駅から少し離れた集合団地。そこの一室が立花が住む家だった。
 玄関を開けると、鼻をかすめる他人の家の匂い。
 決してネガティブなものではないが、嗅ぎなれない匂いだと思った。
 廊下を進み、珠のれんをじゃらじゃらとくぐる。
 台所の佇まい、卓上の調味料、部屋の隅に追いやられたチラシの山。
 そこには生活の気配が満ちていた。

「誰もいないから」

 そういって立花はリビングの奥のふすまを開ける。

「どうぞ」
「はい……」

 まさに借りてきた猫状態。
 立花にいざなわれるままに、俺は立花の部屋へと入るとまた別の匂いが香った。
 匂いの正体は分からない。
 芳香剤なのか、シャンプーなどの洗剤の匂いなのか、柔軟剤の匂いなのか。
 ただ、漠然としたいい匂い。
 立花はカバンをベッドへ投げると、さっそくとばかりにタンスを引き、中をごそごそと漁る。
 俺はどうすればいいのかわからくて、ただそこに立っていた。

「あれ、ここじゃない……、じゃあこっち? あれ?」

 なんだかピンチの時のドラえもんみたいだな、と心の中で突っ込んでいると急に立花が手を挙げる。
 その手にはウィッグが握られており、バサバサと髪の毛が跳ねている。
 ヴィジュアルは戦国武将を討ち取った侍のようだった。

「ちょっと待ってね」

 立花はブラシを手に、ウィッグの髪を毛先から通していく。
 すると、髪の毛の塊だったものはだんだんとほぐれ、次第につややかなロングヘアへと変わった。
 
「つけ方わかる?」

 知らない、と言うつもりが緊張で声が出ず、俺は小さく首を振った。

「頭下げて」

 お辞儀というよりは、うなだれるように首から頭を下げる俺に立花は黒いネットを両手で広げてかぶせる。
 はみ出した髪の毛をネットの中へしまい、ウィッグをかぶせると立花は俺の頭を両手で持ち上げる。
 立花は身体を離して、全体を見ながらブラシで髪を整えると満足げに頷いた。

「うん。やっぱ似合ってる」
「……」
「ほら、鏡みなよ」

 立花は部屋の隅に置かれた姿鏡を指さし、ふたたびタンスを漁りだす。
 しかし、俺は足が動かなかった。
 俺は今、ロングヘアなんだ。
 あの鏡の前に立てば、憧れ、焦がれていたロングヘア姿の自分に会える。
 なのに、なんで……。
 
「ついでに私の服も着る?」

 立花は何着か服を取り出しながら、いや違うか、など言いそこらへ放り投げる。

「いや……」
「遠慮しなくていいから」
「そうじゃなくて……」
「このワンピースとかどう? 横村くん骨格がすらっとしてるから似合うと思うんだけど」

 アパレル店員のように俺に服をあてがう立花。
 立花は「横村くんも見なよ」と腕をつかみ、姿鏡の前へとひっぱる。
 
「だからっ……!」

 俺は腕を振り上げ、立花の手を振り払う。
 すると、立花はベッドに倒れた。

 謝るべきだった。手を差し伸べるべきだった。
 だけど俺は、逃げ出すことしかできなかった。
 部屋を出て、ベランダを抜け、玄関につくと、髪形をチェックするようであろう小さな手鏡が靴箱の上に置かれていた。
 小さな鏡の中に映る自分の姿は、乱れた長髪が唇のへりにくっついた哀れな姿だった。
 憧れとは程遠い、みにくい姿だった。

 俺はウィッグを脱ぎ捨て、玄関を飛び出した。