「なんか最近、少し変じゃねえ?」
「だよな。いっつも上の空だし……」
「何かあったのかな? ロゼリア」
「…………ん? もしかして彼女のこと、ロゼリアってよんでるのか?」
休み時間。
教室でぼんやりと考え事をしていたリヒトは、クラスメイトの言葉を聞いて目を瞬かせた。
「うん。だって、本人がいいって言ったから!」
「俺たち、同じ教室で勉強する仲間だし!」
「……」
満面の笑みを浮かべる子どもたちを見て、リヒトは無言になった。
『クリスタロスの王子』として、『青の大海』の『海の皇女』を呼び捨てにする勇気は、今のリヒトにはなかった。
かと言って『様』づけも『ちゃん』づけもしっくりこず、リヒトは腕を組んでうーんと唸った。
「なあ。リヒトはさ、ロゼリアがこんなふうになった理由、何か知らないか!? 授業中とかは普通だった気がするんだけど……」
彼らがロゼリアについてリヒトに尋ねるのは、ある意味当然とも言えた。
ロゼリアとリヒトは入学時の筆記の成績が良かったこともあり、座学は普通幼等部の学生では選択出来ない講義を多く選択している。
つまりリヒトが、一番ロゼリアと同じ時間を過ごしていると言っても過言ではなかった。
「特に何もなかった。……と、思う」
リヒトは、とあることを思い出して苦笑いした。
昨日、二人きりのときにいきなりロゼリアに頭を下げて謝られたときは、驚いたものである。
ひどいことを言ってしまったと――ただ、心境の変化の理由までは、リヒトは尋ねることは出来なかった。
だからこそ、ロゼリアの変化の理由について疑問に思っているのは、リヒトも同じだった。
幼等部の男子生徒たちがロゼリアの話題で騒いでいると、本を抱えた女生徒たちがキラリと瞳を輝かせた。
「――それはきっと恋、ね」
「「こい?」」
リヒトも含め、少年たちはぽかんと間抜けな顔をして首を傾げた。
「恋って、あの……?」
「いやいやいや、そんなはずは……!」
「じゃあもしかして、この中にその相手が……?」
突然の話題に、男子生徒たちの顔が赤く染まる。
「い、いや〜〜。モテて困るな」
「誰がお前だって言ったよ。お前なわけ無いだろ」
鼻をさすって照れた少年の一人に、友人から厳しい指摘が飛ぶ。だが女生徒の反応は、友人より冷ややかだった。
「何馬鹿なこと言ってるのよ。ロゼの相手はこの教室にはいないわよ」
「ロゼはこの教室の男子なんかに興味なんてないはずだよ。リヒト様も違うみたいだし。きっと、他の教室の人だと思う」
「ね、最近ロゼって、誰と会ってたっけ?」
「試験のお勉強だって言って、ギルバートお兄様と一緒にいたりしてたはずだけど……」
幼等部の生徒に『お兄様』と呼ばれるギルバートの生徒人気は、学院の中でもそれなりに高い。
遊び心のある実力者。
長い眠りから目覚めた、『剣神様』の唯一の兄という立場は、ローズを慕う人間からして特別なものに映るらしかった。
「……兄上とギル兄上だったら……」
リヒトが腕をくんでうーんとうなっていると、
「お兄様はないと思います」
ローズがばっさりと言い切った。
「お兄様は憧れられることはあっても、それは尊敬の対象であって、恋愛の対象にはならない気がします」
「じゃあ……つまり、兄上と何かあったのか? でも兄上は以前彼女を泣かせるくらい厳しい物言いを……」
リヒトは、レオンの過去の行動を思い出して言葉をと切らせた。
自分を庇って、ロゼリアに反論した兄を――リヒトは少しだけ胸が苦しくなる。
「リヒト様? もしかして私のいない間に何かあったのですか?」
事件のことを知らないローズは、不思議そうな顔をしてリヒトを見た。
ローズの視線に気付いて、リヒトは苦笑いして、なんでもないと小さく手を振る。
「……いや。別にたいしたことはなかったから、気にするな」
「そうは仰いましても、先ほどより少し元気がないように見えるのですが……」
「それは……」
自分を案じるようなローズの目に耐えられず、リヒトは思わず顔を背けた。
ロゼリアには謝ってもらっているし、今更ことを大きくする気はないのだけれど――……。
