◆ユーリ過去編◆

「くぉらあ! 待て、お前らっ!!!!」

 多くの店の立ち並ぶ場所で、薄汚れた服を着た子どもたちを、大人が拳を作って追いかける。
 子どもらの手には食料が抱えられており、子どもが男の店の品を盗んで逃亡しようとしているのは、誰が見ても明らかだった。

「みんな、逃げろ!」

 子どもたちの中で、一番年上らしき痩せた子どもが、そう言って手を上げた。
 しかし、逃げていた子どものうちの一人が躓いて転んでしまい、男はそれを見てにやりと笑い、的を絞って走り出した。
 子どもたちは転んだ子を助けることはなく、一目散に逃げていく。

 殴られる。捕まってしまう!
 しかし転んだ子どもがそう思い、目を瞑ったその時だった。
 地べたを体につけて頭を抱えて震える子どもの上空から、少年の高い声が響いた。

「てぇえええいっ!」

 その瞬間、屋根から一人の子どもが飛び降りて、子ども追いかける大人の足を、思いっきり引っ掛けた。

「うわっ!」

 子どもに男の手が届くより前に、ダンッという強い音がして、男は地面に倒れ込んだ。

「悪者は成敗したぞ! 早くこっちにこい!」

 その様子を見て少し遠くから見ていた少し体の大きな子どもは、転んでいたこの手を取り立ち上がらせると、手を引いて一目散に逃げていく。
 ボサボサの銀色の髪の少年は、その様子を見て腰に手を当て、満足気に「よし」と頷いてから、こう叫んだ。

「子どもを殴ろうとして追いかけるなんて、お前はなんてひどい悪党なんだ!」

 少年の見た目は、彼らとあまり変わらない。
 けれどその声は、自分の正義を信じる、そんな強い意思のようなものを人に感じさせる声をしていた。
 獅子のたてがみように伸びた銀色の髪の間から覗く、琥珀のような美しい金色の瞳は、彼の異質さを際立たせていた。

「子どもを虐める悪者は、この俺、ユーリ・セルジェスカが許さないッ!」

 びしい!
 少年は、まるで一人前の『勇者』のように自分の名前を高らかに述べると、這いつくばっていた男を指差した。

「くそ……何しやがるこのクソガキ!」

 『キマッた!』とどや顔のユーリ。
 しかし子どもの体は、立ち上がった男によって、簡単に捕まってしまった。

「離せ。この悪党! 俺を捕まえるなんてどういうつもりだ!」
「俺が悪党だって!? 悪党はあいつらだろう! お前らのせいで、盗人が逃げただろうが! ああ!? 一体、どう落とし前をつけてくれるんだぁっ!?」
「え!? あいつらそんなことしてたのか……!?」

 大人に凄まれて怯えることはない。
 しかし、自分の正義を信じての行動が、本当に正しかったのかわからずユーリは狼狽えた。

「お前もあいつらの仲間か! 吐け! あいつらはどこにいる!? 一緒に捕まえてつきだしてやる!」
「違うし痛いっ!」

 男の手に強い力をこもり、ユーリは顔を顰めた。
 鈍い痛みが手首を襲う。
 その時。

「申し訳ございません。どうか、その手を離してやってください」

 静かな少女の声が響いて、男は後ろを振り返った。
 そこには、屋敷づとめらしい綺麗な身なりの少女が、ローブをおろして立っていた。

「申し訳ございません。弟が、失礼を致しました。この子は少し、早とちりする癖がありまして……。あの子たちが追われている理由を、ちきんと理解していなかったようなのです。あの子達が盗んだ代金は、私がお支払いします。ですからどうか、その子を離してくださいませんか?」

