深月が暁の花嫁だということは、本邸を寝床とする一般隊員たちも周知の事実だ。
公私混同で女をそばに置くなどけしからん――という反発がいまのところ発生していないのには、特命部隊がほかの軍人と違い特殊な任務を日夜こなしているからにほかならない。
人間の血を糧とする禾月、生き物に取り憑き民を襲う悪鬼。それらを公に悟らせず相手にし、常に危険と隣り合わせの隊務を遂行する彼らからしてみると、事情をすべて理解し職務後に労いの言葉をかけてくれる存在は新鮮で、なにより貴重だった。
「深月さん、おはようございます」
「おはようございます。お勤めご苦労さまでした。どうかゆっくり休んでください」
夜間巡回に出ていた隊員が帰ってくるのは、だいたいいつも明け方過ぎ。
ちょうど深月が別邸の中庭掃除を終える頃と重なるので、箒を片付けたあと、時間が合えば正門付近まで行って出迎えていた。
出迎えを初めたばかりの頃は、帝都の治安を守ってくれている隊員に上から「ご苦労さま」と言うのもどうかと思ったのだが、ここではあくまで暁の花嫁として振る舞う必要があるため、気丈に見られるよう努力している。
「……あ。あの、腕から少し血が出ています」
続々と本邸に戻っていく隊員のうちのひとりが負傷していることに気がつき、深月は小走りで駆け寄った。
「ああ、きっと最後に相手した悪鬼が引っ掻いたせいですね。これぐらいなら唾を付けていれば治るんで平気です!」
ひらひらと腕を左右に振る隊員に、深月は顔を曇らせた。
(ただの傷じゃない。あやかしものが付けた傷なのに)
いくら妖刀使いの精鋭で生傷に慣れているとはいえ楽観的すぎる。
そう、この部隊……出迎えをするようになって気づかされたのだが、意外にも大雑把で脳筋な人間が多かった。
むしろ彼のように逞しく柔軟性があるほうが特命部隊ではうまくやっていけるのだろうか。良く言って肝が座っている一般隊員らに深月は常々驚かされる。
「よければこの塗り薬、使ってください」
深月はあらかじめ用意していた軟膏瓶を差し出す。
「え⁉ いやいや、あとで医務室に寄りますので!」
わざわざ深月から受け取るのは気が引けたのか、隊員は大げさに首を振った。
「じつは不知火さんから頼まれていたことがありまして。もし、怪我をした方がいたら渡してほしいと」
帝国軍お抱えの医者、不知火蘭士は、稀血である深月の定期診断を請け負っている。別邸にも専用の私室が用意されているが、本部からひっきりなしに要請を受けるため現段階での使用頻度はかなり少ない。
そのため蘭士からは「俺は常駐していれるわけじゃねえからな。唾付けときゃ治ると抜かす阿呆どもがいたら渡してやってくれ」と頼まれていた。
(本当に不知火さんの言う通りになったわ)
薬を渡すのは今日が初めてだったが、まさか蘭士の言葉そっくりに発言する隊員がいるとは思わなかった。
「唾を付けて治す怪我人に渡してほしいと言付かっていましたので、どうぞお使いください」
蘭士の予想が的中したことに、深月は思い出して小さく笑みを浮かべる。
「あ、は、はい。では遠慮なく」
けれどすぐさま視線を感じて顔を上げると、目の前の隊員や、本邸に向かう途中だったほかの隊員たちが足を止めて深月を食い入るように見ていた。
(どうしよう、おかしなこと言ってしまった?)
失言を恐れた深月は、内心焦って背中に冷や汗までかく。ようやく自然に話せるようになってきたとはいえ、これまでの境遇上慣れないことばかりで常に手探り状態になっているのはわかっているのだが。
不安になりつつも、深月は尋ねた。
「どうかされましたか?」
「いえ、なにもありません!」
隊員は口をもごつかせると勢いよく返事をする。
顔が若干赤くなっているのは、角度と朝焼けの光のせいだろうか。
そのとき、隊員の背後にある正門から、鶯色の髪の青年が潜り歩いてくるのが目に入る。彼は深月と隊員たちの姿を確認すると、何事かと不思議そうな眼差しを向けてきた。
「あなたがたは、そこでなにをしているのですか」
「羽鳥副隊長、お疲れさまです」
「お疲れさまです!」
その場にいた一般隊員は機敏に動きを揃えて羽鳥に敬礼をした。羽鳥は彼らに反応を示しつつ、視線を深月へと移動させる。
「おはようございます、深月さん。今朝もお早いご起床ですね」
「羽鳥さま、おはようございます」
体の向きを変え、深月は挨拶を交わした。
羽鳥は、十八歳という驚異的な年齢で特命部隊の副隊長職を務める若き軍人であり、なにに関しても物怖じせず好き嫌いがはっきりとした性格の青年だ。
隊長の暁を心底尊敬しており、暁の家族や親しい人間が深月とは別の稀血に葬られたことも知っている。
敬愛する隊長の複雑な事情ゆえ、少し前までは『あやかしもの』と一括りにして深月を警戒し敵視していたが、今ではすっかり態度が緩和され気遣ってくれるようになった。
「ところで、夜間巡回に出ていた者は早く休むようにと言ったはずですが。ここで一体なにを騒いでいるのですか」
羽鳥は隊員それぞれに視線を流す。
「申し訳ありません。わたしが引き止めてしまったのです。不知火さんから頼まれていた薬をお渡ししたくて」
