コケモモを噛みながらこれまでの道のりを反芻し、妙だと思った。先ほど転がっていたのは老婆の死体だ。老いた者は既に脱落している筈だった。しかし、この熊笹の峠に入ってから幾つか老人の死体を見た。
反対方向から、逃げて来たのだろうか。反対方向、つまり、海の方から。と言うことは、港はソ連に制圧されたのか。今自分は占領された敵地に向かおうとしているのか。
去来した不安に歯噛みした時だった。目の前の笹が、大きく揺れた。身体を木陰に隠そうとしたが、既に遅かった。熊笹をかき分けて、ソ連兵が現われたのだ。兵士は若く、髪はトウモロコシの髭に似た色で、澄んだ空のように青い目をしていた。兵士は銃を構え、銃口をこちらに向けた。
「面倒なものを見付けた。誰もいないと思ったんだがな……」
歯噛みするように兵士は口元を歪めた。その口調や眼差しに迷いを見付けた。死を覚悟しながら、勇は何故兵士が迷うのか逡巡した。銃を撃ってはまずい理由。銃を撃てば、自分の存在が周囲に知られる可能性がある。ここは身を隠すのに絶好の場所だ。という事は、この兵士は少なくとも、誰にも知られずここに身を隠していたいのか。
「脱走兵か」
勇はロシア語で問うた。僅かな可能性でも掛けてみる。黙って死ぬよりはよっぽど良い。そう思いながらも、鈴江のリュックの場所を密かに確認していた。そこには、包丁が入っている。
「友達が舟を出してくれる。それに乗らないか」
勇の言葉に兵士が眉を寄せた。心臓が早鐘のように打つが、冷静を装って続けた。
「俺は北海道に山を持っている。それをやる」
「本当か?」
「本当だ。俺は木こりだ。山はやるから俺を雇ってくれ。森のことなら何でも出来る」
「その手でか? チェーンソーを扱えるのか?」
「チェーンソー?」
聞き慣れない言葉に問い返すと兵士は声を立てて笑った。
「日本人はまだ斧で木を切っているのか。成る程。日本でチェーンソーを売る商売も悪くないな。……ドイツ人に村を焼かれ家族を殺された。帰る場所を失って仕方なく兵士になったが、終わりが見えない戦いにウンザリしている」
銃口を向けたまま、兵士はそう言って目を眇めた。勇の言葉の真偽を占っているようだ。思いつくまま付いた嘘は、勇に希望を与えた。疎開船に男は乗れない。漁師に頼んで舟を出して貰うか、最悪奪う。北海道に山など持っていないが、命があれば何とでもなる。命さえ、あれば。
兵士の銃口が、背後に立つ鈴江に向けられた。銃口が僅かに上下する。その意味を勇は瞬時に察した。鈴江の手首を掴み、その身体を自分の前に引っ張り出した。
「親愛の証だ」
兵士が銃を下ろし、にやりと笑った。
「いいだろう」
鈴江はロシア語が分からない。怯える鈴江に「すぐに終わるから我慢しろ」と伝えた。鈴江の顔に恐怖の色が浮んだが、その身体を兵士の方へ押し出した。
手荒な事はしなかった。動物の行為のように最低限の事を、兵士は鈴江に行なった。それを見下ろす勇の腹に、吐き気をもよおす怒りが湧いた。自分の所有物をロ助に侵されている。その屈辱は耐えがたかった。背けた視線の先に、鈴江のリュックが見えた。中に手を入れ、硬い柄を掴んだ。
尻をむき出しにした背中は無防備だった。両手で柄を持ち、体当たりするように突き立てる。刃先が肉を裂いて進んでいく。手が背に当たった事に気付き、包丁を引き抜いた。血が噴き出し、兵士は呻きながら仰向けに倒れた。青い瞳が何故だと問いかける。鈴江が這うように兵士から離れた。勇は足を持ち上げ、傷口を踏みつけた。背中に敷かれた熊笹が赤く染まっていく。苦しげな呻き声が聞こえた。その顔に唾を吐きかけ、むき出しの局部を踏みつけた。何度も、何度も。
足が上がらなくなり、蹴るのをやめ肩で息をしながら兵士を見下ろした。青い瞳が見開かれていた。空が乗り移ったように青く澄んだ瞳にはもう、命は宿っていなかった。
周囲が静まりかえっている事に気付いた。霧が晴れ、日差しに朝露が光っている。戦闘が終わり、森に朝がやって来た。森に生きるもの達は、人間同士の殺し合いが終わるのを息を潜めて待っている。
