「――というわけで、さすがに僕ひとりだとほかの禾月を誤魔化すのも困難になってきてね。こちら側にも深月の事情を共有できる者が急遽必要になったんだ」

 ソファに腰を下ろしてほどなく、自分の状況を踏まえた乃蒼の説明がおおかた終了する。端的にいうと、ひとりでこそこそ特命部隊と関わりを持つのも限界が近く骨が折れるということらしい。

 「白夜殿のような人が頻繁に特命部隊に出入りしていると知られれば、従属下の禾月内でも不審に捉える輩は出るだろう。彼は口裏合わせに適した人材ということか」

 なにより彼は乃蒼の側近という立場にあるため、本当の行き先を隠して深月に会いに行っていた乃蒼の姿を以前から不自然に思っていたようである。

 「まあ、ほら。最初の頃は頻繁に顔を出していたから、そのときからなにか隠してるって疑っていたらしくてね……」

 もともとの発端は自分にあるため、乃蒼は少々気まずそうにした。

 確かに乃蒼は、華明館の一件で特命部隊を訪ねたとき、帰り際に「また来るよ」と言っていたのだが。言葉どおり次の日に彼がまたやってきたときは、さすがの深月も驚いた。

 いま思えば深月が心配だったという理由のほかに、死んだと思われていた従兄妹と再会できた喜びのあまり、必要以上に構ってしまったのだろう。

 そんな乃蒼が足繁く通っていた期間中に、側近の彼はなにかあると目星をつけた、ということだったらしい。

 「もちろん彼が他言することはないと僕が保証するよ。むしろ僕と同じく深月の身を案じているくらいだから。だけど予定にない者を、君のことを許可なく明かしてしまったことについては、本当にごめんと言いたくて……」

 前提として稀血の存在は秘匿とされ、禾月や悪鬼よりもさらに徹底して隠されていた。

 深月が稀血だと知るのは、帝国軍内では暁、羽鳥、蘭士。そして参謀総長のみ。禾月側では乃蒼だけだった。

 以前、特命部隊敷地で深月の血の香りで稀血だと勘づいた禾月の男には、捕縛後に帝国軍独自に調薬した忘却剤を打ち、記憶を消す処置が施されたことがあとになって伝えられた。

 深月が稀血だという情報は、渡る相手によっては危険性が増してしまう。深月の安全を守るため、打ち明ける者に関しては細心の注意を払わなければならないのだ。

 (だけど、乃蒼さんひとりで隠しているのも大変よね)

 禾月の首領がどのような為事に追われ、重責があるのかを事細かに聞いたわけではないので想像が大いに含まれているが。決して簡単にこなせるような責務ではないだろう。

 加えて白夜家当主として華族界隈でも名が通っている乃蒼は、勲功華族として伯爵位を継ぎ、貿易の豪商として社会的地位が高い。

 勲功華族は由緒正しい公家や大名家と違って軽んじられる風潮が華族界隈で浸透するなか、従属下の禾月を動かし巨万の富を築いた一族の手腕と、多くの情報に通じている白夜家は両華族から一目を置かれる立場にあるのだ。

 「このことについては、暁くんのお父上にも報告済みではあるんだけど。当の本人にあとから言うのもなんだかなという感じでね」

 しゅんと眉尻を下げた乃蒼に、深月はひとまず自分の考えを伝えた。

 「乃蒼さんのご負担が軽減されるのなら、信頼できる方にお話していただいてもいいのでは、とは思うのですが」

 しかしあくまで特命部隊で保護されている自分が、あんまり偉そうには決められないと、暁を見やる。

 「秘匿事項を知る者は、少なければそれだけ漏洩の可能性も減るだろう。だが、参謀総長の許可が出たというのならこれ以上の口出しは不要だ」

 「えーと、それはつまり、腸が煮えくり返る思いではあるけど我慢してなにも言わずにいるっていう解釈でいい?」

 「違う。煮えくり返ってもいない」

 暁は大きな嘆息のあとで、深月を横目に言った。

 「彼女も納得しているようだし、なにより以前から白夜殿に負担がかかっていないかと気にしていた。結果として身軽になったのなら、反対する必要はないと思ったまでだ」

 気がかりではあったけれど、それを直接暁に告げたことはない。なのに見通されていたと知り面食らった深月だが、たまらなく嬉しくもあった。

 ふわりと跳ね上がるような心地とともに、突然ぎゅう、と心の臓が掴まれる。

 (ああ、これは。なんだというの)

