樺太を出ることは叶わなかった。戦闘終結後は元の家に帰るよう言われたが、三百世帯が慎ましく暮らしていた町は焼け野原になっており、豊原という樺太で最も栄えた町に行き、空き家に転がり込んだ。やがてソ連から移住者がやって来て、勇と同じように空き家に住み着いた。最初は寄生虫のようだと思ったが、住民となったソ連人は善人ばかりだった。兵士は家を漁り貴重品を取り上げ女を犯すが、一般人は常識的でよく働いた。この違いは何だろうと不思議で仕方が無かった。

 その内に鈴江の腹が膨らんできた。すると近所のアーニャという老婆が「若い頃は助産婦をしていたから、お産の時は呼びなさい」と声を掛けてくれた。アーニャは兵役を終えた孫と暮らしていた。住んでいた町はドイツ兵に焼かれ町の住民は皆殺された。孫は働きもせず、日夜砲撃の音に怯え殺した人々の幻覚に怯えていた。

 鈴江が産気づいても、アーニャを呼ばなかった。事前にアーニャからお産がどのように進み、産後はどのような始末をすれば良いのか聞いてあった。だから大丈夫だと、不安がる鈴江に言い聞かせた。

 湿った雪が降る夜、鈴江は股を大きく広げていきんだ。産道から、頭が覗いた。黒い髪だった。頭が出てきた後は、ずるりと簡単に身体が現われた。真っ赤な身体の男児は大きな産声を上げた。鈴江の足の間で泣く赤子の目は固く閉じられている。それを親指と人差し指でこじ開けた。黒曜石のようにつるりと光る瞳に、安堵の息を吐いた。もしも赤子がソ連兵との子供だったら、口を塞いで殺すつもりだった。