その夜。深月は寝支度を整え、就寝に入るまでの時間を部屋で過ごしていた。
寝床で丸まった鈴の背中を撫でながら雛との会話のやりとりを思い出していたとき、扉が控えめに叩かれる。
「こんな時間にすまない。起きているか」
「暁さま?」
取っ手を回して扉の隙間から廊下を確認すると、やはりそこには暁の姿があった。
「昼間、街に出かけたと羽鳥から聞いた。雛のことも。少し、話はできるか?」
夜も深まり始める時間帯だからなのか、暁の声は囁くように静かで、いつもより低く聞こえる。
「はい、大丈夫です。どうぞなかにお入りください」
扉の隙間をさらに広げて暁をなかに招くと、戸惑う息遣いが聞こえた。
「失礼する」
暁が部屋のなかに入り、ようやく深月はひと足遅れて気がついた。
夜分に異性を部屋に招くのは、普通ならば褒められたものではないのかもしれない。
だが、相手は暁だ。目的があって訪ねてきただけなのだから、こちらが変に意識しなければ特段問題はない。
深月はそっと胸を撫で、その場でくるりと向きを変えた。
部屋に通された暁が、少し気まずそうにして立っている。
「疲れているだろうに、時間を取らせてすまない」
「目が冴えていたので大丈夫です。暁さまのほうこそ、お疲れではありませんか?」
「大丈夫だ、ありがとう」
まず他愛ない会話を挟み、それから本題になった。
「雛に永桜祭の舞人を引き受けるように迫られたと聞いた。ほかにもいろいろと探りを入れられたと。本当にすまない、君に迷惑をかけて」
「わたしは大丈夫です。ただ、あまり雛さんが納得していなかったようなので。それが少し心配で、黎明舞のことも……」
「舞人の話は雛も本気ではないだろう。おそらく俺と関わりのある君を困らせたいんだ」
暁もある程度は雛の言動の意図を理解しているようだった。ゆえに巻き込まれた深月には、気にしなくていいと言ってくれる。のだが。
「暁さま、聞いてもいいでしょうか」
「……ああ」
暁は悟ったようにうなずく。深月は両手を胸に当てきゅっと握りしめた。
「朱凰家に養子縁組する前、暁さまの旧姓は久我。そして同じく、その頃の雛さんは間宮。おふたりのお家は交流があって、間宮 鶴子さんという方が暁さまの許嫁だったと。ここまでは間違っていないですか?」
「君の言う通りだ」
暁はうなずき、すぐに口を閉じた。
まだ深月の聞きたいことが終わっていないとわかっているからだろう。
「稀血に……殺されてしまったのが、暁さまの家族と、親しかった方々だと、言っていましたね。その親しい方々に、間宮 鶴子さんや、そのご両親がいらっしゃった」
「ああ」
「それで……あの」
ここまで言葉にできたのに、その先を聞くのが一瞬躊躇われる。でも、もう曖昧に把握している状態でいるのは嫌だ。
「どうして、見殺しにしただなんて、言われているんですか?」
どきどきと、痛いほど心臓の動きが早くなるのを感じる。浅い呼吸を繰り返し、暁をじっと見つめる。
暁は、難しい顔をふっと緩めると、それから弱々しく眉を下げた。
「どんな理由であれ、俺の至らなさが招いたことには変わりない。雛がああなっているのも、すべて自分のせいだ」
「それは、どういう……」
「いや、君に聞かせるにはあまりにも粗末な話だ。気にしないでくれ」
そう言われてしまって、ああやっぱり、とじわじわ切なさが込み上げた。
どうして彼が自分を責めているのか、その理由を語る気はないのだということが嫌というほどわかってしまったから。
(なのにこんなこと、暁さまは望んでいないのに。どうしても考えしまう)
雛が現れた日から、ずっと思っていたこと。それはあまりにも傲慢で、自分本意で、欲深いものだった。
暁の抱えるもの全部を共に背負えたら、と。そんなことを思ってしまうのだ。
(教えたほしいと言ったら、どうかひとりで抱え込まないでと言ったら、暁さまはわたしを遠ざけてしまうかもしれない)
