鬼の軍人と稀血の花嫁二

 案内役と名乗った男が馭者を務める馬車は、しばらくすると鬱蒼とした森の中を進み始めた。

 おそらく西区画のどこかのはずだが、馬車が一台通るだけでやっとの細道に通行人の姿はない。窓外の景色に目を向けると、深い森に呑み込まれていくような錯覚に陥った。

 「……帝都とは思えない雰囲気の場所ですね」

 「白夜殿は商いの拠点として、西区画の港側に別宅を持っているという話だが、いま向かっているのは白夜家本宅だ。公にも、軍にもその在処は知られていない」

 「乃蒼さんは首領の立場なのに、そのようなこと可能なんですか?」

 諜報部隊を抱えている帝国軍が把握していないのは、少し不自然に深月は感じた。

 「それを可能にするのが、禾月首領の力と言えるな」

 乃蒼を含めた禾月首領は、代々妖力を操ることで幻術なるものを発生させ、外敵からの侵入を防いできた。ゆえに森の入口も通常人の目に映ることはないのだという。

 「そこまで秘密に守られている場所に招いてくださるなんて、いいのでしょうか」

 説明を聞いて恐縮する深月に、暁は小さく笑んでうなずいた。

 「白夜家は君の母親の生家だと、白夜殿も言っていただろう。今回のことも当然の招待だと」

 「そうですよね。なんだかまだ実感が湧かなくて」

 「妖刀の声もそうだが、すべてを一度に納得する必要はない。時間をかけて受け入れていけばいい」

 いまいち両親の話に心が追いついていないところがあった深月には、その言葉がひどく染みた。記憶にない母親に関する場所というのが常に念頭にあったので、思いのほか気を張っていたようだ。

 「暁さまが一緒にいてくれてよかった。すごく心強いです」

 ほっと表情を緩めた深月から本音が漏れる。

 瞬間、対面する暁の肩がぴくりと震えたような気がした。

 「失礼いたします、お足元にお気をつけください」

 が、そんな些細な反応に気を留める暇はなく、停まった馬車の扉を開けた使いの男から到着が伝えられた。
 天高く伸びる森の木々に囲まれた白夜家本宅の屋敷。

 白く重厚感のある外観は華麗な装飾が施され、同じく西洋建築を模した特命部隊の本邸や別邸よりも、さらに繊細な設計がされているのは随所から窺えた。

 (窓も壁も、どうやって造られているのか想像がつかないわ)

 建築に関して知識のない深月でも、その意匠を凝らした屋敷の景観に固唾を呑んでしまうほど、独特な雰囲気があった。

 「どうぞお入りください」

 使いの男に案内を受けて中に入る。薄暗い広間と階段には渋みのある赤い絨毯が広く敷かれており、茶色の柱と階段の彫り装飾が芸術品のように思えた。

 「こちらの応接間で主がお待ちです」

 一階の廊下を進み、ひとつの扉の前で歩みを止めた男は、ふたりを中へと誘導する。

 「やあ、ふたりとも。待っていたよ!」

 入った瞬間、ふたりを出迎えたのは嬉しそうに腕を広げた乃蒼だった。

 白シャツの上から中着(チョッキ)のみと、いつもよりかなりの軽装である。外出時は日光を避けるための帽子も被っておらず、深月の目には新鮮に映った。

 「乃蒼さん、お招きいただきありがとうございます」

 「お礼を言うのは僕のほうさ。深月、暁くん、よく来てくれたね。君もご苦労さま」

 最後に乃蒼は案内役を務めた彼に労いの言葉をかける。

 「ここまでの案内してくださってありがとうございました」

 深月も振り返り礼を言った。暁は深月の言葉を立てて口は挟まず、代わりにしっかりと会釈をする。

 そんなふたりの丁寧な物腰に瞳を広げ、男はにこりと笑顔を浮かべた。

 「案内役光栄にございました」

 男は暁にも同じように目礼すると、応接間を出ていった。

 「彼は僕の側近だよ。表の事業と首領補佐。色々と世話になりっぱなしなんだよねー」

 「もしかしてですが、あの方は私のことをご存知で?」

 なんとなく去り際の台詞や態度に引っ掛かりを覚えていた深月は、おそるおそる聞いてみる。

 「うん、そうなんだ。深月が稀血だということも知ってる。事後報告になって悪いんだけど、それについても話をさせてほしくてね。こっちに座って。いまお菓子も用意させているから」

 深月と暁は互いの顔を見合わせ、とりあえず詳しいことを聞くために、乃蒼が示したソファに並んで腰を下ろした。
 「――というわけで、さすがに僕ひとりだとほかの禾月を誤魔化すのも困難になってきてね。こちら側にも深月の事情を共有できる者が急遽必要になったんだ」

 ソファに腰を下ろしてほどなく、自分の状況を踏まえた乃蒼の説明がおおかた終了する。端的にいうと、ひとりでこそこそ特命部隊と関わりを持つのも限界が近く骨が折れるということらしい。