 ユーリは少女を見て目を瞬かせた。 
 少女は男の手に多めに金を握らせると、にこりと微笑んだ。

「迷惑料も含めて、お支払いいたします。この度は、本当に失礼いたしました」

 男は少女が握らせた金に目をやると、子どもを抑えていた手を離した。
 ユーリは尻餅をつく。

「お嬢ちゃんに免じて許してやろう。お前、今度はもう邪魔はするなよ」
 男はそう言うと、軽い足取りで自分の店へと戻っていった。



「全く、馬鹿なんですか? 貴方は」

  ドスッ!
 その男の背を見やりながら、少女はユーリの頭に手刀をくらわせた。

「いったああああっ!!!」

 ユーリは頭を押さえて叫んだ。
 そして、彼は自分にそんな痛みを与えた相手を見上げて睨んだ。

「ミリア! なんで俺の頭を頭叩くんだよ!」
「痛みを与えたほうが、馬鹿には聞くかと思いまして」

 ミリアは、冷たい瞳でユーリを見下ろしながらサラリと言った。その言葉を聞いて、ユーリはカチンと来た。

「なんだよ! バカバカって。バカっていうやつのほうが馬鹿なんだからなっ! 馬鹿っ!」
「私より貴方のほうが言っているではありませんか……。全く貴方という人は、本当に頭が悪いんですね。私が助けなくてはならないような事態を引き起こすのはやめてください。叔父様方に申し訳がたちません」
「だって、追いかけられてたんだぞ!? 助けてやらなきゃ、って思うのが普通だろ!?」
「時と場合によって、貴方はもっと考えて行動するべきです」

 ミリアはそう言うと膝をおって、ユーリの細い腕に触れた。
 そして小さな入れ物を取り出すと、中に入っていた緑色の物体を、躊躇いなくユーリの腕に塗りつけた。

「全く、腕が赤くなっているではありませんか。骨は折れてはいないようですが……。薬を塗っておきますので、赤みが引くまでは安静にしていなさい」

 そして綺麗な布を取り出すと、慣れた手付きで腕に巻き付けた。

「とりあえず、久しぶりですね。ユーリ。貴方は暫くはこちらにいると聞いています。その間に貴方のことを、叔父様方のお望み通り、ちゃんと人らしくしてあげましょう」
「うっ」

 にこりと笑う年上の従兄弟の顔を見て、ユーリは顔を強ばらせた。

 ミリア・アルグノーベンは、クリスタロス王国の公爵家、クロサイト家に古くから仕える家系の長女である。

 彼女の父の妻には弟が一人おり、彼の一人息子ユーリ・セルジェスカは、実に『少年らしい』気質の持ち主だった。

 銀色の髪に金の瞳。
 それは彼の血筋からすると珍しい色だったが、彼の両親は、一人息子であるユーリのことを、何よりも大切に愛し育てた。

 しかしその結果、『自称勇者』な獅子が爆誕してしまい、彼の従兄弟で公爵家に仕えるために礼儀などを学んでいたミリアに、彼を教育して欲しいという依頼が舞い込んだ。

 ユーリが八歳になる頃、ユーリは単身ミリアの住む町にやってきた。
 まだ幼い一人息子に金だけ渡して旅立たせるというのは、親としてどうなのかともミリアは思ったが、本人が自分一人でこちらに行きたいと言って聞かなかったらしい。
 『冒険』を終え、無事目的地に辿り着いたユーリは、彼が暮らしている町よりも栄えていたその町の市場で、従兄弟である少女の腕を引いて騒いでいた。

「ミリア、ミリアッ!  ねえ、俺これ食べたい!」
「はいはい」

 アルグノーベンは、セルジェスカよりも裕福な家系だ。
 弟分に食べ物をねだられ、ミリアはその度に財布を取り出した。

「へへ。ありがとう! あ、これ美味しい!」

 長旅のせいか浮浪者にも見える子どもは、声を弾ませると肉串をミリアに差し出した。

「はい! ミリアにも上げる!」
「いりません」
「……」

 さらりとミリアが断ると、子どもは悲しそうに腕を下ろした。
 見れば元気よくぼさぼさとしていた髪が、幾分力を失っているしているように見えて、ミリアは溜め息を一つ吐くと、ユーリの腕をとって、一口だけそれを食べた。