 ……また不調だ。胸騒ぎのような鼓動の震えが全身に広がり、息苦しくなる。こんなときまで体の不調が出るなんて。

 「深月、どうかしたのかい?」

 両手を胸に当てて俯く深月の異変を目にした乃蒼は、そう聞いてくる。

 「あの」

 じつは、と深月がこれまでの体の異変を口にしようとしたところで。

 「ハーイ、皆さん。あまくて美味しいシュークリームをお持ちしました!」

 扉が、ばん、と開かれる。

 そこに立っていたのは、謎の年若い美女だった。

 海老茶色の袴、濃い白銀の髪はふたつに分け耳上でまとめ流すという珍しい結び方をしている。洋花が華やかに散った着物の上から羽織ったレース羽織りが、より個性を強調させていた。

 いわゆるモダンガールとも違った異色な格好に深月が目を奪われていれば、謎の美女はこつこつと皮の洋靴を鳴らして歩いてくる。

 長いまつ毛に縁取られた竜胆色の瞳が深月を見捉えると、その色が歓喜するよう輝いた。

 「稀血の深月さまって、あなたのことねっ」

 「えっ、え?」

 手に持った盆を両者のあいだにあるテーブルに置き、美女はくるりと向きを変えて深月の両手を握る。

 「乃蒼兄さまからお話は聞いていたの。稀血の女の子で、しかも同じ白夜の血筋だって」

 「璃莉(りり)、もう少し抑えて。深月が驚いて固まっているから」

 「あ、本当だ」

 璃莉と呼ばれた美女は、深月から手を離すと後ろに一歩下がる。

 「白夜殿、まさか彼女が?」

 璃莉の勢いに気圧されていた暁が、空気を変えて話し始める。うなずいた乃蒼は、彼女を自分の横に立たせてふたりに紹介した。

 「彼女は、白夜 璃莉(びゃくや りり)。僕の妹で、深月の護衛にと考えている子だよ」

 「わたしの……?」

 深月は自分たちが白夜家に招待された理由を思い起こす。

 会わせたい人と、話したいことがある。

 てっきり乃蒼の側近の男が〝会わせたい人〟で、彼に自分の存在を周知されたことが〝話したいこと〟だと思っていたが、まったくの思い違いのようだ。

 「暁さまは、ええと……璃莉さまの話をご存知だったのですか?」

 「白夜殿が蘭士と別邸に顔を出した日があっただろう? 確定ではないが、女性の護衛もいたほうがいいのではと提案を受けていた。それも去り際に言われた程度だったが」

 「そういうこと! それと深月さま、あたしのことは気軽に璃莉って呼んでくれると嬉しいな」

 璃莉は愛らしい笑みを浮かべる。この似たようなやり取りを、以前に乃蒼からもされたような。

 期待の眼差しを向けられてしまい、深月はそっと頭を下げながら言った。

 「呼び捨てはさすがに忍びないので、璃莉さんとお呼びしても……?」

 「もちろん!」

 案外すんなりと璃莉は妥協案を了承してくれた。

 相手の要求を拒んだ形になっていたので、不快に思われていないことに深月はほっとする。

 妹がいた事実に多少の驚きはあったものの、早くも似通った部分を発見し、兄妹関係に納得した。

 「璃莉は妹だし、護衛の話を抜きにしても、いずれ紹介するつもりではいたんだ。最近帝都に戻ってきて今日ようやく顔合わせができたよ」

 「白夜璃莉、十九歳。特技は隠密、変装、潜入。好きなことは流行に乗ること、恋愛譚を読むこと、甘い菓子を食べること。よろしくね」

 溌剌とした自己紹介。なにやら気になる要素を色々と持ち合わせた少女だ。

 そして、璃莉こそが乃蒼の会わせたいと言っていた人だったのだろう。

 「いまは乃蒼兄さんの計らいで本家の入れてもらっているけど、もともとあたしは白夜の分家出身なの。十九年前の内乱で両親は亡くなってしまって。でも乃蒼兄さんがそんなあたしを引き取って、妹として育ててくれたんだ」