 「白夜殿のような人が頻繁に特命部隊に出入りしていると知られれば、従属下の禾月内でも不審に捉える輩は出るだろう。彼は口裏合わせに適した人材ということか」

 なにより彼は乃蒼の側近という立場にあるため、本当の行き先を隠して深月に会いに行っていた乃蒼の姿を以前から不自然に思っていたようである。

 「まあ、ほら。最初の頃は頻繁に顔を出していたから、そのときからなにか隠してるって疑っていたらしくてね……」

 もともとの発端は自分にあるため、乃蒼は少々気まずそうにした。

 確かに乃蒼は、華明館の一件で特命部隊を訪ねたとき、帰り際に「また来るよ」と言っていたのだが。言葉どおり次の日に彼がまたやってきたときは、さすがの深月も驚いた。

 いま思えば深月が心配だったという理由のほかに、死んだと思われていた従兄妹と再会できた喜びのあまり、必要以上に構ってしまったのだろう。

 そんな乃蒼が足繁く通っていた期間中に、側近の彼はなにかあると目星をつけた、ということだったらしい。

 「もちろん彼が他言することはないと僕が保証するよ。むしろ僕と同じく深月の身を案じているくらいだから。だけど予定にない者を、君のことを許可なく明かしてしまったことについては、本当にごめんと言いたくて……」

 前提として稀血の存在は秘匿とされ、禾月や悪鬼よりもさらに徹底して隠されていた。

 深月が稀血だと知るのは、帝国軍内では暁、羽鳥、蘭士。そして参謀総長のみ。禾月側では乃蒼だけだった。

 以前、特命部隊敷地で深月の血の香りで稀血だと勘づいた禾月の男には、捕縛後に帝国軍独自に調薬した忘却剤を打ち、記憶を消す処置が施されたことがあとになって伝えられた。

 深月が稀血だという情報は、渡る相手によっては危険性が増してしまう。深月の安全を守るため、打ち明ける者に関しては細心の注意を払わなければならないのだ。

 (だけど、乃蒼さんひとりで隠しているのも大変よね)

 禾月の首領がどのような為事に追われ、重責があるのかを事細かに聞いたわけではないので想像が大いに含まれているが。決して簡単にこなせるような責務ではないだろう。

 加えて白夜家当主として華族界隈でも名が通っている乃蒼は、勲功華族として伯爵位を継ぎ、貿易の豪商として社会的地位が高い。

 勲功華族は由緒正しい公家や大名家と違って軽んじられる風潮が華族界隈で浸透するなか、従属下の禾月を動かし巨万の富を築いた一族の手腕と、多くの情報に通じている白夜家は両華族から一目を置かれる立場にあるのだ。

 「このことについては、暁くんのお父上にも報告済みではあるんだけど。当の本人にあとから言うのもなんだかなという感じでね」

 しゅんと眉尻を下げた乃蒼に、深月はひとまず自分の考えを伝えた。

 「乃蒼さんのご負担が軽減されるのなら、信頼できる方にお話していただいてもいいのでは、とは思うのですが」

 しかしあくまで特命部隊で保護されている自分が、あんまり偉そうには決められないと、暁を見やる。

 「秘匿事項を知る者は、少なければそれだけ漏洩の可能性も減るだろう。だが、参謀総長の許可が出たというのならこれ以上の口出しは不要だ」

 「えーと、それはつまり、腸が煮えくり返る思いではあるけど我慢してなにも言わずにいるっていう解釈でいい?」

 「違う。煮えくり返ってもいない」

 暁は大きな嘆息のあとで、深月を横目に言った。

 「彼女も納得しているようだし、なにより以前から白夜殿に負担がかかっていないかと気にしていた。結果として身軽になったのなら、反対する必要はないと思ったまでだ」

 気がかりではあったけれど、それを直接暁に告げたことはない。なのに見通されていたと知り面食らった深月だが、たまらなく嬉しくもあった。

 ふわりと跳ね上がるような心地とともに、突然ぎゅう、と心の臓が掴まれる。

 (ああ、これは。なんだというの)

 ……また不調だ。胸騒ぎのような鼓動の震えが全身に広がり、息苦しくなる。こんなときまで体の不調が出るなんて。

 「深月、どうかしたのかい?」

 両手を胸に当てて俯く深月の異変を目にした乃蒼は、そう聞いてくる。

 「あの」

 じつは、と深月がこれまでの体の異変を口にしようとしたところで。

 「ハーイ、皆さん。あまくて美味しいシュークリームをお持ちしました!」

 扉が、ばん、と開かれる。

 そこに立っていたのは、謎の年若い美女だった。

 海老茶色の袴、濃い白銀の髪はふたつに分け耳上でまとめ流すという珍しい結び方をしている。洋花が華やかに散った着物の上から羽織ったレース羽織りが、より個性を強調させていた。