「……ありがとうございます。美味しいですね」

 ミリアがそういえば、ユーリはぴょこぴょこと体を弾ませて笑った。

「ね! だよね!」
「…………他に、何か欲しいものはありますか」
「え!? まだ買ってくれるの!? いいの!?」
「今日は久々に会ったのですから、貴方の買いたいものくらい、全部買ってあげますよ」
「じゃああれも! アレも食べてみたい!」

 ユーリはそう言うと、看板を指さしてミリアを見て目を輝かせた。



「ありがとう。今日はミリアのおかげで大満足だった!」

 二人が市場を離れる頃には、大分日も落ちていた。
 ユーリは膨らんだおなかに手を当てると、えへへと嬉しそうに笑った。

「美味しいお菓子とかお肉って高いから、なかなか買えなくて。たくさん食べられたのも嬉しかった! ありがとう。ミリア」
「貴方が満足したなら良かったです。それより、今日は貴方の買い物に付き合いましたが、明日からはきちんと勉強してもらいますから、そのつもりでいてくださいね。私も貴方の側にいられる時間は長くはありませんし、しっかり学んで……」
「ミリアはもうすぐ、働きにでるんだよね?」

 ミリアがくどくどと言葉を並べると、ユーリは言葉を切って尋ねた。

「ええ、まあ。もうすぐ王都にある、公爵邸で働かせていただく予定です。王都のお屋敷には、今、ご令息とご令嬢の二人がいらっしゃるそうです。年の近い王子が二人いらっしゃるため、今お二人は王都で暮らしているそうです。だから、私がお二人の勉強も見られるようにと考えて勉強を――……」

 ミリアがそう言えば、ユーリは露骨に顔を顰めた。

「なんて顔をしているんですか」
「俺、勉強嫌い」
 ユーリははっきり言った。

「お父さんたちは勉強してこいって言ってたけど、俺には必要ないって。ミリアとは従兄弟だけど、俺はフツーの家の人間だもん」

 ユーリの父は、剣というより本を好む人で、光属性の適性があったこともあり、彼の神殿の認可を受け、地方で牧師を務めていた。
 セルジェスカという名前は、彼の母方の姓である。
 元々ユーリの祖父がその町で牧師を務めていたが、教会の派遣で赴任したユーリの父と、祖父の手伝いをしていた母が出会い、ユーリは生まれた。
 貴族ほどの能力はないものの、光属性の魔法が使えるということは、神殿に関わる仕事につきやすくなる。
 彼の両親は共に力は弱いもののその適性を宿していたが、一人息子のユーリは、なんの適性もまだ発現してはいなかった。
 
 魔法持ちの親を持ちながら、魔法の使えない凡才の従兄弟。
 彼のその言葉を聞いて、ミリアは長い沈黙の後溜め息を吐いた。

「私は貴方の将来が心配です」
「何でそんなこと言うんだよ! 俺だって、ちゃんと将来のことなら考えてるさ!」
「何か目標でもあるんですか?」
「聞いて驚くなよ! ミリア、俺は街で一番になる!」

 ユーリはそう言うと、誇らしげに人差し指を立て腕を上げた。
 
「……で、なんの?」
 そんなユーリに対し、ミリアは冷静な声で尋ねた。

「え?」
「え? じゃ、ありませんよ。『一番』にも、沢山あるでしょう。貴方は何の一番になりたいのですか?」
「えっと……じゃあ、パンが好きだからパン屋さん? とか?」
「好きだからという理由だけで、うまく行くと思えませんね」
「なんてこと言うんだよミリア!」

 ばっさりと自分の『未来』を否定され、ユーリは声を上げた。

「貴方の意思が弱いからこう言っているだけです。私に苦言を吐かれたくないなら、もう少しちゃんと考えて、揺るぎない自分だけの意志や意見を持ちなさい」
「〜〜ッ!! 分かった。じゃあ俺はミリアに文句を言われないくらい、すっごい一番になってやる!」
「今の貴方には何も出来ないと思いますが、出来たら褒めてあげます」

