***
狐を見てから一週間が経った。
あの日からも度々森を覗いているが、狐どころか動物そのものが現れることはなかった。ただ、この数日幾度と視線を感じることが増えた様な気がする。
用事がある時以外、外に出ようとは思わない為摩訶不思議だ。
昂枝のご両親は日々のお勤めがあり、家よりも神社の方に長くいる。勿論、昂枝もそちらの方が多い。私はというと、お手伝いだけ。おばさんと一緒にご飯を作ったり、代わりに家事をこなすのが日常。家に置いてもらっている身、出来ることなら基本は何でもこなしたい。“宮守”家の人達の為に支えたいと感じている。
最も、その位しか独り身に仕事は無い。私みたいに力の無い女性は、畑仕事等にも向かないらしく追い返されてしまったし。
歳の近い女の子達はもう、結婚をし子供を産んでいるのに私にはお相手さえいない。周りからお荷物だと思われている事も重々承知している。女で血縁者がいないと、こうも惨めになるんだと周りの目で痛感させられているから。此処に住まわせてもらって、表面だけでも優しくしてもらえている事が、どれだけ有難いことなのか。
(表面だけ……だなんて言っては駄目ね。感謝しかないんだもの)
もっともっと貧しい人達がいる事も忘れてはいけないし、何より今の私は幸せだ。
正直、許されるのなら――このままでいたいという気持ちさえある。
考えながらも、いつものように家事を一段落させた。
私は何となく、「…狐さん、よければ一緒にお茶でもいかがですか?」と言ってみる。
狐なんかがお茶なんて飲めっこないのに。そもそも此処にあの狐はいない。私は途端に恥ずかしくなり、首をぶんぶんと横に振ると口に出した事を後悔した。
一人居間に座りながらお茶を飲むこの時間も嫌いではない。家事を済ませた後に飲む温かいお茶はとても美味しいし、ほっと一息とはこの事だと実感するから。宮守家は村から少し奥まった場所にある為、苦手な妖葬班の声もあまり聞かずに済むのもありがたい。
「…落ち着く」
私はまた一口お茶を啜った。
(………)
──炊事までまだ時間がある。
お茶を飲み干し片付けると、外に出る支度をした。大丈夫、そもそもが森に包まれた境内だ。奥の奥に行くわけではないし、ただ散歩をするだけ。行動が変だと村人に見られる事も…ないはずだ。
あの狐がまだいるのなら、もう一度、会いたい。理由はこの一週間でもわからなかったけれど、何だか、そのまま放っておくのは駄目だと思うから。
そう言い聞かせながら玄関を開きかけた。その時、
「お前今一人か。無防備なこった」
と、昂枝よりも身長が高く、それでいて見たことのない男の人が目の前に立ちはだかった。赤色の袴を身にまとい、何だか厳つそうな顔をしている。それによく見ると頭には何かが生えているし、大きな槍を持っていた。
「ど、どちら様…ですか」
私は一歩後ずさる。男の人は、そのままズカズカと許可なく玄関の中へ入って来てこう言った。
「笹野結望、迎えの時間だ」
私はそれを聞いて、固まってしまう。何の事かちんぷんかんぷんで、訳がわからなくなった。
(迎え…? そもそも、この人は、一体何者なの…? 赤い髪の毛の人なんて身近にいた記憶なんて───)
昂枝とそのご両親以外に良くしてくれる人など私には、“想埜”くらいしかいない。
「行くぞ」
彼は私の手首を勢いよく掴んだ。
誰だかわからない人にいきなり引っ張られ、小さく悲鳴が出てしまう。
「……っ離してください!」
私は自分の中の精一杯を出し、振り切ろうとした。が、それは惜しくも出来ずに終わる。
そのまま体勢を崩してしまい、尻もちを着いた。“痛い”よりも“恐怖”で頭がいっぱいで、なんとなく、逃げなきゃと感じるのに体が動かなくなってしまった。呼吸が浅くなるのも感じ、何とか吸って吐いてを繰り返す。
そんな中、男は私と同じ目線になるようしゃがみ込む。じっとこちらを睨みつけ、何だか物言いたげな表情だ。
数秒の睨めっこの末、「…折成」と不機嫌そうに男は呟いた。
「せつ、な…?」
「そう、俺は折成。名乗っていなかった」