 いわゆるモダンガールとも違った異色な格好に深月が目を奪われていれば、謎の美女はこつこつと皮の洋靴を鳴らして歩いてくる。

 長いまつ毛に縁取られた竜胆色の瞳が深月を見捉えると、その色が歓喜するよう輝いた。

 「稀血の深月さまって、あなたのことねっ」

 「えっ、え?」

 手に持った盆を両者のあいだにあるテーブルに置き、美女はくるりと向きを変えて深月の両手を握る。

 「乃蒼兄さまからお話は聞いていたの。稀血の女の子で、しかも同じ白夜の血筋だって」

 「璃莉(りり)、もう少し抑えて。深月が驚いて固まっているから」

 「あ、本当だ」

 璃莉と呼ばれた美女は、深月から手を離すと後ろに一歩下がる。

 「白夜殿、まさか彼女が?」

 璃莉の勢いに気圧されていた暁が、空気を変えて話し始める。うなずいた乃蒼は、彼女を自分の横に立たせてふたりに紹介した。

 「彼女は、白夜 璃莉(びゃくや りり)。僕の妹で、深月の護衛にと考えている子だよ」

 「わたしの……?」

 深月は自分たちが白夜家に招待された理由を思い起こす。

 会わせたい人と、話したいことがある。

 てっきり乃蒼の側近の男が〝会わせたい人〟で、彼に自分の存在を周知されたことが〝話したいこと〟だと思っていたが、まったくの思い違いのようだ。

 「暁さまは、ええと……璃莉さまの話をご存知だったのですか?」

 「白夜殿が蘭士と別邸に顔を出した日があっただろう? 確定ではないが、女性の護衛もいたほうがいいのではと提案を受けていた。それも去り際に言われた程度だったが」

 「そういうこと! それと深月さま、あたしのことは気軽に璃莉って呼んでくれると嬉しいな」

 璃莉は愛らしい笑みを浮かべる。この似たようなやり取りを、以前に乃蒼からもされたような。

 期待の眼差しを向けられてしまい、深月はそっと頭を下げながら言った。

 「呼び捨てはさすがに忍びないので、璃莉さんとお呼びしても……?」

 「もちろん!」

 案外すんなりと璃莉は妥協案を了承してくれた。

 相手の要求を拒んだ形になっていたので、不快に思われていないことに深月はほっとする。

 妹がいた事実に多少の驚きはあったものの、早くも似通った部分を発見し、兄妹関係に納得した。

 「璃莉は妹だし、護衛の話を抜きにしても、いずれ紹介するつもりではいたんだ。最近帝都に戻ってきて今日ようやく顔合わせができたよ」

 「白夜璃莉、十九歳。特技は隠密、変装、潜入。好きなことは流行に乗ること、恋愛譚を読むこと、甘い菓子を食べること。よろしくね」

 溌剌とした自己紹介。なにやら気になる要素を色々と持ち合わせた少女だ。

 そして、璃莉こそが乃蒼の会わせたいと言っていた人だったのだろう。

 「いまは乃蒼兄さんの計らいで本家の入れてもらっているけど、もともとあたしは白夜の分家出身なの。十九年前の内乱で両親は亡くなってしまって。でも乃蒼兄さんがそんなあたしを引き取って、妹として育ててくれたんだ」

 「育てたといっても当時は僕も子どもだったから、ほかの人の手もたくさん借りていたけどね」

 軽快に進む会話に、深月は気になる箇所を見つけた。

 「十九年前の内乱……ということは、わたしの両親も巻き込まれたという騒動のことでしょうか」

 深月の遠慮げな問いのあと、室内の空気はほんのり張り詰めた静寂に様変わりする。

 「前置きがかなり長くなったけど、深月に話したかったことが、それを含めたことだよ」

 居住まいを正した乃蒼は、ベストの内ポケットから一枚の紙のようなものを取り出した。

 「まずはこれを、君に渡しておくね」

 それを卓上に置き、すっと指で滑らせると、深月が取れる距離で動きを止める。

 手に取ってそれが肖像写真だとわかった深月は、被写体の姿に瞠目した。

 色褪せて霞んだ写真に映るふたりの男女。男は佇んで椅子に座る女の肩に手を置き、女はお包みを抱えている。

 時間を鮮明に切り取った瞬間の様子が、深月にはとてもしあわせそうに見えた。

 「もしかして、この方たちは」

 深月は写真からぱっと顔を離し、複雑に入り交じった表情を浮かべる。乃蒼は短く言った。

 「そう、君の両親だよ」

 「……」

 もう一度、自分の両親が映った写真を食い入るように見る。

 話を聞いていただけとはまったく違う。くすんだ色合いの一枚の紙が、彼らが存在していた確証を残してくれている。

 「それが撮られたのは、この屋敷で内乱が起こる前。すでに白夜家を離れていた深月の両親は、僕の両親や当時の首領に写真を見せるためここを訪れて、その夜に騒動に巻き込まれてしまった」

 「保守派と過激派の抗争か」

 暁も心当たりのある内容に口を開く。

 諜報部隊が独自に調べあげた記録と、養父である参謀総長からある程度の大筋は聞かされていたのだろう。

 「当時、白夜家を含めた従属下の禾月には、現状の維持を望む者と、そうでない者とに分かれていてね。保守派筆頭が先代の首領、僕や深月の祖父でもある人だよ」

 もとは人間の血肉を糧として蔓延っていたあやかしもの。ほかのあやかしのように妖界には渡らずに、人間の世に残り繁栄を続けた禾月のなかには、過激な思想を持つ者が一定数いた。

 なぜ、こそこそと日陰の下で人間たちの血を吸わねばならないのか。

 なぜ、優れた我々が人間に配慮し、合わせて生きなければならないのか。

 樹木が土に根を張り年月をかけて広がっていくように、長い時のなかで徐々に規模が拡大していった禾月の一族。

 数が増えれば個々の意見が増え、反発勢力が出来上がってしまうのも、意思ある者のさがなのだろう。

 対話によって納得させ、力によって鎮静させ、支配によって管理しても、意外なところでほころびは生まれていく。その結果が、過激派による白夜家本宅で起こった十九年の内乱だった。