踏み出すことはできるけれど、その先を考えるのが恐ろしい。自分の立場では、暁の前に堂々と出ていけない。
普通の人のように幸せになんかできない。
自覚すればするほど、胸が痛くて、息が止まりそうだった。
翌朝、永桜桜の舞人を押し付けられたことを含め、暁からは気にしなくていいと言われたが、そういうわけにもいかないと深月は思い悩んでいた。
とくに雛個人の様子が気になる。このまま放置するのは、どうにも寝覚めが悪い。
「……ええと、麗子さま、まずこうやって」
昼間の空き時間、部屋に戻っていた深月は、ふと一年ほど前に黎明舞の練習をしていた麗子の姿を思い出す。
流れや、動きは記憶にあるけれど、自分で舞うとなるとわけが違う。
そうは思いながらも、部屋にあった白い手ぬぐいを手に、おぼつかない足取りで不格好な動作を繰り返していると。
「深月さま、炊事場に襷をお忘れでしたのでお届けに……あら?」
「と、朋代さんっ」
こんこん、と音がして、朋代が襷を手に扉を開けた。
深月のひとりごとが入室の許可に聞こえてしまったのか、入ってきた朋代はぱちりと瞼をまばたいた。
「わっ、あっととっ」
ふらついた体勢を整え、両足でしっかり床を踏む。それから朋代を窺い見ると、彼女はにこやかな笑みを浮かべていた。
「ふふ、もしかして、黎明舞ですか?」
「……!」
すぐに見抜いた朋代に驚愕の色を濃くした。
「どうして黎明舞だとわかったんですか?」
「そうですわねぇ。形がそうだと思っただけですけれど、わたしは黎明舞の指導経験がありますので、きっと目が慣れているんだと思いますわ」
笑みを作る口元に、朋代は上品に手を添えた。その鷹揚とした仕草だけで舞の指導経験があるというのも納得してしまう。前々から思っていたが、朋代の動きは悠然としていて所作が美しいのだ。
「あの、朋代さん」
「はい、なんでしょうか」
「ご迷惑でなければ、わたしに黎明舞を教えてはいただけませんか……?」
黎明舞、またそのほかの舞踏は、朱凰の分家筋にいる華族令嬢には嗜みとしてある教養だ。もちろんのこと深月には身についていないものだ。
「ずっとお話できていなかったのですが、わたしには黎明舞の経験がありません。稽古風景を見たことはありますが、実際にはまったくなくて……」
「まあ、そうだったのですね」
朋代はほんのり意外そうに目を広げながらも、大袈裟に驚くことはしなかった。
そして普段から距離を弁えてくれていた朋代だからこそ、この相談はできると思った。
「わたし、黎明舞を覚えたいんです。できるのなら永桜祭当日までに。完全に習得とはいかないかもしれませんが、どうかご指導いただけないでしょうか」
本当に舞人として代わるつもりは深月になかった。
けれど、なにもせず当日まで過ごすのも違うような気がした。それなら無意味な努力になったとしても、なにかしていようと考えたのだ。
真剣に頼み込む深月に、朋代はにこやかに言った。
「それはそれは、腕が鳴りますわ」
相変わらず朋代は余計な詮索をせずに快く引き受けてくれた。
こうして、深月はその日から黎明舞の特訓を朋代につけてもらうことになったのだった。
夜間巡回を終え、暁は近くを担当していた一般隊員を連れて特命部隊本拠地に引き返していた。
見上げる夜明けの空の光が、蓄積した疲労のせいもあって目に染みる。
帝都桜が満開になったあたりから、街の各区画で奇妙な傷害事件が頻繁に起こっていた。それは永桜が植えられる帝都神宮周辺に始まり、桜の木が多い場所で悪鬼に取り憑かれた野犬や野鳥が通行人に危害を加えているのである。
永桜の妖力につられ、春が悪鬼の被害が増えるのは周知のことだ。しかし、今年はさらに数が増えているようで、気が抜けない状況が続いていた。