 「育てたといっても当時は僕も子どもだったから、ほかの人の手もたくさん借りていたけどね」

 軽快に進む会話に、深月は気になる箇所を見つけた。

 「十九年前の内乱……ということは、わたしの両親も巻き込まれたという騒動のことでしょうか」

 深月の遠慮げな問いのあと、室内の空気はほんのり張り詰めた静寂に様変わりする。

 「前置きがかなり長くなったけど、深月に話したかったことが、それを含めたことだよ」

 居住まいを正した乃蒼は、ベストの内ポケットから一枚の紙のようなものを取り出した。

 「まずはこれを、君に渡しておくね」

 それを卓上に置き、すっと指で滑らせると、深月が取れる距離で動きを止める。

 手に取ってそれが肖像写真だとわかった深月は、被写体の姿に瞠目した。

 色褪せて霞んだ写真に映るふたりの男女。男は佇んで椅子に座る女の肩に手を置き、女はお包みを抱えている。

 時間を鮮明に切り取った瞬間の様子が、深月にはとてもしあわせそうに見えた。

 「もしかして、この方たちは」

 深月は写真からぱっと顔を離し、複雑に入り交じった表情を浮かべる。乃蒼は短く言った。

 「そう、君の両親だよ」

 「……」

 もう一度、自分の両親が映った写真を食い入るように見る。

 話を聞いていただけとはまったく違う。くすんだ色合いの一枚の紙が、彼らが存在していた確証を残してくれている。

 「それが撮られたのは、この屋敷で内乱が起こる前。すでに白夜家を離れていた深月の両親は、僕の両親や当時の首領に写真を見せるためここを訪れて、その夜に騒動に巻き込まれてしまった」

 「保守派と過激派の抗争か」

 暁も心当たりのある内容に口を開く。

 諜報部隊が独自に調べあげた記録と、養父である参謀総長からある程度の大筋は聞かされていたのだろう。

 「当時、白夜家を含めた従属下の禾月には、現状の維持を望む者と、そうでない者とに分かれていてね。保守派筆頭が先代の首領、僕や深月の祖父でもある人だよ」

 もとは人間の血肉を糧として蔓延っていたあやかしもの。ほかのあやかしのように妖界には渡らずに、人間の世に残り繁栄を続けた禾月のなかには、過激な思想を持つ者が一定数いた。

 なぜ、こそこそと日陰の下で人間たちの血を吸わねばならないのか。

 なぜ、優れた我々が人間に配慮し、合わせて生きなければならないのか。

 樹木が土に根を張り年月をかけて広がっていくように、長い時のなかで徐々に規模が拡大していった禾月の一族。

 数が増えれば個々の意見が増え、反発勢力が出来上がってしまうのも、意思ある者のさがなのだろう。

 対話によって納得させ、力によって鎮静させ、支配によって管理しても、意外なところでほころびは生まれていく。その結果が、過激派による白夜家本宅で起こった十九年の内乱だった。

