少女の世界は昔から、白いカーテンと壁と天井だけだった。
まるで白いキャバスのような部屋。
それが本当に白いキャンバスなら、なんでも描くことができるはずなのに、『その場所』から動けない少女には、何を描いていいかわからなかった。
『――明ちゃん』
窓から日がさしている。
ああ朝か、と少女が思うと、楽しげな誰かの声が耳に響いた。
『おはよう。朝だよ。明ちゃん』
『起こされなくても、もう起きてます』
『アカリちゃん、今日もいい一日にしようね。というわけで、検温です』
『……』
はいと手渡されて、渋々受け取る。
少女は幼い頃から病院で過ごしてきたが、ここまでなれなれしい看護師は初めてだった。
『ねえねえ、聞いて! 明ちゃんに、私の夢を教えてあげる!』
彼女はよく、少女に話しかけてきた。
『夢?』
こっちは夢も何もない。
いつ自分は死ぬのだろうと、そればかり考えているというのに、何を言い出すのかと少女は顔をしかめた。
『私ね、魔法使いになるのが夢なんだ!』
『……いい年した大人が、何を言っているんですか』
彼女の『夢』があまりに荒唐無稽だったがために、少女は怒りではなく、ため息しか出なかった。
『大人とか、そんなの関係ないんだからっ! いい? 明ちゃん。信じる者は救われるのです』
『……魔法なんて、この世界には存在しません』
『――本当に、そう思う?』
『……』
改めて聞かれると困る。
魔法なんてこの世界には存在しないはずだ。だってこの世界は、お伽噺ではないんだから。
少女は彼女のことが苦手だった。
だが彼女は少女がどんなに拒絶しても、少女の前に現れては、予想がつかないことをした。
『お誕生日おめでとう! 明ちゃん! 明ちゃんにプレゼントです!』
色鉛筆と画用紙、布に針と糸、そして本。
頼んだわけでもないのに、彼女は少女の誕生日に、沢山のプレゼントを持ってきた。
『……これで私に、何をしろっていうんですか?』
『明ちゃんいっつも暇そうだから、暇つぶしになるかと思って。とりあえずやってみようよ!』
『いいです。別に興味なんてありません』
『えー。せっかく買ってきたのに……! 勿体無いから、私が使ってみよう……』
彼女はそう言うと、色鉛筆で絵を描き始めた。少女がチラリと絵を見てみると、気持ち悪い物体が紙の上に浮き上がっていた。
『どれだけ不器用なんですか!? うわ。気持ち悪い……』
『気持ち悪いとは失礼な! なら、明ちゃんが描いてみてよ!』
『仕方ないですね……』
少女はしぶしぶ絵を描いた。
昔から、記憶するのとは得意だった少女は、絵を描くことは苦ではなかった。
『すごい! すごいよ。明ちゃん天才!』
『別に……普通です』
『ううん。すごい! 明ちゃんは、こんなことができるんだね!』
『私は、凄くなんか……』
『凄いよ。だって、私には出来ない。明ちゃんだからできることだよ。ねえ、明ちゃん。もっと沢山描いてみて。絵だけじゃない。明ちゃんの絵本も読んでみたいな。編み物だって見てみたい。明ちゃんなら、きっとなんだって出来るから』
自分を否定してばかりだった少女に、彼女はそう言って笑った。
『すごーい!』
『別に、大したものではないです』
『そんなことないよ。だって明ちゃんがいなければ、この本も、この服も、この世界には生まれなかった。これは全部、明ちゃんがいたから、この世界に生まれたものだよ。明ちゃんは、魔法使いみたいだね』
彼女があまりにも褒めるものだから、少女は沢山絵を描いた。絵本を描いた。その本のキャラクターを、編み物で模して作った。
裸のままは可愛そうだと服を作れば、彼女はそれを目を輝かせて抱き上げた。
彼女に出会うまで、少女は自分なんて何も出来ない存在で、誰かを悲しませるばかりで、生まれた意味なんて無いんだと思っていた。
でも彼女と出会って、初めて少女は自分が、その世界に生きているのだと思えた。
『明ちゃんは、魔法使いみたいだね』
『大丈夫。明ちゃんなら、きっとできるよ』
口癖のように彼女は言った。
いつも当たり前のように笑っていた。
だからこそ、彼女の周りは陽だまりのように温かくて、きっと彼女の人生は、幸せだけに満ちているんだろうと――少女はそう思っていた。
幸福だから人に優しく出来る。誰かを思うことが出来る。
そんな優しさは偽善だと、そう否定したくても、何度も自分に向けられる笑顔に、いつの間にか心は絆されて。