リヒトが困っていると、空気を断ち切るように快活な声が響いた。
「わかってないなあ、二人とも! 大嫌いな相手の優しい一面を知ってしまったら、胸がどきどきしてしまうものなの! 異世界ではなういうものを、『ぎゃっぷもえ』というんだよっ!」
「『ぎゃっぷ』……『もえ』?」
あまり聞いたことのない言葉に、ローズは思わず言葉を繰り返していた。
「印象最悪からの恋に落ちるお話は、物語の王道なの!」
「おうどう……」
いまいちピンとこない。
ローズは首を傾げながら眉間にシワを作る。
「ローズ様は聞いたことがない? 『はぴねす』っていう本なんだけど、ギャップ萌えがすごいの! なんでも、昔『光の巫女』っていう、すごい方が書かれた本なんだって!」
幼等部の生徒は、実年齢の離れたローズとリヒトには様付けだったが、言葉自体は砕けていた。
言葉遣いは気にしていない――だが、ある言葉が引っかかって、ローズは大きく目を見開いた。
「はぴ……ねす?」
それは、聞き覚えのある名前。
少女はそう言うと、にっこり笑って本の表紙をローズに見せた。
そこに描かれていたのは、ベアトリーチェがローズに渡したのと同じ、『四枚の葉』だった。
『四枚の葉』は珍しい植物で、それを育てている人間を、ローズはクリスタロスではベアトリーチェくらいしかしらない。
そんな植物の名前と同じ本を――そして異世界からやってきたアカリが、この世界と関わりがある『げーむ』の名前だと言っていた『はぴねす』を、『光の巫女』が書いた、なんて。
――そんな偶然があるんだろうか?
「ローズ? さっきから固まってるけど、何か気になることでもあるのか?」
「……いいえ。なんでもございません」
ローズは胸騒ぎがした。
だが心配そうに自分を見つめるリヒトには、なんでもないように笑ってごまかした。
「『ロゼリア・ディラン』はいるか?」
その時だった。
レオンが幼等部の教室の柱を叩いた。
「え? 兄上?」
「……な、なんで貴方がここに」
レオンの声に気付いて、ロゼリアは勢いよく立ち上がった。その顔は、真っ赤に染まっている。
「忘れ物を届けに来たんだ」
「か……かっこいい〜〜!!」
突然現れたレオンに、女生徒たちが黄色い声を上げる。
ギルバートは貴族というより兄貴ということはが似合う。
リヒトは性格のせいもあり、あまり『王子』らしくはない。
対してレオンは、姿も中身も『完璧な王子様』そのものだ。
絵本から抜け出したようなレオンを間近に見て、少女たちは目を輝かせた。
「あ、ありがとう……」
ロゼリアはレオンから本を受け取ると、ぎゅっとその本を抱いた。
レオンはそんなロゼリアわ少女たちには目もくれず、人だかりの中にローズを見つけると、ふっと笑みを浮かべてから、静かに教室を後にした。
「兄上のこと、苦手みたいだったんだけど……反応からして、やっぱり兄上なのか?」
兄が届けた本を手に、一人笑みを浮かべるロゼリアを見て、リヒトは呟いてから――幼馴染の少女の変化に気づいて尋ねた。
「ローズ? 手をさすってどうしたんだ?」
「な、何でもありません……」
ローズはバツが悪そうにこたえると、リヒトから目をそらした。
◇◆◇
「じゃあ、まずは昨日のことのおさらいから」
放課後、いつものように卒業試験のための訓練を行っていたロゼリアは、レオンを前に体を強張らせていた。
「……わ、わかったわ。ひゃっ!」
訓練のために――レオンの手が触れて、ロゼリアは思わず高い声を上げてびくりと体を震わせた。
「……君」
挙動不審なロゼリアに、レオンはあからさまに顔を顰めた。
「手が触れたくらいで、なんて声を上げてるんだ? そんな声を出されたら、まるで僕が君になにか無礼でも働いたみたいじゃないか」
「そ、それは、その……」
「なら、どうして逃げるの?」
じりじりと、レオンがロゼリアとの距離を詰める。
これまで自分にあからさまな敵意や苦手意識を向けてきた相手が、突然よそよそしい反応をする理由が、レオンにはわからなかった。
――いつもの彼女の勢いはどうしてしまったんだろう?
