産院に到着して、勝手口のチャイムを押すと、分娩室の脇に設置された待機場所に案内された。診察ベッドと荷物を置くカゴがあるだけの、カーテンで仕切られた二畳余りの簡易的な場所だ。
 
 私はそこで下着を履き替え、用意された手術着のような桜色の服に着替える。診察台に横になると、ガラガラとキャスターのついたモニターが設置され、念のためと点滴の針を刺された。
 
 念のためとは、輸血や麻酔の導入の確保だと記憶している。万が一の事態が起きた時に迅速に対応できるほか、パニックになった妊婦の腕に針を刺すのはリスクが高いらしい。
 
 万が一。その万が一になる確率は、誰もが等しく持っている。
 
 そんなことを考えながら、そばの丸椅子に腰掛けたパートナーといくつか会話を交わしていると、痛みはすぐにやって来た。最初は食べ過ぎや飲み過ぎなんかと同じような、一般的な腹痛。ただ当然まだ出す(・・)わけにはいかないので、痛みの解消方法はない。
 
 痛みには波があり、一難去ってまた一難。どんな痛みかを表現する言葉は世の中にたくさんあるが、私は痛みよりも恐怖の感覚を強く認識していた。
 
 落ち着くのが怖い。一秒一秒、過ぎるのが怖い。ひとつ前にやってきたあの痛みよりも強い痛みが数秒後にまたやってくる。そう思うだけで呼吸は浅くなり、瞳孔が開いた。
 
 やばい、くる。怖い!
 
「大丈夫? 痛み来た? 今何分?」
 
 身体を丸め歯を食いしばり、痛みに耐えながら視線をパートナーに向ければ、彼は至極真剣な顔でこちらを心配そうにみていた。
 
「何分かは、ちょっと、数えらんない。頼んでいい?」
「え、分かんないよ。痛みが来る来ないは言ってもらえないと、正確には数えられない。さっき助産師さんが、間隔が三分になったら呼んでって言っていたよ」
 
 そうだろう。そうだろうとは思うが、正直言って今の私の頭の中は、痛みへの恐怖と呼吸を整えることで既に満たされているのだ。
 
 決して悪意はない。だが、ほんの少しモヤモヤしてしまった。
 
 私はパートナーとのこの些細な感情のずれをこれ以上大きくするまいと、無い頭でなんとか思考を巡らせる。
 
「じゃあ、うん。とりあえず黙って手を貸しといて。握った時から手を離したまでが三分間隔になったら、助産師さん呼んで。オーケー?」
「了解!」
 
 私から任務を貰った彼は、その与えられたやるべきことを全うしようと腕時計を凝視する。その伏せた瞼に、私は口元を小さく緩ませた。
 
 そうだ。忘れていた。私はこの、呆れるほどに真っ直ぐな彼に惹かれたのだ。
 
 自分の責任じゃない残業を山ほどして、時間外に後輩のために資料をまとめて、上司部下の愚痴を嫌味ない笑顔でいつまでも聞いて。
 
 だが好きになったのは、その“人の良さ”だけではない。
 
 彼はたとえ自分の努力が身を結ばなかったとしても、見返りがなかったのだとしても、いつも平常であり穏やかだった。
 
 私はそんな彼に揺るぎない安心感を覚えたのだ。
 
 言えば伝わる。彼はいつだって、私の言葉に耳を傾けてくれる。
 
 そうだ。モヤモヤしている場合では無い。
 
「今は、時計より気にすることがあるかも」
「え?」
「時間なんて目安だから。私が苦しんで見ていられないほどに辛そうだったら、助産師さん、呼んでくれる?」
「わ、わ、分かった! すぐに助産師さん呼んでくるから! 待ってて!」
 
 つい今し方。握ろうと思った手はスルリとすり抜け、次の瞬間にはもう仕切りのカーテンの閉まる『シャッ』っという音が響いた。
 
 私はその揺れるカーテンを、目を細めながら仏のようような穏やかな表情で見つめていた。