とくに永桜桜当日は、帝都神宮の境内に人々がひしめき合う。また、天子とその一族は仕切りに囲まれた拝殿から黎明舞を鑑賞する。警備範囲は最小限、ここまで警吏とも念入りな打ち合わせを交わしたので不備はない。
あとは無事に永桜祭が終われば、この張り詰めた緊張も少しは緩んでくれるだろう。
「深月さん、おはようございます!」
隊員の嬉々とした挨拶が聞こえてきたのは、暁が別邸に向かって歩いている最中のことだった。
「おはようございます。本日も夜間巡回ご苦労さまです」
そちらに視線を向けると、箒を手にした深月が、暁と同じく夜間巡回を終えた一般隊員に笑顔を浮かべていた。
いままでは別邸の中庭が深月の掃き掃除の範囲だったが、本邸女中の勤めを始めたことで、彼女は訓練場付近や食堂横の掃除にも励むようになっていた。
つまり、通りがかりに隊員に話しかけられる頻度も高くなった、ということである。
最初は分家の令嬢がわざわざするようなことではないと周囲も思っていたが、いまではこれも暁の花嫁としての努めであると、真面目に働く姿勢で周りを納得させてしまった。
少しずつ、暁以外にも肩肘張らずに自然な笑みを向けられるようになり、ちょうどいまも通りがかった隊員に深月は会釈をしていた。
そのなんでもない笑顔に、隊員は軽く頬を染め、それから慌てながらも張り切った様子で職務にあたるのだ。
(……)
このような光景を、もう何度となく暁は目にしていた。
人と関わることに慣れていなかった彼女が、あのように明るい表情を浮かべているさまに感慨深い気持ちになる。
いつか見た、思わずほころばせた花のような笑みを、深月はたくさんの人間に向けるようになっていて、それは讃えるべき変化であるはずだった。
しかし、なぜかここ最近は。
「暁隊長、暁隊長?」
ふと、名を呼ばれて振り返ると、不思議そうな顔をした羽鳥がいた。
「夜間巡回からお戻りになっていたのですね。お疲れさまです。悪鬼の数はどうでしたか?」
「増える一方だ。それとは逆に禾月の動きが停滞しているように感じる」
「野良禾月ですか。注意が必要ですね……それで、先ほどからなにを眺めてらっしゃったんですか?」
「ああ、少し。いつも動き回っているなと、思ってな」
質問の答えとしては曖昧な返答に、羽鳥は暁の視線を目で追った。その先に深月がいると知り、ああ、とうなずいてみせる。
「そうですね。どこかしらの掃除をしているのではないですか。って、また締りのない顔になって……」
深月と挨拶を交わした隊員らの雰囲気が緩やかになっているのに気づいた羽鳥は、まるで小姑のようにぶつぶつと小言を述べた。
「やはり、変わっているんだな」
初めの頃とは比べものにならないほど、深月は変化した。
誰もがうなずく可憐な姿に、しばし視線を固定させる。
いつの間に彼女は、あれほど美しく、そして愛らしくこの目に映るようになったのだろう。
黎明舞の特訓を開始してすでに半月、永桜祭当日がやってきた。
忙しさにかまけて夜空の月の形も気にする余裕がなかった深月は、ぽっかりと浮かんだものに今日は満月だったのかと驚く。
帝都桜は徐々に緑色の葉を茂らせ、季節の終わりを告げようとしている。
暁には言い出しずらく朋代にお願いして舞を覚えていることは秘密にしてもらっていた深月だが、当日までにはなんとか形になり、達成感に包まれていた。
もちろん天子が参席する催事の催しに自分が代わって舞うとは考えておらず、ただ頑張って覚えただけになってしまったが、深月はそれでもよかった。
ひとつなにかを覚えたという事実が単純に嬉しかったのだ。
黎明舞は黄昏時に披露される。昼間はいつも通り本邸女中の勤めをしていた深月は、夕方頃に璃莉と帝都神宮に出向いていた。
特命部隊員は事前に計画した警備位置についており、朝の物々しい雰囲気からまさに本日が忙しさの絶頂であるのだというのがわかった。
璃莉が護衛としていてくれるため永桜祭の見物が叶った深月は、それほど遠くない場所にある帝都神宮までの距離を歩幅を狭めて歩いた。人が多くて前に進むのもやっとである。