少しずつ自分がその人の言葉を、受け入れようとしていることに、少女は気がついた。
だが一個人を特別視することは、彼女の立場上、あまり褒められたことではなかったらしかった。
『懲りない人ですね』
『しー! 静かにっ! 今日の私は、明ちゃんの友達として会いに来てるんだから……』
少女に構いすぎた彼女は担当が変わり、彼女は休日に少女のもとを訪れるようになった。
『そういえば、聞いていた時間より遅かったですけど、何かあったんですか?』
彼女が約束を破ることは珍しかった。少女が尋ねれば、彼女は苦笑いした。
『あはは……。子供が迷子になっててね……。話しかけたら通報されちゃって……。力になりたかっただけなんだけど、なかなか今の時代は、難しいのかなあ……。その音で親御さんは見つかったんだけど……』
男装が仇となったらしい。少女はそれを聞いて、思わず笑いかけてしまった。
『……おせっかいは程々にしてください。迷惑だと思う人もいるんですから』
『そうだ! 今日は良いもの持ってきたんだよ。明ちゃんに、このゲームをあげよう!』
『……人の話を聞いてください』
『私の推しはレオンなんだけど、明ちゃんがクリアしたら、誰が好きだったか教えて!』
ある日彼女は少女に、とるゲームを差し入れた。
『Happiness』――幸福を意味するそのゲームには、美しい少年たちが描かれていた。
『レオン?』
『そう! この乙女ゲームの中の、主人公が異世界転移する国の第一王子だよ。ちなみに婚約者持ちです』
『婚約者も持ちって……。なんでそんな人がゲームに……?』
『このゲームには、悪役令嬢が登場するの。うまくやらなかったら、こっちが断罪される側になるから気をつけてね?』
『……断罪?』
『そう。裁かれちゃうから』
『裁かれるってどういうことですか……? あと、悪役令嬢ってなんなんですか?』
『最近の流行り、かなあ?』
彼女はそう言うと首を傾げた。
彼女の話をまとめると、悪役令嬢とは自分《プレイヤー》の恋敵ということだった。
自分には、何も出来ない。誰の力にもなることが出来ない。生まれた意味を見いだせない。
病のせいで、自分は大切な人を泣かせてしまう。
自分の存在は、誰かにとって重荷でしかない。そう思っていた少女にとって、『魔法の使えない王子』の話は、なんだか妙に気になった。
『リヒト王子って、なんだか、私に似てる……。私も……誰かの力に、なれるかな?』
無力な王子が世界を救う。
それは、そんな物語。
『私も、強く――……』
そうしてちらちらと、雪が降っていたある日のことだった。
少女の容態が、彼女の目の前で急変した。
『大丈夫。大丈夫だから……落ち着いてください』
友人として訪れていたはずの彼女は、まるで『看護師』のように少女に言った。
――嘘つき。貴方の言葉は、嘘ばかりだ。
そんな言葉が、少女の脳裏に過ぎった。
彼女は嘘をついている。それは、震える手が証明している。
人間は嘘つく。うわべの言葉だけなら何だっていえる。
そう思っていた、のに。
彼女の手を、少女は振り払うことが出来なかった。
自分のために震える彼女の心が、嘘偽りのない本物だと思えたから。
だから、少女は生きようと思った。
もうすぐ自分は死ぬかもしれない。でも、彼女が最後のそばに居てくれるなら。その日までは生きようと――そう、思った。
――大丈夫。大丈夫だ。きっと、死ぬのは怖くない。だって私には貴方がいる。貴方がそばにいてくれるなら、私はその瞬間を、迎えることだって怖くない。
けれど。
『……あの。――さんは』
『退職されました』
『なんで。……なんで私を、置いていったの?』
ずっとそばにいてくれると思っていた看護師《そのひと》は、ある日何も告げずに少女の前から姿を消した。
そして再び彼女の名を少女が見つけたのは、お昼のニュースだった。
夏休みに川遊びをして、溺れかけた子どもを助け、自分だけ亡くなった女性。
『ねえ、この間のニュースって、この間退職した……』
『うん。そうらしいよ。子ども庇って、溺れて亡くなったって』
生きてさえいれば。
もしかしたらいつか会える日が来るかもしれないと、心のどこかで思っていた。
けれど誰かの命を救おうとして、亡くなったその人のことを、世界は否定した。
