東風が強く吹くと、春を実感する。
朝方の陽光は、真綿のようにふっくりと柔く暖かい。
(日差しが気持ちいい)
深月は天を仰いで安堵の息を吐き、箒の持ち手を胸に寄せた。
(だいたい片付いたかな)
周囲を一瞥し、深月はふっと息をつく。
ここは帝都の中央区画を拠点とする帝国軍特命部隊本拠地。その敷地内に建てられた別邸が、訳あって保護下にある深月の住まいだ。
深月は掃除が済んだばかりの中庭に佇むと、地面に目を向けた。
(どこからか吹かれて飛んできたのね)
草履を履いた足の先に、敷地外から迷い込んだ薄紅色の花びらが落ちていた。
何気なしに拾おうとして、背後から声が掛かる。
「ここにいたか」
深月は屈みかけた腰を上げた。振り返ると、濃紺の軍服を身にまとう長身の青年の姿があった。金の飾緒は確固たる地位の証、腰に携えられた刀の柄は漆黒で、揺れる真紅の飾り紐がよく映えている。
そして、白手袋を嵌めた彼の片手には、小さな三毛猫がすっぽりと抱えられていた。
「暁さま、おはようございます」
「ああ、おはよう」
暁は言葉を交えながらこちらに歩を進める。朝日に透けた胡桃染の髪が煌々となびき、淡黄の瞳が深月を見捉えると穏やかに細まった。
「にゃあ」
次いで三毛猫がご機嫌な声で鳴く。
深月はハッとし、少し慌てながら尋ねた。
「もしかして、鈴がなにか粗相を?」
「いや、訓練場の外で寝転んでいたから連れてきた。そろそろ隊員たちの出入りが激しくなる頃合いだからな。途中で餌もあげてきた」
「それは……すみません、お手間を取らせて」
明け方のこの時間帯、暁は自身の鍛錬に当てていた。特命部隊隊長の職につく彼は、以前にも増して最近は多忙の身である。その時間を割いて餌を与え、わざわざ連れてきてくれたのかと思うと、さすがに申し訳ない気持ちになった。
しかし間を置かずに暁は首を左右に動かし断言した。
「手間じゃない。俺も良い息抜きになっている」
暁は慣れた手つきで鈴の喉元を撫でる。以前は『何かの拍子に潰れてしまったら困る』と距離を取っていたのだが、比べると驚くべき変化だ。
取り繕った態度ではなく、本当に可愛がっている様子が伝わってくる。
(ああ、わたしったらまた癖で)
こういうとき、まず伝えるべき言葉は謝罪ではない。
「ありがとうございます、暁さま。鈴も喜んでいます」
「そうだといいが」
気を取り直して礼を告げると、暁は小さく微笑んだ。
三毛猫、鈴はひょんなことから深月が世話をすることになり、悩んだ末に『鈴』と名付けた。いまではこの特命部隊本拠地の癒やし猫としてのびのびと生活している。
任された当初は子猫だったが、季節をまたいで一回りほど大きく成長した。
「ところで」
暁の視線が、深月の手元に向けられる。
「手間だと言うなら、君のほうじゃないか?」
「え?」
「今朝も庭の掃き掃除をしてくれていたんだろう――ここに」
ふいに暁の手が深月に向かって伸び、頬の横でぴたりと止まった。
肌には決して触れない指先の気配が、密かに深月の鼓動を速める。
それから暁は、そよそよと流れる深月の髪の隙間からさっと何かを取る仕草をした。
「驚かせてすまない。髪にこれが」
暁は小さな枯れ葉を見せてくる。庭を掃いている最中についてしまっていたのだろう。
「あ、ありがとうございます」
深月は手にある箒を握り込み、ためらいがちに口を開いた。
「わたしは保護していただいている立場ですし、何もしないというのは……やっぱり心苦しくて。ご迷惑にならない程度にお手伝いができればと」
以前は夜明け前から雑務をこなしていた。そんな深月にとって日の出とともに起床し、こうしてゆっくり話をする時間が与えられていること自体、あの頃とは比べ物にならないくらい贅沢な環境だった。
ゆえに、なにかしなければと、つい考えてしまうのである。
「負担になっていないならいいんだ。別邸は人の出入りも限られている。朋代さんも助かっていると言っていた」
