次の日。
 放課後に昇降口へ向かうと、すでに立花の姿があった。
 しかし掃除をしているわけではなく、友だちらしい女子たち数人と話をしていた。
 俺はなんとなく目を合わせないようにロッカーからほうきを取り出し、掃除に取り掛かる。
 それほど広くない昇降口。
 聞くつもりがなくとも、立花たちの会話が耳に入る。
 どうやら小テストについて話している様子で、立花の友だちの一人は泣きつくような声が聞こえた。

「お願い美鈴、英語教えてよ」
「だから、私も英語できないんだって」
「えー、それじゃハーフの意味ないじゃん」

 ほうきを掃く手が止まった。
 さすがに、そんな言い方はないんじゃないか。
 しかし、直後にキャッキャと笑い声があがった。

「やば発言じゃん」
「コンプラ違反でしょ」
「炎上まったなし」

 そんなことを言いながら、みんなひーひーと苦しそうにお腹を押さえて笑っている。
 そんな中でも一番笑っていたのは、立花本人だった。
 本人が笑っているからいいのか? 許されるのか?
 じゃあ、俺の中のこのモヤモヤはなんなんだ。

 しばらくして、立花の友だちは帰った。
 とたんに静かになる昇降口に、ほうきの音が響く。
 先に口を開いたのは、立花だった。

「私、ハーフじゃないから」
「え?」
「おばあちゃんがナイジェリア人で、ほかの家族はみんな日本人。だから私はナイジェリアのクォーター」
「へー……」
「すごいよね。四分の一の遺伝子でこの髪の毛だよ。ナイジェリアの血強すぎ」

 そういって立花はまた笑う。
 でも、やっぱり俺は笑えなかった。

アスファルトには踏まれて汚れた桜の花びらがへばりついている。ほうきでそれらをこそぐように掃く。
空を見上げると、日に照らされた若葉が風に揺らいでいる。

 少しして、立花は「小学生の頃なんだけどさ」とさらに話を続ける。

「鳥の巣とか、アフロとかさんざん言われてたから、縮毛矯正したいって言ったの。
 そしたらおばあちゃん泣いちゃってさ。
 私のせいでごめんね、って。それで私が怒られて。私も泣いて部屋に閉じこもったの。
 そしたらママがね、こういうの。
 あなたはあなたのままで素晴らしいのよ。生まれたままの姿を愛しなさいって」

 立花は当時を思い出したのか、ふっと笑い、そして静かにため息をついた。
 
「その考え自体はいいと思うし、実際にママの言葉に救われることもある。
 でも、同じくらいうるさいなって思っちゃう」

 立花は自身の髪の毛を指でつまみ、つーっと伸ばす。

「……私はただ、サラサラのロングヘアになりたいだけなのに」

 これが、立花が縮毛矯正をしたくてもできない理由。
 お金やルールじゃない、家族という暖かくて、優しくて、絶対に解けない縛り。
 それは、俺がロングヘアにしたくてもできない理由とは違ったものだった。
 でも。

「わかるよ、その気持ち」

 立花は初めて会った時のように俺をキッとにらむ。

「いや、わかんないでしょ。前にも言ったけどそうやって軽んじられるのが……」
「悩みは分からないけど、憧れは分かる」

 緊張で背中に冷や汗が垂れる。
 しかし、言わずにはいられなかった。

「俺も、ロングヘアに憧れてるんだ。立花と同じくらい、腰のあたりまで伸ばしたい」

 言ってすぐ、激しい後悔が全身を包む。

──は? あんた男でしょ?
──気持ち悪いよ。

 言われて傷つかないように、事前に傷つきそうなこと言葉を頭の中でリストアップしているうちに、本当にそういわれたような気分になってだんだんと気持ちが落ち込んでいく。
 予防線を張るつもりが、それ自体に有刺鉄線のようなとげがあり、心をズサズサと傷つける。
 今すぐ逃げ出したかった。
 昨日の立花のようにほうきを押し付けて帰ろうかと思ったが、俺が動くよりも先に立花が動いた。
 立花は足のつま先から頭までゆっくりと俺の姿を観察すると「似合うかもね」と呟いた。

「なにが?」
「いや、実際につけてみないとわかんないか」
「だからなにが?」

 立花はにやりと笑う。

「うちにカツラあるけど。腰のあたりまでのサラサラのロングヘアー」
「え」
「つけてみる?」

 イエスかノーか。どちらを選択すべきか。
 立花の問いに俺の思考回路は激しく回転する。
 イエスと答えた場合のあれこれ。ノーと答えた場合のあれこれ。
 あらゆる想定を考えた挙句、結局俺はすべての想定をひっくり返し、小さく頷いた。

「……うん」

春の風が、俺たちの間を吹き抜ける。