怯えるような、自分に期待するような瞳を受けられると、調子が狂って落ち着かなかい。
「今日の教室のでもそうだったし……顔が赤いけど、体調でも悪いの?」
「わ、私に触らないでっ!」
レオンが伸ばした手を、ロゼリアは勢いよく払った。
「…………」
「ごめんなさい。あの、でも本当に大丈夫だから……」
「……気に食わないな」
レオンは低い声でぼそりと言った。
「いくら大国の皇女とはいえ、君のことを心配している人間の手を叩き落とすことはないんじゃないかな。仮にも、これからも一緒に練習する仲間だっていうのに」
「……た、叩き落としたつもりないわっ!」
「でも、見てよ僕の手。ほら、君のせいで赤くなってる」
レオンはロゼリアが叩いた手を、彼女には患部が見えないようにさすってみせた。
「えっ? だ、大丈夫……?」
ロゼリアは、慌ててレオンの手に手を伸ばした。
手を取って、手を確認する――が、特段赤くなっているわけでもない。
「――嘘」
レオンは、心配して近寄ってきたロゼリアの手をつかんで、自分の方へと引き寄せた。
「馬鹿だね。これくらいで赤くなるわけがないだろう?」
「だ、騙したの!?」
ロゼリアは思わず叫んだ。
「君が僕から距離をとろうとするのが悪い。……それより熱、やっぱり少し高いみたいだけど。本当に体は大丈夫?」
「……っ!!!」
顔が近い。逃げられない。
ロゼリアが顔を真っ赤に染めていると、ひょっこり現れたギルバートがぱんぱんと手を叩いた。
「まあまあ。お二人さん、そのへんで」
レオンの手の力が緩んだことに気付いて、ロゼリアはレオンから逃れた。
「紙の鳥についてだが、レオンは触れないやり方を教えたみたいだか、俺はちゃんと、君には触れる方向で覚えてもらうぞ?」
「……」
「レオンのやり方だとどうしても、無駄が生まれてしまうんだ。俺は最初君に千羽飛ばせるようにといったが、レオンのやり方では君でもせいぜい5羽がやっとだ。たしかに君が、この魔法だけを使えるようになるために勉強するならそれでいいかもしれない。でも、それは君にとって本意ではないだろう?」
ギルバートの問いに、ロゼリアは答えなかった。
沈黙は肯定だ。ギルバートはそんな彼女に、にこりと笑った。
「だったら、改めてまた頑張ろうな?」
◇
卒業試験に向けて、ロゼリアの訓練に付き合っていたギルバートは、レオンと彼女のやり取りを見て笑みを浮かべ呟いた。
「なんだか楽しくなってきたな」
「どうしてです?」
「普段平静を装っている人間が、素を隠せずにいるのを見ると、どうしても頬が緩んでしまうんだよな」
「性格が悪いです」
軽い調子で笑うギルバートを、ミリアがたしなめる。
「俺は性格はいいほうだぞ?」
ケロリとした顔をしたギルバートからかえってきた言葉に、ミリアは「はあ」と大きなため息をついた。
「ご自分で仰らないでください……。それより、本当にお体は大丈夫なのですか?」
「ああ。問題はない」
ギルバートはそう言うと、包帯を巻いた手に触れた。
「昨日《さくじつ》、ベアトリーチェ様に手紙を送りました。数日のうちに薬が届くことでしょう」
「ありがとう。……ただ、結局何をしようと俺のこれは、緩和治療でしかないかもしれないけどな」
ギルバートはそう言うと、道端に落ちていた小石を蹴って水たまりに落としてしまったときのような顔をして、遠くを見て少し笑った。
◇
「……本当に、どうかしているわ」
訓練を終えたロゼリアは、部屋に戻って枕に顔を埋めた。
今日のレオンとのやり取りを思い出す。
最近のロゼリアは訓練のあと、言葉にできない焦燥とともに、少しだけ疲労感を覚えるようになった。
――彼のことが気になって、ずっと、気を張っているせいかしら?
