夜には別の世界が広がっている。
 比喩じゃない。文字通りの異界(・・)がという話だ。
 歩き始める僕の家を起点に、遠ざかるほど現実からかけ離れた姿を現す。
 気付いたのは、高校に入ったばかりの夏のことだった。

 高校受験に失敗し、第一志望だった私立ではなく、地元の公立に進学するはめになった。
 顔には出さなかったが、教育者である両親の落胆は、手に取るように伝わってきた。
 家にいると息苦しさを覚え、勉強に身が入らない。
 私立に入学していれば、寮生活のはずだったのに。
 夏休みを迎える頃に、僕は夜歩きをするようになった。
 夜の早い両親が、各々の私室に籠った頃を見計らい、そっと家を出る。
 自転車は使わない。歩くこと自体が目的だからだ。
 過疎化の進む田舎町の事。繁華街がある訳ではない。
 それどころか、駅と市庁舎のある市の中心部まで歩かないと、コンビニすらない。
 だけど、僕は夜遊びをしたい訳ではない。
 顔見知りばかりの田舎町。知り合いと顔を合わせ、詮索されたり、親にご注進に及ばれるのも面倒だ。
 山から繋がる河岸沿いや、市の外延部の田園の間を歩く。
 街灯もまばらな闇の中、足を動かし続けると、鬱々としたものが少しづつ、夜に溶けてゆくように感じられた。

 最初に気付いたのは鳥の姿をしたものだった。
 田のあぜ道を遮るように、十羽ほどの鳥がうずくまっている。
 鳩より一回り程小さい。暗がりのせいで、色は良く分からない。
 ねぐらに帰っている時間だろうに、どうしてこんな所に群がっているのかと興味がわいた。
 近付いても飛び立たない。それどころか、顔を上げ僕を値踏みするよう見上げている。
 一羽ではない。群れの全てが。
 (くちばし)ではなく、人のような唇を持つように見えたのは、暗がりのせいか。
 寒気を感じ、足早に群れの間を突っ切ると、頭を前後に揺らしながら歩き始めた。
 足を速めると、背後から羽音が聞こえた。追い掛けてくるつもりか?
 振り返らず、夢中になって走るうち、やがて羽音は聞こえなくなった。

 それが切っ掛けだったのか。その日から僕は夜の住人の姿に気付くようになった。
 耳も目もない猫。内臓を晒す半分の犬。ジョギングをする顔の無い男。
 今まで僕が気付かなかっただけで、夜はこんなにも異形で溢れていたのだろうか。
 ふと、()のいる場所はどうなっているのかが気になった。
 ここが田舎町のさらに外れだというだけで、街では24時間絶えずどこかで人が働き続けている。
 興味に駆られた僕はその夜、市の中心部に向けて歩き出した。

 時刻は2時を回った頃。都会ならともかく、この辺りでは人通りはない。
 今すれ違った車の運転手も、ひょっとして下半身が無かったりするのだろうか。
 おっかなびっくり歩いていると、前を歩く人影を見付けた。
 パーカーを着た少女の姿。振り向くと、フードの中は空だったりするのかも知れない。
 足音に気付いたのか、少女はちらちらと振り返る。
 安心した。中身はある。
 野暮ったい黒縁眼鏡。中途半端に伸びた黒髪。
 普段の僕なら同年代の少女というだけで、気後れして目を逸らす所だ。
 だけど、普通の姿をしていたという安堵から、ぎこちない笑みを浮かべ挨拶をした。
「……こんばんは」

 少女もコンビニへ向かう途中だったという。
 ぽつりぽつりと言葉を交わすうち、お互い同じ夜の世界を歩いている事を知った。
 目にした夜の住人の姿や、昼間と違う姿を見せる景色の情報を交換する。
 田園の間をただ歩き続けていた僕と違い、彼女はスマホでも夜の世界を垣間見ているという。
「こう……ね、外で見てると、入れた覚えのないアプリに変わってたり、変なサイトに繋がるの」
 見せて貰った画面は、僕も遊んでいるゲームのものだったが、どこかおかしい。
 色調は狂って紫がかっているし、見たことの無い文字の群れが並んでいる。
「LINEも知らないメンバーに入れ替わってるし……」
 友達の番号で、日本語ではない不審な通話を受けてから、夜は電源を落としているのだという。

 市の中心部に住む少女は、既に何度も夜のコンビニへ足を運んでいる様子だ。
「何か見ても声は出さないで。おかしかったらすぐに出るから」
 何がおかしいというんだろう?
 夜道とは違い、ここには必ず店員がいるはずだ。
 入店のチャイムが鳴るものの、店員の挨拶の声は返ってこない。
 棚を眺めながら歩くうち、さっき見たスマホの画面の様に、奇妙な文字の記された商品が混じっているのに気付いた。
 少女は文字の読めるチョコレート菓子とアイスキャンディーを選びレジに向かう。
 レジには棚出しをしていたらしい店員が立っていた。
 口がない。
 あるべき部分は、粘土で塗り込めたようにのっぺりとしている。
 少女は無言で会計を済ませると、無言で出口に向かう。
 店員は無言のまま、店を後にする僕たちをただ見詰めていた。