 「あの日は満月だった。血が高揚する夜に一族行事で多くの禾月がこの屋敷に集まっていた。保守派も過激派も大勢に。反乱を起こすには絶好の機会だったのだろうね」

 これは改革だと高らかに叫び、保守派の謀殺を企てていた過激派による内乱が始まったのだ。

 とはいえ保守派もそう簡単にやられる軟弱者ではない。攻防を繰り返し、一晩続いた末に過激派を退けることには成功した。

 だが、あまりにも犠牲が大きすぎた。

 首領は息を引き取り、当時の保守派主力の数も半分以上削られ、乃蒼の父親や璃莉の両親も命を落としたのである。

 時系列から推測すると、深月の両親はその混乱のなかで重傷を負いながらも逃げ、養父の貴一に深月を託したものだと考えられた。

 「そんな、ことが」

 壮絶な過去を聞き、深月はそれ以上の言葉が見つけられなかった。

 目指す思想が違ったからという理由で、この地では多くの禾月が争い、そして息絶えた。

 それだけの理由で、なのか。

 それほどの理由で、だったのか。

 つい最近まであやかしものの存在すら知らなかった自分が軽々しく弁じていい問題ではないと重々わかっている。わかったようなことは言えない。

 だからこそ、ただ、悲しいと思った。

 「あ、の……わたしは」

 余計なことを言うつもりはなかったのに、ふと正面を向いたとたん、深月はなにか言わなければという思いに強く突き動かされた。

 いつもにこにこと笑って自分を気にかけてくれる乃蒼が、第一印象で明るく元気な少女だと思った璃莉が、揃って後悔を滲ませていたからだ。

 きっと思い出すのも苦しいだろう。

 改めて当時の様子を説明するのも辛いことだ。

 だから。

 「生きて、いまこうしておふたりにお会いできて、よかったです」

 自分は相手を慰めてやれるほど立派でも器用でもない。それでもなにか言わなければと逸った結果、そのままの言葉を伝えるしかなかった。

 「生きていてくれて、わたしと関わってくれて、ありがとうございます」

 写真のなかで笑う両親や、実の子でもなければ血縁でもない自分を育ててくれた養父には、もう会うことは叶わないけれど。

 こうして新しい繋がりに出会うことができた。行き着く過程で苦しみを味わったとしても、いま目の前に訪れた関わり自体は、悲しいことでも、憂うことでもない。

 (……静かだわ。わたし、的はずれなことを言ってしまったのかな)

 深月の心に募っていた感謝の思いの言葉に、ふたりは揃ってぽかんとしてしまって。隣の暁からも、驚いている気配がわずかに感じ取れた。

 「あ……その、わたしの言い方がお気に障っていたならすみません。よかったというのは、なにもほかの方を軽んじたわけではなくて」

 ほかの人は死んでしまったが、あなたたちだけでも生きていてよかった。

 深月は決してそう言いたかったわけではない。

 大勢の犠牲のなかで、自分だけ、自分たちだけが生きている状況というのは、きっと当人たちに重くのしかかっている問題だ。

 記憶にない両親のことですら、当時の話を聞き、写真で顔がわかっただけで、いまさらながら気持ちが影響を受けているのに。

 亡くなった者のなかには見知った人が多くいたであろう乃蒼や、赤子の頃から当時の気配を身近に感じて育った璃莉なら、なおのことだろうと思ったのだ。

 「〜〜〜〜っ、好きっ!」

 そのとき、感極まった璃莉が、深月目がけて飛び上がった。

 「へっ」

 出てしまった間の抜けた声を恥じんでいる暇もなく、璃莉は器用にテーブルを飛び越えて、ぎゅっと抱きついてくる。

 「こら、璃莉。さすがにいまのはお行儀悪いよ。菓子だって置いてあるんだから」

 「だって深月さまがそんなこと言ってくれるなんて、あたし感激てっ」

 「り、璃莉さん」

 璃莉から香る菓子のような甘い匂いと、抱きしめられた衝撃で頭がくらくらする。こんなに体当たりのような勢いで人と接触したことがない深月は、どうもできずなすがままになっていた。

