鬼の軍人と稀血の花嫁二

 朝食後、予定通りふたりはある場所に向かった。

 (ここに来るのも、久しぶりね)

 都のはずれにある廃村。腐敗が進んだ家屋がぽつぽつとあるだけで人気は一切ない。

 暮らしていた頃はなんとも思わなかった景色だが、いまになってとても寂しい場所だったのだと、深月はあらためて感じた。

 「この道をまっすぐ進むと、養父(とう)さまのお墓があります」

 軽く腕を上げ、目的地を示す。

 動作に合わせて揺れるのは、髪に挿した鈴蘭の簪。淡い縮緬地の華やかな着物に花籠を彫刻した帯留め、肩には洋物のショールが掛けられている。

 「あの林の先だな」

 深月の隣を歩く暁はゆっくりとうなずいた。今朝の軍服から様変わりし、灰みを帯びた着流しに羽織姿の彼は、どこを取って見ても風情ある美丈夫であった。

 村や里規模の集落ではあきらかに注目を浴びてしまう整った風貌だが、数年前からこの近辺に住人がほとんどいないことを深月は知っている。

 だからこそ養父――貴一は、この場所で深月を育てることを選んだに違いない。

 「つきました」

 「ここが貴一殿の墓か」

 墓に到着し、両者は墓石の前に佇む。辺りは雑草と枯れた枝葉がある程度で、思いのほか荒れていない。しかしそれは墓と言うには些か粗末な、小さな石で囲われただけの墳墓だった。

 (暁さまも驚いているでしょうね)

 無理もない。火葬すらおこなえなかったのだ。

 埋葬だけはなんとか当時この近辺に暮らしていた老夫婦の手を借りてできはしたが、それでも華族の出である暁からすればぞんざいに思われる出来だろう。

 「手を合わせても構わないか?」

 「え……あ、もちろんです」

 深月の想像に反し、暁は墓の作りに関しては特に気を留めていなかった。

 墓周りと墓石を掃除し、持参した供花と、石製の水呑、キャラメルの包みと饅頭を備える。菓子は甘味好きだった養父のために暁が墓に向かう途中で買ってくれたものである。

 ある程度墓を整えたあと、深月はしゃがんで線香を置き、胸の位置に両手を添えて合掌した。

 (養父さま、顔を出すのが遅くなってごめんなさい。この数年、そしてこの数ヶ月で色々なことがありました)

 ときおり線香の薫りが鼻腔に伝う。こうして墓を訪れることができたのは、女中奉公として庵楽堂に務めるより前なので五年ぶりになる。没頭するままに自分の近況を報告し終える頃には、すっかり線香は燃えきっていた。

 「お待たせしました」

 「もういいのか?」

 「はい、十分です。連れてきてくださってありがとうございます」

 深月は保護される立場にあるため、ひとりで外出することができない。

 敷地外を出歩くには、深月の素性を詳しく知る腕が立つ者の付き添いが必須であるため、自然と暁が同行者になるのだ。こうした観点から深月が暁の花嫁候補であるのは都合がいい。

 「驚きましたよね。こんな辺鄙な場所で、お墓も手作りですし」

 華族の立派な墓と比べるのもおかしな話だが、つい情けない声を出してしまった深月を暁は不思議そうに見返した。

 「生前の貴一殿から、極力人の目を避けるように言われていたんだろう? 君はその意に応えて墓まで用意した。出来得ることをしたのだから、恥じる必要はない」

 相変わらず暁の言葉は真っ直ぐである。

 思ったことを言っているだけに過ぎないのだろうが、取り繕わずに発せられる彼の言葉は、いつも深月の心持ちを前に向かせてくれる。

 「それに……いくら墓石が立派だとしても、故人が安らかに眠れているとは限らない」

 無意識に呟かれた独り言に、深月はそっと横顔を覗き見た。

 (暁さま?)

 どこが浮かない顔の暁に一抹の不安が過る。けれど些細な表情の変化であるため、口に出していいものか躊躇われた。

 そうこうしているうちに帰路につく頃合いとなり、深月は供え物を片付け、その場をあとにする。

 来た道を引き返している途中で、暁が後ろを一瞥しながら言った。

 「時間を作ってまた来よう」

 「いいのですか?」

 「ああ、君がよければ」

 来ようと思えばいつでも来られる距離だが、自由の身とは言いがたい深月にはありがたい提案だった。

 「はい、ありがとうございます」

 深月はうなずき感謝を伝え、遠くに見え始めた帝都の街並みを眺める。

 穏やかな陽気に照らされ、薄紅色の花が広い都を囲むように風景に溶け込んでいた。

 「桜もいよいよ見頃ですね」

 「……そうだな、満開も近い」

 都に近づけば近づくほどに桜の気配は色濃くなっていく。

 散った花びらが風に乗り、宙を舞ってひらひらと可憐なまま地面に落ちるのが目に入った。春の嵐でいくら散ろうが、帝都に植えられた桜の本数を考えると、しばらくはこの情景が日常の一部になるのだろう。それは帝都の民には馴染み深い季節の風物詩でもある。

 「桜――」

 綺麗ですね、と言おうとして、深月は唇をそっと閉じた。

 確認できた暁の横顔が、あきらかに心此処にあらずになっていたからだ。

 (やっぱり、気のせいではなかった……?)

 墓石の前で杞憂かもしれないと結論付けた思いが少しずつ潰えていく。

 はっきりと断言することはできないけれど、彼はいつも通りにしているようでいて、その横顔からはうら悲しさのような感情がにじみでていた。

 「暁さま、あの」

 どう言っていいかわからず、結局名前を呼ぶしかできなかった深月に、暁の視線がそっと降りる。

 「どうかしたか?」

 ふ、と緩んだ優しい笑みが、このときばかりは遠くに感じた。勝手に手が、彼に向かって伸びそうになる。

 「いえ……」

 その手をぎゅっと握りしめ、深月は言葉を切った。

 暁には自覚がないのかもしれない。それでもやはり桜を瞳に映すたび、彼の目の奥に仄暗い影が落ちているのは確かである。

 その理由を暁から聞かされるのは、数日後のことであった。
 祭事の気配にあてられ一層にぎわう中央区画。

 老舗から新店まで多く立ち並ぶ大通りの一角には、流行りの洋菓子や紅茶を売りにした喫茶『ぼんじゅーる』が居を構えている。

 女給目当てに紳士が通い詰めるカフェーと違い、渡来品に囲まれたほどよく明るいハイカラな内装の店内は、流行に敏感な女学生の憩いの場として重宝されていた。

 蓄音機の音色に混じって聞こえる雑音すら洒落た喫茶店ならではの一興として楽しまれている。そして今日もこの場所では、近くの東桜女学校に通う少女たちが楽しい午後のひとときを過ごしている最中だった。