 ミリアはそう言うと、ユーリのことを鼻で笑った。

 
 ユーリは邸宅の一室を与えられ、任された雑務をこなしつつ、ミリアに教養などを学ぶことになった。
 ミリアは勉強だけではなく、剣の腕も確かで、ユーリは何度もミリアに勝負を挑んでは、コテンパンに叩きのめされた。

 強化属性の魔法は、アルグノーベンの家に伝わる魔法で、ユーリは自分の従兄弟が、大木でさえ一閃で切り倒すのを見ては目を輝かせた。
 それはまるで、父が眠る前によく語って聞かせてくれた、物語の『英雄《ヒーロー》』のようにも見えた。

「見て見てミリア!」
「……なんですか?」
「聖剣を発見した!」

 ある日ユーリは、ちょうど良い木の棒を見つけて、ミリアの前で高らかに掲げてみせた。
 しかしその『剣』を、ミリアはユーリから取り上げた。

「全く、危ないというのが分からないのですか? 貴方は。木の棒を振り回すのはやめなさい」
「 俺の聖剣を返してよ!!!」

 ユーリはぴょんぴょん跳ねながら、自分より身長の高いミリアに奪われた木の棒に手を伸ばした。
 ミリアはそんなユーリを見下ろして、眉間に皺を作りながら尋ねた。

「聖剣? 何を言っているんですか。勇者にでもなるつもりですか?」
「いいな。それ、かっこいい!!」
「貴方は考えが浅すぎます」

 ミリアはそう言うと、取り上げた木の棒を真っ二つに折った。

「……あああああっ!!! な、何するんだよっ! ミリア!」
「……」
「俺の聖剣をいきなり折るなんて! ミリアの馬鹿! 阿呆!」

 ユーリはそう言うと、ぽかぽかミリアの体を殴った。しかしその拳に、力は全く入っていない。ミリアはそれに気がついて、ユーリの頭に強めに指をはじいた。

「痛っ!」
「はあ……」
「な、なんで溜め息なんか吐くの……?」
「どうしてこんなに精神年齢の低い子供が、私の従弟なのかとふと悲しくなっただけです」
「ひどい!」
 ユーリはミリアの言葉に憤慨した。


 ミリア・アルグノーベンは、優秀だがそれをあまり人には見せないようにして過ごしていた。
 しかし従兄弟であるユーリの前では例外で、ミリアは幼いユーリに望まれては、普通の人間には到底出来ない芸当を披露した。

「かっこいい――! ねえ、ミリア! 何今の! 今の何!?」

 遙か遠くにある赤い果実に、ミリアは短剣を投げつける。
 百発百中の技を初めて見たとき、ユーリはミリアにもう一度見せてと何度もせがんだ。その度にミリアは軽く再現してみせ、ユーリは声を上げて喜んだ。

「すごい! 本当にすごい! ミリアなら、サーカスに入れるよ!」
「……お褒めの言葉を預かり光栄です」
 ミリアはそう言うと、ユーリの頭に再び手刀を振り下ろした。

「痛い。何するんだよ! 褒めたのにっ!」
「褒められた気がしない上に不愉快です」
 ミリアははっきり言った。

「この力を、私は見世物に使うつもりはありません」
「え~~? でも、そうしたら絶対人気者になれるのに……」
「無駄なことばかり叩くのはこの口ですか?」
「それ耳! 耳だからっ!ミリアっ!」
 作り物の笑みを浮かべて耳を抓られ、ユーリは悲鳴を上げた。



 アルグノーベン家は、代々公爵家に仕えてきた。
 ミリアの祖父は公爵家の家令であり、そしてミリア直系であるミリアは生まれる前、男子であることを望まれていた。
 しかし、産まれたのは女の子ども。
 しかもこともあろうに、子どもは強化の魔法を宿していた。

「また負けた……」
 今日も剣の授業でミリアに破れ、ユーリは尻餅をついて脱力した。
 息一つ乱していない。
 そんなミリアを見るたびに、ユーリは自分は彼女に負けたのに、心のどこかで嬉しかった。

「ミリアは、強くて凄いなあ。俺は勉強も運動も出来ない。見た目だけはいいって、言ってもらえることはあるんだけど」
「その見た目さえ、今は整えていないではありませんか。ずっと黙っていましたが、貴方、それではただの獣ですよ」