「3回に1回はあんな感じ。おかしなほうの商品はまだ試したことない」
 僕も興味はあるが口にする気にまではなれない。
「お小遣い勿体ないしね」
 そっちだったか。
 アイスを割って渡してくれる少女に、代金を返そうと財布を探る。
「いいよ。この夜でまともな人に出会えた記念」
 声が少し上ずっている。この少女も人馴れしないのだと知り、親近感が湧いた。
 公園まで歩き、ベンチを見付け腰を下ろすと、とりとめのない話をした。
 ふと、チョコレート菓子をつまむ彼女の、パーカーの袖から覗く左手首に巻かれた包帯に気付く。
 だけど、この夜の中それに触れるのはふさわしくない。
 僕と同じく、彼女もそんな下らない、けれどどうにもならないことを軽くしたくて、夜を歩いていたのだから。
 LINE交換くらいは許されるか。そんなことで迷いながら彼女の横顔を眺める。

 不意に植え込みから飛び出した影が僕を突き飛ばし、少女を抱きかかえた。
 黒々とした毛に覆われた、巨大な猿のようなもの。
 老人の顔を持つそれは、淫猥な笑みを浮かべると、そのまま闇の中へ走り去る。
 悲鳴は遅れて遠くから響いた。
 鳥の群れに追われる以外、異形に襲われずにいたため、慣れ切って油断していた。
 夜は本来危険なものだし、行動原理の分からない存在ならなおさらだ。
 悲鳴の聞こえた方向へ見当を付けて走る。辿り着いた先は公営住宅だった。
 市の公報で読んだ覚えがある。老朽化が進み、入居者も減ったため、取り壊し予定ではなかったか。
 ひび割れたコンクリート壁は、修繕される事なく放置されている。灯りの漏れている窓はない。
 黒々と開いた入り口あたりに、彼女の靴の片方を見付けた。

 時計は3時近くを指している。
 頭では一刻も早く踏み込まねばと考えているのに、足がすくんで動けない。
 焦燥感に塗れ、じっとりと冷たい汗をかく僕に、声を掛ける者がいた。
「入らないのか? 悲鳴が聞こえたようだが」
 落ち着いた、若い男の声。
 助かった。普通の人間だ。
 そう思い振り返った僕は、奇妙なものを目にした。
 この暑いのに黒い二重回し(インバネス)に山高帽。手には古びた旅行鞄。
 何より奇妙なのは、顔に被った白い面。目と口の部分だけが繰り抜かれただけの、素朴な造りの代物だ。
「あの……女の子が黒い猿に攫われて……」
 言葉が通じるなら助けて貰えるかもしれない。
 この人がどれだけ夜の世界に通じているか分からない。焦る気持ちを抑え、つかえながらも説明する。
攫猿(かくえん)か。経血を啜るだけの卑しいけもの。その子は月の障りだったのだろう。心配することはない」
 理解が遅れて追い付く。生理のことか? 血を啜るって――
「それよりも、時刻が問題だ。日の出は5時27分か。まれびとになるつもりがないのなら、急がなければな」
 そんなに時間を掛けるつもりはない。早くしないと彼女は――
 焦る僕を眺める男の表情は分からない。だけど、小さく一つため息を吐くのが聞こえた。
 懐中時計で時刻を確認すると、旅行鞄を開ける。
「手助けする義理もないが、選択肢くらいは与えられるべきだろうな」

 微かに響く悲鳴を頼りに、真っ暗な階段を上る。
 やるべき事が分かっている今は、不安や恐怖より義務感の方が勝っている。
 足音を潜ませ、すすり泣きが漏れる部屋へと近づく。
 開いたままの扉の向こうで、組み伏せられた彼女の白い脚が蠢くのが見えた。
「こっちだ(けだもの)!」
 わざと大きな音を立て、攫猿の注意を引く。
 男に借りた面を被った僕は、美しい少女に見えているはず。
 黒い獣は縛り上げた彼女を残し、劣情に歪んだ顔で俺に掴み掛かって来る。
 獲物は多いほうが良いという訳か。
 悍ましさに総毛立つが、彼女が受けるはずだった辱めを思えば、比べるべくもない。
 来た道を引き返し、屋上まで階段を駆け上り、面を脱ぎ捨てる。
 開け放たれた扉の先では、紅く濁った満月の下、仮面の男が立っていた。
 山高帽を脱ぎ、仮面を取り換えただけで、体格は引き締まった男性の物であるはずなのに。
 その姿は、妖艶な聖女の物に見えた。
 欲情で濁った眼では、張り巡らされた糸には気付けない。
 足を取られバランスを崩した攫猿は、男が僅かに身を翻すだけで、腐りかけた柵を巻き添えに地上へと墜ちて行った。

 彼女を家の近くまで送り届けた後、僕は家へと走った。
『夜明けまでに戻らなければ、お前達も夜を歩くものになる』
 別れ際、面職人だと名乗る男が言い残した言葉だ。
『名を無くし己を無くし。異形に成り果て終わらぬ夜を歩き続け。最後は夜に飲まれその一部になる』
 仮面を取り換える際垣間見えた男の素顔は、目鼻の無い仮面そのものだった。
『帰れるうちに帰るべきだな』

 新学期が始まったある日、通学の電車の中で、僕は彼女の姿を見付けた。
 同じ学校だったのか。向こうも気付いたようだけど、きまり悪そうに顔を伏せた。拒絶の予感に心が折れ掛ける。
 だけど、彼女はあんなに怖くて恥ずかしい目に会ったんだ。当然の反応じゃないか。
「おはよう」
 自分でも分かるくらい上ずった声。
 声を掛けた僕に、少し驚いた風な彼女。
 でも上出来だ。下らない夜を歩くのに比べれば、ずっと有意義な勇気の使い方だ。

 あの夜を最後に、もう僕は夜を歩くことはない。

                        了