翌日と翌々日、彼は学校を休んだ。
 次に彼と顔を合わせたのは、火事の三日後だった。
 彼のいない二日間で、火事の話は校内をくまなく駆け巡っていた。その中で、火災の原因は電気コードからの発火だったらしいという話も、ちらっと聞いた。彼のタバコが原因ではなかったことに、あたしはなぜか、ひどくほっとしていた。
 あのあと、健くんを助けたことで、あたしも軽く聞き取りを受けた。その件も校内に広まっていたらしく、なんだか少し、周囲のあたしに対する態度も軟化したような気がした。
 二日ぶりに登校してきた彼は、たくさんの心配する生徒たちに囲まれていた。「先生大丈夫?」「元気出してね」だとか気遣う生徒たちに、気丈に、だけどさすがに少し疲れのにじむ笑顔で応えているのを、あたしは遠目に見ていた。

 対応に追われて忙しそうだった彼とようやく話す機会が訪れたのは、放課後。
「初瀬」
 下駄箱で靴に履き替えようとしていたところで、ふいに声をかけられた。
 振り向くと、彼が少し息を切らして立っていた。走ってきたのか、「よかった、間に合って」と小さく笑う。その笑顔が優しくて、あたしは咄嗟に逃げたくなったけれど、さすがにそんなことはできなくて、
「ちょっといいか、初瀬」
 うつむいて、肩にかけた鞄の紐をぎゅっと握りしめながら、小さく頷くので精いっぱいだった。

 彼が向かったのは、いつもあたしたちが放課後に話している職員室ではなく、北校舎の隅にある空き教室だった。
「初瀬、これ」
 夕陽の色に染まるその教室に入るなり、彼は右手に持っていた紙袋をこちらへ差し出してきた。クリーム色に、英字と花のイラストが描かれた、おしゃれな紙袋。
「うちの奥さんから、初瀬にって。このまえのお礼」
 戸惑いながら受け取ると、中には花柄の包装紙に包まれた箱と、淡い水色の封筒が入っていた。
「近所のお菓子屋さんのやつだけどさ。前に初瀬、フィナンシェが好きって言ってたから、それ教えたら、ここのやつがいちばんおいしいんだって」
 封筒を拾ってみると、表にはきれいな文字で、《初瀬さまへ》と書かれていた。
 どくどく、と耳もとで鼓動が鳴るのを感じながら、あたしはそっと封筒を開ける。
 入っていたのは、丁寧な文字と言葉で綴られた、あたしへの手紙だった。
 息子を助けてくれたことに対する感謝の言葉。それから、あたしが煙を吸っていたからか、あたしの体調を案じる言葉。二枚にわたるその手紙の中には、何度も何度も、《ありがとう》と繰り返されていた。

 息が詰まる。指先が震える。
 瞼の裏がぼんやりと熱くなったと思ったら、まばたきをした拍子に、涙が落ちた。
 あわてて拭おうとしたけれど、ぜんぜん間に合わなかった。次から次にあふれる涙が、手紙に落ちる。文字がにじむ。喉が引きつって、嗚咽まで漏れてきた。違う、と心の中で叫ぶ。あたしは、違う。違うのに。
「初瀬」
 突然泣き出したあたしに、彼が困ったように手を伸ばしてきた。肩に触れそうになったその手を、あたしは咄嗟に身体を引いて避ける。触れちゃいけないと思った。あたしは、この人に、もう二度と。だって、あたしは。
「違う、から」
「なにが?」
 嗚咽の合間、なんとか絞り出した言葉を、彼が訊き返してくる。その声も優しくて、あたしはよけいに胸がぐちゃぐちゃになって、もうだめだった。「だって」手紙をつかむ指先に力がこもり、くしゃりと歪む。
「ほんとは、助けたく、なかった」
「……子どもを?」
「子どもも、奥さんも。せんせぇの大事な人、みんな、消えちゃえばいいって」
 一瞬息を止めたように、彼が黙った。
 あたしはそんな彼の顔を見る勇気がなくてうつむいたまま、「だから」と上擦る声を喉から押し出す。
「感謝なんて、される資格ないの、あたし。これも、もらえない」
「や、感謝はするよ」
 だけどあたしが紙袋を返そうとしたら、彼ははっきりとした力で押し返しながら、
「初瀬が助けてくれたのは事実だし」
「助けたくなんてなかったの。消えて欲しかったもん。なんで助けたのか、わかんない。だって、あたしは、むしろ」
「でも、助けてくれた」
 喘ぐように吐き出すあたしの言葉を、そっと彼がさえぎる。ひどく穏やかで、落ち着いた声だった。
「本当は助けたくなかったんだとしても、初瀬はあのとき、助けてくれた。それがぜんぶだろ」
 あたしはただ、ぶんぶんと首を横に振った。違う、と彼の言葉を撥ねつける。

