしていたため、普段も会ってはいた。傘を返したり、他愛のない話はするもの、あのメッセージには触れず。

(それに、見せたいものって何だろう)

 場所を悠斗の大学で会うことを決めたのも、これが理由だ。詳細は琴もわからないが、見せたいものがあるらしい。
 琴はスマホを取り出し、メッセージ画面を開いた。

『もうすぐ着きます』

 送信ボタンを押すとすぐに既読がつき「了解」と書かれたあのシュールなクマのスタンプが送られてきた。
 そのスタンプに笑みを溢しつつ、電源ボタンを押して画面を暗くするとスマホを鞄の中に入れる。
 オープンキャンパスに行くこともなかったため、大学がどんなところなのか想像がつかない。そもそも、琴は部外者だ。入ってもいいのだろうか。
 歩いていると、大きな建物が見えてきた。正門だろうか、アーチ型の立派な門がある。その傍には、見知った人物が立っていた。

「悠斗さん」
「琴ちゃん、お疲れさま。ごめんね、ここまで来てもらって」
「いえ、それは大丈夫なんですけど……あの、入ってもいいんですか?」
「気にすると思って……はい、これ。首から下げててね」

 それは、許可証。琴は言われたとおりに首から下げる。

「じゃあ行こっか。こっちだよ」

 悠斗に案内されながら、琴は大学に初めて足を踏み入れる。
 同じ学校のはずだが、高校とは違う雰囲気だ。広大で、建物が大きい。琴が通っている女子校は堅苦しく、いかにも学び舎と言ったところだが、大学は何となく自由を感じる。
 それにしても、悠斗はどこへ向かっているのだろうか。渡り廊下らしくところを歩き、校内へと入っていく。

「わ……」

 吹き抜けがあり、広々とした空間の至るところに光が差し込んでいる。壁沿いには作品が並べられており、その一つ一つに目を奪われた。

「あの中に、僕の作品もあるんだ」
「え!? ど、どれですか?」

 石膏、油絵、水彩画、漆工芸、ガラス工芸──様々な作品がある。どれだろうかと首を傾げていると、クスクスと悠斗が笑う声が聞こえてきた。

「先に教室に行こうか。そこに、見せたいものがあるんだ。それを見れば、ここにある僕の作品もわかると思うよ」

 どの作品も素敵でまだ見ていたい気持ちはあるが、琴は悠斗の後ろをついていった。
 教室は少し歩いたところにあり、悠斗はポケットから鍵を取り出して扉を開く。どうぞ、と促され、琴はおそるおそる教室の中へ一歩踏み入れた。
 ──そこは、琴にとって未知の空間だった。
 長机がいくつか並べられ、その上には知らない道具が綺麗に置かれている。これまでとは違うにおいもあり、無意識に身体に力が入った。
 ここは、何をするところなのだろうか。ゆっくりと辺りを見渡していると、中心にある机の上に何かが置かれていることに気が付いた。

「気が付いた? あれが、僕が見せたかったものだよ」

 悠斗がその机に近付いていき、置いてあったものを手に取る。

「これは、ガラス製なんだ。木の枝から飛び立とうとしている鳥を作ってみたものだよ」
「す、すごい……」

 薄い黄緑色のガラスを枝に見立て、そこに立っている青い鳥が今にも羽ばたこうとしている。

「普通って、何だろうね」
「え……」

 琴から送られてきたメッセージを見て、そこからずっと考えていたのだと言う。
 普通とは、何なのか。

「髪の毛や瞳の色が黒かったら、普通なのかな。記憶力が人並みだったら、普通なのかな。じゃあ、僕達は……普通じゃないのかな」

 手に持っていた作品を机の上に戻し、悠斗は琴を見た。

「琴ちゃんの普通の人になりたいって気持ち、痛いほどわかるよ。何で僕は、こんな姿なんだろう。周りの人達と同じ姿になりたいって、何度も何度も思った」
「……今でも、思いますか?」
「もちろん。でも、普通について考えてみると、僕にとっての普通は今のこの姿なんだよね」

 初めて話した、あの雨の日のことを思い出す。
 そこでも、悠斗はこう言っていた。いろいろと言われることもあるが、自分は自分なのだと。

「周りとは違うから、普通とは違うから。僕は周りに合わせないといけないのか」
「……それは」
「そうじゃないよね。僕は僕らしく生きていいはずだ。だって、これが僕だから。……それは、琴ちゃんにも言えることだよ」
「……悠斗さんは、わたしのこと、卑怯だと思いませんか?」