カッコウが鳴いた。「もう済んだのか」と問うように。
反対方向から、逃げて来たのだろうか。反対方向、つまり、海の方から。と言うことは、港はソ連に制圧されたのか。今自分は占領された敵地に向かおうとしているのか。
去来した不安に歯噛みした時だった。目の前の笹が、大きく揺れた。身体を木陰に隠そうとしたが、既に遅かった。熊笹をかき分けて、ソ連兵が現われたのだ。兵士は若く、髪はトウモロコシの髭に似た色で、澄んだ空のように青い目をしていた。兵士は銃を構え、銃口をこちらに向けた。
「面倒なものを見付けた。誰もいないと思ったんだがな……」
歯噛みするように兵士は口元を歪めた。その口調や眼差しに迷いを見付けた。死を覚悟しながら、勇は何故兵士が迷うのか逡巡した。銃を撃ってはまずい理由。銃を撃てば、自分の存在が周囲に知られる可能性がある。ここは身を隠すのに絶好の場所だ。という事は、この兵士は少なくとも、誰にも知られずここに身を隠していたいのか。
「脱走兵か」
勇はロシア語で問うた。僅かな可能性でも掛けてみる。黙って死ぬよりはよっぽど良い。そう思いながらも、鈴江のリュックの場所を密かに確認していた。そこには、包丁が入っている。
「友達が舟を出してくれる。それに乗らないか」
勇の言葉に兵士が眉を寄せた。心臓が早鐘のように打つが、冷静を装って続けた。
「俺は北海道に山を持っている。それをやる」
「本当か?」
「本当だ。俺は木こりだ。山はやるから俺を雇ってくれ。森のことなら何でも出来る」
「その手でか? チェーンソーを扱えるのか?」
「チェーンソー?」
聞き慣れない言葉に問い返すと兵士は声を立てて笑った。
「日本人はまだ斧で木を切っているのか。成る程。日本でチェーンソーを売る商売も悪くないな。……ドイツ人に村を焼かれ家族を殺された。帰る場所を失って仕方なく兵士になったが、終わりが見えない戦いにウンザリしている」
銃口を向けたまま、兵士はそう言って目を眇めた。勇の言葉の真偽を占っているようだ。思いつくまま付いた嘘は、勇に希望を与えた。疎開船に男は乗れない。漁師に頼んで舟を出して貰うか、最悪奪う。北海道に山など持っていないが、命があれば何とでもなる。命さえ、あれば。
兵士の銃口が、背後に立つ鈴江に向けられた。銃口が僅かに上下する。その意味を勇は瞬時に察した。鈴江の手首を掴み、その身体を自分の前に引っ張り出した。
「親愛の証だ」
兵士が銃を下ろし、にやりと笑った。
「いいだろう」
鈴江はロシア語が分からない。怯える鈴江に「すぐに終わるから我慢しろ」と伝えた。鈴江の顔に恐怖の色が浮んだが、その身体を兵士の方へ押し出した。
手荒な事はしなかった。動物の行為のように最低限の事を、兵士は鈴江に行なった。それを見下ろす勇の腹に、吐き気をもよおす怒りが湧いた。自分の所有物をロ助に侵されている。その屈辱は耐えがたかった。背けた視線の先に、鈴江のリュックが見えた。中に手を入れ、硬い柄を掴んだ。
尻をむき出しにした背中は無防備だった。両手で柄を持ち、体当たりするように突き立てる。刃先が肉を裂いて進んでいく。手が背に当たった事に気付き、包丁を引き抜いた。血が噴き出し、兵士は呻きながら仰向けに倒れた。青い瞳が何故だと問いかける。鈴江が這うように兵士から離れた。勇は足を持ち上げ、傷口を踏みつけた。背中に敷かれた熊笹が赤く染まっていく。苦しげな呻き声が聞こえた。その顔に唾を吐きかけ、むき出しの局部を踏みつけた。何度も、何度も。
足が上がらなくなり、蹴るのをやめ肩で息をしながら兵士を見下ろした。青い瞳が見開かれていた。空が乗り移ったように青く澄んだ瞳にはもう、命は宿っていなかった。
周囲が静まりかえっている事に気付いた。霧が晴れ、日差しに朝露が光っている。戦闘が終わり、森に朝がやって来た。森に生きるもの達は、人間同士の殺し合いが終わるのを息を潜めて待っている。
カッコウが鳴いた。「もう済んだのか」と問うように。