水の流れを考えるなら、飛び込むのは間違いだったと。子供の命は救われても、それで自分が死んだのでは意味が無いのだと言って、画面の向こう側を生きる人々は、冷静に彼女が本当にとるべきだった行動を述べた。
まるで亡くなったヒーローは、無駄に命を失った、道化とでも言うように。
『……魔法なんて、貴方に使えるはずがない。私に、使えるはずがない』
その言葉を聞きながら、少女はひとり呟いた。
この世界に奇跡は起きない。だから自分の病が治る未来なんてあり得ない。そう、思って。
『しばらく家に帰って、ゆっくり過ごすのもいいのかもしれません』
余命いくばくとしれぬ命をどう生きるか。
問われたとき、少女は家に帰ることを望んだ。自分の意志というよりは、家族がそう願っていると思ったからだ。
『道でたおれたら、流石に迷惑、かな』
少女は家を抜け出して外に出た。
どこか遠くに行きたかった。短い時間でもいい。自分が病気だと、もうすぐ死ぬ命だと、それを知らない誰かの前で。
最期くらい、『普通の女の子』として生きたかった。
『誰かっ。誰か助けて!』
その時だった。
少女が炎の中から、幼い子供の声をきいたのは。
――助け、なきゃ。
そう思うと、体が動いていた。
子どもは恐怖のあまり動けないで居るようだった。少女のポケットには、彼女に送るつもりだった刺繍の入ったハンカチがあった。
少女は子どもにそれを渡しすと、手を引いて玄関へと急いだ。
――絶対にこの命を、失ってはならない。
だが吸い込んだ煙のせいで発作がおき、息苦しさのあまり少女は床に崩れた。
上手く息が出来ない。意識が朦朧と仕掛けたとき、子どもが甲高い声で叫んだ。
『お姉ちゃん、危ない!!』
崩れた天井が、体にのしかかる。
――おかしいな。まだ大丈夫だと思っていたのに。いつの間にこんなに、火が広がっていたんだろう? ああ。でも、よかった。ここまで来たら、この子は助かる。
動けなくなった少女の頭に浮かんだのは、そんな言葉だった。
『お姉ちゃん! お姉ちゃん!』
でも同時に、もし自分が死んだなら、馬鹿な行いをしたと、きっと人は言うだろうとも少女は思った。
誰かの命を救っても、自分が死んでしまったら、それでは何の意味も無い。
望む世界はいつだって、向こう側にある。
自分が生きていても、何の意味もない。
『お姉ちゃん!!』
『はやく、逃げて』
『でも』
『いいから……行きなさい!』
少女は子供に向かって怒鳴った。
泣きそうな顔をしていた子どもは、びくりと震えて走り出す。
『貴方は、生きて。貴方は……』
自分の命の代わりに助けた子どもの姿が、小さくなる姿を眺めて、少女は微笑んだ。
あの子は助かるだろう。あの子には未来がある。未来のない自分より、あの子が助かることのほうがずっといい。自分はここで死ぬだろう。仕方ない。これは、自分の選択だ。病気で死ぬはずだった自分が、たった一つだけこの世界に残せたのが、自分にはない未来を持ったあの子で良かった――少女は、心からそう思った。
――明が、無事でよかった。
――明。もう、大丈夫。大丈夫よ……。
『……お母さん、お父さん』
炎の勢いが増していく。自分を取り囲む炎を見ながら、両親の顔を思い出して、少女は涙した。
これまで生きてきて、ずっと抱えていた感情が蘇って、少女は胸が苦しくなった。
二人は悲しむだろうか。自分の死を、泣いて悲しんでくれるだろうか。それとも――咲くことのない蕾が枯れて、新しい花を咲かせられることを、喜んでくれるだろうか?
美しい薔薇を咲かせるには、剪定が必要だ。
自分という蕾を切ることで、いつかもしかしたら二人のもとに、新しい花を咲かせることができるかもしれないなら。
『要らないのは、私』
望むのは、窓枠の向こう側。
それは永遠に手に入らなくても、少女は何もできない無力な自分が、少しだけ世界に関わることができたような気がした。
その時だった。
少女は先ほどとは違う子どもが、自分の前に立っていることに気がついた。
『……貴方は、誰?』
『――貴方こそ、光の聖女に相応しい』
子どものような小さな手が、自分に向かって差し伸べられる。子どもは、色とりどりの宝石で作られた首飾りを身につけていた。
その後のことはもう、少女は意識を失ってしまって覚えていない。
『光の聖女様だ! 召喚は成功だ!』
少女が目をあけると、窓の向こうに月が見えた。
『俺はリヒト・クリスタロス。君の名前は?』
――僕はレオン・クリスタロス。君の名前は?