 「知っているわ、私の家でもその話で持ちきりよ」

 甲高い声が聞こえてきたのは、奥に設置された席からだ。

 丸い卓子(テーブル)を囲むように座しているのは、少々顔にあどけなさが残る少女たち。高揚した様子で熱のこもった会話を繰り広げている。

 「噂ではなく本当なのね。あの朱凰家の、暁さまに婚約者が現れたって!」

 ひとりが声に出すと、各々が落胆の色を隠すことなくため息をこぼした。

 少女たちの実家は、それぞれが名を連ねる華族家門。良妻賢母となるため名門女学校の生徒として日々教育を受けている。そんな花盛り真っ只中の年頃である少女たちの座談には、毎回と言っていいほど話題にあがる人物がいた。

 その人物こそ、帝国軍特命部隊隊長の朱凰暁だ。

 家柄は天子一族の守護番と誉れ高い公爵位の朱凰家。家格だけでも凄まじい影響力。加えて当の本人は容姿を売りにする花形役者も泣かせる風采のよい青年ということで、恋心や憧れを抱く華族令嬢は多くいた。

 だからこそ、耳に届いた知らせにこうも一憂しているのである。

 「昔ながらの許嫁というわけではないでしょう? これまでそういった話を耳にしたことはないもの」

 「政略的なものかしら。でも、肝心な相手の詳細はいまだにわからないことだらけよね。どこの家のご令嬢なのかもわからないし、名前も聞かないわ」

 「華明館で開かれた夜会に一度出席したことがあるみたいよ。朱凰家に釣り合うお家柄なんて限られるけど、一体どんな人なのかしら」

 「うちの使用人が街で一度見かけたことがあると言っていたの。じっくり確認できたわけではないみたいだけど、身なりもしっかりしていてとても綺麗な人だったそうよ。なにより仲睦まじくて、お似合いだったって」

 少女たちは再び深いため息を落とした。

 「わたくしたちはまだ憧れで済んでいたからいいわ。でも上のおねえさま方は面白くなさそうよね」

 「最近まで積極的に縁談状を送っていた方だっているはずだし、次の東桜会を考えると少し気が重いかも」

 東桜会とは、東桜女学校の卒業生と在学生の交流を目的とした集いの場であり、月に一度の頻度で行われていた。

 基本的には和気あいあいとした集まりである。ただ、次回参加予定の卒業生の割合が二十歳未満と比較的年若く、朱凰暁にお熱なおねえさまが少なくないということを彼女たちは事前に把握済みだった。

 「婚姻を先送りしているおねえさま方にとっては、暁さまが一番の優良株だったでしょうしね」

 女学校は良き妻、良き母となるための教育を施し、縁談や見合い、婚姻の泊付けとして必要とされる一方、文明開化により広まった様々な西洋式は、新たな自立促進の概念を定着させる場としても注目されていた。

 女性の自立と一括りに謳えば大層なものだと思われがちだが、要は女学校卒業後に家業の手伝いや就職をし、未来の夫のさらなる支えとなる経験を積み、婚姻を遅らせるという行為が一定数増えてきたということ。

 そのような目新しい価値観が回り始めたからこそ、婚約者の影がない暁の隣に立つ栄誉を誰が手にするのか、いないならいっそ自分が支えて差し上げたい、と考える華族令嬢が今までそれなりの数いたのである。

 「永桜祭の特別稽古だけでも忙しいのに、嫌な時期に幹事役を任されてしまったわね、わたくしたち」

 冗談めかした発言に、ひとりを除いて一同はくすっと笑いながら同意した。

 「ひとまず当日は話題に気をつけるようにしましょう。ねえ、雛さん。あら――雛さん?」

 一旦話に区切りをつけた少女が、隣に座る少女に声をかける。

 彼女はこの卓子でただひとり、暁の話題に参加せず聞き専に徹していた人物だ。

 「朱凰、暁……」

 「え? なあに、雛さん。なんだか顔色が悪いわ」

 気遣う声は少女に届いていなかった。

 髪の上半分をまとめてリボンで結い上げ、愛くるしい面立ちを険しく歪めた少女は、両手を強く握り締める。

 「そんなの、許せない」

 激情を押し込めた細い声音は、すぐさま蓄音機の音にかき消されていた。
 目覚めると、西洋の作りを模した天井が広がる。

 すっかり見慣れた起床時の視界。深月はもぞもぞとぬくもりに包まれる毛布の中で身じろぎし、毛布を整え寝台を抜け出した。

 女中奉公の起床時間が染み付いている深月の朝支度は早い。

 良質な手触りの着物に袖を通し、帯をきゅっと締め、黒焦げ茶色の髪に櫛を通す。朋代が用意した髪油を毎日欠かさず塗り込んでいたおかげで、痛みきっていた髪は本来の輝きを取り戻した。規則正しい食事で肌艶も申し分なく、白い頬は血色良くほんのり色づいている。

 (どこもおかしくないかな……?)

 姿見の前でくるりと身体を回転させ、念入りに確認する。

 名目上、深月は朱凰の分家からやってきた箱入り娘、そして暁の未来の花嫁となっている。それが偽りの肩書きだとしても、説得力を持たせるための努力は怠らない。

 外出用の際は朋代が率先して着付けからおこなってくれるが、本邸女中頭の朋代を気遣い、近頃朝はひとりで支度を済ませるようになった。申し出たとき朋代は少し残念そうではあったが。

 (たぶん、問題なさそう)

 着替えが終わり、ちょっとだけ肩の荷が下りる。

 身につけた着物は日常使いで用意されたものとはいえ、これまで自分が着ていた古着とは価値が違いすぎるので、いつも慎重に取り扱っていた。

 (あとは)

 続いて、深月は化粧台の椅子に腰を下ろす。

 白下地、無鉛白粉、眉を整えるためのものから、目元を華やかにさせるものと、並べられた数々の化粧道具を前に深月の伸ばした手が止まった。

 (数が多くて、どれがどれだか)

 化粧は嗜みとされてはいるが、深月が道具に触れるようになったのはここに来てからだ。朋代から一通りの説明を受けているとはいえ、いざ実践しようにも指先が言うことを聞いてくれない。

 就寝前や空いた時間を利用して練習しているだが、腕が上がった試しはない。

 養父であった貴一も、亡くなるまでは深月に学や知恵を施してくれてはいたけれど、いわゆる淑女の心得にはほとんど触れてこなかった。唯一少し自信があるとすれば刺繍くらいである。

