どれほど移動しただろう。車は途中で高速に乗った。サービスエリアで休憩を挟みながら、どんどん北上しているようだ。夜の9時を過ぎた時点で、目的地まで3時間とナビから音声が聞こえる。天峰はだいぶ落ち着いたようで、さっき買ったおにぎりだけでは足りずにコンビニでホットスナックを購入してもらっていた。マコトさんに。


「牛丼屋にも行ってみたかったな」
「後で下道に降りたら店入るか?」
「一番小さいの、遥と半分にしたら食べられるかな。遥、遥?」


天峰とマコトさんの声が心地よくて、少し、眠ってしまった。視界が霞む。目を擦っても変わらず、くらりと目眩がした。


「マコトさん、窓少し開けていい?」
「車止めるか」
「いや、それは大丈夫。遥、平気? きつい?」


窓が半分ほど開くと冷たい風が車内の空気を一掃する。指先でシートを掻いた先に天峰の手を見つけてぎゅうっと握りしめた。きつくない、と小声で伝えると、するりと肩に回った手がわたしの体を天峰の方へと引き寄せる。流されるままに体の力を抜くと、天峰の膝に頭が乗っかった。


「眠っていい。着いたら朝まで付き合ってもらうから」
「どこ、行く気……?」
「着いてからのお楽しみ。おやすみ、遥」


手を繋いだまま、天峰の声に誘われて眠りにつく。車の振動や走行音で時々目が覚めた。その度に、まだ眠って、と柔らかい声が降り注いで、何度も眠った。目眩はもう、消えていた。


次に目を覚ましたとき、車は止まっていた。外灯ひとつない場所のようで、辺りは真っ暗。ルームライトで見える範囲の窓の外は闇。体を起こしてから、頭の下にあったものが天峰の膝ではなくクッションにすり変わっていることに気付いた。トランクルームが開いていて、マコトさんと天峰で荷物を下ろしているようだった。ぼうっと見つめていると、天峰と目が合う。


「もうちょっと待ってな。準備してるから」
「なんの?」
「ひみつ」


しいっと歯の隙間から息を吐いて、天峰は毛布らしきものを引き出して行った。言われた通りに座席に残り、ペットボトルのお茶を呷る。ナビとエンジンは消えていて、時間も場所もわからない。

わたしの座席側のドアが開かれて、視界を塞ぐように天峰が立ち塞がる。


「遥、目閉じて。俺がいいよって言うまでな」
「え、まって、こわい」
「大丈夫。両手貸して」
「足元」
「穴とかねえって」


天峰に両手を預け、車の外に足を下ろす。底冷えするほど寒い夜。芝でも生えているのか、歩くたびにしゃくしゃくと小気味のいい音を立てた。天峰に手を引かれるままに数十歩。ここで靴を脱いでと言われてその通りにすると、踏みしめたときの音が変わった。座って、寝そべってと、指示され、全て天峰の言うようにした。

ここが屋外で、たぶん、平地よりも高い場所だということはわかる。シートにはマットが敷かれているようで、横になると毛布が被せられた。

クッションで頭の位置を調節し、目を開けていいよと声がかかる。

真横を向いて目を開けたから、夜空を見上げるよりも先に、天峰の瞳に映る星空が見えた。


「……あまね」
「綺麗だな」
「あまね」


まだ、空を見上げない。天峰の瞳が閉じ込めた星空があんまり、綺麗で。わたしにはそれで十分で。天峰は自分の眼前に指先を持ってきて、ゆっくりと上に上げた。指し示す方を見て、とでも言うように。星を宿した瞳から、指先を追う。ようやく夜空に目をやると、夜は暗く遠いという概念をぶち壊すほど、眩い光で溢れていた。

夜空って、青いんだ。光の集まる場所の縁が青く輝いている。満天の星、その言葉を体現する景色が目の前に広がっていた。冷たい風で目がすぐに乾いて瞬きを余儀なくされることが恨めしいほど、夜毎にこの景色がこの場所を訪れることが信じられないほど、奇跡のような空だ。