それはまるで、昔したことのある『ゲーム』の台詞ような。
でも本当に『ゲーム』なら、そのセリフはレオンの言葉のはずだった。
『リヒト、様……?』
『私は、ユーリ・セルジェスカ。クリスタロス王国の騎士団長を努めております。この国のために、ともに戦ってください。光の聖女様』
そこは、二つの月が存在する世界。
二つの月が重なる夜に、異世界の扉は開かれる。
少女はその夜、『光の聖女』として、魔王を討伐するために召喚されたのだと聞かされた。
『召喚』された世界には、ゲームのようなステータスなんて存在しない。
魔法が存在しない世界で生きてきた少女に、魔法を正しく教えてくれる人間は、誰一人としていなかった。
それでも聖女としての力を、異世界の人間たちは少女に求めた。
『聖女様は、まだ魔法を使えないらしい』
『召喚は、失敗だったか?』
そんな言葉を、何度も少女は聞いた。
否定されることには慣れていた。希望なんて、抱くほど悲しくなる。未来を夢見て前を向けば向くほど、世界は自分を否定する。
この世界も同じだと少女は思った。世界は私を疎外する。人を信じることは馬鹿げている。所詮信じた分だけ、期待した分だけ傷付くだけだ。
『お嬢様! この女を信用してはいけません。彼女がお嬢様のことを、どう呼んでいたかご存知ですか? 彼女は――……お嬢様のことを悪役令嬢などと!』
この世界は、ゲームの『セカイ』。
けれどその中でたった一人だけが、少女に『向こう側』から手を差し伸べた。
だから少女はその言葉を、信じたいと思った。
『私は、貴方を信じます』
――明ちゃんなら、きっとできるよ。
その言葉が、行動が、もうこの世界には居ない誰かと重なる。
だからこそ、温かな手に触れられて、少女は涙が止まらなかった。
震える手を覚えている。優しい嘘を知っている。
「夢。これは」
少女はそっと、自分の手を包んだ。
――大丈夫。大丈夫だ。私の手はずっと、震えてなんかいない。
「全部夢、なの……」
◇◆◇
「それでは、作ったお菓子はローズ様に贈っても宜しいのですか?」
「はい。あの、ただ子どもたちに配るものを、先に作っていただけたらと」
ギルバートの提案により急遽開催されることになった『ハロウィンパーティー』の準備で、学園は騒がしさを増していた。
ギルバートに菓子の調達を頼まれたローズは、グラナトゥムに来てから自分に菓子を渡そうとしてきた人々に声をかけることにした。
ローズの頼みとあって、誰もが快諾してくれた。
――魔王を倒した『剣神』ローズ・クロサイト様が、『ハロウィンパーティー』のためにお菓子を集めているらしい――
この噂はまたたく間に広まり、それに伴い『ハロウィンパーティー』のために仮装用の衣装や、魔法での演出が出来る人間が必要という話も広がり、学院中はわずか数日で、お祭りモード一色になった。
「異世界の文化を楽しめるように場を設けようとご提案なさるなんて、流石ローズ様ですわ!」
「その通りですわ!」
「あの、ですからこの提案はお兄様が……」
ロイに提案をしたのは、ローズではなく兄のギルバートである。
ローズは訂正しようとしたが、誰も彼もローズを褒め称えるばかりで、訂正はかなわなかった。
――駄目だ。誰も私の話を聞いていない。
誰もが自分をもてはやす。そんな光景に、ローズは少し引いていた。
彼らの中には、『自分ではない自分』がすでに存在しているような気がして、ローズは強く否定ができず口を噤んだ。
「ローズ。準備は進んでいるか?」
「お兄様!」
ローズが溜め息を吐いていると、大好きなその人に名前を呼ばれ、ローズは目を輝かせた。
ギルバートは珍しく眼鏡をかけていた。
「お兄様、どうして眼鏡を?」
「リヒトから借りたんだ」
ギルバートは眼鏡をおしあげて答えた。
以前リヒトが、自分にいるかと聞いてきたことをローズは思い出した。
特殊な性能があるものなのだろうと思いつつ、ローズはめったに見れない兄の眼鏡姿を凝視していた。
「あんまり見るな」
「も、申し訳ございません」
額につんと指を押し当てられ、ローズは慌てて頭を下げる。おずおずと顔を上げると、ローズは兄に尋ねた。
「そういえば、お兄様。このはろうぃん、というお祭りは、実際どんなお祭りなのですか?」
「何も知らずに協力していたのか?」
「お兄様が考えられたことですし。それにお菓子の調達となりますと、早めに頼んだ方がいいかと思いましたので」
兄が提案し、ロイが許可を出した。