 教えを請うなら朋代が適任だろう。彼女は深月の事情について深く追求してこないし、引き際を弁えている。とはいえ朋代は深月を『朱凰の分家筋の令嬢』と思っているので、華族の娘なら当たり前に触れてきたはずの素養が身についていないことを、あらためて打ち明けるのには迷いがあった。

 (自分の手ですべて済ませられるように、いい加減うまくならないと)

 背筋を伸ばし、深月は気を引き締めて鏡に向き直る。

 軽めに白粉と、小指の平にちょこんと乗る程度の薄い紅を唇につけ……そっと指に残った紅を拭う。練習はしていても、いまだにこれが深月の精一杯だった。
 深月が暁の花嫁(候補)だということは、本邸を寝床とする一般隊員たちも周知の事実だ。

 公私混同で女をそばに置くなどけしからん――という反発がいまのところ発生していないのには、特命部隊がほかの軍人と違い特殊な任務を日夜こなしているからにほかならない。

 人間の血を糧とする禾月、生き物に取り憑き民を襲う悪鬼。それらを公に悟らせず相手にし、常に危険と隣り合わせの隊務を遂行する彼らからしてみると、事情をすべて理解し職務後に労いの言葉をかけてくれる存在は新鮮で、なにより貴重だった。

 「深月さん、おはようございます」

 「おはようございます。お勤めご苦労さまでした。どうかゆっくり休んでください」

 夜間巡回に出ていた隊員が帰ってくるのは、だいたいいつも明け方過ぎ。

 ちょうど深月が別邸の中庭掃除を終える頃と重なるので、箒を片付けたあと、時間が合えば正門付近まで行って出迎えていた。

 出迎えを初めたばかりの頃は、帝都の治安を守ってくれている隊員に上から「ご苦労さま」と言うのもどうかと思ったのだが、ここではあくまで暁の花嫁として振る舞う必要があるため、気丈に見られるよう努力している。

 「……あ。あの、腕から少し血が出ています」

 続々と本邸に戻っていく隊員のうちのひとりが負傷していることに気がつき、深月は小走りで駆け寄った。

 「ああ、きっと最後に相手した悪鬼が引っ掻いたせいですね。これぐらいなら唾を付けていれば治るんで平気です!」

 ひらひらと腕を左右に振る隊員に、深月は顔を曇らせた。

 (ただの傷じゃない。あやかしものが付けた傷なのに)

 いくら妖刀使いの精鋭で生傷に慣れているとはいえ楽観的すぎる。

 そう、この部隊……出迎えをするようになって気づかされたのだが、意外にも大雑把で脳筋な人間が多かった。

 むしろ彼のように逞しく柔軟性があるほうが特命部隊ではうまくやっていけるのだろうか。良く言って肝が座っている一般隊員らに深月は常々驚かされる。

 「よければこの塗り薬、使ってください」

 深月はあらかじめ用意していた軟膏瓶を差し出す。

 「え⁉ いやいや、あとで医務室に寄りますので!」

 わざわざ深月から受け取るのは気が引けたのか、隊員は大げさに首を振った。

 「じつは不知火さんから頼まれていたことがありまして。もし、怪我をした方がいたら渡してほしいと」

 帝国軍お抱えの医者、不知火蘭士は、稀血である深月の定期診断を請け負っている。別邸にも専用の私室が用意されているが、本部からひっきりなしに要請を受けるため現段階での使用頻度はかなり少ない。

 そのため蘭士からは「俺は常駐していれるわけじゃねえからな。唾付けときゃ治ると抜かす阿呆どもがいたら渡してやってくれ」と頼まれていた。

 (本当に不知火さんの言う通りになったわ)

 薬を渡すのは今日が初めてだったが、まさか蘭士の言葉そっくりに発言する隊員がいるとは思わなかった。

 「唾を付けて治す怪我人に渡してほしいと言付かっていましたので、どうぞお使いください」

 蘭士の予想が的中したことに、深月は思い出して小さく笑みを浮かべる。

 「あ、は、はい。では遠慮なく」

 けれどすぐさま視線を感じて顔を上げると、目の前の隊員や、本邸に向かう途中だったほかの隊員たちが足を止めて深月を食い入るように見ていた。

 (どうしよう、おかしなこと言ってしまった?)

 失言を恐れた深月は、内心焦って背中に冷や汗までかく。ようやく自然に話せるようになってきたとはいえ、これまでの境遇上慣れないことばかりで常に手探り状態になっているのはわかっているのだが。

 不安になりつつも、深月は尋ねた。

 「どうかされましたか?」

 「いえ、なにもありません!」

 隊員は口をもごつかせると勢いよく返事をする。

 顔が若干赤くなっているのは、角度と朝焼けの光のせいだろうか。

 そのとき、隊員の背後にある正門から、鶯色の髪の青年が潜り歩いてくるのが目に入る。彼は深月と隊員たちの姿を確認すると、何事かと不思議そうな眼差しを向けてきた。

 「あなたがたは、そこでなにをしているのですか」

 「羽鳥副隊長、お疲れさまです」

 「お疲れさまです!」

 その場にいた一般隊員は機敏に動きを揃えて羽鳥に敬礼をした。羽鳥は彼らに反応を示しつつ、視線を深月へと移動させる。

 「おはようございます、深月さん。今朝もお早いご起床ですね」

 「羽鳥さま、おはようございます」

 体の向きを変え、深月は挨拶を交わした。

 羽鳥は、十八歳という驚異的な年齢で特命部隊の副隊長職を務める若き軍人であり、なにに関しても物怖じせず好き嫌いがはっきりとした性格の青年だ。

 隊長の暁を心底尊敬しており、暁の家族や親しい人間が深月とは別の稀血に葬られたことも知っている。

 敬愛する隊長の複雑な事情ゆえ、少し前までは『あやかしもの』と一括りにして深月を警戒し敵視していたが、今ではすっかり態度が緩和され気遣ってくれるようになった。

 「ところで、夜間巡回に出ていた者は早く休むようにと言ったはずですが。ここで一体なにを騒いでいるのですか」

 羽鳥は隊員それぞれに視線を流す。

 「申し訳ありません。わたしが引き止めてしまったのです。不知火さんから頼まれていた薬をお渡ししたくて」

 自分のせいで隊員が咎められては申し訳なくて目も当てられないと、急いで弁明する。思いのほか羽鳥はすぐに状況を理解したようだった。

 「ああ、先日不知火さんが言っていたあれですか。君、怪我の処置は速やかに終わらせてください。膿んでしまっては隊務に支障がでますから。それと明日までに報告書の提出も忘れずに」