「そうだといいのですが」
少しでも役に立っているのなら嬉しい。そう考えて、会話の返しが先ほどの暁と似ていることに気づく。暁も同じように感じていたようで、見上げると可笑しげに表情を緩めていた。
「そろそろ朝食の支度が終わるはずだ。行こう、深月」
「はい、暁さま」
暖かいそよ風がふたりの間をすり抜ける。
中庭を出ようとしたところで、微笑ましそうな表情を浮かべた朋代と鉢合わせた。
「おはようございます。暁さま、深月さま。なんだか仲睦まじいご様子でしたので、お声をかけようか躊躇ってしまいましたわ」
朋代は物陰から様子を窺っていたらしい。つい先ほどのやり取りを見られていたかと思うと、なんだか気恥ずかしいような、居た堪れなさがある。
「楽しそうなところ水を差して悪いが……朝食が済み次第、深月と外へ出てくる。彼女の支度を頼めるか?」
「はい、かしこまりました。この朋代にお任せくださいまし」
「いつもありがとうございます、朋代さん」
本邸女中頭と深月の世話役を兼任する朋代は、三十代半ばの鷹揚とした女性だ。世話をされることに慣れていない深月だが、朋代の気さくで話しやすい性格のおかげで短い付き合いながら信頼を寄せているひとりでもあった。
ただ、そんな朋代に深月は大きな隠しごとをしている。彼女だけではなく、この特命部隊本拠地にいる大勢の人たちにも。
(ちゃんと、仲が良く見えているのね。暁さまの花嫁候補として)
偽りの花嫁。それがふたりの間に交わされた契約。
この事実を知る者は、手に数えられるほどしかいない。
(あまり時は経っていないはずだけど、もう遠い日のことに感じる)
事の発端は、今年の冬。
深月が奉公女中として働いていた『庵楽堂』の大旦那から、愛娘麗子の身代わりとして華族との縁談を持ちかけられたのが始まりだった。
亡き養父の借金を肩代わりし、その返済のため素性もわからない自分を雇い入れてくれた恩がある大旦那に、深月は逆らうことができなかった。
なによりも五年という長い奉公生活で周囲にこっぴどく虐げられ、こき使われ続けた深月の心はすっかり弱り果てていた。嫌だと、自分の意思を言葉にするという当たり前のことさえできなくなってしまっていたのだ。
半ば強制的に嫁がされ、初夜を迎えることになった深月だが――夫となるはずだった男は悪鬼に取り憑かれ、深月の血を求めて襲いかかってきた。それを間一髪のところで討伐し、深月を命の危機から救ったのが特命部隊隊長の朱凰暁である。
自分が稀血という稀有な存在であり、血の香りであやかしものから狙われる立場にあると告げられた深月は、周りに危害が及ぶのを恐れた。そして、暁の提案により身の安全を図るための『契約の花嫁』になることを受け入れたのだった。
たとえそれが保護とは名ばかりの、得たいの知れない深月を監視する目的で提示された契約だったとしても、あのときの深月には選択の権利などゆだねられてはいなかった。
初めは考えの読めない暁に強い畏怖すらあった。
けれど、行動をともにして言葉を重ねるたびに、暁がどれほど真っ直ぐな心の青年であるのかを深月は知っていった。
『思うこと、感じることは君の自由であり、誰であろうと脅かすことのできない権利だ』
暁がかける言葉は、いつも深月に誠実で。
『ほかの誰でもない。選ぶんだ、君が』
失った自尊心を、冬枯れのようにしぼんでいた心をすくい上げてくれたのは、ほかでもない暁だった。だからこそ彼に惹かれ、深月はそばにいたいと願った。
以来、深月の身柄は特命部隊が引き続き保護し、稀血という事実は少数の限られた者だけが知る極秘事項であるため、周囲を納得させる理由付けとして朱凰の分家からやってきた『偽りの花嫁』を装っている。
公的な婚姻は挙げていないので、正確には候補なのだが、普段のふたりを見ている特命部隊隊員たちを含め、本拠地にいるほとんどの人々が深月を未来の花嫁であると信じて疑わなかった。