ごろんと寝返りを打って、天井を仰いだロゼリアは胸をおさえた。
この感情に名を与えてはならないことはわかっているのに、最近自分の胸の鼓動ははやくなるばかりだ。
魔法を使えることが権威となるこの世界で、クリスタロスの時期国王は、レオン以外にありえない。
そんな相手にこんな感情を抱くのは、間違いだと知っている。ロゼリアは何度も心のなかで繰り返した。
せめて、順番が逆だったら。
リヒトがレオンより優れた力を持っていれば、この思いが叶うことを願うことは許されたかもしれないのに。
でもリヒトがレオンより強い力を持つ日がくるなんて、ロゼリアはとても思えなかった。
そして少しずつでも、かつての力を取り戻しつつある今の自分は、きっとやがてディランの王位を継ぐことを望まれることだろう。
その隣に望んでいい人間に、他国の次期国王は含まれない。
『三人の王』の転生者同士が結ばれる世界など、この世界は望まない。
――想いが叶わなくても、届かなくても、いい。あともう少しだけ、そばにいたいと願うことは、私には許されないことかしら?
ロゼリアはそう考えて――ふと、机の上に手紙が置かれていることに気がついた。
送り主は彼女の父だった。
手紙には彼女を気遣う言葉が綴られ、最後にこう書かれていた。
【お前が魔法を使えないままなら、その時は国に連れて帰る】
「だよな。いっつも上の空だし……」
「何かあったのかな? ロゼリア」
「…………ん? もしかして彼女のこと、ロゼリアってよんでるのか?」
休み時間。
教室でぼんやりと考え事をしていたリヒトは、クラスメイトの言葉を聞いて目を瞬かせた。
「うん。だって、本人がいいって言ったから!」
「俺たち、同じ教室で勉強する仲間だし!」
「……」
満面の笑みを浮かべる子どもたちを見て、リヒトは無言になった。
『クリスタロスの王子』として、『青の大海』の『海の皇女』を呼び捨てにする勇気は、今のリヒトにはなかった。
かと言って『様』づけも『ちゃん』づけもしっくりこず、リヒトは腕を組んでうーんと唸った。
「なあ。リヒトはさ、ロゼリアがこんなふうになった理由、何か知らないか!? 授業中とかは普通だった気がするんだけど……」
彼らがロゼリアについてリヒトに尋ねるのは、ある意味当然とも言えた。
ロゼリアとリヒトは入学時の筆記の成績が良かったこともあり、座学は普通幼等部の学生では選択出来ない講義を多く選択している。
つまりリヒトが、一番ロゼリアと同じ時間を過ごしていると言っても過言ではなかった。
「特に何もなかった。……と、思う」
リヒトは、とあることを思い出して苦笑いした。
昨日、二人きりのときにいきなりロゼリアに頭を下げて謝られたときは、驚いたものである。
ひどいことを言ってしまったと――ただ、心境の変化の理由までは、リヒトは尋ねることは出来なかった。
だからこそ、ロゼリアの変化の理由について疑問に思っているのは、リヒトも同じだった。
幼等部の男子生徒たちがロゼリアの話題で騒いでいると、本を抱えた女生徒たちがキラリと瞳を輝かせた。
「――それはきっと恋、ね」
「「こい?」」
リヒトも含め、少年たちはぽかんと間抜けな顔をして首を傾げた。
「恋って、あの……?」
「いやいやいや、そんなはずは……!」
「じゃあもしかして、この中にその相手が……?」
突然の話題に、男子生徒たちの顔が赤く染まる。
「い、いや〜〜。モテて困るな」
「誰がお前だって言ったよ。お前なわけ無いだろ」