 違う。彼は知らない。あたしがあの日、ボストンバッグに灯油と新聞紙を詰めて、彼の家に向かおうとしていたこと。
 それで彼がどれだけ悲しむのかだとか、そんなことはどうでもいいと思っていた。むしろ悲しませたかった。思いきり悲しませて、苦しませて、一生消えない傷を作ればきっと、それはそのまま、あたしという存在が彼の心に刻まれることになるから。
 あたしはただ、それが欲しかったんだ。あたしの死ぬほど欲しいものが、どうしたって手に入らないのなら、せめて。彼が一生、忘れられない存在になりたかった。
 好きだった。どうしようもないぐらい。
 彼の特別になりたかった。唯一になりたかった。ただそれだけだった。あたしの考えていたことなんて、ずっと、そんな自分の欲望ばっかりで、本当は。本当のあたしは、

「せんせぇが思ってるような、生徒じゃ、なくて」
「え?」
「ぜんぜん、本当は、真面目な優等生とかじゃなくて。勉強頑張ってたのも、ぜんぶ、せんせぇに褒められたかっただけで。えらいとか、すごいとか、せんせぇから、そんなふうに言われたかっただけ、なのに」
 なのに。それだけ、だったのに。
 どうしてだろう。
「それだけじゃ、足りなくなって。いくら勉強頑張って優等生ぶって、せんせぇに褒められても、だんだん、虚しくなってきて」
 真面目な優等生でも、カワイソウないじめられっ子でもない、あたし自身を見てほしい、なんて。バカみたいなことを、本気で願うようになってしまった。
 だけどそんなの叶うはずもなくて、なのにどうしても叶えたくて、あんなバカなことを考えた。どうしようもない。本当にバカだ。こんなあたしが、彼の特別になんて、なれるわけがなかったのに。あたしなんかに、こんなきれいな手紙を綴ってくれるこの人を押しのけたところで。こんな、あたしなんかが、彼に見てもらえることなんて――

「え、待った」
 うつむいて唇を噛みしめたあたしの頭に、彼の声が降ってくる。なぜか面食らったような、ちょっと間の抜けた調子のその声に、思わず顔を上げると、
「誰が真面目な優等生だって?」
「え? ……だから、あたしが」
 きょとんとした様子で訊き返され、あたしもきょとんとして返す。なにを訊いているのだろう。質問の意図がわからず彼の顔を見つめていると、彼もしばしあたしの顔を無言で見つめたあとで、
「はあ? いや、どこが。おまえ、自分のことそんなふうに思ってたのか」
 そう言っていきなり笑い出したので、「は、なに」とあたしはさすがに眉を寄せた。
「真面目な優等生でしょ。学年トップだよ、あたし」
「いや、たしかに勉強はできるようになったけど。真面目な優等生ではないだろ。初瀬にそれは似合わなすぎる。ちょっとびっくりしたわ。自己評価ってアテにならないな」
「意味わかんないし。あたしが真面目な優等生じゃないなら、なんなの」
「初瀬は、初瀬だろ」
 顔はまだ笑っていたけれど、そう言った彼の声ははっとするほど真剣で、あたしは一瞬息を止めた。
「ずっと、そうとしか思ってないよ。俺は」
 あたしが言葉に詰まったあいだに、彼はまっすぐにあたしの顔を見据えたまま、続ける。
「初瀬のこと、真面目な優等生だとか思ったことない。むしろだいぶぶっ飛んでるよな。思い立ったらすぐ行動するし、なにするにも二の足踏まないっていうか。すげえなって思ってたよ、いつも。そりゃ、もうちょい慎重になったほうがいいときもあるかもしんないけど、でもそういう初瀬だったから、あのとき、健のこと助けられたんだと思うし」
「……そのせいで、失敗も、よくするけど」
 ――あんたがよけいなことをしたせいで。
 ――あいつ、よけいなお世話ばっかりしてさ。
 ふいに耳の奥によみがえってきた冷たい声に、思わず力ない声をこぼしたあたしに、
「でも初瀬がそういう初瀬でいてくれて、本当によかったって思ってるよ、俺は」
 その言葉は胸の奥にまっすぐに落ちて、じわりとした熱を広げた。すぐにその熱は目もとまで届いて、収まりかけた涙がまたせり上がってくる。肩が震える。下を向くと、夕陽の色をした床に、ぼろぼろと雫が落ちた。