 「は、はい~!」

 深月から軟膏瓶を受け取った隊員は、報告書と聞いて口の端を引きつらせた。隊務中の負傷はどんなに軽くても報告義務が発生する。ただ、怪我の内容が擦り傷程度の軽いものだと書類記入を面倒に感じる隊員は多い。

 「最近、報告義務を疎かにしている者が一定数見受けられますが……僕がしびれを切らして暁隊長の耳に入れる前に、姿勢を改めてくださるようお願いしますね?」

 冷ややかな薄ら笑いを作りながら、羽鳥は念押しする。

 羽鳥の迫力と、隊長の名が効いたのか、隊員たちは身体が勝手に動いたように慌てて敬礼した。

 「ご理解いただけたようで。では、食事と取る者は速やかに食堂へ、先に就寝を希望する者は部屋へ向かってください」

 「はい、副隊長!」

 「承知しました!」

 それから蜘蛛の子を散らすように隊員たちは本邸へと走っていった。年若くとも、彼には上に立つ者としての矜恃があるようだ。

 「まったく、弛んでいますね」

 「すみません、結局皆さんの邪魔をしてしまいました」

 「むしろあなたの前で注意を受けたので、彼らにはちょうど良い薬になったのではないですかね」

 「いまのが、薬ですか?」

 どういうことだろう、と深月は考えるが、よくわからなかった。

 「あまり深く考えることではないですから」

 「はあ」

 釈然としないが、羽鳥は詳しく話すことではないと言いたげな態度だった。

 それでも一応、深月は軟膏瓶を渡した隊員の様子について羽鳥に話すと、彼は目をぱちぱちと幼い子どものように瞬かせた。

 「それも、あなたに非はないと思いますので」

 なにかを理解した上で、羽鳥は呆れたようにため息を吐いていた。
 その後、深月は本邸の炊事場に顔を出した。

 朝食の時間が迫っていることもあり、中ではおかずや汁物をよそったり、膳を運んだりと、女中たちが忙しなく動き回っている。

 その風景に以前の懐かしさを覚えながら、深月は話しかける機会を窺う。

 すると、近くを通りかかったからし色の着物の女中が気づいて声をかけてきた。

 「お嬢さま、おはようございます。こんな場所になにかご用ですか」

 「おはようございます。お忙しいところすみません、鈴の」

 「ああ、猫の餌ですか。用意しておきました」

 深月の言葉を途中で遮り、女中は炊事場の隅から鈴の朝ご飯が入った器を持ってきた。

 「どうぞ」

 淡白な声と素振りで渡された器を、深月はしっかり両手で受け取る。

 「いつもありがとうございます、園子さん」

 「あ、いえ」

 名前を覚えられていたことが意外だったのか、園子という名の女中はバツが悪そうに担当場所へ戻っていった。

 深月は刺々しい視線を感じる炊事場に深々とお辞儀をし、その場を離れた。

 「やあね、嫌味かしら。あのお嬢さま」

 「あんなにご立派な着物で炊事場に入ってきて、もしここで汚したらあたしたちが咎められるのに」

 「だいたいここをどこだと思っているの。隊長さまの花嫁だか知らないけど、猫まで飼い始めるだなんて。お家の庭と勘違いでもしているのかしら」

 背後から聞こえてきた言葉の数々に深月は悄然とする。

 深月は他人よりも耳がいい。あやかしものの血を引く禾月も似たように身体能力が高くなるという話だが、それは稀血の深月を例外ではなかった。

 (……前にも、似たようなことがあったわ)

 働き手がいればそれだけ意見が集う。庵楽堂で働いていたときも様々な雑言が飛び交っていた。

 この距離では自分の意志と関係なく、自然と音を拾ってしまう。

 自覚はあったけれど、深月は本邸の女中たちからあまりよく思われていなかった。直接嫌われる行動を取ったことはない。でも、彼女たちの言い分を聞くに最もだと思う部分が多かった。

 全員がそうだとは言わないが、裕福な家の娘は自尊心が高く、使用人を見下す傾向にある。母が娘に、そう躾けることもあるからだ。

 例を上げるなら以前の奉公先の愛娘、麗子もそうだった。

 役立たずな人間は問答無用で折檻され、虫の居所が悪いと難癖をつけられる。深月の陰口を言っていた彼女らは、そういったお屋敷で働いていた経験がある者ばかりのようで、突然現れた深月の存在を警戒していたのだった。

 鈴の世話は成り行きとはいえ、我が物顔で敷地を使用しているように映っているのだろう。炊事場に綺麗な着物姿で現れたことで、忙しく懸命に働く彼女たちには嫌味に見えたのかもしれない。

 (どうすればいいんだろう)

 触らぬ神に祟りなしとも言うが、深月が居場所をここに望んだ以上一切関わらずにいるのは不可能だ。しかし深月は他人との関係構築を積極的におこなったことがない。正しいやり方もわからない。

 それどころか以前は目の敵にされるのが当たり前で、改善しようという考えすら浮かばなかった。

 使用人のことなので朋代に相談すればなにかしら道筋が見えてくるかもしれない。けれど朋代は彼女たちにとって上司にあたるわけで、把握されるのをよしとするだろうか。

 伝えてしまったら、より悪印象を与えるのは深月にも想像がついた。

 (まずは名前を、間違えないようにしないと)

 折があって話せる状況になっても、相手の名前すらわかっていないのは失礼だと、深月なりに考える。

 さすがに隊員は数が多いので全員の名前を把握するのには苦労するだろうが、頭の中ですでに姿が記憶されている彼女たちの名前を覚えることは難しくないはずだから。
 昼を少し過ぎた頃、深月は月に数回予定されている訓練稽古を視察するため、本邸に併設された訓練場に赴いていた。

 これも契約花嫁の深月がやるべきことのひとつだ。

 暁の花嫁となる以上、彼を公私ともに支えるため、その隊を十分に理解しておく必要がある。あくまでこれも見せかけの義務ではあるけれど、毎回稽古に打ち込む隊員たちの姿を見るたび、深月は敬意を抱いていた。

 そして、稀血として身体が覚醒した影響により、ある話し声が頻繁に聞こえるようになっていた。

 『オラア、刀の錆にしてやんよ!』

 『ふん、小生意気な。生まれて二百やそこらの若造がいい気になるな!』

 『下手な振りばっかり。もっとうまく使ってよね』

 『おい人間! へばるのが早すぎるぞ!』

 場内のそこかしこから聞こえてくる奇妙な音域の声。これらはすべて妖刀に宿るあやかしものの意思だ。

 (あんなに会話が飛び交っていたなんて思わなかったわ)