自分のせいで隊員が咎められては申し訳なくて目も当てられないと、急いで弁明する。思いのほか羽鳥はすぐに状況を理解したようだった。
「ああ、先日不知火さんが言っていたあれですか。君、怪我の処置は速やかに終わらせてください。膿んでしまっては隊務に支障がでますから。それと明日までに報告書の提出も忘れずに」
「は、はい~!」
深月から軟膏瓶を受け取った隊員は、報告書と聞いて口の端を引きつらせた。隊務中の負傷はどんなに軽くても報告義務が発生する。ただ、怪我の内容が擦り傷程度の軽いものだと書類記入を面倒に感じる隊員は多い。
「最近、報告義務を疎かにしている者が一定数見受けられますが……僕がしびれを切らして暁隊長の耳に入れる前に、姿勢を改めてくださるようお願いしますね?」
冷ややかな薄ら笑いを作りながら、羽鳥は念押しする。
羽鳥の迫力と、隊長の名が効いたのか、隊員たちは身体が勝手に動いたように慌てて敬礼した。
「ご理解いただけたようで。では、食事と取る者は速やかに食堂へ、先に就寝を希望する者は部屋へ向かってください」
「はい、副隊長!」
「承知しました!」
それから蜘蛛の子を散らすように隊員たちは本邸へと走っていった。年若くとも、彼には上に立つ者としての矜恃があるようだ。
「まったく、弛んでいますね」
「すみません、結局皆さんの邪魔をしてしまいました」
「むしろあなたの前で注意を受けたので、彼らにはちょうど良い薬になったのではないですかね」
「いまのが、薬ですか?」
どういうことだろう、と深月は考えるが、よくわからなかった。
「あまり深く考えることではないですから」
「はあ」
釈然としないが、羽鳥は詳しく話すことではないと言いたげな態度だった。
それでも一応、深月は軟膏瓶を渡した隊員の様子について羽鳥に話すと、彼は目をぱちぱちと幼い子どものように瞬かせた。
「それも、あなたに非はないと思いますので」
なにかを理解した上で、羽鳥は呆れたようにため息を吐いていた。
公私混同で女をそばに置くなどけしからん――という反発がいまのところ発生していないのには、特命部隊がほかの軍人と違い特殊な任務を日夜こなしているからにほかならない。
人間の血を糧とする禾月、生き物に取り憑き民を襲う悪鬼。それらを公に悟らせず相手にし、常に危険と隣り合わせの隊務を遂行する彼らからしてみると、事情をすべて理解し職務後に労いの言葉をかけてくれる存在は新鮮で、なにより貴重だった。
「深月さん、おはようございます」
「おはようございます。お勤めご苦労さまでした。どうかゆっくり休んでください」
夜間巡回に出ていた隊員が帰ってくるのは、だいたいいつも明け方過ぎ。
ちょうど深月が別邸の中庭掃除を終える頃と重なるので、箒を片付けたあと、時間が合えば正門付近まで行って出迎えていた。
出迎えを初めたばかりの頃は、帝都の治安を守ってくれている隊員に上から「ご苦労さま」と言うのもどうかと思ったのだが、ここではあくまで暁の花嫁として振る舞う必要があるため、気丈に見られるよう努力している。
「……あ。あの、腕から少し血が出ています」
続々と本邸に戻っていく隊員のうちのひとりが負傷していることに気がつき、深月は小走りで駆け寄った。
「ああ、きっと最後に相手した悪鬼が引っ掻いたせいですね。これぐらいなら唾を付けていれば治るんで平気です!」
ひらひらと腕を左右に振る隊員に、深月は顔を曇らせた。
(ただの傷じゃない。あやかしものが付けた傷なのに)
いくら妖刀使いの精鋭で生傷に慣れているとはいえ楽観的すぎる。
そう、この部隊……出迎えをするようになって気づかされたのだが、意外にも大雑把で脳筋な人間が多かった。
むしろ彼のように逞しく柔軟性があるほうが特命部隊ではうまくやっていけるのだろうか。良く言って肝が座っている一般隊員らに深月は常々驚かされる。
「よければこの塗り薬、使ってください」
深月はあらかじめ用意していた軟膏瓶を差し出す。
「え⁉ いやいや、あとで医務室に寄りますので!」
わざわざ深月から受け取るのは気が引けたのか、隊員は大げさに首を振った。
「じつは不知火さんから頼まれていたことがありまして。もし、怪我をした方がいたら渡してほしいと」
帝国軍お抱えの医者、不知火蘭士は、稀血である深月の定期診断を請け負っている。別邸にも専用の私室が用意されているが、本部からひっきりなしに要請を受けるため現段階での使用頻度はかなり少ない。
そのため蘭士からは「俺は常駐していれるわけじゃねえからな。唾付けときゃ治ると抜かす阿呆どもがいたら渡してやってくれ」と頼まれていた。
(本当に不知火さんの言う通りになったわ)
薬を渡すのは今日が初めてだったが、まさか蘭士の言葉そっくりに発言する隊員がいるとは思わなかった。
「唾を付けて治す怪我人に渡してほしいと言付かっていましたので、どうぞお使いください」
蘭士の予想が的中したことに、深月は思い出して小さく笑みを浮かべる。
「あ、は、はい。では遠慮なく」
けれどすぐさま視線を感じて顔を上げると、目の前の隊員や、本邸に向かう途中だったほかの隊員たちが足を止めて深月を食い入るように見ていた。
(どうしよう、おかしなこと言ってしまった?)