彼は折成と名乗り頭を搔く。面倒くさそうに言うその姿は何処にでもいる青年だった。この状況下で無ければ、無愛想だが礼儀のある男だと感心していると思う。
「わ、私を何処に連れて行くんですか…?」
流れに身を任せて、意を決して聞いてみる。ただし声は震えていた。
「あ~……、それは言えねぇ。理由も…」
折成さんは頭をかきながらはぐらかす。
兎に角と、私を引っ張り上げようと腕を引っ張り上げた。前言撤回、強引なやり方はやはり礼儀がなっていない。
「離して…っ!」
「つべこべ言わずについてこい!」
槍を小さく構えられ身震いした。私なんかに勝ち目など、ない。そう現実を突きつけるような凶器。何より、槍で刺されるのはごめんだと、抵抗する術を失ってしまった。
嫌々引き摺られる形になり、草履が擦れる音が響く。
一体何なのか、この折成という人は。それにこんな時に限って大きな叫び声も出せなく、もどかしくなる。人が少ない環境は好きだけれど、こうなるのなら、近くに人がいればよかったと感じ始める。社は少し離れていて、多少の物音など昂枝達に聞こえるはずもない。私は何も出来ないまま、これから何処へ連れ行かれるのだろうか。
(嫌だ…大人しく誘拐される訳にはいかない……)
「助けて…!」
私は一か八かで精一杯声を出す。だが恐怖に脅えてからか、やはりしっかりとした叫び声にはならず、ただの囀のようになってしまった。
抜け道を歩くと万が一の事があると彼は判断したのか、森の中を割って進んでいく。行こうとしていた森の中、だけど、こんな事は望んでいない。
――本当に?
私は、ふと頭に過ぎってしまう。
宮守家の人は驚く程に親切だし私を大切にしてくれるけれど、私がいることによって村の人に何か言われたりしているのなら? いなくなってしまった方が好都合ではないか。
迎え、と言われるくらいなら私は、少なくとも目の前の…折成さんからは必要とされている。私の存在に価値があるのならそちらを選ぶべきなのではないか。
ぐちゃぐちゃと、頭の中が混乱し始めた。今考えていること以外にも、いろんな感情が抑えきれなくなくってしまう。
「…っ」
涙が頬を伝っていくのがわかり、恥ずかしくもなる。
「………」
折成さんは一瞬こちらの方を向いたが、何も言わずにすぐ視線を戻した。
当たり前だ。折成さんにとって私が泣こうが喚こうが関係ない。行くべき場所へ連れて行くだけなのだから。
もう一度、あの狐に会いたかっただけなのに、ここで私の平凡な毎日は終わってしまう。
お茶を飲んで、お饅頭を頬張って。宮守の人達と団欒して――。
(楽しい…)
あの空間が、あたたかくて大好き。離れたくない。
だけど、これ以上迷惑をかけたくないのも事実。いなくなった後、お荷物が無くなって喜ぶ姿――いいえ、きっと彼らなら私がいなくなったら全力で探してくれるだろう。それだけ、優しい人達なのは私が一番知っているのに。いなくなることが迷惑だと前向きに考えたくても、どうしてか、絶対に考えてはいけない方向に揺れ動いてしまう。
「わからない…っ、わか、らない……」
考えて、考えて。
溢れる涙を止めることができなくて。
皆の事を思い出しながら、掴まれている手首を見つめながら、足を動かしている自分もいた。
「──遅れてごめんなさいね、結望」
…ふと、誰かの声が聞こえた。
不思議に思ったが、声が聞こえた時には既に手首から折成さんの手は離れ、代わりに優しく体を包み込まれていた。
「──────」
私は目を丸くする。
そこにはまた、知らない男の人がいたのだ。
でも、なんだろうこのあたたかさ。知っている気がするのは、何故…?
「あ、貴方は…」
「そんなのは後よ。まずはちゃんと家に帰らなくっちゃ」
白髪の男の人は私を抱きしめながら、いつの間にか私から離れた折成さんを睨みつける。
折成さんは「チッ」と舌打ちをすると、「…今日の所は諦める」と言い残しそそくさと消えて行った。
私は突然の事に体の力が抜け落ち、その場にへたり込んだ。
「………」
恐怖心は残ったまま、目の前にいる白髪の人を見た。
耳と尻尾が生えた、人ではないような、不思議なその人は優しく呟いた。
「怖い思いをさせてしまったわね…。家まで送るわ」
貴方は、誰…?