「なあ、初瀬」
 そんなあたしにハンカチを差し出しながら、彼がゆっくりと言葉を継ぐ。
「俺さ、一時期、この仕事辞めようかと思ってた頃があって」
「……え?」
 耳を打った唐突な言葉に、あたしはハンカチに伸ばしかけた手を止め、顔を上げた。目が合うと、彼はちょっとだけ恥ずかしそうに表情を崩して、
「俺には向いてないんじゃないかって、前は本当に思い詰めてた。退職の仕方とかも調べてさ」
「なんで? せんせぇ、良いせんせぇじゃん」
 思わず口をついたのは、心からの本心だった。今日、たくさんの生徒が心配して彼を囲んでいたように、彼は生徒から好かれる先生だった。優しいとか面白いとか授業がわかりやすいとか、彼に対しての良い評価ならたくさんあった。あたしはいつもイライラしながら、だけどちょっと誇らしくも思いながら、彼のそんな評価を聞いていた。
 もちろん、あたしだって。
「せんせぇがいたから、今も学校、通えてるんだよ。せんせぇがいなかったら、あたしたぶん、とっくに不登校になってる」
「うん、知ってる」
 思わずまくし立てたあたしに、彼は穏やかに微笑んで頷くと、
「だから俺も、今も辞めずに済んでるんだよ。初瀬がいたから」
「……どういう意味?」
「あの日、下駄箱で真っ青な顔してる初瀬見つけたとき、ああまだ辞められないなって思った。この子をどうにかするまではって。でもそうやって初瀬と関わっていくうちに、初瀬が俺を見てほっとした顔してくれたり、うれしそうに笑ってくれたり、そういうのに救われてた。俺を必要としてくれる子がいて、俺も誰かの力になれてるんだって、そう思えたことに。初瀬の成績が伸びていくことも、自分のことみたいにうれしかった。勉強苦手だって言ってたのに、頑張って、学年トップにまでなった初瀬見てたら、俺も頑張らないとなって思った。思い入れがありすぎたせいで、ちょっと他の先生から、あの子だけ特別扱いしすぎじゃないですか、とか注意されたこともあったけど」
 彼はちょっと困ったように笑ったけれど、あたしは笑えなかった。凍ったように表情が動かなかった。身動きひとつできずに、ただその場に立ちつくしていた。

 ……なんだ、それ。
 途方に暮れた気分で顔を伏せると、また、瞼の裏が焼けるように熱くなった。
 なんだそれ。心の中で繰り返す。
 そうして思い出した。あの日。燃える家に飛び込む直前。
 ――健!
 彼の奥さんが叫んだ、その名前を聞いたとき。彼の顔が、声が、頭に弾けたことを。
 ――健っていうんだ。
 あたしにそう教えてくれたときの、彼の幸せそうな笑顔を。死んでも守りたいって、あの一瞬、あたしの頭にあったのはそれだけだった。あたしの幸せのために、一度は奪ってしまおうとした、その笑顔を。あたしはあのとき、守りたくて必死だった。あたしなんてどうなってもいいから、彼のあの笑顔を曇らせたくないと、それだけ、夢中で願った。
 そしてあたしは今、そうしたことをみじんも後悔していない。
 そう自覚した瞬間、苦しさと温かさが同時に押し寄せてきて、胸が詰まった。

「……せんせぇにとって、あたし、特別だったの?」
「そうだよ。贔屓だって言われるから、内緒な」
 ――ああ。
 これだけでいい、と痛烈に思った。
 真面目な優等生でも、カワイソウないじめられっ子でも、なかった。彼の中にいたあたしは、ずっと。
 それでいい。それだけで、いい。
 これ以上、あたしは彼に、なにも望みたくない。彼からは、なにも欲しくない。
 そう思えたことがうれしくて苦しくて、込み上げた途方もない幸福感と、同じだけの寂しさに、あたしは泣いた。
 燃えるような橙色の教室で、生まれてはじめて、心の底から他人の幸せを願いながら。
 あたしはたしかに、初恋の終わりを、見送った。