失言を恐れた深月は、内心焦って背中に冷や汗までかく。ようやく自然に話せるようになってきたとはいえ、これまでの境遇上慣れないことばかりで常に手探り状態になっているのはわかっているのだが。
不安になりつつも、深月は尋ねた。
「どうかされましたか?」
「いえ、なにもありません!」
隊員は口をもごつかせると勢いよく返事をする。
顔が若干赤くなっているのは、角度と朝焼けの光のせいだろうか。
そのとき、隊員の背後にある正門から、鶯色の髪の青年が潜り歩いてくるのが目に入る。彼は深月と隊員たちの姿を確認すると、何事かと不思議そうな眼差しを向けてきた。
「あなたがたは、そこでなにをしているのですか」
「羽鳥副隊長、お疲れさまです」
「お疲れさまです!」
その場にいた一般隊員は機敏に動きを揃えて羽鳥に敬礼をした。羽鳥は彼らに反応を示しつつ、視線を深月へと移動させる。
「おはようございます、深月さん。今朝もお早いご起床ですね」
「羽鳥さま、おはようございます」
体の向きを変え、深月は挨拶を交わした。
羽鳥は、十八歳という驚異的な年齢で特命部隊の副隊長職を務める若き軍人であり、なにに関しても物怖じせず好き嫌いがはっきりとした性格の青年だ。
隊長の暁を心底尊敬しており、暁の家族や親しい人間が深月とは別の稀血に葬られたことも知っている。
敬愛する隊長の複雑な事情ゆえ、少し前までは『あやかしもの』と一括りにして深月を警戒し敵視していたが、今ではすっかり態度が緩和され気遣ってくれるようになった。
「ところで、夜間巡回に出ていた者は早く休むようにと言ったはずですが。ここで一体なにを騒いでいるのですか」
羽鳥は隊員それぞれに視線を流す。
「申し訳ありません。わたしが引き止めてしまったのです。不知火さんから頼まれていた薬をお渡ししたくて」
自分のせいで隊員が咎められては申し訳なくて目も当てられないと、急いで弁明する。思いのほか羽鳥はすぐに状況を理解したようだった。
「ああ、先日不知火さんが言っていたあれですか。君、怪我の処置は速やかに終わらせてください。膿んでしまっては隊務に支障がでますから。それと明日までに報告書の提出も忘れずに」
「は、はい~!」
深月から軟膏瓶を受け取った隊員は、報告書と聞いて口の端を引きつらせた。隊務中の負傷はどんなに軽くても報告義務が発生する。ただ、怪我の内容が擦り傷程度の軽いものだと書類記入を面倒に感じる隊員は多い。
「最近、報告義務を疎かにしている者が一定数見受けられますが……僕がしびれを切らして暁隊長の耳に入れる前に、姿勢を改めてくださるようお願いしますね?」
冷ややかな薄ら笑いを作りながら、羽鳥は念押しする。
羽鳥の迫力と、隊長の名が効いたのか、隊員たちは身体が勝手に動いたように慌てて敬礼した。
「ご理解いただけたようで。では、食事と取る者は速やかに食堂へ、先に就寝を希望する者は部屋へ向かってください」
「はい、副隊長!」
「承知しました!」
それから蜘蛛の子を散らすように隊員たちは本邸へと走っていった。年若くとも、彼には上に立つ者としての矜恃があるようだ。
「まったく、弛んでいますね」
「すみません、結局皆さんの邪魔をしてしまいました」
「むしろあなたの前で注意を受けたので、彼らにはちょうど良い薬になったのではないですかね」
「いまのが、薬ですか?」
どういうことだろう、と深月は考えるが、よくわからなかった。
「あまり深く考えることではないですから」
「はあ」
釈然としないが、羽鳥は詳しく話すことではないと言いたげな態度だった。
それでも一応、深月は軟膏瓶を渡した隊員の様子について羽鳥に話すと、彼は目をぱちぱちと幼い子どものように瞬かせた。
「それも、あなたに非はないと思いますので」
なにかを理解した上で、羽鳥は呆れたようにため息を吐いていた。