鼻をさすって照れた少年の一人に、友人から厳しい指摘が飛ぶ。だが女生徒の反応は、友人より冷ややかだった。
「何馬鹿なこと言ってるのよ。ロゼの相手はこの教室にはいないわよ」
「ロゼはこの教室の男子なんかに興味なんてないはずだよ。リヒト様も違うみたいだし。きっと、他の教室の人だと思う」
「ね、最近ロゼって、誰と会ってたっけ?」
「試験のお勉強だって言って、ギルバートお兄様と一緒にいたりしてたはずだけど……」
幼等部の生徒に『お兄様』と呼ばれるギルバートの生徒人気は、学院の中でもそれなりに高い。
遊び心のある実力者。
長い眠りから目覚めた、『剣神様』の唯一の兄という立場は、ローズを慕う人間からして特別なものに映るらしかった。
「……兄上とギル兄上だったら……」
リヒトが腕をくんでうーんとうなっていると、
「お兄様はないと思います」
ローズがばっさりと言い切った。
「お兄様は憧れられることはあっても、それは尊敬の対象であって、恋愛の対象にはならない気がします」
「じゃあ……つまり、兄上と何かあったのか? でも兄上は以前彼女を泣かせるくらい厳しい物言いを……」
リヒトは、レオンの過去の行動を思い出して言葉をと切らせた。
自分を庇って、ロゼリアに反論した兄を――リヒトは少しだけ胸が苦しくなる。
「リヒト様? もしかして私のいない間に何かあったのですか?」
事件のことを知らないローズは、不思議そうな顔をしてリヒトを見た。
ローズの視線に気付いて、リヒトは苦笑いして、なんでもないと小さく手を振る。
「……いや。別にたいしたことはなかったから、気にするな」
「そうは仰いましても、先ほどより少し元気がないように見えるのですが……」
「それは……」
自分を案じるようなローズの目に耐えられず、リヒトは思わず顔を背けた。
ロゼリアには謝ってもらっているし、今更ことを大きくする気はないのだけれど――……。
リヒトが困っていると、空気を断ち切るように快活な声が響いた。
「わかってないなあ、二人とも! 大嫌いな相手の優しい一面を知ってしまったら、胸がどきどきしてしまうものなの! 異世界ではなういうものを、『ぎゃっぷもえ』というんだよっ!」
「『ぎゃっぷ』……『もえ』?」
あまり聞いたことのない言葉に、ローズは思わず言葉を繰り返していた。
「印象最悪からの恋に落ちるお話は、物語の王道なの!」
「おうどう……」
いまいちピンとこない。
ローズは首を傾げながら眉間にシワを作る。
「ローズ様は聞いたことがない? 『はぴねす』っていう本なんだけど、ギャップ萌えがすごいの! なんでも、昔『光の巫女』っていう、すごい方が書かれた本なんだって!」
幼等部の生徒は、実年齢の離れたローズとリヒトには様付けだったが、言葉自体は砕けていた。
言葉遣いは気にしていない――だが、ある言葉が引っかかって、ローズは大きく目を見開いた。
「はぴ……ねす?」
それは、聞き覚えのある名前。
少女はそう言うと、にっこり笑って本の表紙をローズに見せた。
そこに描かれていたのは、ベアトリーチェがローズに渡したのと同じ、『四枚の葉』だった。
『四枚の葉』は珍しい植物で、それを育てている人間を、ローズはクリスタロスではベアトリーチェくらいしかしらない。
そんな植物の名前と同じ本を――そして異世界からやってきたアカリが、この世界と関わりがある『げーむ』の名前だと言っていた『はぴねす』を、『光の巫女』が書いた、なんて。
――そんな偶然があるんだろうか?