「ねえ深月さま。あれだけ練習してたのに、本当に代理で舞わないの?」
境内へ繋がる石段を上りながら、璃莉が不思議そうに尋ねた。さすが護衛、こんなに長い段差なのに息がまったく切れていない。
「雛さんも、本気でわたしに舞人をさせるつもりはないと思いますよ」
いくら代理可能とはいえ、見ず知らずの人間に舞わせるほど気軽な祭事ではない。むしろ天子が関わるのだから重要度は高いだろう。
なのに、選出外の人間に舞わせたら絶対に大変は事態になる。
だからあれは雛の当てこすりだったのだろうと思う。
「残念。深月さまの黎明舞見たかったなぁ。すごく綺麗だったのに」
「素人が付け焼き刃に覚えた舞ですよ……?」
「そうは見えないよ。ずっと見てはいたんでしょ。動きと流れは頭に入っていたのが大きかったよね。仕草がひとつひとつ丁寧で、素人とは思えない! ……って、朋代さんも言ってたよ」
それは朋代が意力を保たせるために言っていた励ましの言葉だろう。教え方の上手な朋代に習うと、少しの期間でもうまくなったような気になるが、それはおごりである。
「わたしの舞よりも、今日は舞人の方の舞が見られることが楽しみです。こうやって実際に見物するのは初めてなので」
柄にもなくわくわくしているのは、朋代に黎明舞の基礎や意味を教えられ、より深い解釈ができるようになったからかもしれない。
黎明舞には、冴え渡った夜明けの空の如く、光を浴びて心の憂いを晴らせるように、という願いが込められている。
そして、空に通ずるは天。舞始めは黄昏時であることから、夜を掌握し、陰を祓い天から注ぐ陽を湛えよ、という経巻に記される陰陽説の意味づけもあった。
ゆえに永桜祭、黎明舞、天子が繋がり深くあるのだ。
「見つかったか⁉」
「こっちにはいなかった。一体どこに……」
「俺はあっちを見てきます」
石段を登りきり、混雑する境内を一方通行に進んでいく。
生温い気配が肌に張りつく。人が密集しているせいかと考える深月の横を通り過ぎて行ったのは、帝都神宮関係者と、付き人の晋助だった。
「……晋助さん、でしたよね。一体どうされたんですか?」
呼び止めてから、自信なく尋ねる深月に、顔色を悪くさせた晋助が振り返った。二度顔を合わせたときに感じていた気だるげかつ適当さは一切なく、真剣な様子で口を開いた。
「雛お嬢さんが、見当たらないんです」
「どういうこと、本当に舞わないつもりだったってこと!?」
璃莉はさらに問うと、初対面ではあるがそれどころではないと判断した晋助が首を横に振った。
「いや、ちゃんと舞人の役目を果たすつもりでしたよ。舞衣裳だって控え室で着てましたし。急にいなくなってしまって」
すでに透き通った満月は顔を出し、日は沈み始めている。黄昏時に舞い始めるのが通例ならば、そろそろ待機場所にいなければならない時間だ。
「変ですね。うちのお嬢さん、言い草は高慢そのものですけど、本気で責任から逃げるような人ではないんですが」
「よければ、わたしにも探させてください。すみません璃莉さん、いいでしょうか」
「あたしは大丈夫だよ! それで、雛ちゃんってどんな顔をしてるの?」
「いやあの、よろしいんですか? 散々お嬢さんにやっかみをつけられていたのに」
戸惑う晋助に、深月はこくりとうなずいた。
「はい。なんだか心配なので」
胸がざわざわと先ほどから落ち着きなく動いている。今日は満月だから影響されているのだろうかと考えるが、それなら街を歩いているときも感じていたはず。
この違和を覚えたのは、石段を登りきり、境内に足を踏み入れたあとからだ。
(聞こえたり、しない? 雛さんの声)
いくら人より耳がいいとはいえ、こんなの馬鹿げている。
でも、焦る気持ちが前に出て、いつの間にか深月は耳を済ませていた。
――こないで!