ならば悪いことではないだろうとローズは考え、とりあえず兄に任された仕事を効率よくこなすために、人に頼もうと思い動くことにしたのだ。
自分に絶対的な信頼を寄せる妹の返答に、ギルバートは苦笑いした。
「ありがとうな」
ギルバートはそう言うと、ローズに微笑んだ。
まるで白いキャバスのような部屋。
それが本当に白いキャンバスなら、なんでも描くことができるはずなのに、『その場所』から動けない少女には、何を描いていいかわからなかった。
『――明ちゃん』
窓から日がさしている。
ああ朝か、と少女が思うと、楽しげな誰かの声が耳に響いた。
『おはよう。朝だよ。明ちゃん』
『起こされなくても、もう起きてます』
『アカリちゃん、今日もいい一日にしようね。というわけで、検温です』
『……』
はいと手渡されて、渋々受け取る。
少女は幼い頃から病院で過ごしてきたが、ここまでなれなれしい看護師は初めてだった。
『ねえねえ、聞いて! 明ちゃんに、私の夢を教えてあげる!』
彼女はよく、少女に話しかけてきた。
『夢?』
こっちは夢も何もない。
いつ自分は死ぬのだろうと、そればかり考えているというのに、何を言い出すのかと少女は顔をしかめた。
『私ね、魔法使いになるのが夢なんだ!』
『……いい年した大人が、何を言っているんですか』
彼女の『夢』があまりに荒唐無稽だったがために、少女は怒りではなく、ため息しか出なかった。
『大人とか、そんなの関係ないんだからっ! いい? 明ちゃん。信じる者は救われるのです』
『……魔法なんて、この世界には存在しません』
『――本当に、そう思う?』
『……』
改めて聞かれると困る。
魔法なんてこの世界には存在しないはずだ。だってこの世界は、お伽噺ではないんだから。
少女は彼女のことが苦手だった。
だが彼女は少女がどんなに拒絶しても、少女の前に現れては、予想がつかないことをした。
『お誕生日おめでとう! 明ちゃん! 明ちゃんにプレゼントです!』
色鉛筆と画用紙、布に針と糸、そして本。
頼んだわけでもないのに、彼女は少女の誕生日に、沢山のプレゼントを持ってきた。
『……これで私に、何をしろっていうんですか?』
『明ちゃんいっつも暇そうだから、暇つぶしになるかと思って。とりあえずやってみようよ!』
『いいです。別に興味なんてありません』
『えー。せっかく買ってきたのに……! 勿体無いから、私が使ってみよう……』
彼女はそう言うと、色鉛筆で絵を描き始めた。少女がチラリと絵を見てみると、気持ち悪い物体が紙の上に浮き上がっていた。
『どれだけ不器用なんですか!? うわ。気持ち悪い……』
『気持ち悪いとは失礼な! なら、明ちゃんが描いてみてよ!』
『仕方ないですね……』
少女はしぶしぶ絵を描いた。
昔から、記憶するのとは得意だった少女は、絵を描くことは苦ではなかった。
『すごい! すごいよ。明ちゃん天才!』
『別に……普通です』
『ううん。すごい! 明ちゃんは、こんなことができるんだね!』
『私は、凄くなんか……』
『凄いよ。だって、私には出来ない。明ちゃんだからできることだよ。ねえ、明ちゃん。もっと沢山描いてみて。絵だけじゃない。明ちゃんの絵本も読んでみたいな。編み物だって見てみたい。明ちゃんなら、きっとなんだって出来るから』
自分を否定してばかりだった少女に、彼女はそう言って笑った。
『すごーい!』
『別に、大したものではないです』
『そんなことないよ。だって明ちゃんがいなければ、この本も、この服も、この世界には生まれなかった。これは全部、明ちゃんがいたから、この世界に生まれたものだよ。明ちゃんは、魔法使いみたいだね』
彼女があまりにも褒めるものだから、少女は沢山絵を描いた。絵本を描いた。その本のキャラクターを、編み物で模して作った。
裸のままは可愛そうだと服を作れば、彼女はそれを目を輝かせて抱き上げた。
彼女に出会うまで、少女は自分なんて何も出来ない存在で、誰かを悲しませるばかりで、生まれた意味なんて無いんだと思っていた。
でも彼女と出会って、初めて少女は自分が、その世界に生きているのだと思えた。
『明ちゃんは、魔法使いみたいだね』
『大丈夫。明ちゃんなら、きっとできるよ』
口癖のように彼女は言った。
いつも当たり前のように笑っていた。
だからこそ、彼女の周りは陽だまりのように温かくて、きっと彼女の人生は、幸せだけに満ちているんだろうと――少女はそう思っていた。
