その森は人の背丈ほどもある熊笹で覆われていた。数日前に降った雨で笹は湿り、身体を濡らし足を滑らせる。森には霧が立ちこめ、視界を狭めていた。銃撃の音は近く遠く、絶え間なく聞こえている。熊笹や霧が隠すのは、自分たちの身体だけでは無い。この森のそこかしこにいる日ソの兵士も、避難民の姿も皆隠してしまうから、笹が揺れる音がする度身体を凍らせる。

 不意に後方の藪が大きくガサガサと動き、小さな悲鳴が聞こえた。女のものだとすぐに分かった。避難民が近くにいる。足でも滑らせたのだろうか。そんな醜態はもっと離れた場所でやれと胸中で悪態を付き、とばっちりを喰わぬよう鈴江の身体を抱き寄せ、口を塞いだ。そのすぐ後に銃弾の弾ける音が聞こえ、女の悲鳴が重なった。身を屈めた兵隊がすぐ目の前を歩いて行く。雑草のようにくすんだ緑は、ソ連兵の軍服だ。鈴江の身体が震える。声を出さないようにと、塞いだ手に力が入る。「助けてください」と震える声が言った。

「女だ」
「なかなか上玉だな」

 ソ連兵が笑いながら言う。国境近くの古屯で育った勇は、日常会話くらいならロシア語を理解できた。熊笹がこすれる音が大きく響き、女が抵抗する声が聞こえる。人を殴る鈍い音とともに小さな悲鳴があがる。しばらくして熊笹を揺らす音は規則的なものに変わった。鈴江が手で両耳を塞いだ。下卑た笑い声が聞こえ、しばらく間を置いて同様の音が聞こえた。音が途切れ、二つの笑い声と命を請う女の声が交錯し、銃弾の音が終止符を打った。ソ連兵はまた姿勢を低くして、向こう側へと離れて行った。

 こちらに気付かず立ち去ってくれたと安堵する。激しい銃撃の応酬が始まった。それはずっと遠くのようだ。だが、いつこちらに戦火が流れてくるかは分からない。今動き回るのは難しいと判断し、顔を挙げて周囲を探る。十メートル程先にトウヒの巨木を見付けた。

「あの木の根元まで行くぞ。音を立てるな」
 鈴江にそう言い、這うようにそこへ向かった。鈴江も付いてくる。音を立てるなと言っているのに、カサカサと大きく笹を鳴らすので、思わず舌打ちをする。

 笹が平たく潰れている場所に出くわした。そこに、二体の死体が転がっていた。一体は頭を打ち抜かれた老女で、もう一体は下半身を露出した女だった。まだ若い女の顔はドロに汚れ、額から無数の赤い筋を流していた。

「酷い……」
「放っておけ」

 鈴江が駆け寄ろうとするのを強い声で引き留める。無駄な行為が命取りになる。その事にまだ気付いていないのかと、愚鈍な女にいらついた。

 トウヒの周囲はややせり上がっていた。根元はやはり熊笹に覆われているので、身を隠しながら辺りを見回すことが出来た。

「ここで戦闘が終わるまで待とう」
 腰を下ろし、リュックから手ぬぐいを取り出して汗を拭いた。汗を吸っては乾きを繰り返した手ぬぐいは、雑巾のような臭いがした。

「戦闘が終わるって……。どうなったら終わるんですか?」
「どっちかがどっちかを退却させるか全滅させたら終わる」
「どっちかって……。どっちが、勝つんでしょう?」
「日本に決まってるだろ」
 いらついてそう言い、唾を吐いた。
「でも……。日本は戦争に負けたって……」
「がせだ。日本が負けるわけ無いだろ」

 苦々しく吐き捨て、水筒を取り出し喉を満たす。鈴江はリュックをまさぐり、油紙の包みを取り出した。中にはコケモモが入っていた。緋色に熟れた実を掴み、口に入れて噛む。甘みが脳天に滲みるようだ。この実を摘んだのが何時なのか、雨で身体が濡れないよう崖下で夜を過ごしたのが何時なのか。時間の感覚はもう無かった。生き残るために必要な機能だけが、身体に残っている。