 公爵邸で手伝いをするようになり、ユーリは清潔であることは心がけるようになったが、長い髪は伸ばしたままだった。
 ユーリはミリアに指摘されてたじろいだ。

「銀の髪に金の瞳。獅子のような身なりの癖に、貴方の中身は鼠以下ですね」
「う……」
 さらりとひどいことを言われ、ユーリは唇を噛んだ。

「ほら、髪を切って上げますから。ここに座ってください」
「あの……ミリア。なんで切ろうとしているの?」
「何か問題が?」
 ミリアの手には短剣が握られている。ユーリは慌てた。

「ちょっと待って! 怖い! 流石に怖いってばっ!」
「騒がないでください。煩い。動くと刃が肌を掠めますよ」
「ミリア。それ、人を殺す人の言葉だよ。絶対」
「私は、人を殺したりなんかしません」

 公爵家を守るための剣。
 アルグノーベン家はそういう家系だと、以前ユーリは父から聞いたことがあった。
 その血を継ぐミリアは、短剣を見つめて、いつもより小さな声で言った。

「私はこの力で、人を守りたいんです」
「ミリアなら、きっと出来るよ」
「……え?」
 ユーリがそう言えば、ミリアは目を瞬かせた。

「だってミリアは強くて、かっこいいから! ヒーローみたいに!」
「それは、あまり女性に向ける言葉ではありませんね? 一体、どういう育ち方をしたらこんな失礼な子に育つんでしょう?」

 『ヒーロー』という言葉は英雄だとか、勇者のことを言うと、ユーリは聞いたことがあった。
 ユーリにとってその言葉は最大の賛辞だったが、ミリアは褒めたつもりのユーリの頭に、拳をねじ込んだ。

「いたいいたいいたい! ミリア、頭ぐりぐりしてないで!!」
「はあ……。本当に、何も知らない子どもは気楽でいいものですね」
「ミリア? なんで溜め息なんか吐いてるの?」
「なんでもありません。それより、ユーリ。昨日私が出した課題は、ちゃんとしましたか?」
「うっ」

 ミリアに尋ねられ、ユーリはおずおずと解答用紙を差し出した。
 ミリアは紙を見るなり顔を顰めた。

「これもバツ、バツ、バツ、バツ……」
 ミリアは殆ど同じ言葉を口にしていた。

「――ユーリ・セルジェスカ」
「ふあっ! ふぁい!」
 返事をする、ユーリの声は裏返っていた。

「殆どの問題を間違えているというのは、一体どういうことですか?」
「だっ。だって!」
 冷たい声で尋ねられ、ユーリは思わず叫んだ。

「ミリア、一回読んだら何でも覚えるし、なんか軽々と屋根にだって登るし、崖から落ちても這い上がってきそうだけど、俺は普通なんだから仕方ないじゃんか!」
「……」
「勉強なんか嫌いだー!  ミリアはずるい!  何でも出来るから、出来ない俺の気持ちなんてわかんないんだ!」
「五月蝿い」
「ふぉふぇんひゃひゃひ……」

 唇を引っ張られ、ユーリは思わず謝っていた。
 ミリアに怒られるのは慣れているはずなのに、何故かその時の彼女が、ユーリは少し怖かった。

「子ども相手にすごんでも意味はありませんね。……そう。私は、特別なんです。でもこの世界に、特別な人間はそうはいない」
「……」
 ミリアのその言葉を聞いて、ユーリは何故かその言葉が、ミリア自身に向けられたもののように思えた。

「その私の普通についてくることができたなら、貴方は確実に他の人より優れていると評価されるはずです。だから」
 ミリアはそう言うと、ユーリの顔から手を離した。

「ついてきなさい。一度で駄目ならもう一度。諦めたらそれまでです。貴方の限界はこの程度なのですか?」
 ミリアは、ユーリを見下ろして小さく笑う。

「……私の従兄弟でありながら、情けない」
 それが悔しくて、ユーリはミリアを見つめたまま立ち上がった。

「やだ! ついていくだけなんて嫌だ! 俺は絶対、ミリアに勝つ!!!」
「そう。その意気です」
 ユーリが高らかに宣言すれば、ミリアはまるでまぶしいものでも見るように目を細めて、楽しそうに小さく笑った。