 「本当は少し怖かったの。深月さまはひとりでたくさん酷い目に遭ってきたのに、あたしは本家に引き取られて衣食住に困らない生活をさせてもらっていたから」

 「それは、璃莉さんが気に病むことではないです」

 息苦しい抱擁がほんのり緩まる。ようやく少し体を離してくれた璃莉がこちらをじっと見つめてくるので、深月は笑みで返した。

 「目まぐるしい日々ではありましたが、特命部隊の皆さんや、暁さまにお会いできて、いまのわたしには有り余ることばかりで。それだけで、救われています」

 取り留めのない発言が少し恥ずかしかった深月だが、璃莉はまったく気にしておらず、それどころかさらに抱擁を強めてきた。

 「やっぱり好き! 深月さまはあたしが全力で護衛する!」

 「璃莉、深月が潰れてしまうよ!」

 すっかり深月に心を掴まれた璃莉は、自分から護衛になりたいと志願し出してしまった。

 いままで周りにはいない性格の少女に戸惑いながらも、素直すぎるゆえ早くも深月は彼女に心を開きつつあった。

 ただ、それとはべつに気になることが。

 (……暁さま、笑ってはいるけれど)

 乃蒼が璃莉を引き剥がすのに苦戦する最中、ちら、と深月は暁を盗み見る。

 賑やかな兄妹に呆れながらも静かな笑みを浮かべる彼だが、同時にどこか遠い場所を見ているよう気がしてならなかった。

 話し合いの末、璃莉は正式に深月の護衛になることが決まった。

 暁が永桜祭の警備などで忙しくなる前に、彼の不在を任せられる者が新しくつくのは、結果としてよかったのかもしれない。

 乃蒼によると璃莉は本家と分家の禾月を合わせても、上位五本の指に入るほどの実力者。贔屓目なしで乃蒼が認める腕を持っているそうだ。

 「最近まで帝都にはいなかったと言ったでしょ? じつは西欧のほうに行っていたの。英吉利……英国はわかる?」

 「はい。そんなに遠くまで行かれていたなんてすごいです」

 まだまだ庶民には浸透していないが、留学や商いのための渡航はこの国でも可能になっていた。船に乗り数ヶ月かけて西欧諸国の地に足をつけるというのは、どのような気持ちなのだろう。

 「伊達に古い時代から人の世にいるわけじゃないからね、あんまり大っぴらには言えないけど、白夜家っていろんな国に顔が利くんだよ」

 という会話を挟みつつ、深月と璃莉が向かうのは、屋敷の二階。

 乃蒼との話もひと段落し、シュークリームを美味しくいただいた深月は、生前の母が使用していた部屋があると教えられ、せっかくなので見せてもらうことにしたのだった。

 「十九年前の内乱は、裏手にある迎賓館で起こったことなの。だから本宅はほとんど変わらないままだし、気負わないで大丈夫だよ」

 どうやら顔に出てしまっていたようだ。

 いま歩いているこの廊下でも争いが起こっていたのでは、と考えていた深月は、璃莉の親切な配慮にこくりとうなずいた。

 「昔はもっと本家以外の、分家の人たちが気軽に寝泊まりしていたらしいけど。いまはそれぞれ帝都に家をもっている人がほとんどかな」

 「それでこんなに静かなんですね」

 主な生活場所が別邸とはいえ、敷地内を歩けるようになった深月の耳には、よく他人の生活音が聞こえてきていた。それに比べるとここはあまりにも静かで、ふたりの話し声が響いているほどだ。

 「頻繁に使っているのはあたしと、乃蒼兄さんと、その側近くらいだからね。少ない人数しかいないから、深月さまや隊長さんを屋敷に招待できたってわけ」

 と、言い終えた瑠璃は、二階の角の部屋の前で足を止めた。

 「こちらが母の使っていたお部屋ですか?」

 「そうだよ。入って入って」

 思い切って母と口にしてみたが、やはりなんだか慣れない。こそばゆくなりながら璃莉に促されて中に入る。

 きい、と金具が軋む音がして、部屋の窓からかすかな光の筋が射し込み目が眩んだ。

 視界がもとに戻ると、そこには八畳ほどの広さの洋室があった。艶を帯びた茶色の文机、椅子、寝台と、壁に反って本棚がふたつ並んでいる。本棚は天井まで届きそうな高さで、横にいくつか仕切られた空間には、書物がぎゅうぎゅうに詰まっていた。そのほとんどが大衆文学よりの小説である。