 「あの日は満月だった。血が高揚する夜に一族行事で多くの禾月がこの屋敷に集まっていた。保守派も過激派も大勢に。反乱を起こすには絶好の機会だったのだろうね」

 これは改革だと高らかに叫び、保守派の謀殺を企てていた過激派による内乱が始まったのだ。

 とはいえ保守派もそう簡単にやられる軟弱者ではない。攻防を繰り返し、一晩続いた末に過激派を退けることには成功した。

 だが、あまりにも犠牲が大きすぎた。

 首領は息を引き取り、当時の保守派主力の数も半分以上削られ、乃蒼の父親や璃莉の両親も命を落としたのである。

 時系列から推測すると、深月の両親はその混乱のなかで重傷を負いながらも逃げ、養父の貴一に深月を託したものだと考えられた。

 「そんな、ことが」

 壮絶な過去を聞き、深月はそれ以上の言葉が見つけられなかった。

 目指す思想が違ったからという理由で、この地では多くの禾月が争い、そして息絶えた。

 それだけの理由で、なのか。

 それほどの理由で、だったのか。

 つい最近まであやかしものの存在すら知らなかった自分が軽々しく弁じていい問題ではないと重々わかっている。わかったようなことは言えない。

 だからこそ、ただ、悲しいと思った。

 「あ、の……わたしは」

 余計なことを言うつもりはなかったのに、ふと正面を向いたとたん、深月はなにか言わなければという思いに強く突き動かされた。

 いつもにこにこと笑って自分を気にかけてくれる乃蒼が、第一印象で明るく元気な少女だと思った璃莉が、揃って後悔を滲ませていたからだ。

 きっと思い出すのも苦しいだろう。

 改めて当時の様子を説明するのも辛いことだ。

 だから。

 「生きて、いまこうしておふたりにお会いできて、よかったです」

 自分は相手を慰めてやれるほど立派でも器用でもない。それでもなにか言わなければと逸った結果、そのままの言葉を伝えるしかなかった。

 「生きていてくれて、わたしと関わってくれて、ありがとうございます」

 写真のなかで笑う両親や、実の子でもなければ血縁でもない自分を育ててくれた養父には、もう会うことは叶わないけれど。

 こうして新しい繋がりに出会うことができた。行き着く過程で苦しみを味わったとしても、いま目の前に訪れた関わり自体は、悲しいことでも、憂うことでもない。

 (……静かだわ。わたし、的はずれなことを言ってしまったのかな)

 深月の心に募っていた感謝の思いの言葉に、ふたりは揃ってぽかんとしてしまって。隣の暁からも、驚いている気配がわずかに感じ取れた。

 「あ……その、わたしの言い方がお気に障っていたならすみません。よかったというのは、なにもほかの方を軽んじたわけではなくて」

 ほかの人は死んでしまったが、あなたたちだけでも生きていてよかった。

 深月は決してそう言いたかったわけではない。

 大勢の犠牲のなかで、自分だけ、自分たちだけが生きている状況というのは、きっと当人たちに重くのしかかっている問題だ。

 記憶にない両親のことですら、当時の話を聞き、写真で顔がわかっただけで、いまさらながら気持ちが影響を受けているのに。

 亡くなった者のなかには見知った人が多くいたであろう乃蒼や、赤子の頃から当時の気配を身近に感じて育った璃莉なら、なおのことだろうと思ったのだ。

 「〜〜〜〜っ、好きっ!」

 そのとき、感極まった璃莉が、深月目がけて飛び上がった。

 「へっ」

 出てしまった間の抜けた声を恥じんでいる暇もなく、璃莉は器用にテーブルを飛び越えて、ぎゅっと抱きついてくる。

 「こら、璃莉。さすがにいまのはお行儀悪いよ。菓子だって置いてあるんだから」

 「だって深月さまがそんなこと言ってくれるなんて、あたし感激てっ」

 「り、璃莉さん」

 璃莉から香る菓子のような甘い匂いと、抱きしめられた衝撃で頭がくらくらする。こんなに体当たりのような勢いで人と接触したことがない深月は、どうもできずなすがままになっていた。

 「本当は少し怖かったの。深月さまはひとりでたくさん酷い目に遭ってきたのに、あたしは本家に引き取られて衣食住に困らない生活をさせてもらっていたから」

 「それは、璃莉さんが気に病むことではないです」

 息苦しい抱擁がほんのり緩まる。ようやく少し体を離してくれた璃莉がこちらをじっと見つめてくるので、深月は笑みで返した。

 「目まぐるしい日々ではありましたが、特命部隊の皆さんや、暁さまにお会いできて、いまのわたしには有り余ることばかりで。それだけで、救われています」

 取り留めのない発言が少し恥ずかしかった深月だが、璃莉はまったく気にしておらず、それどころかさらに抱擁を強めてきた。

 「やっぱり好き! 深月さまはあたしが全力で護衛する!」

 「璃莉、深月が潰れてしまうよ!」

 すっかり深月に心を掴まれた璃莉は、自分から護衛になりたいと志願し出してしまった。

 いままで周りにはいない性格の少女に戸惑いながらも、素直すぎるゆえ早くも深月は彼女に心を開きつつあった。

 ただ、それとはべつに気になることが。

 (……暁さま、笑ってはいるけれど)

 乃蒼が璃莉を引き剥がすのに苦戦する最中、ちら、と深月は暁を盗み見る。

 賑やかな兄妹に呆れながらも静かな笑みを浮かべる彼だが、同時にどこか遠い場所を見ているよう気がしてならなかった。

 話し合いの末、璃莉は正式に深月の護衛になることが決まった。

 暁が永桜祭の警備などで忙しくなる前に、彼の不在を任せられる者が新しくつくのは、結果としてよかったのかもしれない。

 乃蒼によると璃莉は本家と分家の禾月を合わせても、上位五本の指に入るほどの実力者。贔屓目なしで乃蒼が認める腕を持っているそうだ。

 「最近まで帝都にはいなかったと言ったでしょ? じつは西欧のほうに行っていたの。英吉利……英国はわかる?」

 「はい。そんなに遠くまで行かれていたなんてすごいです」

 まだまだ庶民には浸透していないが、留学や商いのための渡航はこの国でも可能になっていた。船に乗り数ヶ月かけて西欧諸国の地に足をつけるというのは、どのような気持ちなのだろう。