 しかし『学問』という分野では、ユーリは結局ミリアには勝てないことを学んだ。
 一度だけ読んだ内容を丸暗記するような人間に、自分が勝てるはずがない。
 そう思ったとき、ユーリはいつかミリアに剣で勝つことを願った。
 暇な時間を見つけては、一人訓練を続けた。
 けれど『強化魔法』の使い手と、魔法の使えない凡人では、実力の差は開くばかりで追いつくことは出来ない。
 もっと速く、もっと速く――ユーリは、ミリアが予測出来ないような剣を、自分が身につけることを願った。
 そして練習に疲れて、一人眠っていたときに、ある日こんな夢を見た。

『ユーリ』
『ユーリ――……』
『勝負しよう!』

 茶色の髪。茶色の瞳。
  ポニーテールの、少し気の強そうな声の女の子。
 その子のことを自分は知らないはずなのに、ユーリは「守りたい」と、そう思った。
『ユーリ、私に空に連れて行って』
 夢の少女は願う。
 けれどユーリは、頷くことは出来なかった。
 彼女の願いを叶えたいと思っても、今の自分に、空を飛ぶための『風魔法』は使えないから。

『この国を、私が守るべきものを、もう一度見たいの。だから――お願い。ユーリ』

「あれ。――なんで、涙、なんか……」
 夢から目を覚ますと、ユーリは泣いていた。
 そして、不思議なことがもう一つ。

「……石が、光ってる……?」

 魔除けのお守り、幸運のお守りとして、ユーリが両親に渡された石。
 薄っすらと青みがかった、限りなく透明な石は、きらきらと輝いていた。
 そして彼の体の側には、見慣れない薄桃色の花びらが落ちていた。
 ユーリがその花弁を拾い上げると、薄桃色の花びらは、まるで幻だったかのように溶けて消えた。

「……変な、夢」
 ユーリは思わずそう呟いていた。
 花びらのことも少女のことも、全てが夢《まぼろし》だったかのような気がして。
 ユーリはそう呟くと、ミリアとの約束の時間が近いことを思い出して、間に合うよう帰路を急いだ。

「――ユーリ・セルジェスカ。何顔を赤くしているんですか」
「へっ!?」

 剣の授業には間に合ったものの、ユーリは全く集中出来なかった。

 ――駄目だ。怒られる! でも、女の子の夢を見たせいで集中出来ないなんて、絶対に言えない!

「遅い」
 ユーリの思いなど関係なく、ミリアの剣はユーリに向かう。
 ユーリは剣に力をこめた。このままミリアの攻撃を受ければ、確実に負けてしまう。

 ――どう頑張ったってミリアに勝てない。体が浮いたら、今の攻撃も避けられるかもしれないけれど。

 ユーリがそう思った、その時だった。

「へあっ!?」

 両親から貰った石が光を放ち、ユーリの体はふわりと空中に浮くと、ミリアの攻撃を受ける前に後方に下がった。
 ユーリは、何が起きたのか理解出来なかった。
 それはミリアも同じで、彼女もまた目を丸くしていた。
 剣を手に、対峙する二人。
 静寂を破ったのは、老人が手を叩く音だった。

「実に素晴らしい! こんなところで、新たな才能に出会うことが出来るとは!」
 老人はそう言うと、小さなユーリの手をとって笑みを浮かべた。

「……おじさんは、誰?」
 その時のユーリは、彼が何者なのか、まだ知らなかった。ただユーリは、彼の視界の隅で、従兄弟が静かに頭を垂れたのを見た。

「儂はグラン・レイバルト。小さき勇者よ。どうか君の名を、教えてはくれないかな?」

 それこそがユーリ・セルジェスカと、『剣聖』グラン・レイバルトとの出会いだった。