「ローズ? さっきから固まってるけど、何か気になることでもあるのか?」
「……いいえ。なんでもございません」
ローズは胸騒ぎがした。
だが心配そうに自分を見つめるリヒトには、なんでもないように笑ってごまかした。
「『ロゼリア・ディラン』はいるか?」
その時だった。
レオンが幼等部の教室の柱を叩いた。
「え? 兄上?」
「……な、なんで貴方がここに」
レオンの声に気付いて、ロゼリアは勢いよく立ち上がった。その顔は、真っ赤に染まっている。
「忘れ物を届けに来たんだ」
「か……かっこいい〜〜!!」
突然現れたレオンに、女生徒たちが黄色い声を上げる。
ギルバートは貴族というより兄貴ということはが似合う。
リヒトは性格のせいもあり、あまり『王子』らしくはない。
対してレオンは、姿も中身も『完璧な王子様』そのものだ。
絵本から抜け出したようなレオンを間近に見て、少女たちは目を輝かせた。
「あ、ありがとう……」
ロゼリアはレオンから本を受け取ると、ぎゅっとその本を抱いた。
レオンはそんなロゼリアわ少女たちには目もくれず、人だかりの中にローズを見つけると、ふっと笑みを浮かべてから、静かに教室を後にした。
「兄上のこと、苦手みたいだったんだけど……反応からして、やっぱり兄上なのか?」
兄が届けた本を手に、一人笑みを浮かべるロゼリアを見て、リヒトは呟いてから――幼馴染の少女の変化に気づいて尋ねた。
「ローズ? 手をさすってどうしたんだ?」
「な、何でもありません……」
ローズはバツが悪そうにこたえると、リヒトから目をそらした。
◇◆◇
「じゃあ、まずは昨日のことのおさらいから」
放課後、いつものように卒業試験のための訓練を行っていたロゼリアは、レオンを前に体を強張らせていた。
「……わ、わかったわ。ひゃっ!」
訓練のために――レオンの手が触れて、ロゼリアは思わず高い声を上げてびくりと体を震わせた。
「……君」
挙動不審なロゼリアに、レオンはあからさまに顔を顰めた。
「手が触れたくらいで、なんて声を上げてるんだ? そんな声を出されたら、まるで僕が君になにか無礼でも働いたみたいじゃないか」
「そ、それは、その……」
「なら、どうして逃げるの?」
じりじりと、レオンがロゼリアとの距離を詰める。
これまで自分にあからさまな敵意や苦手意識を向けてきた相手が、突然よそよそしい反応をする理由が、レオンにはわからなかった。
――いつもの彼女の勢いはどうしてしまったんだろう?
怯えるような、自分に期待するような瞳を受けられると、調子が狂って落ち着かなかい。
「今日の教室のでもそうだったし……顔が赤いけど、体調でも悪いの?」
「わ、私に触らないでっ!」
レオンが伸ばした手を、ロゼリアは勢いよく払った。
「…………」
「ごめんなさい。あの、でも本当に大丈夫だから……」
「……気に食わないな」
レオンは低い声でぼそりと言った。
「いくら大国の皇女とはいえ、君のことを心配している人間の手を叩き落とすことはないんじゃないかな。仮にも、これからも一緒に練習する仲間だっていうのに」
「……た、叩き落としたつもりないわっ!」
「でも、見てよ僕の手。ほら、君のせいで赤くなってる」
レオンはロゼリアが叩いた手を、彼女には患部が見えないようにさすってみせた。
「えっ? だ、大丈夫……?」
ロゼリアは、慌ててレオンの手に手を伸ばした。
手を取って、手を確認する――が、特段赤くなっているわけでもない。
「――嘘」
レオンは、心配して近寄ってきたロゼリアの手をつかんで、自分の方へと引き寄せた。
「馬鹿だね。これくらいで赤くなるわけがないだろう?」
「だ、騙したの!?」
ロゼリアは思わず叫んだ。
「君が僕から距離をとろうとするのが悪い。……それより熱、やっぱり少し高いみたいだけど。本当に体は大丈夫?」