天候が崩れなければ、この景色はいつでも見られるのだろう。明日の命を保証されないわたしたちの方が、余程奇跡に近い。


「天峰、死んじゃうの?」
「何、寂しくなった?」
「わたしより先にいかないで」


願いなんて、祈りなんて、ひとつもない。叶うのなら、それだけがほしい。わたしたちの身体に巣食う病気はもう取り返しがつかなくて、次の春を迎えることはない。

それを宣告されたとき、ならば今咲く桜を目一杯に楽しみたい、焼き付けたいと伝えたわたしに、医師は首を縦には振らなかった。

おかしいって、思ってた。

願いは叶わないって、思い知った。


「俺また転移してんの。この前の検査でさ、本当にもう、無理なんだって」
「頑張ってよ」
「これ以上頑張れって?」


酷な話だろう、本当に。わたしがそれを言われたら、ふざけんなって怒ってる。同じ痛みを知っているくせに、人には簡単に言えてしまう。


「でも、言えるじゃん。自分の要求。他にも言ってみろよ」
「キス、してみたい」
「…………まじ?」


想像の範疇を超えていたのか、面食らって飛び起きた天峰に向けて微笑む。

マコトさんは仮眠すると言って車内で座席を倒して眠っている。正真正銘、今は世界に二人きりだ。何を言ってもいいと思った。


「何でさ」
「喋り方、変になってるよ。……そうだな、恋、してみたかったんだ。今から出会う人には望み薄だし、というか、そうなりたくないし」


だから、ねえ。

天峰の双眸を見つめると、喉がこくりと上下するのがわかった。


「……俺と、する?」
「うん、する」
「即答かよ。どうする、これで俺のこと好きになったら」
「そうしたら、初めての恋人までできちゃう?」
「いやそれは性急過ぎる」
「いいよ、もう。してから考えよう」


星空を閉じ込めた瞳を瞼で覆う。ゆっくりと呼吸をしていた。

そのうちに、冷たい何かが唇に触れた。自分ではない誰かの吐息を飲む。

こんなものかと思う。口付けひとつで好きになんてなれなかった。それでも、最初で最後はもう全部天峰でいい。天峰がいい。


「……どう?」
「もういいかな」
「俺も。でもなんかすっげえ、ドキドキした」
「それはわたしもそうだよ」


何だか照れくさかった。嫌じゃないけれど、くすぐったい。天峰はごろんとシートに寝転んで毛布を首元まで引き上げると、掠れた声でぽつぽつと話し始めた。


「小さい頃にここに来たことがあるんだ。ちょうどこの場所に寝転んで、朝まで空を見上げて。朝が来ると星が見えなくなるんだよ。当たり前だけれど、目を凝らしてもひとつずつ溶けていって、それが何より美しくて、忘れられなかった」


天峰は三人兄弟だと聞いている。今の話は病気が見つかる前のことだろう。天峰が入院してから父親は兄ばかりになって、唯一献身的だった母親も弟が産まれてからはめっきり姿を見せなくなった。わたしも何度か天峰の母親の姿を目にした程度で、ここ数年面会に来たという話も聞いていない。一時帰宅が許される容態のときでさえ、天峰を迎えに来る人はいなかった。

悲しみも苦しみも痛みも、その身に余るほど抱えたはずだ。そんな時間の中で、わたしの存在は僅かでも光になっていただろうか。わたしにとっての天峰が、いつのときも、そうであったように。


「もし『人生で一番』を共有するのなら、遥がいいと思った。世界を知らないまま死ぬなんて勿体ない。どうせ死ぬなら、どうせ死ぬから、今夜ここに連れてきたかった」


歪な関係だ。闘病仲間、友だち、家族のような。観覧車の上で愛を誓い合うような間柄ではないのに、失いたくないと思ってしまう。


「今、すっげえ、しあわせだ」