 特命部隊の隊員は、刀にあやかしものを宿した妖刀を所持し、これを使い禾月や悪鬼に応戦する。入隊時には『あやかし降ろし』が通過儀礼とされ、その妖刀の主は、宿したあやかしものの声を聞くことができるのだ。

 『キャッ、アタクシとても光栄ですワ! 刀越しとはいえ、天サマと手合わせができるなんて~‼』

 一段と気が高ぶった声のするほうに深月が目をやると、手合わせ中の暁と羽鳥の俊敏な動きが視界に飛び込んできた。

 『面倒くせぇ、俺様は眠いんだよ』

 『エンッ、つれない! 雪梅(ゆきめ)は悲しい! この愛をぶつけるまで気がすまないワ!』

 「こら雪梅、主導権を握ろうとするな!」

 頬に汗を浮かべた羽鳥は、握った妖刀に向かって言い放つ。

 『ヤンッ、アタクシったら。ゆるして羽鳥~!』

 羽鳥の妖刀・雪梅は、この訓練場にいるどの妖刀よりも個性的な口調と性格をしている。暁の妖刀・童天丸とは知った仲のようで、手合わせのたびに好意的に話しかけていた。

 奇妙なこの現状も、何度か経験するたびに深月は徐々に受け入れられるようになった。

 「羽鳥、また右からの振りに反応が遅れている」

 「はい!」

 隊長と副隊長の打ち合いは、一般隊員たちにとっても刺激になる。

 羽鳥の実力は同時期入隊の者と比較しても群を抜いているという話だが、そんな彼との手合わせで逐一指導し、弱点を指摘する暁は別格と言えた。

 「暁隊長、どうしてあんな動きができるんだ?」

 「いまの身のこなし、妖刀が手にあるんじゃ物理的に不可能だろ」

 「それをやってのけるんだからさすが隊長だよ」

 「上位種の鬼を従わせているってんだから、精神力も常人の域を超えてるよ。そもそも俺たちとはなにもかもが別格なんだ」

 一般隊員たちはいつのまにか手を止めてふたりに見入っている。

 耳に入る声色から暁に対する深い畏敬の念が伝わってきた。

 (もちろん生まれついた体格や素質はあるのだろうけれど、いつも人知れず鍛錬に励んでいるわ)

 自主鍛錬について暁は隠しているつもりはないのだろうが、だからといってわざわざ周囲に知られることを望んでいないのも理解している。

 ただ、生まれつきの差だとすんなり納得して、暁の影の努力をなにも知らない彼らの声が耳に入るたびに、深月は複雑な心地になっていた。

 (わたしったら、知ったかぶりもいいところよ)

 自分だってその事実を知れたのは最近のことなのに。

 深月は内側に湧き出てしまっていた身勝手な気持ちを恥じた。

 こんなことで少しでもムキになるのはよそうと、意識をもう一度暁に移したところで、手合わせが終わりこちらに近づいてくる彼と目が合った。

 「暁さま、どうぞ」

 深月は用意していた手ぬぐいを差し出した。

 「ありがとう」

 手合中の研ぎ澄まされた表情が、深月を前にして柔らかくなる。

 ほっとする温和しやかな微笑みに、胸の奥がさわりと落ち着かなくなった。

 「どうかしたのか?」

 おかしな違和感に気を取られていれば、暁がもう一歩近寄って深月の様子を確かめた。

 「ここ、少し赤くなっているようだが」

 「赤……あっ」

 暁の眼差しが、深月の口端に注がれる。

 とっさに脳裏を横切ったのは、紅をはみ出して塗ってしまったのではという可能性だった。

 (鏡で確認はしたはずなのに)

 そうかもせれないと思うと一気に恥ずかしさが頭に募り、動揺から深月は反射的に足を後ろに引く。

 と同時に、もう片方の足首につま先が引っかかり運悪く体勢が崩れた。

 「大丈夫か?」

 ぐらりと高い天井に投げ出されそうになった視界が、力強い腕に引き戻される。深月の口から音にもならない息がこぼれた。

 まばたきの間に距離を詰め、抱きとめてくれた暁の顔が近い距離にあったからだ。

 「大丈夫です。ありがとう、ございます」

 なんとか声に出す。仰向けなので少し吃ってしまった。

 「そうか、よかった」

 多少驚いていた暁もそれを聞いて安堵をみせる。

 腰には手が回されたまま、しっかり立たせるまで彼は恭しく深月を支えてくれた。

 『ステキッ! 天さま、アタクシも倒れそうになったら支えて~‼』

 『いまのおまえのどこに支える腰があんだよ』

 『キャッ、それってつまり生身のカラダのときならもたれかかっていいってこと⁉』

 『言ってねえ』

 童天丸と雪梅の軽快なかけ合いに、立ち直した深月ははたと気づいた。

 場内の注目を浴びてしまっていたということに。

 「……っ」

 血の気がさっと引いたあと、すぐに沸騰するような感覚に変わる。

 いくら隊員たちに暁と親しい間柄として把握されているとはいえ、訓練稽古の最中に見せていい場面ではなかっただろう。それに不慮の事態とはいえ、抱き合っているように見えてしまったこともあり、これでは暁も隊長として示しがつかなくなってしまうと深月は思った。

 「おかげで転ばずに済みました。訓練稽古も終わる時間ですし、手ぬぐいはわたしが洗わせていただきます。皆さま、お先に失礼します」

 なるべく語頭で声を張り、暁はただ抱きとめてくれたのだということを明白に証明しながら、会釈を済ませた深月は手ぬぐいを持って訓練場を出ていった。
 手ぬぐいを洗うなら水道でもよかったが、頭を冷やす目的もあり深月は敷地内で唯一残っている古井戸までやってきた。

 鶴瓶桶で水を汲み上げると、光に反射した水面をそうっと覗き込む。

 (あんまりよく見えない)

 水鏡には自分の顔の輪郭がぼんやりと映し出されるのがやっとで、口の端に紅がついているのかなんてわかりようがなかった。

 まずは部屋に戻って確認すればよかった。しかし、それすらも思いつかないほど気が動転していたのだろうと、深月は自分の行動を振り返る。

 「わたし、最近変だわ」

 ここは別邸の庭の一角なので、本邸の人間が来ることは滅多にない。

 誰もいないので、つい本音が漏れてしまった。

 これまでの自分なら、みっともない格好を見られて恥ずかしいと思うことはなかった。というより、劣悪な女中奉公の環境下で段々と格好を気にする余裕がなくなっていたのである。