 「伊達に古い時代から人の世にいるわけじゃないからね、あんまり大っぴらには言えないけど、白夜家っていろんな国に顔が利くんだよ」

 という会話を挟みつつ、深月と璃莉が向かうのは、屋敷の二階。

 乃蒼との話もひと段落し、シュークリームを美味しくいただいた深月は、生前の母が使用していた部屋があると教えられ、せっかくなので見せてもらうことにしたのだった。

 「十九年前の内乱は、裏手にある迎賓館で起こったことなの。だから本宅はほとんど変わらないままだし、気負わないで大丈夫だよ」

 どうやら顔に出てしまっていたようだ。

 いま歩いているこの廊下でも争いが起こっていたのでは、と考えていた深月は、璃莉の親切な配慮にこくりとうなずいた。

 「昔はもっと本家以外の、分家の人たちが気軽に寝泊まりしていたらしいけど。いまはそれぞれ帝都に家をもっている人がほとんどかな」

 「それでこんなに静かなんですね」

 主な生活場所が別邸とはいえ、敷地内を歩けるようになった深月の耳には、よく他人の生活音が聞こえてきていた。それに比べるとここはあまりにも静かで、ふたりの話し声が響いているほどだ。

 「頻繁に使っているのはあたしと、乃蒼兄さんと、その側近くらいだからね。少ない人数しかいないから、深月さまや隊長さんを屋敷に招待できたってわけ」

 と、言い終えた瑠璃は、二階の角の部屋の前で足を止めた。

 「こちらが母の使っていたお部屋ですか?」

 「そうだよ。入って入って」

 思い切って母と口にしてみたが、やはりなんだか慣れない。こそばゆくなりながら璃莉に促されて中に入る。

 きい、と金具が軋む音がして、部屋の窓からかすかな光の筋が射し込み目が眩んだ。

 視界がもとに戻ると、そこには八畳ほどの広さの洋室があった。艶を帯びた茶色の文机、椅子、寝台と、壁に反って本棚がふたつ並んでいる。本棚は天井まで届きそうな高さで、横にいくつか仕切られた空間には、書物がぎゅうぎゅうに詰まっていた。そのほとんどが大衆文学よりの小説である。