 脳内でいつもの記憶が再生された。満点のテストを持った琴の周りを囲み、クラスメイト達が糾弾する、あの記憶が。

「教科書も参考書も何もかも、覚えてるんです。テストはいつも満点。能力のことを友人に話した次の日にはクラスメイト全員に白い目で見られて、全部覚えているのは卑怯だ、カンニング行為と一緒だと言われました」

 涙が溢れ、頬を伝っていく。
 中学でも、琴の能力のことはすぐに広まった。友人は一人もできず、今の高校へ進学するときも、ズルをしたと冷たい目で見られた。

「学年一位でも、模試の成績が良くても、全然嬉しくない。卑怯だという言葉が、ずっと、ずっと付き纏うんです」
「……ネット知識で申し訳ないけど、瞬間記憶能力って二つのパターンがあるんだってね」

 忌み嫌うこの能力を調べようと思ったことがないため、それは初耳だ。涙を拭い、悠斗を見る。

「一つは、覚えたことを応用することができるパターン。もう一つは、覚えることができても応用は難しいパターン。琴ちゃんは、前者なんだろうね」
「応用……?」
「前者の人は、そもそも知能が高いみたいだよ。だから、琴ちゃんは地頭がそもそもいいんじゃないかな?」

 自分では、覚えていることを応用しているのかすらわからない。目の前に問題を出されれば、内容にあった記憶が瞬時に思い出され、詰まることなく解けてしまう。
 意識せずにしているためわからないが、それが応用になるのだろうか。
 でも、と唇を噛み締めていると、いつの間にか近い距離にいた悠斗が琴の両肩に手を置いた。

「成績がいいことを、誇っていいんだよ。覚えていることを、しっかりと応用できている証拠なんだから」
「で、でも、内容を全部覚えているのに」
「覚えるために、教科書を見ているんだよね? 参考書を見ているんだよね? それはもう勉強だよ。卑怯でもカンニング行為でも何でもない」

 琴ちゃん自身の力だよ、と悠斗は琴の両肩から手を離すと目を細め、微笑んだ。

「この鳥を見てほしかったのは、琴ちゃんは普通だよ。だから、自由にいろんなところに羽ばたいていけるよって、伝えたくて」

 あげる、と悠斗から手渡される。軽いようで、少し重たい。

「その能力は、決して卑怯なんかじゃない。琴ちゃんの努力があってこそ輝くものだよ。だから、琴ちゃんらしく生きて」


 * * *


「綺麗……このバラの作品、悠斗さんのものですよね?」

 教室を出た二人は、吹き抜けの場所へと戻っていた。琴が指差しているのは、赤いバラの一輪挿し。すべてガラスでできている。

「正解。僕、ガラス工芸の仕事に就きたいんだ」
「いつ頃からそう考えていたんですか?」
「小学生の頃かな。親と一度ガラス工芸を取り扱っている店に行ったことがあってね。いろんな色があって、キラキラ輝いてて。自信をもらったんだ」

 周りの色と違っていても、悲観することはない──そう自信をもらったのだと悠斗は笑った。
 これまでも偏見の目はあっただろう。それでも自分らしさを失わず、将来の夢を追い続ける悠斗はすごいと素直にそう思った。

「……わたしは、悠斗さんと話して、前へ進めるような気がしました」

 ずっと、過去に囚われていた。
 卑怯だと、カンニング行為だと言われたあの日から。琴は、前へ進むことなく立ち止まったままだった。

「テストで満点を取るたびに、今回もまた卑怯な手を使ってしまったと、気が重くなっていました」

 でも、と琴は口元を綻ばせ、言葉を続ける。

「わたしがしていたことは勉強だったんだなって思うと、胸のつかえが取れました」

 ただ、記憶だけは永遠に残り続ける。それだけは、これからも向き合っていくしかないのだろう。何かの拍子に思い出し、落ち込むこともあるかもしれない。
 そのときは、悠斗の言葉を思い出そうと思う。今日、彼からもらった言葉を。
 琴の、宝物の言葉を。

「それに、夢も見つけたんです」
「夢?」

 琴は大きく頷き、その内容を口にした。
 それは、悠斗との会話から生まれた夢。琴が悠斗の言葉に救われたように。琴も、誰かの力になりたい。マイノリティーである琴だからこそ、わかる気持ちもあるかもしれないと、そう思ったのだ。