 だというのに、暁に化粧の不備を見られたぐらいであれほど動揺するなんてどうかしている。まず動揺した理由というのが、不格好な姿を晒してしまったことへの申し訳なさではなく、ただ暁に化粧の失敗を見られて恥ずかしいという個人的なものだったから余計に。

 (でも……それだけでは、ないのよね)

 水鏡から顔を離し、深月はきゅっと両手を握って胸に当てた。

 (いまは、なんともない)

 最近、鼓動が耳につく瞬間が多くある。

 それは決まって暁がいるときだ。原因はいまだに突き止められていない。

 いまでは一番に信頼できると思える人でそばにいるとほっとする。

 満月とよく似た色の瞳をじっと見つめれば、心は穏やかになっていく。

 これまでと変わらない部分もあるのに、ふとした拍子に落ち着かなくなったり、たまに息が詰まって直視できないということが増えてきた。

 (あれだけ綺麗な顔をしているんだもの。むしろそれが当然といえば当然なのかもしれないけれど)

 理由付けて納得しようとしても、悩みが解消された気はしない。

 第一彼の顔なら出会った当初から何度も見ていた。なぜいまになって戸惑いと緊張が膨らんでいるのかが謎である。

 「……もっと、お役に立ちたいのに」

 そばにいたいと願った自分を、彼は受け入れてくれた。

 深月にとって暁は、真っ暗な道を照らしてくれた導のような人。

 どんなときも自分を貫く特別な彼に惹かれて、そんな彼の特別になれたらと、気づけば考えていた。

 だからこそ自分にできることは実践したいし、手伝いたいと思う。

 花嫁候補を装うための格好や努力も、蘭士から頼まれた薬の件も、そういった気持の表れからの行動だった。

 日に日に増していく嬉しさや喜びと、相反する扱いきれない衝動のようなもの。何重にも絡まっていそうな悩みの糸がほどけることはなく、もう深月にはなにがなんだかわからなかった。

 (少しでも不調が出たら、暁さまと蘭士さんに報告しなければいけない。おふたりともここずっと忙しくしているのに、些細なことで迷惑を掛けてしまうのは心苦しいわ)

 それでも保護対象である稀血の自分には、彼らに報告する義務がある。

 様子を伺いつつ、深月は彼らの手が空いた頃合いを見計らって告げてみようと決めた。

 ……このときはまだ、養父より親しい間柄の異性などいなかった深月には、判断がつかなかったのである。

 自分の抱える気持ちに、恋や愛といった言葉を当てはめるのだということを。
 今日は朝から暁が本部に出向いており、深月は朝昼共にひとりで食事を終わらせた。朋代の手伝いで別邸横の花壇の手入れをし、余った時間に自室で眉を描く練習をしていると、暁の帰宅を知らされる。

 彼に一声かけるため、そして自分の不調について話す機会なのではと思いながら暁の執務室に入ると、室内には暁のほか、白夜乃蒼と蘭士の姿があった。

 「やあやあ、深月。元気にしていた?」

 「よう、深月ちゃん」

 透し彫りのソファに腰を沈めた蘭士は、片手をゆるりと上げた。

 「乃蒼さん、蘭士さん。おふたりとも、いらっしゃってたんですね」

 「うん。蘭士くんとは外でばったり会ってね。いやー、それにしてもこの時間って日差しが強いね。出歩く時間を間違えたよ」

 からからと笑い声を発し、蘭士の隣に座る乃蒼は頭を覆う中折れ帽をはずした。光沢のある銀鼠色の髪の下で蒼色の瞳が楽しげに揺れていた。

 樺茶色の背広を着こなす姿は、気品を兼ね備えた紳士然としている。

 口調や素振りは飄々としているが、彼はれっきとした禾月の現首領であった。

 「白夜殿は、君の様子を見に来たらしい」

 そう言った暁は、ふたりの反対側に設置されたソファに腰を下ろしていた。いまだ所在なく立ち尽くしている深月に目を向けると、とん、と左側の空いた場所に手を置く。

 「君はここに」

 暁と視線が重なる。動悸は起きなかった。

 「はい、失礼します」

 特に不調もでなかったので深月は隣に安心しきって座るが、それからすぐにはっとして小さく頭を下げた。

 「暁さまも、おかえりなさいませ」

 「ああ、ただいま」

 深月の出迎えの言葉に、暁はふっと口元を緩める。

 傍から見るとすっかり板についたふたりのやり取りに、乃蒼と蘭士は密かに見合わせた。

 「ふふ、少し見ないうちに見違えたね」

 乃蒼は安堵混じりの喜悦を顔に浮かべ、深月をじっと見つめる。

 「そう、ですか?」

 身なりには気を遣うようになったので、なにかしら変化はあるのかもしれないが。見違えたと言われると恐縮してしまう。確かに髪は櫛を通して絡まらなくなって格段に手触りもよくなったけれど。

 「顔色が明るくなって、声に張りも出た。言葉を交わすことにも恐怖感も消えてきて、なんといっても幸せオーラが出始めた感じ」

 どうやら乃蒼は身なりの言及ではなく、内面のことを言っていたらしい。

 「おーら……あ、雰囲気のような意味合いでしょうか?」

 「そうそう、挨拶の語源として使われる国もあるんだけど、この場合はそれで大正解。よく知っていたねぇ、えらいえらい」

 「あんた、さっきからべた褒めじゃねぇか」

 賞賛を隣で聞いていた蘭士は、呆気にとられている。

 「養父さまが与えてくれた外来語の書物に載っていた言葉でしたので。たまたま覚えていただけです……」

 気恥しさを通り越し、戸惑いすら覚える深月の視線が膝の上まで落ちていく。誉める乃蒼の様子は、まるで妹の博識さを手放しで讃える過保護な兄のそれである。

 でも、あながち間違いではないのかもしれない。

 深月の母親は、白夜家に生まれた禾月だった。乃蒼の母とは姉妹関係にあり、紛れもなく深月と乃蒼は従兄妹同士なのである。

 とはいえこの事実を知ってからまだ日が浅く、親族と聞いてもいまいちピンときてないのが正直な気持ちだが、乃蒼が深月を顧慮しているのは、この場にいる者には十分に伝わっていた。