 もしかして母も、物語に触れることが好きな人だったのだろうか。

 「あのね、深月さま」

 璃莉が人差し指同士をツンツンとつけながら白状するよう言った。

 「あたし、この部屋の書物をよく借りていたの。深月さまのお母さまの部屋なのに、小さい頃から勝手に出入りして読んでいて」

 勝手に部屋の本を読み漁っていたことに、深月がいい気はしないと思ったのか、璃莉は急にしおらしくなる。同い年だけれどその姿はなんだか幼くて、深月はつい口元を緩めた。

 「こんなにたくさん保管されているんですから、誰の手にも触れられないのはもったいないです。きっと書物も璃莉さんが読んでくれて本望だと思いますよ」

 それを聞いて安心した璃莉は、ぱっと表情を明るくさせ本の背表紙に目線を向けた。

 「そういえば深月さまは、外来語がわかるって聞いたけど」

 「完璧とは言えないですけど、文字を理解する程度には」

 「それだけでもすごいよ。深月さまのお母さまもね、どうやら外来語に長けていたみたい。だからこの本棚には西洋で書かれた物語がたくさんあるんだよ」

 「……なんだか、恋愛物語が多いみたいですね」

 すると、璃莉は頬を指で掻きながら、あははと眉を下げて笑った。

 「というより、それだけしかないっていうか。深月さまのお母さま、かなり恋多き人だったらしくて、読むものも自然とそればっかりに」

 「恋多き人、ですか」

 別邸で過ごすようになり、また書物を読むことが増えた深月だが、恋や愛が本筋の物語は読んだことがない。

 昔から好んで読んでいた冊子も、軽く要素はあるが添え物程度である。

 母だけど、性格は自分と似ても似つかない人だったのかもしれない。となると父に似たのだろうか。なんて、ぼんやりと予想してみる。

 「わたしには縁遠いことですが、母は多くの恋を経て、父と結ばれたのですね」

 深月の何気ない感想に、璃莉はきょとんと顔をかしげた。

 そして、にやにやと内緒話をするように片手を口に寄せる。

 「ふふふ、恋多きってところは当てはまらなくても、深月さまと隊長さんだって恋人同士でしょっ」

 「……恋人ではなくて、表向き花嫁候補としているだけですね」

 それは璃莉も知っているはずだと不思議に思う深月に、璃莉は「またまたぁ」と声を弾ませた。

 「そうじゃなくて、契約花嫁から本当の恋人になったんだよね?」

 「へ、え」

 素っ頓狂な声が出る。一体どうしてそのような話になっているのか、まず自分の耳を疑った。

 「恋人というのは、つまりその、わたしと暁さまが恋人同士ということを言っているんですか?」

 「それ以外にないよ⁉ あれ、もしかして恋仲ともいうのかな? でもそれだと恋し合ってることも含まれるし。やっぱり恋人同士で正解だよね?」

 「……ち、違います」

 震える唇で否定すると、璃莉はすぐさま驚愕の色を浮かべた。それどころか仰天して声を上げるほどだった。

 「え、え〜⁉ でも深月さま、さっき暁さまに会えたことが幸せだって言っていたよね⁉ だからあたし、てっきりそういう仲なんだと思ってたのにっ」

 そんな台詞だったろうかと思い返すが、それよりも問題は璃莉が自分たちを恋人同士だと勘違いしていることだ。

 「わたしが暁さまの恋人だなんて、恐れ多いです。そばにいられるだけでも特別なのに……それ以外を望むだなんて」

 「その特別ってつまりそういうことなんじゃ……って、深月さま、どうしたの?」

 いまだに信じられない面持ちで深月を凝視していた璃莉は、深月のある動作に気がつき指摘した。

 「え?」

 「胸を押さえているから、気持ちが悪いのかなって」

 「……ああ、じつは最近、なんだか不調続きで。胸騒ぎと息苦しさが頻繁に」

 暁や蘭士に相談しようと思っていたのに結局まだ伝えられていなかった状態を、深月は親身に寄り添って聞いてくれた璃莉に打ち明けた。