幸福だから人に優しく出来る。誰かを思うことが出来る。
そんな優しさは偽善だと、そう否定したくても、何度も自分に向けられる笑顔に、いつの間にか心は絆されて。
少しずつ自分がその人の言葉を、受け入れようとしていることに、少女は気がついた。
だが一個人を特別視することは、彼女の立場上、あまり褒められたことではなかったらしかった。
『懲りない人ですね』
『しー! 静かにっ! 今日の私は、明ちゃんの友達として会いに来てるんだから……』
少女に構いすぎた彼女は担当が変わり、彼女は休日に少女のもとを訪れるようになった。
『そういえば、聞いていた時間より遅かったですけど、何かあったんですか?』
彼女が約束を破ることは珍しかった。少女が尋ねれば、彼女は苦笑いした。
『あはは……。子供が迷子になっててね……。話しかけたら通報されちゃって……。力になりたかっただけなんだけど、なかなか今の時代は、難しいのかなあ……。その音で親御さんは見つかったんだけど……』
男装が仇となったらしい。少女はそれを聞いて、思わず笑いかけてしまった。
『……おせっかいは程々にしてください。迷惑だと思う人もいるんですから』
『そうだ! 今日は良いもの持ってきたんだよ。明ちゃんに、このゲームをあげよう!』
『……人の話を聞いてください』
『私の推しはレオンなんだけど、明ちゃんがクリアしたら、誰が好きだったか教えて!』
ある日彼女は少女に、とるゲームを差し入れた。
『Happiness』――幸福を意味するそのゲームには、美しい少年たちが描かれていた。
『レオン?』
『そう! この乙女ゲームの中の、主人公が異世界転移する国の第一王子だよ。ちなみに婚約者持ちです』
『婚約者も持ちって……。なんでそんな人がゲームに……?』
『このゲームには、悪役令嬢が登場するの。うまくやらなかったら、こっちが断罪される側になるから気をつけてね?』
『……断罪?』
『そう。裁かれちゃうから』
『裁かれるってどういうことですか……? あと、悪役令嬢ってなんなんですか?』
『最近の流行り、かなあ?』
彼女はそう言うと首を傾げた。
彼女の話をまとめると、悪役令嬢とは自分《プレイヤー》の恋敵ということだった。
自分には、何も出来ない。誰の力にもなることが出来ない。生まれた意味を見いだせない。
病のせいで、自分は大切な人を泣かせてしまう。
自分の存在は、誰かにとって重荷でしかない。そう思っていた少女にとって、『魔法の使えない王子』の話は、なんだか妙に気になった。
『リヒト王子って、なんだか、私に似てる……。私も……誰かの力に、なれるかな?』
無力な王子が世界を救う。
それは、そんな物語。
『私も、強く――……』
そうしてちらちらと、雪が降っていたある日のことだった。
少女の容態が、彼女の目の前で急変した。
『大丈夫。大丈夫だから……落ち着いてください』
友人として訪れていたはずの彼女は、まるで『看護師』のように少女に言った。
――嘘つき。貴方の言葉は、嘘ばかりだ。
そんな言葉が、少女の脳裏に過ぎった。
彼女は嘘をついている。それは、震える手が証明している。
人間は嘘つく。うわべの言葉だけなら何だっていえる。
そう思っていた、のに。
彼女の手を、少女は振り払うことが出来なかった。
自分のために震える彼女の心が、嘘偽りのない本物だと思えたから。
だから、少女は生きようと思った。
もうすぐ自分は死ぬかもしれない。でも、彼女が最後のそばに居てくれるなら。その日までは生きようと――そう、思った。
――大丈夫。大丈夫だ。きっと、死ぬのは怖くない。だって私には貴方がいる。貴方がそばにいてくれるなら、私はその瞬間を、迎えることだって怖くない。
けれど。
『……あの。――さんは』
『退職されました』
『なんで。……なんで私を、置いていったの?』
ずっとそばにいてくれると思っていた看護師《そのひと》は、ある日何も告げずに少女の前から姿を消した。
そして再び彼女の名を少女が見つけたのは、お昼のニュースだった。
夏休みに川遊びをして、溺れかけた子どもを助け、自分だけ亡くなった女性。
『ねえ、この間のニュースって、この間退職した……』
『うん。そうらしいよ。子ども庇って、溺れて亡くなったって』
生きてさえいれば。
もしかしたらいつか会える日が来るかもしれないと、心のどこかで思っていた。
けれど誰かの命を救おうとして、亡くなったその人のことを、世界は否定した。