声は聞こえた。きっと、雛のものだ。
「おい、話が違うぜ? ここには人間どもが入って来ないんじゃないのかよ」
「でも、いるぞ。うまそうな若い女だ」
「こないで! なによあなたたち、わたくしになにをする気なの!?」
「なにって、なぁ。まさか人間が来るとは思ってなかったし、見られちゃさすがにまずいだろうから。殺っちまうか?」
ひんやりとした空気に、雛は身震いを起こした。
天罰だ。爛々と開いた目でこちらを向く男たちと、それに従うように飛び回る大きくて気味の悪い鴉がこちらに近づこうとするのを目に映し、雛が思ったことである。
暁の婚約者だという深月に、舞人の話を持ちかけたのは、紛れもなく嫌がらせだった。
朱凰の分家筋から帝都に来たと話す田舎者の女の困る姿が見たくて、譲る気のない舞人の代理を押し付けたのだ。
なぜ、そんなことをするのかといえば。
それは深月が気に入らないから。
もともと暁は、雛の姉である鶴子の許嫁だった。年齢は暁より二つ年上の鶴子だったが、ふたりが並ぶとじつにお似合いだった。
ゆえに、雛は幼いながらに理解した。
この想いはきっと、一生叶わず胸に秘めるしかないのだと。
『おれが殺したようなものだ。おれのせいで野盗が入って、みんな死んでしまった』
十三年前のあの日、雛の両親と鶴子が亡くなったという訃報が入り、唯一の生き残りであった暁のもとを訪ねた。
雛は体調を崩して久我家には行けず、間宮の屋敷で留守番をしていた。
呆然として覇気がない暁は、何度も自分のせい、見逃した、俺だけがあの場に、と脈絡のない言葉をつぶやくばかりだった。
幼かった雛には、彼の言葉の真意を汲み取るだけの余裕もなければ、精神も成熟していなかった。
だから、ただひとり生き残った暁に憎悪をぶつけるしかなかった。そうすることでしかひとりぼっちになってしまった自分の心を守ることができなかった。
『噂ではなく本当なのね。あの朱凰家の、暁さまに婚約者が現れたって!』
憎悪で覆い隠されたきり、秘めたまま置き去りになっていた想いが、このときふわりと蘇った。
雛は幼いころ、暁が好きだった。
子供特有の憧れか、乙女のような恋心か、それとも両方だったのか。とにかく特別な想いを抱いていた。
でも、彼を恨むようになって想いは心の片隅に押しやられていた。それが、ふとその話題を耳にして。
『許さない』
ひとり生き残ったのに許さない。
鶴子姉さまの許嫁のはずだったのに許さない。
家族やみんなを見殺しにしたのに許さない。
あなただけほかの誰かと幸せになるなんて許さない。
わたくしだって好きだったのに、許さない。
厄介な愛憎綯い交ぜの感情は、雛にも扱いきれず、暴走するばかりだった。
「……雛さんっ!」
深月が雛を見つけたのは、旧祈祷殿という、本殿からかなり離れた場所にある建物だった。
複数の男と、異形な姿をした黒い鴉に囲まれるようにしている雛に向かって、深月は声を張り上げた。
「雛さんっ!」
「おい、また人間かよ」
面倒な表情を浮かべる男を警戒しながら、深月は雛を庇うように前に出た。
青白い肌の男たちを見据えた深月は、あっと息をつく。
(この人、わたしのことを人間っていった)
ということは、この男たちは人間ではない。
(……野良、禾月?)