 彼女も自分が稀血だと知っているので、不調の話をしても問題ないと判断したからだ。

 「深月さま、それって」

 相づちを打っていた璃莉の顔色は、みるみる変わっていった。

 深刻そうな瑠璃に、深月は固唾を呑んで先の言葉を待つ。

 「胸騒ぎではなくて、ただの――いえ、たんなる恋煩いじゃないの⁉」

 「こいわずらい?」

 それはどういう意味なのだろう。

 十五歳までは廃村でひっそりと暮らし、その後もろくに人間関係を築けなかった深月には、異様な語として耳に残る。恥ずかしながらこの十九年間で、生まれて初めて聞く言葉だった。

 「深月さま、もしかして恋煩いがなにかわかってない?」

 反応が鈍いと気づいた璃莉は鋭く指摘する。

 肩が小さく振動したのを、璃莉は見逃さなかった。

 「深月さま、あのね。恋煩いは、要するに〝恋〟を〝煩う〟ということで、恋をしている人には誰にでも起こり得る症状なの。つまりそれは、隊長さんに恋をしているってことだとあたしは思うんだけどね⁉」

 深月は信じられない思いで璃莉の熱弁を受け止めていた。

 「暁さまに、恋……?」

 堪らず声に出したとたん、肌が熱くなる感覚に深月は戸惑う。

 より一層に騒ぎ出した鼓動に、胸元をぎゅうっと押さえる。

 ふいに深月は、以前華明館で稀血として覚醒し、暴走しかけたときのことを思い出した。

 あのときの自分は暁の声に応えて、短い時間のなかでさまざまな思いを巡らせた。

 あわよくば、特別になりたいとも口にした。

 その理由が恋か憧れなのかと自問もしたけれど、結局わからずじまいだった。なによりも深月自身が恋を深く理解していなかったのだ。

 でも、だけど。

 (本当にわたしが、恋というものを?)

 深月にとって恋とは、詳しくは知らないけど、人を慕う感情のなかでも大層なものだという印象が薄ぼんやりとだがあった。

 「深月さま、あたしがいまから質問すること、考えてみて。答えなくていいから、心のなかで」

 「……?」

 無言のまま頭であれこれと思案に暮れていた深月を見かね、璃莉は本棚から抜き取った書物を広げて問答を開始した。

 「その者と一緒にいると、心の臓が速まるか、否か」

 (うん、速まる)

 口調が堅苦しいのは、書物の文字を読み上げているからなのだろう。一体どんな書物だというのか。

 しかし目を通している璃莉は真剣そのもので、次の問いに移る。

 「その者と離れていても動悸が蘇るか、否か」

 (その通りだわ)

 ずばりと言い当てられ、答えなくて構わないと言われていたが、自然と頭が縦に揺れた。

 「その者のことを考え、衣服や身なりをこれまで以上に気づかい、整えた姿だけを見てほしいと欲張るか、否か」

 (……これも、そう)

 そして、最後の質問に、深月の動揺は最高潮になる。

 「その者の喜ぶ姿、憂う姿に一喜一憂し、その者を深く知りたいと願うか、否か」

 自分に向けられた柔らかな微笑みと、最近ふとした瞬間に窺えた影のある横顔。その理由が忌月と教えられ複雑だったのは、深く踏み込めなかったから。

 考えて、考えて。

 どこまで考えても結びつくのは、暁のことばかりだった。

 (じゃあ、わたしは本当に)

 不思議なことに、早鐘をつくように高鳴っていた鼓動が、自覚した刹那にすとん、と落ち着いた。

 まるで持て余していた感情がようやく居所を見つけたかのように、じんわりと心に染みて、そして自身に訴えてくる。

 (恋を、しているんだ)

 いまだに胸のあたりはそわそわとするがこれまでの比ではない。

 うまく言えないけれど、頭は凪いだ水面のように冷静でいて、心にはぽうと温かな灯火がついたような、不思議な心地だった。

 特別になりたいと、ただそれだけを強く望んでいた深月の想いにようやくひとつ名がついた。この不安定なものが、恋。