 もしかして母も、物語に触れることが好きな人だったのだろうか。

 「あのね、深月さま」

 璃莉が人差し指同士をツンツンとつけながら白状するよう言った。

 「あたし、この部屋の書物をよく借りていたの。深月さまのお母さまの部屋なのに、小さい頃から勝手に出入りして読んでいて」

 勝手に部屋の本を読み漁っていたことに、深月がいい気はしないと思ったのか、璃莉は急にしおらしくなる。同い年だけれどその姿はなんだか幼くて、深月はつい口元を緩めた。

 「こんなにたくさん保管されているんですから、誰の手にも触れられないのはもったいないです。きっと書物も璃莉さんが読んでくれて本望だと思いますよ」

 それを聞いて安心した璃莉は、ぱっと表情を明るくさせ本の背表紙に目線を向けた。

 「そういえば深月さまは、外来語がわかるって聞いたけど」

 「完璧とは言えないですけど、文字を理解する程度には」

 「それだけでもすごいよ。深月さまのお母さまもね、どうやら外来語に長けていたみたい。だからこの本棚には西洋で書かれた物語がたくさんあるんだよ」

 「……なんだか、恋愛物語が多いみたいですね」

 すると、璃莉は頬を指で掻きながら、あははと眉を下げて笑った。

 「というより、それだけしかないっていうか。深月さまのお母さま、かなり恋多き人だったらしくて、読むものも自然とそればっかりに」

 「恋多き人、ですか」

 別邸で過ごすようになり、また書物を読むことが増えた深月だが、恋や愛が本筋の物語は読んだことがない。

 昔から好んで読んでいた冊子も、軽く要素はあるが添え物程度である。

 母だけど、性格は自分と似ても似つかない人だったのかもしれない。となると父に似たのだろうか。なんて、ぼんやりと予想してみる。

 「わたしには縁遠いことですが、母は多くの恋を経て、父と結ばれたのですね」

 深月の何気ない感想に、璃莉はきょとんと顔をかしげた。

 そして、にやにやと内緒話をするように片手を口に寄せる。

 「ふふふ、恋多きってところは当てはまらなくても、深月さまと隊長さんだって恋人同士でしょっ」

 「……恋人ではなくて、表向き花嫁候補としているだけですね」

 それは璃莉も知っているはずだと不思議に思う深月に、璃莉は「またまたぁ」と声を弾ませた。

 「そうじゃなくて、契約花嫁から本当の恋人になったんだよね?」

 「へ、え」

 素っ頓狂な声が出る。一体どうしてそのような話になっているのか、まず自分の耳を疑った。

 「恋人というのは、つまりその、わたしと暁さまが恋人同士ということを言っているんですか?」

 「それ以外にないよ⁉ あれ、もしかして恋仲ともいうのかな? でもそれだと恋し合ってることも含まれるし。やっぱり恋人同士で正解だよね?」

 「……ち、違います」

 震える唇で否定すると、璃莉はすぐさま驚愕の色を浮かべた。それどころか仰天して声を上げるほどだった。

 「え、え〜⁉ でも深月さま、さっき暁さまに会えたことが幸せだって言っていたよね⁉ だからあたし、てっきりそういう仲なんだと思ってたのにっ」

 そんな台詞だったろうかと思い返すが、それよりも問題は璃莉が自分たちを恋人同士だと勘違いしていることだ。

 「わたしが暁さまの恋人だなんて、恐れ多いです。そばにいられるだけでも特別なのに……それ以外を望むだなんて」

 「その特別ってつまりそういうことなんじゃ……って、深月さま、どうしたの?」

 いまだに信じられない面持ちで深月を凝視していた璃莉は、深月のある動作に気がつき指摘した。

 「え?」

 「胸を押さえているから、気持ちが悪いのかなって」

 「……ああ、じつは最近、なんだか不調続きで。胸騒ぎと息苦しさが頻繁に」

 暁や蘭士に相談しようと思っていたのに結局まだ伝えられていなかった状態を、深月は親身に寄り添って聞いてくれた璃莉に打ち明けた。

 彼女も自分が稀血だと知っているので、不調の話をしても問題ないと判断したからだ。

 「深月さま、それって」

 相づちを打っていた璃莉の顔色は、みるみる変わっていった。

 深刻そうな瑠璃に、深月は固唾を呑んで先の言葉を待つ。

 「胸騒ぎではなくて、ただの――いえ、たんなる恋煩いじゃないの⁉」

 「こいわずらい?」

 それはどういう意味なのだろう。

 十五歳までは廃村でひっそりと暮らし、その後もろくに人間関係を築けなかった深月には、異様な語として耳に残る。恥ずかしながらこの十九年間で、生まれて初めて聞く言葉だった。

 「深月さま、もしかして恋煩いがなにかわかってない?」

 反応が鈍いと気づいた璃莉は鋭く指摘する。

 肩が小さく振動したのを、璃莉は見逃さなかった。

 「深月さま、あのね。恋煩いは、要するに〝恋〟を〝煩う〟ということで、恋をしている人には誰にでも起こり得る症状なの。つまりそれは、隊長さんに恋をしているってことだとあたしは思うんだけどね⁉」

 深月は信じられない思いで璃莉の熱弁を受け止めていた。

 「暁さまに、恋……?」

 堪らず声に出したとたん、肌が熱くなる感覚に深月は戸惑う。

 より一層に騒ぎ出した鼓動に、胸元をぎゅうっと押さえる。

 ふいに深月は、以前華明館で稀血として覚醒し、暴走しかけたときのことを思い出した。

 あのときの自分は暁の声に応えて、短い時間のなかでさまざまな思いを巡らせた。

 あわよくば、特別になりたいとも口にした。

 その理由が恋か憧れなのかと自問もしたけれど、結局わからずじまいだった。なによりも深月自身が恋を深く理解していなかったのだ。

 でも、だけど。

 (本当にわたしが、恋というものを?)

 深月にとって恋とは、詳しくは知らないけど、人を慕う感情のなかでも大層なものだという印象が薄ぼんやりとだがあった。

 「深月さま、あたしがいまから質問すること、考えてみて。答えなくていいから、心のなかで」

 「……?」

 無言のまま頭であれこれと思案に暮れていた深月を見かね、璃莉は本棚から抜き取った書物を広げて問答を開始した。

 「その者と一緒にいると、心の臓が速まるか、否か」

 (うん、速まる)

 口調が堅苦しいのは、書物の文字を読み上げているからなのだろう。一体どんな書物だというのか。

 しかし目を通している璃莉は真剣そのもので、次の問いに移る。

 「その者と離れていても動悸が蘇るか、否か」

 (その通りだわ)

 ずばりと言い当てられ、答えなくて構わないと言われていたが、自然と頭が縦に揺れた。

 「その者のことを考え、衣服や身なりをこれまで以上に気づかい、整えた姿だけを見てほしいと欲張るか、否か」

 (……これも、そう)

 そして、最後の質問に、深月の動揺は最高潮になる。

 「その者の喜ぶ姿、憂う姿に一喜一憂し、その者を深く知りたいと願うか、否か」

 自分に向けられた柔らかな微笑みと、最近ふとした瞬間に窺えた影のある横顔。その理由が忌月と教えられ複雑だったのは、深く踏み込めなかったから。

 考えて、考えて。

 どこまで考えても結びつくのは、暁のことばかりだった。

 (じゃあ、わたしは本当に)

 不思議なことに、早鐘をつくように高鳴っていた鼓動が、自覚した刹那にすとん、と落ち着いた。

 まるで持て余していた感情がようやく居所を見つけたかのように、じんわりと心に染みて、そして自身に訴えてくる。

 (恋を、しているんだ)