水の流れを考えるなら、飛び込むのは間違いだったと。子供の命は救われても、それで自分が死んだのでは意味が無いのだと言って、画面の向こう側を生きる人々は、冷静に彼女が本当にとるべきだった行動を述べた。
まるで亡くなったヒーローは、無駄に命を失った、道化とでも言うように。
『……魔法なんて、貴方に使えるはずがない。私に、使えるはずがない』
その言葉を聞きながら、少女はひとり呟いた。
この世界に奇跡は起きない。だから自分の病が治る未来なんてあり得ない。そう、思って。
『しばらく家に帰って、ゆっくり過ごすのもいいのかもしれません』
余命いくばくとしれぬ命をどう生きるか。
問われたとき、少女は家に帰ることを望んだ。自分の意志というよりは、家族がそう願っていると思ったからだ。
『道でたおれたら、流石に迷惑、かな』
少女は家を抜け出して外に出た。
どこか遠くに行きたかった。短い時間でもいい。自分が病気だと、もうすぐ死ぬ命だと、それを知らない誰かの前で。
最期くらい、『普通の女の子』として生きたかった。
『誰かっ。誰か助けて!』
その時だった。
少女が炎の中から、幼い子供の声をきいたのは。
――助け、なきゃ。
そう思うと、体が動いていた。
子どもは恐怖のあまり動けないで居るようだった。少女のポケットには、彼女に送るつもりだった刺繍の入ったハンカチがあった。
少女は子どもにそれを渡しすと、手を引いて玄関へと急いだ。
――絶対にこの命を、失ってはならない。
だが吸い込んだ煙のせいで発作がおき、息苦しさのあまり少女は床に崩れた。
上手く息が出来ない。意識が朦朧と仕掛けたとき、子どもが甲高い声で叫んだ。
『お姉ちゃん、危ない!!』
崩れた天井が、体にのしかかる。
――おかしいな。まだ大丈夫だと思っていたのに。いつの間にこんなに、火が広がっていたんだろう? ああ。でも、よかった。ここまで来たら、この子は助かる。
動けなくなった少女の頭に浮かんだのは、そんな言葉だった。
『お姉ちゃん! お姉ちゃん!』
でも同時に、もし自分が死んだなら、馬鹿な行いをしたと、きっと人は言うだろうとも少女は思った。
誰かの命を救っても、自分が死んでしまったら、それでは何の意味も無い。
望む世界はいつだって、向こう側にある。
自分が生きていても、何の意味もない。
『お姉ちゃん!!』
『はやく、逃げて』
『でも』
『いいから……行きなさい!』
少女は子供に向かって怒鳴った。
泣きそうな顔をしていた子どもは、びくりと震えて走り出す。
『貴方は、生きて。貴方は……』
自分の命の代わりに助けた子どもの姿が、小さくなる姿を眺めて、少女は微笑んだ。
あの子は助かるだろう。あの子には未来がある。未来のない自分より、あの子が助かることのほうがずっといい。自分はここで死ぬだろう。仕方ない。これは、自分の選択だ。病気で死ぬはずだった自分が、たった一つだけこの世界に残せたのが、自分にはない未来を持ったあの子で良かった――少女は、心からそう思った。
――明が、無事でよかった。
――明。もう、大丈夫。大丈夫よ……。
『……お母さん、お父さん』
炎の勢いが増していく。自分を取り囲む炎を見ながら、両親の顔を思い出して、少女は涙した。
これまで生きてきて、ずっと抱えていた感情が蘇って、少女は胸が苦しくなった。
二人は悲しむだろうか。自分の死を、泣いて悲しんでくれるだろうか。それとも――咲くことのない蕾が枯れて、新しい花を咲かせられることを、喜んでくれるだろうか?
美しい薔薇を咲かせるには、剪定が必要だ。
自分という蕾を切ることで、いつかもしかしたら二人のもとに、新しい花を咲かせることができるかもしれないなら。
『要らないのは、私』
望むのは、窓枠の向こう側。
それは永遠に手に入らなくても、少女は何もできない無力な自分が、少しだけ世界に関わることができたような気がした。
その時だった。
少女は先ほどとは違う子どもが、自分の前に立っていることに気がついた。
『……貴方は、誰?』
『――貴方こそ、光の聖女に相応しい』
子どものような小さな手が、自分に向かって差し伸べられる。子どもは、色とりどりの宝石で作られた首飾りを身につけていた。
その後のことはもう、少女は意識を失ってしまって覚えていない。
『光の聖女様だ! 召喚は成功だ!』
少女が目をあけると、窓の向こうに月が見えた。
『俺はリヒト・クリスタロス。君の名前は?』
――僕はレオン・クリスタロス。君の名前は?