そして、バサバサと羽音を立てて周囲を飛び回っているこの黒い鴉のような不気味な生き物。姿はまったく違うけれど、以前悪鬼に取り憑かれた誠太郎と似たような空気を感じた。
「雛さん、大丈夫ですか?」
「あ、あなた……どうしてここに」
「運良く、見つけて」
震える雛を安心させようも深月はただ優しく笑う。
思い切り突っ走ってここまできてしまった深月だが、正直なところとても怖い。足はいまにも震えそうだし、呼吸も浅くなっている。
けれど、自分よりも雛のほうが怖いはずだ。
たぶん彼女は、生まれて初めてあやかしものを目にしている。この独特な雰囲気、ぞわりと肌が粟立つ嫌悪感。普通の空気ではない。
『ガァ!』
状況を整理する深月に容赦なく鴉の鉤爪は伸びる。
着物の袖で壁を作り、一撃からは逃れられたが、囲まれたままでは傷を負うのも時間の問題だ。
璃莉とはここに来る途中ではぐれてしまった。人混みを掻き分けるのに苦労しているのだろう。
『ガアガア!』
上空をぐるぐると飛び回る鴉が、ふたたび深月と雛に襲いかかろうとする。数箇所から速度をつけて降下する鴉に、深月も避けきれないと悟る。
このままでは、雛も、自分もただでは済まない。
(だめ――とまって!)
襲いかかる鴉に、深月は無意識に睨みを送った。
すると鴉は空中で不自然に止まり、ばたばたと音を上げて地面に叩きつけられたのだった。
しん、と威嚇の鳴き声はやみ、代わりな沈黙が流れる。
「な、なんだ、いまのは」
「悪鬼どもか気を失った……だがなぜだ?」
「まさか、この女が」
男のうちひとりが怖々と深月に指を向けたとき、その背後で、黒い影が揺れ動いた。
刀身が入り妖艶な赤い輝きをまとい、その一振で光が残像のように残る。
「ぎゃあああ」
「ぐあっ!」
「お、おまえは、鬼使い――ぐっ!」
またたく間に禾月らしき男たちは、音もなく颯爽と現れた暁によってあっという間に討伐された。
「うそっ、出遅れた!? あたし、深月さまの護衛失格っ」
続いて現れたのは、璃莉である。
すでに終わった惨状に失望感を浮かべ、いまだに雛を抱えたように守っていた深月に駆け寄った。
「深月さま、大丈夫だった!? あれ、深月?」
心がぽろりと抜けてしまったように、深月は呆然と前だけを見ていた。
深月の様子も戻らないまま、足を挫いた雛は璃莉の誘導で近くの石段へと誘導され、駆けつけた特命部隊員によって悪鬼に憑かれた鴉と野良禾月は、固く縄で縛られそのまま連行された。
それすら目に入らず、深月は呆然と立ち尽くす。
(わたし、いまなにをして……)
雛を守らなければと動いて、それでも囲まれてはどうしようもなく、もうだめだと思った瞬間。
(わたしが、あの鴉を失神させた? それも、傷がついていた。引っ掻き傷のような細かい痕がたくさん……あれもわたしが一瞬で起こしてしまったの?)
人間離れした現象に、いまさらながら手が震える。
手に触れていないのに、生々しい感触があった気がした。肉を裂くような音と、鳴き声がプツンと短く消え激しく響いた落下音。
(治癒だけじゃないのはわかっていたじゃない。わたしは稀血で、だからもっと恐ろしい力を無意識な振舞ってしまうかも――)
呼吸を何度も繰り返す。大丈夫、あのときのような暴走は起こらない。 それはあの瞬間に打ち勝ったはずだから。
でもらこの不安定に揺れる気持ちはなんだろう。
あのときは胸の真ん中に強くあったものが、いまは頼りなく、焦燥感に見舞われていく。
(落ち着いて、落ち着いて。暴走はしない、しない、絶対にしない)
そのとき、ぎゅっと握りしめていた深月の拳に、温かい手のひらが覆った。
「深月、聞こえるか?」
まぶたをそっと持ち上げると、深月の拳を包み込むように暁が両手を添えてくれていた。
強く目をつむりすぎたのか、ぼんやりと視界を正そうとまたたきを落とせば、暁の姿がより鮮明に映る。
「わたし、いま力が……」