 いまだに胸のあたりはそわそわとするがこれまでの比ではない。

 うまく言えないけれど、頭は凪いだ水面のように冷静でいて、心にはぽうと温かな灯火がついたような、不思議な心地だった。

 特別になりたいと、ただそれだけを強く望んでいた深月の想いにようやくひとつ名がついた。この不安定なものが、恋。
 白夜家本宅の屋敷を訪れてから数日が経った。

 暁への想いを本当の意味で自覚した深月は、自覚前のような不調(恋煩い)に振り回されることがなくなった。

 いまがどうしてこんな状態なのか、という疑問が明確にあることで、要らない不安が無くなったからである。

 ――そして、暁の前では、というと。

 「え、野犬に襲われたって、女中の方々がですか?」

 「ああ、昨夜のことらしい」

 暁の執務室で彼の話を聞いていた深月は、見知った顔を浮かべて心配になった。

 被害に遭ったのは五人。通い女中である彼女たちは、いつも通り勤めを終えて帰路につく最中に襲われたらしい。

 「噛み傷と引っかき傷が主で、命に別状はないが、しばらくは療養するようにと伝えてある」

 だから今朝、鈴の餌を貰いに行ったとき、いつも以上に忙しなかったのか。

 納得しながら、当分の女中不足を知ってしまった深月は、おずおずと口を開く。

 「もしご迷惑でなければ、わたしにお手伝いなどさせていただけないでしょうか」

 自分には庵楽堂で培った女中の経験がある。決して声に出して誇れることではないが、拘束時間も勤務内容もほかの女中よりかなり過酷だったので、忙しさにも慣れていた。

 「しかし君は」

 暁は深月の立場を考慮し、この申し出をどうするべきかと思案している。

 深月は膝上で重ねた両手にきゅっと力を込め、続けて考えを述べた。

 「華族のご令嬢には、花嫁修業なるものがあると聞きました。お裁縫や掃除、台所に立って食事を用意する場合もあると。わたしもその花嫁修業と言って、お手伝いできればと思うのですが……」

 そして暁の目をしっかりと見据え、深月は返答を待つ。

 いつもより頑なに思える深月の様子に気になるところがありながらも、最終的に暁は許可してくれた。

 「この件は俺から朋代さんに伝えておく。ありがとう、深月」

 特命部隊で働く女中は、原則として身元が確かな者であること、紹介状を所持していることが雇入時の条件だという。朱凰家所有の本拠地とはいえ、軍が扱う場所なので働く者の最低限の身分を証明しなければならない、ということらしい。

 そうなると、なかなかこの時期には臨時女中は見つからない。

 深月がひとり入ってくれるだけでも、かなりありがたい状況ではあった。

 (よかった。わたし、ちゃんと話せている)

 暁に提案が通りほっと胸を撫で下ろす深月は、彼を正面から見つめても平静に保てていることに安堵した。

 保護の身とはいえ、いつも一番親身になってくれる暁や、隊になにか礼がしたいと常々考えていた深月にとって、女中の仕事の手伝いは慣れもあってこの上ない役割だった。

 (暁さまに、恋をしている。わたしはこの人が好きだから、なにか役立てることがしたい)
 整理すれば至って単純なことだった。

 璃莉に指摘されたときは頭の中が天変地異と化していた深月も、いまでは気づけたことによる余裕が生まれている。

 初めて抱える想いで戸惑う瞬間もあるけれど、深月はこの感情を大切にしていきたいと、心の底からそう思っていた。
 「お嬢さま、こちらの野菜もお願いします」

 「はい、角切りですね」

 「お嬢さま、こちらの膳をお願いできますか」

 「はい、すぐに運びます」

 深月が本邸女中の手伝いを始めて数日、最初は冷やかしだの馬鹿にしているだの影で言われていたものの、女中たちが考えを改めるのは早かった。

 「おおかたの洗い物は済みましたので、お洗濯を干して来ますね」

 「え、もう洗い終わったんですか⁉」

 「はい。お皿の置き場所は問題ないでしょうか」

 「……か、完璧です」

 あまりの仕事ぶりに、女中が抱いていた深月の印象はすっかりひっくり返っていた。なによりも丁寧で正確、早いとなれば文句を入れる隙もない。五人の女中が抜けた穴をひとりでまかないつつある深月は、彼女たちにとって救いの手だった。

 洗濯を干し終え、深月の手には可愛らしいお饅頭があった。

 女中のひとりから「ちょっとは休憩してきてください!」と説得され、そのお供にと渡されたのである。

 (よかった。少しずつだけど、打ち解けてきて)
 初日は深月と関わることを避けていた女中たちが、いまでは世間話も交えてくれるようになった。あくまで分家筋のお嬢さまという認識なので敬いは常に感じるけれど、それでも深月は嬉しかった。

 そんな矢先のこと。

 「――失礼。君が、白夜深月さんかい」

 別邸に戻り、建物の中に入ろうとしたところで、ふと呼び止められる。

 振り返ると、そこには軍服を身に包み、短く整えられた美髯が印象的な壮年の男性が立っていた。

 「あなたは……?」

 深月は軍人の階級に詳しいわけではないけれど、その他大勢とは違った格好といい、装飾といい、あきらかに偉い立場だというのがわかる。

 「どうもはじめまして、私は――」

 「参謀総長!」

 そのとき、少し声を荒げた暁が血相を変えて現れ、男を呼び止めた。

 「早かったな、暁」

 参謀総長と呼ばれたその男は、暁の名を親しげに呼び、口元に笑みを作った。

 男の正体が明かされ、深月は目を見開く。

 彼は、帝国軍参謀本部の長、最高指揮官にして最高権力者。

 朱凰公爵家当主、またの呼び名は、朱凰参謀総長。

 暁の養父だ。
 「あらためて名乗らせてもらおう。私は帝国軍参謀総長の朱凰秀慈郎、暁の養父だ」

 「……深月と申します」

 「おや、白夜とは名乗らないのか」

 秀慈郎は意外そうに顎を撫で、深月と、暁を交互に見やった。

 場所を移動し、いつもの執務室にやってきた深月は、目の前の威圧ある御仁に緊張していた。軍の最高司令であり、暁の養父ともなれば緊張しないほうがおかしい。

 「ふたりしてそう身構えるな。とって食おうとしているわけではない」

 「では知らせもなく、一体どのような要件で?」

 暁と秀慈郎は養子縁組を結んだ親子関係にある。だというのに、暁の話し方はいつにも増して堅苦しい。

 「彼女とは、まだ挨拶をしたことがなかったろう。それと私から一言詫びを入れるべきことがあったからな」

 「詫びとは……」

 暁が問いかけるよりも早く、秀慈郎は開いた両膝に手を置き、深々と頭を下げた。

 「華明館の一件、君には申し訳なかった」

 「え、あの……っ」

 偉い立場の人間からこうも深く頭を下げられ、深月は瞠目する。

 呆気にとられるふたりをよそに、秀慈郎はさらに言い重ねた。

 「君も知っているだろうが。血を摂取させることで暴走を促し、白夜家当主に始末するよう指示を出したのは私だ。だが、君は暴走に打ち勝ち、こうして正常を保っている。私の判断はすべて間違っていた。君に危害を及ぼしてしまい、本当に申し訳ない」