「……っ!!!」
顔が近い。逃げられない。
ロゼリアが顔を真っ赤に染めていると、ひょっこり現れたギルバートがぱんぱんと手を叩いた。
「まあまあ。お二人さん、そのへんで」
レオンの手の力が緩んだことに気付いて、ロゼリアはレオンから逃れた。
「紙の鳥についてだが、レオンは触れないやり方を教えたみたいだか、俺はちゃんと、君には触れる方向で覚えてもらうぞ?」
「……」
「レオンのやり方だとどうしても、無駄が生まれてしまうんだ。俺は最初君に千羽飛ばせるようにといったが、レオンのやり方では君でもせいぜい5羽がやっとだ。たしかに君が、この魔法だけを使えるようになるために勉強するならそれでいいかもしれない。でも、それは君にとって本意ではないだろう?」
ギルバートの問いに、ロゼリアは答えなかった。
沈黙は肯定だ。ギルバートはそんな彼女に、にこりと笑った。
「だったら、改めてまた頑張ろうな?」
◇
卒業試験に向けて、ロゼリアの訓練に付き合っていたギルバートは、レオンと彼女のやり取りを見て笑みを浮かべ呟いた。
「なんだか楽しくなってきたな」
「どうしてです?」
「普段平静を装っている人間が、素を隠せずにいるのを見ると、どうしても頬が緩んでしまうんだよな」
「性格が悪いです」
軽い調子で笑うギルバートを、ミリアがたしなめる。
「俺は性格はいいほうだぞ?」
ケロリとした顔をしたギルバートからかえってきた言葉に、ミリアは「はあ」と大きなため息をついた。
「ご自分で仰らないでください……。それより、本当にお体は大丈夫なのですか?」
「ああ。問題はない」
ギルバートはそう言うと、包帯を巻いた手に触れた。
「昨日《さくじつ》、ベアトリーチェ様に手紙を送りました。数日のうちに薬が届くことでしょう」
「ありがとう。……ただ、結局何をしようと俺のこれは、緩和治療でしかないかもしれないけどな」
ギルバートはそう言うと、道端に落ちていた小石を蹴って水たまりに落としてしまったときのような顔をして、遠くを見て少し笑った。
◇
「……本当に、どうかしているわ」
訓練を終えたロゼリアは、部屋に戻って枕に顔を埋めた。
今日のレオンとのやり取りを思い出す。
最近のロゼリアは訓練のあと、言葉にできない焦燥とともに、少しだけ疲労感を覚えるようになった。
――彼のことが気になって、ずっと、気を張っているせいかしら?
ごろんと寝返りを打って、天井を仰いだロゼリアは胸をおさえた。
この感情に名を与えてはならないことはわかっているのに、最近自分の胸の鼓動ははやくなるばかりだ。
魔法を使えることが権威となるこの世界で、クリスタロスの時期国王は、レオン以外にありえない。
そんな相手にこんな感情を抱くのは、間違いだと知っている。ロゼリアは何度も心のなかで繰り返した。
せめて、順番が逆だったら。
リヒトがレオンより優れた力を持っていれば、この思いが叶うことを願うことは許されたかもしれないのに。
でもリヒトがレオンより強い力を持つ日がくるなんて、ロゼリアはとても思えなかった。
そして少しずつでも、かつての力を取り戻しつつある今の自分は、きっとやがてディランの王位を継ぐことを望まれることだろう。
その隣に望んでいい人間に、他国の次期国王は含まれない。
『三人の王』の転生者同士が結ばれる世界など、この世界は望まない。
――想いが叶わなくても、届かなくても、いい。あともう少しだけ、そばにいたいと願うことは、私には許されないことかしら?
ロゼリアはそう考えて――ふと、机の上に手紙が置かれていることに気がついた。
送り主は彼女の父だった。
手紙には彼女を気遣う言葉が綴られ、最後にこう書かれていた。
【お前が魔法を使えないままなら、その時は国に連れて帰る】