朝方の陽光は、真綿のようにふっくりと柔く暖かい。
(日差しが気持ちいい)
深月は天を仰いで安堵の息を吐き、箒の持ち手を胸に寄せた。
(だいたい片付いたかな)
周囲を一瞥し、深月はふっと息をつく。
ここは帝都の中央区画を拠点とする帝国軍特命部隊本拠地。その敷地内に建てられた別邸が、訳あって保護下にある深月の住まいだ。
深月は掃除が済んだばかりの中庭に佇むと、地面に目を向けた。
(どこからか吹かれて飛んできたのね)
草履を履いた足の先に、敷地外から迷い込んだ薄紅色の花びらが落ちていた。
何気なしに拾おうとして、背後から声が掛かる。
「ここにいたか」
深月は屈みかけた腰を上げた。振り返ると、濃紺の軍服を身にまとう長身の青年の姿があった。金の飾緒は確固たる地位の証、腰に携えられた刀の柄は漆黒で、揺れる真紅の飾り紐がよく映えている。
そして、白手袋を嵌めた彼の片手には、小さな三毛猫がすっぽりと抱えられていた。
「暁さま、おはようございます」
「ああ、おはよう」
暁は言葉を交えながらこちらに歩を進める。朝日に透けた胡桃染の髪が煌々となびき、淡黄の瞳が深月を見捉えると穏やかに細まった。
「にゃあ」
次いで三毛猫がご機嫌な声で鳴く。
深月はハッとし、少し慌てながら尋ねた。
「もしかして、鈴がなにか粗相を?」
「いや、訓練場の外で寝転んでいたから連れてきた。そろそろ隊員たちの出入りが激しくなる頃合いだからな。途中で餌もあげてきた」
「それは……すみません、お手間を取らせて」
明け方のこの時間帯、暁は自身の鍛錬に当てていた。特命部隊隊長の職につく彼は、以前にも増して最近は多忙の身である。その時間を割いて餌を与え、わざわざ連れてきてくれたのかと思うと、さすがに申し訳ない気持ちになった。
しかし間を置かずに暁は首を左右に動かし断言した。
「手間じゃない。俺も良い息抜きになっている」
暁は慣れた手つきで鈴の喉元を撫でる。以前は『何かの拍子に潰れてしまったら困る』と距離を取っていたのだが、比べると驚くべき変化だ。
取り繕った態度ではなく、本当に可愛がっている様子が伝わってくる。
(ああ、わたしったらまた癖で)
こういうとき、まず伝えるべき言葉は謝罪ではない。
「ありがとうございます、暁さま。鈴も喜んでいます」
「そうだといいが」
気を取り直して礼を告げると、暁は小さく微笑んだ。
三毛猫、鈴はひょんなことから深月が世話をすることになり、悩んだ末に『鈴』と名付けた。いまではこの特命部隊本拠地の癒やし猫としてのびのびと生活している。
任された当初は子猫だったが、季節をまたいで一回りほど大きく成長した。
「ところで」
暁の視線が、深月の手元に向けられる。
「手間だと言うなら、君のほうじゃないか?」
「え?」
「今朝も庭の掃き掃除をしてくれていたんだろう――ここに」
ふいに暁の手が深月に向かって伸び、頬の横でぴたりと止まった。
肌には決して触れない指先の気配が、密かに深月の鼓動を速める。
それから暁は、そよそよと流れる深月の髪の隙間からさっと何かを取る仕草をした。
「驚かせてすまない。髪にこれが」
暁は小さな枯れ葉を見せてくる。庭を掃いている最中についてしまっていたのだろう。
「あ、ありがとうございます」
深月は手にある箒を握り込み、ためらいがちに口を開いた。
「わたしは保護していただいている立場ですし、何もしないというのは……やっぱり心苦しくて。ご迷惑にならない程度にお手伝いができればと」
以前は夜明け前から雑務をこなしていた。そんな深月にとって日の出とともに起床し、こうしてゆっくり話をする時間が与えられていること自体、あの頃とは比べ物にならないくらい贅沢な環境だった。
ゆえに、なにかしなければと、つい考えてしまうのである。
「負担になっていないならいいんだ。別邸は人の出入りも限られている。朋代さんも助かっていると言っていた」