 聞くと、それがどれだけ恐ろしいことだったのか、深月は内心震えた。

 苦しくて、恐怖でどうにかなりそうだった。

 もしかしたらここに自分がいない未来もあったのかもしれない。

 それを考えると、指示を出した秀慈郎本人を恐ろしくも思う。

 だが、こうしてわざわざ訪問し深く頭を下げてくれた人に、これ以上の要求はいらないと、深月は考える。

 「どうか頭をあげてください。あのときは驚きましたが、結果としてわたしは自分を保つことができました。もちろんわたしだけの力ではなく、暁さまの声が引き戻してくれたのだと思っています」

 無事であった以上、秀慈郎を非難するのも違うような気がして、深月はすんなりと謝罪を受け入れる。

 「……君の慈悲深さに、感謝する」

 秀慈郎はそんな深月をじっと見ていたが、感謝の意を込めてふたたび頭を下げるのだった。
 その後、深月はふたりに遠慮して先に執務室を出ていく。

 彼女が完全にいなくなったのを見計らい、秀慈郎は優しげな笑みを暁に向け、そして言い放った。

 「よく、稀血を手懐けた」

 深月の前で見せていた穏やかさは消え、怜悧な面持ちの秀慈郎に暁は苦言を呈した。

 「そのような言葉は控えてください」

 しかし、いまの言葉のどこで暁がむきになったのか気づいていない秀慈郎は、構わず言い連ねた。

 「所詮、稀血も女なのだな。おまえの気遣いを純粋な好意だと信じ、信頼しきっているようじゃないか。なによりも使命や責務を尊重するおまえに懐柔されているのにも気づかないとは」

 「……」

 「よいな、暁。引き続き稀血の手綱はしっかり握っておけ」

 暁は堪えるようにしばし黙り込む。

 こういう人だということは、わかっている。

 彼は禾月に憎悪の念を抱き、半分はその血が流れている深月のことも同じような対象として見ている。

 その理由を知る暁は、秀慈郎にも同情する余地はあると思いながらも、聞き捨てならなかった。

 「それは彼女に対する侮辱です。どうぞ取り消しください」

 暁は冷静な声音のなかに譲れない熱いものを秘めながら、秀慈郎を見据える。しかし秀慈郎には届いていなかった。

 「おまえは少々潔癖すぎるな。見た目は普通の人間とはいえ、中身は得たいのしれない化け物と変わらないだろう。おまえに限ってほだされることはないだろうが、いくら娘とはいえ油断するな」

 それだけを告げ、秀慈郎は早くも別邸を去っていった。

 深月へ謝罪を入れるのが一番の目的だと話した秀慈郎だが、実際のところは暁がしっかりやれているかの確認をしたかったのである。

 正直、我が息子は表情の起伏は乏しい。

 考えが読めないときもあるが、非情に禾月や悪鬼を討伐する姿勢は褒められたものだと常々評価している。

 ゆえに稀血が仇である暁が深月に惹かれており、まさか自分の言葉に怒りを露わにしていたとは、秀慈郎もまったく考えていなかった。
 ――低い靴音が遠ざかってゆき、深月はそっと息をついた。

 もっと長居するものだと思っていて、女中の手伝いも始めた影響なのか、気配りに敏感になっていた。

 お茶でもお持ちしますか、なんて余計なことを言うために引き返してしまったのが、いけなかったのだ。

 『――所詮、稀血も女なのだな。おまえの気遣いを純粋な好意だと信じ、信頼しきっているようじゃないか。なによりも使命や責務を尊重するおまえに懐柔されているのにも気づかないとは』

 『……』

 『よいな、暁。引き続き稀血の手綱はしっかり握っておけ』

 反論の声は聞こえてこなかった。

 深月は耳が良い。だから、聞き逃したということはない。

 気がついたら物陰に隠れて、別邸をあとにする秀慈郎の足音を耳にしていた。

 (璃莉さんの予想は、違ったわね)

 暁への恋を自覚して、優しい彼の仕草に、もしかして同じ気持ちなのだろうかと疑問を抱いてしまった。

 璃莉は、暁を絶対に深月を好いていると言っていたが、とんだ思い上がりだ。

 罰が当たったのかもしれない。

 ここにきてから楽しいこと、恵まれたことばかりで、欲深くなっていたのだ。この関係はやはり命令によるもので、監視するための気遣いによって懐柔されていた。

 ……そういう、ことだろうか。

 なによりも確かなのは、暁は自分に色恋感情があることは絶対にない。それだけは言える。むしろそれが当たり前だ。彼はとても親切で、誠実で、その人間性に偽りはなかったとして、彼は軍人だ。

 深月には言えない職務内容があるのは当然なんだ。

 そう、だから。

 (恋って、胸が苦しくなることばかりなのね)

 あの沈黙が、彼の答えだった。