「ああ、驚いたな」
慰めのような声音で囁く暁に、深月は尋ねた。
「あの、鴉。大丈夫でしょうか」
「それは、安否を聞いているのか?」
「最初はわたしや雛さんに襲いかかろうとして、そのときの目が本当に恐ろしかった。でも、地面に落ちたあとの目は違いました。丸くて、優しそうで、取り憑かれていたから凶暴になっていただけなのに、わたしは……」
あの丸くて可愛らしいつぶらな瞳を見てしまい、深月は自分の力に対する戸惑いのほかに、ひどい罪悪感に襲われたのだ。
「大丈夫だ。鴉の命は無事で、妖刀で悪鬼を取り払えば通常の鳥に戻る。驚いただろうが、心配はいらない」
そう言われて、深月は自分の手の温度が戻っていることに気づいた。暁がこちらに言葉をかけながら、ずっと添えていてくれたのだろう。
「雛を守ってくれてありがとう。君のおかげで、居場所もすぐに見つけられた。君の力は、誰かを救うためにある力だった」
(……あ)
真っ直ぐにこちらを見つめる黄淡の瞳を、深月は久しぶりにじっくりと見たような気がした。
これまではいろいろと自分のなかにある感情を意識して、避けていたのかもしれない。
暁の瞳には、やはり精神を安定させる力でもあるのだろうか。
たったいままで震えていた震えが、もう完全になくなっていた。
深月もやっと落ち着きを取り戻し、暁は近くの石段に座った雛のもとへ向かう。
「雛、怪我を見せてくれ」
暁はその場に片膝をつき、雛を見上げるように見た。
「もう、いいわよ。この人が、診てくれたから」
「あ、ははは、なんかごめんなさい。雛ちゃん、軽い捻挫と打撲だったよ」
「そうか。適切な処置に感謝する」
「いえいえ、お構いなく〜」
気まずい空気が流れていることを察した璃莉は、ひょいと立ち上がって深月のほうへ避難した。
すぐそばに深月と璃莉がいるとはいえ、まるで個室の空間に押し込められたような空気を醸し出すふたりに、深月まで緊張してしまった。
「……あれは、なんなの」
ようやく雛が口を開き、先ほどの説明を求めた。
「悪鬼という、あやかしものだ。男のほうは、禾月。あちらもあやかしもの、人間の血を糧にする種族だ」
「……」
それを聞いて雛は黙り込ん。公には知られていない事実に、理解しきれないのかもしれない。
通常ならば、悪鬼や禾月と遭遇した一般人は、等しく忘却剤を打って記憶を失くす処置を施すそうだが、雛のことはどうするつもりなのだろう。
「……って」
涙声混じりの雛の声が、言いきれずに途切れる。
暁はそっと近寄り、嗚咽混じりな声を出す雛の唇を読み取った。
「もし、かして、お父さま、お母さま。鶴子、姉さま。みんなを殺したのは、あれなの?」
どこで確証を得たのかはわからない。けれど暁に問いかける雛の瞳から、彼の敵意が忽然と消えていて。
彼女のなかでほとんど確信しているということが、その様子からはわかった。
「ああ、そうだ。君の家族も、俺の家族も、屋敷の皆も、暴走したあやかしものに殺された」
暁は、稀血とは言わなかった。
事実を知ったばかりの雛に、これ以上混乱させてはいけないという彼なりの配慮だったのだろう。
暁が肯定の意を見せると、雛は泣き出してしまった。
「どうして、言ってくれなかったのよ。あんな恐ろしいもの、野盗とはまったく違うわ。子どものあなたが、勝てるわけないじゃない」
禍々しく恐ろしい悪鬼を目のあたりにした雛は、まだ同じく子どもであった暁が助けられなくてもしょうがなかったと理解した。
どうして教えてくれなかったのか、と訴える雛に、暁は複雑な表情を浮かべるばかりだった。
「ごめんなさい、あなたのこと、ずっと恨んでばかりで。わたくし、本当は幼いときからあなたのことが好きだったの。だから新しい婚約者を迎えたと知って、鶴子姉さまがいたのにって腹が立って、同じぐらいどうしてわたくしを迎えにきてくれなかったのって、花嫁にするならつぎはわたくしでしょって、悔しかったの」