 「まあしかし、謙遜のし過ぎはよくないな。なあ、アキ。実際のところ深月ちゃんはよくやってるよな。おどおどして俯いていたのが遠い昔に感じるぜ」

 乃蒼の発言に乗っかる形で蘭士が口を開く。まだ自分の話が続くのかと、深月はぎょっとする。

 そんな深月の心を見透かすように、暁はひとつ咳払いをした。

 「今日のところはその辺にしておけ。彼女が戸惑っているだろう」

 「えー、つれないよ暁くん。僕は君を信頼して彼女を任せているんだから。一番近くにいる君が変化に気づいてくれないと」

 「なんだその面倒な小姑みたいな文句は」

 「……」

 どういう理屈でそうなった、という思いが無言の暁からひしひしと感じられた。にこにこと笑う乃蒼の声音には挑発めいた感情の起伏がある。もはや悪ふざけで言っているのではと、深月は疑惑の目を向けそうになった。

 「はあ……」

 一瞬まぶたを伏せ、暁は小さく息をつく。

 大抵のことはいつも冷静に対処する暁のことだ。当惑してばかりの自分とは違い、ちょうどいい塩梅で受け流してくれると思っていた。……のだが。

 「気づいているに決まっているだろう。彼女の生活を最も近い場所で見ているのは俺だ」

 心外だと言いたげに暁は堂々と声にした。そしてその一言だけでは終わらない。

 「普段どれほど周囲に気を遣い、協調し、溶け込もうと努力しているのかを知っている」

 「あ、あの」

 「表情が明るくなったとはいまさら言うまでもない。口数も格段に増えてその日あった些細なことを嬉しそうに報告してくれることも、以前にはない変化だ。それは俺としても嬉しく思う。白夜殿が納得するかどうかは別として、これからも一挙一動を見守りたいと――」

 「暁さまっ」

 深月の口から短い悲鳴にも似た声が飛び出た。

 暁は自分の主観から嘘偽りない事実を述べたに過ぎず、適当に流しもせず誠実に応えようとしてくれたのだろう。

 生真面目過ぎるがゆえに、同じく素直に真に受けてしまう深月には平静を装って聞いていられる自信がなかった。

 顔の中心にはじわじわと熱が集まっている。このまま耳にしていたら胸が破裂しそうな気がして、我慢できず遮ってしまったのだ。

 よもやいまのも不調による過剰な反応なのだろうか、と変な勘ぐりさえしてしまいそうになる。

 ちょうどここには蘭士もいるし、様子を見に来てくれた乃蒼にも相談できるのではと頭の隅で逡巡しながら、深月はまずは詫びの言葉を入れる。

 「申し訳ありません、お話の途中に割り込んでしまって。だけど本当にあの、身に余る光栄と言いますか、わたしには勿体ないお褒めの言葉ばかりでしたのでっ」

 人の話を止めてしまうなんてとんでもない失態だ。

 あたふたと言い募る深月に、申し訳なさそうに暁は眉を下げた。

 「俺こそすまない。その辺にしておけとふたりに言ったそばから、これでは立つ瀬がないな」

 「いまのは乃蒼殿の悪ふざけが過ぎただけって気もするがな」

 「ははは、ごめんごめん。暁くんっていつ見ても冷静沈着を体現したような感じだからさ。つい焚きつけるようなことをしちゃったよ」

 煽動の自覚があった乃蒼は、悪いことをしたね、と深月に謝意を述べる。

 「ひとまず今日は、暁くんがしっかり深月を見守ってくれていることがわかって安心したよ。もちろん君の意見を尊重するけど、君の頼れる場所がひとつではないということを忘れないでね」

 「……乃蒼さん、ありがとうございます」

 深月が血縁だとわかったときから、乃蒼は深月を白夜家に引き入れて外的要因から匿う算段をつけていた。しかし状況が変わり、深月が特命部隊の預かりとなったことで、こうしてたまに顔を出して様子を確認するだけの行動に留めているのだ。

 いつでも受け入れる態勢でいる乃蒼の申し出にはありがたいと思っている。

 ただ、いまは信頼を寄せる暁のそばにいたい。それが深月の出した答えだった。

 「もちろん暁くんも、困ったことがあればいつでも相談しておいでよ」

 「白夜殿のお気遣いに感謝する」

 「固いなぁ。もっと気軽に乃蒼って呼んでくれて構わないのに」

 乃蒼はその点に関してだけはいつまでも不服そうにしていた。

 「……」

 彼らの会話をじっと聞きながら、いまが好機かと深月が姿勢を正したところで。

 「あー、それでよ」

 彼の横にいる蘭士が、深月と暁を交互に見ながら少々聞きにくそうに尋ねてきた。

 「ふたりは、その……どうなっておいでで?」

 瞬間、室内には沈黙が下りた。

 話の意図が読めなかったことよりも、突然丁寧な物言いになっている蘭士が奇妙で、深月は内心首をかしげていた。

 奇妙に感じたのは暁も同様で、怪訝な目つきを蘭士に向ける。

 「なにを急にもじもじとしている、蘭士」

 「いや、だからな。それを俺に言わすのか、なあ?」

 蘭士は同意を求める仕草を乃蒼に向けてしてみせる。

 当の本人たちとは違い、乃蒼は訳知り顔でうなずいていた。

 「うーん、こちらから急かすのも野暮というものだと僕は思うけど。確かに気になってはいたよ」

 「回りくどい言い方はやめろ。一体なにが言いたいんだ?」

 暁はさらに顔をしかめた。

 「だああ、しゃらくせぇ! こういうまどろっこしいのはダメだ、性にあわん!」

 「し、不知火さん?」

 「おまえら揃ってなに腑抜けた顔をしてるんだ! 俺が言いたいのは、おまえらふたりが恋……」

 野太い奇声とともに蘭士が立ち上がったとたん、コンコン、と執務室の扉が軽快に叩かれた。

 「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました。あら不知火さま、どうかなさいまして?」

 四人分の飲み物と茶菓子を運んで入ってきた朋代は、ひとり不自然に腰を浮かせた蘭士に尋ねた。

 「…………。いや、最近どうにも臀部痛が」

 朋代の前では話せない内容に、蘭士は苦しまぎれの言い訳でその場を凌いだのだった。
 「あはははは! 尻の調子が悪いなら初めにそう言ってくれよ! 痔に効くいい薬を知っているからさ」