「わたし、公認心理師になろうと思います」


 * * *


 琴は今、舞と共にファミレスへと来ていた。間違い探しのイラストが置いてあり、どちらが先に十個見つけられるかと勝負していたのだが──。

「はい、十個」
「琴、早すぎでしょ!? そんなすぐにわかるものなの!?」
「えっと……得意なんだよね、こういうの」

 見比べる必要はなく、覚えたものと違う箇所を当てればいいので早い。気を遣ってゆっくり解いたのだが、やはりこのファミレスの間違い探しは難易度は高めのようだ。舞はまだ三つで止まっている。
 ギブアップと言うまで黙っていてほしいと舞に言われ、琴はスマホを取り出した。通知が一件表示されており、タップする。
 それは、悠斗からのメッセージ。

『ご両親は説得できた?』

 悠斗の大学へ行ったその日の夜。公認心理師になりたいと両親に話したところ、認められないと喧嘩になったのだ。
 それは、数日が経った今でも続いている。

『能力を活かせる職業に就けと、昨日も言われました』
『確かに琴ちゃんの能力はすごいけど……一番は自分のなりたいものだと思うんだけどね』

 難しいね、というメッセージと共に、困ったような表情をしたクマのスタンプが送られてきた。琴も肩を落とした猫のスタンプを送る。
 両親には、琴の想いをすべて話した。これまで琴が抱えてきたことを包み隠さず、すべて。
 その上で、公認心理師になりたいと話したのだ。
 人が抱える心理的な悩みや苦しみ──それらから抜け出せるきっかけは、誰にもわからない。悠斗はガラス工芸がきっかけで自信を持ち、琴は悠斗の言葉で前を向くことができた。
 琴も、誰かのきっかけになれるかもしれない。自分が救われたように、誰かの力になりたい。
 そう説明しても、両親としては「琴ならもっと大きなことができるはず」と譲ろうとはしない。連日、話し合いが続いている。

「あー、駄目。ギブアップ」
「お疲れさま。答えは、こことここと……」

 両親は、琴が持つ能力を無駄にしたくないと思ってくれているのだろう。せっかく持って生まれた能力なのだからと。

(お父さんやお母さんの気持ちもありがたいけれど……わたしに寄り添ってくれたのは、悠斗さんだった)

 両親の言葉よりも、悠斗の言葉が琴の胸に残っている。
 大きなこととは、一体何なのだろうか。寄り添い、言葉で誰かを救うことは、大きなことではないのだろうか。
 琴自身、悠斗の言葉で救われたことは非常に大きなことだと思っている。
 前を向ける勇気をもらい、一歩を踏み出し始めた。何より、自分の能力を受け入れられるようになってきたのだ。
 これが大きなことではないのなら、何なのか。

「そういえば、琴はまだ進路調査票出してないんだよね?」
「うん、まだ親と話してて」
「学年一位だと期待大だよね。大変だ」

 いつもなら嫌な気分になる言葉も、気にならないと言えば嘘になるが、そこまで気にはならなくなった。
 琴は少量のウーロン茶が入ったコップを手に持ちながら目を伏せる。

「……わたしの背中を押してくれたら嬉しいんだけどね」

 両親は、琴の能力だけを見ている。そうではなく、琴自身を見てほしい。血のつながりもない、ただ偶然出会っただけの悠斗が見てくれているように。
 ウーロン茶を飲み干し「行こうか」と舞と共に席を離れた。外に出ると、太陽の日差しが容赦なく琴と舞を照らす。

「うわ、あっつ! もう夏じゃん!」
「そうだね」

 手で影を作りながら、琴は空を見上げた。澄み切った青空に、白い雲がわたあめのようにぽつぽつと浮かんでいる。
 そんな空を、鳥が自由に空を飛んでいた。

(お父さん、お母さん。わたしは自由にいろんなところへ羽ばたいていけるんだよ)

 悠斗がくれた、あの鳥のように。

「琴? どうしたの?」
「ううん、何でもない。帰ろっか」

 琴の道は、一つではない。いくつもある内の一つから、道を選ぶのだ。

(ようやく、わたしは進みたい道を選ぶことができた。だから、わたしはこの道を進みたいの)

 ──琴ちゃんらしく生きて。
 悠斗の言葉を胸に、琴は足を踏み出した。