「そうだといいのですが」
少しでも役に立っているのなら嬉しい。そう考えて、会話の返しが先ほどの暁と似ていることに気づく。暁も同じように感じていたようで、見上げると可笑しげに表情を緩めていた。
「そろそろ朝食の支度が終わるはずだ。行こう、深月」
「はい、暁さま」
暖かいそよ風がふたりの間をすり抜ける。
中庭を出ようとしたところで、微笑ましそうな表情を浮かべた朋代と鉢合わせた。
「おはようございます。暁さま、深月さま。なんだか仲睦まじいご様子でしたので、お声をかけようか躊躇ってしまいましたわ」
朋代は物陰から様子を窺っていたらしい。つい先ほどのやり取りを見られていたかと思うと、なんだか気恥ずかしいような、居た堪れなさがある。
「楽しそうなところ水を差して悪いが……朝食が済み次第、深月と外へ出てくる。彼女の支度を頼めるか?」
「はい、かしこまりました。この朋代にお任せくださいまし」
「いつもありがとうございます、朋代さん」
本邸女中頭と深月の世話役を兼任する朋代は、三十代半ばの鷹揚とした女性だ。世話をされることに慣れていない深月だが、朋代の気さくで話しやすい性格のおかげで短い付き合いながら信頼を寄せているひとりでもあった。
ただ、そんな朋代に深月は大きな隠しごとをしている。彼女だけではなく、この特命部隊本拠地にいる大勢の人たちにも。
(ちゃんと、仲が良く見えているのね。暁さまの花嫁候補として)
偽りの花嫁。それがふたりの間に交わされた契約。
この事実を知る者は、手に数えられるほどしかいない。
(あまり時は経っていないはずだけど、もう遠い日のことに感じる)
事の発端は、今年の冬。
深月が奉公女中として働いていた『庵楽堂』の大旦那から、愛娘麗子の身代わりとして華族との縁談を持ちかけられたのが始まりだった。
亡き養父の借金を肩代わりし、その返済のため素性もわからない自分を雇い入れてくれた恩がある大旦那に、深月は逆らうことができなかった。
なによりも五年という長い奉公生活で周囲にこっぴどく虐げられ、こき使われ続けた深月の心はすっかり弱り果てていた。嫌だと、自分の意思を言葉にするという当たり前のことさえできなくなってしまっていたのだ。
半ば強制的に嫁がされ、初夜を迎えることになった深月だが――夫となるはずだった男は悪鬼に取り憑かれ、深月の血を求めて襲いかかってきた。それを間一髪のところで討伐し、深月を命の危機から救ったのが特命部隊隊長の朱凰暁である。
自分が稀血という稀有な存在であり、血の香りであやかしものから狙われる立場にあると告げられた深月は、周りに危害が及ぶのを恐れた。そして、暁の提案により身の安全を図るための『契約の花嫁』になることを受け入れたのだった。
たとえそれが保護とは名ばかりの、得たいの知れない深月を監視する目的で提示された契約だったとしても、あのときの深月には選択の権利などゆだねられてはいなかった。
初めは考えの読めない暁に強い畏怖すらあった。
けれど、行動をともにして言葉を重ねるたびに、暁がどれほど真っ直ぐな心の青年であるのかを深月は知っていった。
『思うこと、感じることは君の自由であり、誰であろうと脅かすことのできない権利だ』
暁がかける言葉は、いつも深月に誠実で。
『ほかの誰でもない。選ぶんだ、君が』
失った自尊心を、冬枯れのようにしぼんでいた心をすくい上げてくれたのは、ほかでもない暁だった。だからこそ彼に惹かれ、深月はそばにいたいと願った。
以来、深月の身柄は特命部隊が引き続き保護し、稀血という事実は少数の限られた者だけが知る極秘事項であるため、周囲を納得させる理由付けとして朱凰の分家からやってきた『偽りの花嫁』を装っている。
公的な婚姻は挙げていないので、正確には候補なのだが、普段のふたりを見ている特命部隊隊員たちを含め、本拠地にいるほとんどの人々が深月を未来の花嫁であると信じて疑わなかった。