 深月は朋代の手伝いで食器を片付けるため退室し、残ったのは男性陣だけ。彼女が執務室を離れた瞬間、乃蒼は堪えきれずに笑い転げていた。

 「薬なら俺の専門分野だろうが。とんでもねぇ不名誉を被ったけどな」

 蘭士もいい大人だ。乃蒼の茶化しに腹を立てるようなことはなく、ため息とともに疲弊の色を顔ににじませている。

 「なにを言おうとしていたんだ」

 ひいひいと笑いっぱなしの乃蒼に目を向け、そんな彼に呆れながら暁は先ほどの会話をふたたび掘り返した。

 「だからおまえと深月ちゃんのことだよ。いつから恋仲なのかって話だ!」

 「恋……?」

 「まさかそんな間柄になるとは思ってもいなかったが、おまえらの様子を見たら意外でもなかったというかな。なんだかんだ似合いのふたりって感じで」

 「さっきからおまえは、なにを言っている?」

 浮かない様子で蘭士のひとり語りを聞いていた暁は、会話の意図を理解しきれていないのか眉をひそめた。

 「なにって、おまえこそなに言って……はあああ⁉」

 冗談やおとぼけでもなく、至って真剣な顔つきに蘭士は声を荒げる。

 「あれだけ仲良さそうな空気を見せつけておいて、まさかなにもないって言うのか? 俺はてっきりおまえにもいよいよ春がきたんだって、それも恋仲を通り越して恋人にでもなったのかと思ってたんだぞ⁉」

 熱く語る蘭士とはまるっきり正反対に暁の反応は薄い。

 なにも感じていないというより、蘭士から面と向かって指摘され、驚きと戸惑いが入り混じっているようだった。

 暁はこれまでの自分の言動を振り返るようにしばし考え込むと、それは小さな声音で否定した。

 「……勘違いだ。彼女とはそういった関係ではない」

 「とか言うわりに、あれだけ……っ」

 「まあまあ、蘭士くん」

 納得がいかない蘭士が反論しようとしたところで、ようやく落ち着いた乃蒼が冷静に制止した。

 「ふたりの関係を勝手に勘違いしていたのは僕たちなんだ。本人が違うというならそれでいいよ」

 乃蒼は思いのほかあっさりと暁の言葉を受け入れていた。

 そのうえで、これまでの飄々とした態度から一変、真面目な顔つきで問いかける。

 「望んだのは、深月だけではないよね?」

 乃蒼の意表をついた問いに、暁は目を見張った。

 「俺も望んだことには相違ない。そばにいてほしいと伝えた」

 「そこは肯定してくれてよかったよ。うんうんそっか、そうなんだ。そういう感じねぇー」

 一を聞いて十を知るように、乃蒼はこくこくと小刻みにうなずいた。

 居場所はここがいいと、深月が自分から決めたということはもちろん乃蒼も聞いている。ふたりのあいだにどのような会話が成されたのかはわからないが、しっかり想いを伝え合ったからこそ両者ともにこの時を過ごしているのだと見当違いな考えをしていた。

 だが、よくよく思い返してみれば、それは恋人でなくても成立してしまえる関係だ。両者ともに相手には好意的に接していても、肝心な部分が通い合っていなかった。

 暁は、どうしてそばにいてほしいと望んだのか。

 そこには保護や契約のためという使命とはべつに、確実に感情の部分が絡んでいるはずだ。周りからすればその答えは明確なのに、どういうわけか彼は一線を引いている。

 「深月の場合は自覚するだけの経験をこれまでしてこなかったからだとしても、暁くんがそこまでどっちつかずの木偶の坊とは思えないし。むしろ君の場合は、無意識に拒んでいるのかな?」

 訳知り顔の乃蒼の発言に、暁がまとう空気が戸惑いに変わる。

 それに横で聞いていた蘭士は、はっと顔色を変えた。

 「アキ。まさかおまえ、まだ思ってるわけじゃないよな。覚悟や資格がないなんて馬鹿なことを」

 「やめろ、蘭士」

 禁句な話題に、いつにもまして暁の声が早く上がる。

 どれだけ普段から顔に出さずにいても、暁が〝あの夜の惨劇〟から抜け出せていないことは明白だった。

 「すまない」

 声を荒げたことを詫びたあと、暁はふたりから目を背ける。

 そのことについて無闇に触れられたくないのか、ここまで態度に出ているのは稀だ。やはり時期が影響しているのだろう。

 事情を知ってか知らでか、暁と蘭士を交互に確認し、乃蒼は肩をすくめた。

 「暁くんに嫌われるのは嫌だし、ここでこれ以上の言及はしないけど。年長者からの助言をここでひとつ」

 乃蒼はこほん、とわざとらしい咳をする。

 「話を聞く限り暁くんは誠実そのものだよ。彼女のことを慮って、親身に、それはもう大切にしてくれている。血縁としてはありがたい限りだね」

 「それは、当たり前だろう。無下にする気はない」

 この部分が、暁は理解に欠けている。

 曖昧な関係のまま誠実を貫く行為は、ひっくり返ってすべてが相手にとって不誠実にもなり得るということを。

 「ここからが助言。君がそんな調子でも、深月はこれからどんどん綺麗になる」

 改まって言うようなことかと、暁は一瞬怪訝そうにした。

 こちらを窺い見るような試す目つきはそのままで、乃蒼はさらにはっきりと告げた。

 「年頃の少女は蕾が花開くように可憐になるものだよ。その当たり前の変化が、いままさに深月には少し遅れて起こっている。普通の少女がそうなんだから、深月はさらに特別だと言えるかな」

 「どういう意味だ?」

 「深月は稀血だよ。人の娘にはない妖力がある。それはときに人を魅了し、惹きつける色香にもなり得る代物なんだ」

 「ちょっと待て、稀血にそんな力があるなんて初耳だぞ。なんでそういうことを言わずにいたんだっ」

 聞き捨てならないと蘭士が横槍を入れるが、乃蒼は悪びれる様子もなく続けた。

 「それは僕も半信半疑だったからね。でも、君たちだって知っているだろう? 元来女型のあやかしものというのは、男を惑わし堕落させる能力に秀でていたって」

 「深月ちゃんがそうなるっていうのか?」

 「そんな魔性になることはないだろうけど、あくまで潜在能力の話だよ。さっき深月を前にしてなんとなくわかった。彼女はこの先、たくさんの経験と感受性を育てて心も身体も美しく変わっていく。蛹が蝶へと羽化するように、必然的にね」

 そう言って乃蒼は立ち上がり、改めて暁に尋ねた。

 「いまよりも可能性が広がっていく彼女は、そのときも君のそばにいたいと一心に思ってくれるかな。そばにいることは望んでいるくせに、肝心な感情には向き合わず、背けている君に」

 その瞬間、暁の瞳がほのかに揺れ動いたのを見て、乃蒼は満足そうに笑った。