「……」
感情に任せた雛の告白に、暁はわずかに目を開き、そして子どもに向けるような優しい顔をしてみせた。
「すまない、雛」
「謝らないでよ。あなたはそうやって謝ってばかりで、それが誠実だとでも思ってるの⁉」
「……!」
涙を流し続ける雛に半ば怒鳴られ、暁は静かに瞠目した。
「……そうだな、それでは誠実ではない」
暁は居住まいを正して向き直り、雛に頭を下げた。
「いままで本当のことを隠していてすまない。死の原因を誤魔化してしまってすまない。……君の気持ちには、応えることができない」
「わたしの告白の答えは、おまけみたいね」
不服そうにする雛だが、その顔には笑みがあった。
「俺が花嫁として迎えたいと思うのは、深月だけだ」
「えっ」
そばで見守っていた深月は、まさか自分の名をここで聞くとは思わず、肩を跳ね上げる。
隣に立つ璃莉は「どうして驚いてるの? 当たり前だよ!」と言わんばかりのきらきらした瞳を向けてくるが、彼女は知らないのだ。暁と参謀総長の会話を。
そしてなぜか、暁からも物言いたげな目を向けられていることに気がつき、深月は動揺のまま口を動かした。
「そ、そうだ。晋助さんが雛さんを探していたんです。もうすぐ黎明舞が始まるからと。だけど……」
その場の全員が雛の足首に目をやる。これでは舞いどころか、歩くのもやっとだ。
「じゃあ、やっぱ深月さまが舞うしかないね! 雛ちゃんの担当は大トリの部分だから長さは一番短いし、今こそ訓練した成果だよ!」
「まさか、君」
暁も察したような視線を向けられ、深月は返す言葉がなく押し黙った。
璃莉は軽々と言ってのけるが、舞う長さは一番短いとはいえ、雛が担当する場所は、一番目立つ大トリである。
「あなた、本当に舞えるのね。嫌がらせて言ったつもりだったんだけど。ちょうどいいわ、わたくしの代わりに頼めない? 舞衣裳ならいましているのを脱いで渡すから、お願い!」
「早くしないと始まっちゃうよ深月さま!」
「は、はい。わかりましたっ」
ゆっくりと決めている暇はない。本当に代理として舞うことになってしまった深月は、雛の衣裳を借り、舞台に急いだのだった。
もうここまで来てしまったのなら、やり遂げるしかないと腹を括る。
深月は舞台横に待機しながら、そのときがくるのを待った。舞衣裳は雛のもの、顔全体は顔布で目元しか見えないので鑑賞者には入れ替わりを見破られることはない。
「雛さん、大丈夫? 緊張しているの?」
「……」
「雛さんなら問題ないわよ。きっとうまくいくわ」
雛の友人と思われる、ほかの舞衣裳を着込む少女に、深月は会釈だけを返す。背丈はそこまで変わらないとはいえ、声を真似ることは不可能だ。
そうして待っていると、いよいよ大トリとして入る笛の前奏が流れ出す。
(大丈夫、覚えたことをやるだけだもの)
深月は何度か深呼吸を繰り返し、舞台袖から外に出たのだった。
舞台でのことはほとんど記憶にない。
舞を間違えたのか、それほど出来は悪くなかったのか、それすらもわからない。
ただ、黎明舞は心の憂いを晴らすもの、という意味だけは忘れずに舞のあいだも頭に留めた。
どこかで舞台上の深月に、一瞬でも向けているかもしれない暁のことを想い、一心に舞った。
ひらひら、ひらひらと。
天女の羽衣のような手首の装飾が、ひとりでに靡くように意識する。
妖力を感じる永桜が、まるで深月の心に呼応するよう、揺れ動く。
儚くも美しい花びらは、桜の精だと見紛うように、深月の周囲に舞い落ちた。
本当に黎明舞に心の憂いを晴らす効果があるのなら。
どうか暁の心が少しでも救われるようにと願う。それだけを強く願う。
(なんだか、変なの。夢みたい)
以前は人との関わりを避けていた自分が、人前で舞っている現状に少しばかりおかしく思う。けれどそれはすべて、好きな人に対する行動力が為せる技だった。