それはまるで、昔したことのある『ゲーム』の台詞ような。
でも本当に『ゲーム』なら、そのセリフはレオンの言葉のはずだった。
『リヒト、様……?』
『私は、ユーリ・セルジェスカ。クリスタロス王国の騎士団長を努めております。この国のために、ともに戦ってください。光の聖女様』
そこは、二つの月が存在する世界。
二つの月が重なる夜に、異世界の扉は開かれる。
少女はその夜、『光の聖女』として、魔王を討伐するために召喚されたのだと聞かされた。
『召喚』された世界には、ゲームのようなステータスなんて存在しない。
魔法が存在しない世界で生きてきた少女に、魔法を正しく教えてくれる人間は、誰一人としていなかった。
それでも聖女としての力を、異世界の人間たちは少女に求めた。
『聖女様は、まだ魔法を使えないらしい』
『召喚は、失敗だったか?』
そんな言葉を、何度も少女は聞いた。
否定されることには慣れていた。希望なんて、抱くほど悲しくなる。未来を夢見て前を向けば向くほど、世界は自分を否定する。
この世界も同じだと少女は思った。世界は私を疎外する。人を信じることは馬鹿げている。所詮信じた分だけ、期待した分だけ傷付くだけだ。
『お嬢様! この女を信用してはいけません。彼女がお嬢様のことを、どう呼んでいたかご存知ですか? 彼女は――……お嬢様のことを悪役令嬢などと!』
この世界は、ゲームの『セカイ』。
けれどその中でたった一人だけが、少女に『向こう側』から手を差し伸べた。
だから少女はその言葉を、信じたいと思った。
『私は、貴方を信じます』
――明ちゃんなら、きっとできるよ。
その言葉が、行動が、もうこの世界には居ない誰かと重なる。
だからこそ、温かな手に触れられて、少女は涙が止まらなかった。
震える手を覚えている。優しい嘘を知っている。
「夢。これは」
少女はそっと、自分の手を包んだ。
――大丈夫。大丈夫だ。私の手はずっと、震えてなんかいない。
「全部夢、なの……」
◇◆◇
「それでは、作ったお菓子はローズ様に贈っても宜しいのですか?」
「はい。あの、ただ子どもたちに配るものを、先に作っていただけたらと」
ギルバートの提案により急遽開催されることになった『ハロウィンパーティー』の準備で、学園は騒がしさを増していた。
ギルバートに菓子の調達を頼まれたローズは、グラナトゥムに来てから自分に菓子を渡そうとしてきた人々に声をかけることにした。
ローズの頼みとあって、誰もが快諾してくれた。
――魔王を倒した『剣神』ローズ・クロサイト様が、『ハロウィンパーティー』のためにお菓子を集めているらしい――
この噂はまたたく間に広まり、それに伴い『ハロウィンパーティー』のために仮装用の衣装や、魔法での演出が出来る人間が必要という話も広がり、学院中はわずか数日で、お祭りモード一色になった。
「異世界の文化を楽しめるように場を設けようとご提案なさるなんて、流石ローズ様ですわ!」
「その通りですわ!」
「あの、ですからこの提案はお兄様が……」
ロイに提案をしたのは、ローズではなく兄のギルバートである。
ローズは訂正しようとしたが、誰も彼もローズを褒め称えるばかりで、訂正はかなわなかった。
――駄目だ。誰も私の話を聞いていない。
誰もが自分をもてはやす。そんな光景に、ローズは少し引いていた。
彼らの中には、『自分ではない自分』がすでに存在しているような気がして、ローズは強く否定ができず口を噤んだ。
「ローズ。準備は進んでいるか?」
「お兄様!」
ローズが溜め息を吐いていると、大好きなその人に名前を呼ばれ、ローズは目を輝かせた。
ギルバートは珍しく眼鏡をかけていた。
「お兄様、どうして眼鏡を?」
「リヒトから借りたんだ」
ギルバートは眼鏡をおしあげて答えた。
以前リヒトが、自分にいるかと聞いてきたことをローズは思い出した。
特殊な性能があるものなのだろうと思いつつ、ローズはめったに見れない兄の眼鏡姿を凝視していた。
「あんまり見るな」
「も、申し訳ございません」
額につんと指を押し当てられ、ローズは慌てて頭を下げる。おずおずと顔を上げると、ローズは兄に尋ねた。
「そういえば、お兄様。このはろうぃん、というお祭りは、実際どんなお祭りなのですか?」
「何も知らずに協力していたのか?」
「お兄様が考えられたことですし。それにお菓子の調達となりますと、早めに頼んだ方がいいかと思いましたので」
兄が提案し、ロイが許可を出した。
ならば悪いことではないだろうとローズは考え、とりあえず兄に任された仕事を効率よくこなすために、人に頼もうと思い動くことにしたのだ。
自分に絶対的な信頼を寄せる妹の返答に、ギルバートは苦笑いした。
「ありがとうな」
ギルバートはそう言うと、ローズに微笑んだ。