聞こうとしたが、そこから記憶が途絶えてしまった───。
狐を見てから一週間が経った。
あの日からも度々森を覗いているが、狐どころか動物そのものが現れることはなかった。ただ、この数日幾度と視線を感じることが増えた様な気がする。
用事がある時以外、外に出ようとは思わない為摩訶不思議だ。
昂枝のご両親は日々のお勤めがあり、家よりも神社の方に長くいる。勿論、昂枝もそちらの方が多い。私はというと、お手伝いだけ。おばさんと一緒にご飯を作ったり、代わりに家事をこなすのが日常。家に置いてもらっている身、出来ることなら基本は何でもこなしたい。“宮守”家の人達の為に支えたいと感じている。
最も、その位しか独り身に仕事は無い。私みたいに力の無い女性は、畑仕事等にも向かないらしく追い返されてしまったし。
歳の近い女の子達はもう、結婚をし子供を産んでいるのに私にはお相手さえいない。周りからお荷物だと思われている事も重々承知している。女で血縁者がいないと、こうも惨めになるんだと周りの目で痛感させられているから。此処に住まわせてもらって、表面だけでも優しくしてもらえている事が、どれだけ有難いことなのか。
(表面だけ……だなんて言っては駄目ね。感謝しかないんだもの)
もっともっと貧しい人達がいる事も忘れてはいけないし、何より今の私は幸せだ。
正直、許されるのなら――このままでいたいという気持ちさえある。
考えながらも、いつものように家事を一段落させた。
私は何となく、「…狐さん、よければ一緒にお茶でもいかがですか?」と言ってみる。
狐なんかがお茶なんて飲めっこないのに。そもそも此処にあの狐はいない。私は途端に恥ずかしくなり、首をぶんぶんと横に振ると口に出した事を後悔した。
一人居間に座りながらお茶を飲むこの時間も嫌いではない。家事を済ませた後に飲む温かいお茶はとても美味しいし、ほっと一息とはこの事だと実感するから。宮守家は村から少し奥まった場所にある為、苦手な妖葬班の声もあまり聞かずに済むのもありがたい。
「…落ち着く」
私はまた一口お茶を啜った。
(………)
──炊事までまだ時間がある。
お茶を飲み干し片付けると、外に出る支度をした。大丈夫、そもそもが森に包まれた境内だ。奥の奥に行くわけではないし、ただ散歩をするだけ。行動が変だと村人に見られる事も…ないはずだ。
あの狐がまだいるのなら、もう一度、会いたい。理由はこの一週間でもわからなかったけれど、何だか、そのまま放っておくのは駄目だと思うから。
そう言い聞かせながら玄関を開きかけた。その時、
「お前今一人か。無防備なこった」
と、昂枝よりも身長が高く、それでいて見たことのない男の人が目の前に立ちはだかった。赤色の袴を身にまとい、何だか厳つそうな顔をしている。それによく見ると頭には何かが生えているし、大きな槍を持っていた。
「ど、どちら様…ですか」
私は一歩後ずさる。男の人は、そのままズカズカと許可なく玄関の中へ入って来てこう言った。
「笹野結望、迎えの時間だ」
私はそれを聞いて、固まってしまう。何の事かちんぷんかんぷんで、訳がわからなくなった。
(迎え…? そもそも、この人は、一体何者なの…? 赤い髪の毛の人なんて身近にいた記憶なんて───)
昂枝とそのご両親以外に良くしてくれる人など私には、“想埜”くらいしかいない。
「行くぞ」
彼は私の手首を勢いよく掴んだ。
誰だかわからない人にいきなり引っ張られ、小さく悲鳴が出てしまう。
「……っ離してください!」
私は自分の中の精一杯を出し、振り切ろうとした。が、それは惜しくも出来ずに終わる。
そのまま体勢を崩してしまい、尻もちを着いた。“痛い”よりも“恐怖”で頭がいっぱいで、なんとなく、逃げなきゃと感じるのに体が動かなくなってしまった。呼吸が浅くなるのも感じ、何とか吸って吐いてを繰り返す。
そんな中、男は私と同じ目線になるようしゃがみ込む。じっとこちらを睨みつけ、何だか物言いたげな表情だ。
数秒の睨めっこの末、「…折成」と不機嫌そうに男は呟いた。
「せつ、な…?」
「そう、俺は折成。名乗っていなかった」
彼は折成と名乗り頭を搔く。面倒くさそうに言うその姿は何処にでもいる青年だった。この状況下で無ければ、無愛想だが礼儀のある男だと感心していると思う。
「わ、私を何処に連れて行くんですか…?」
流れに身を任せて、意を決して聞いてみる。ただし声は震えていた。
「あ~……、それは言えねぇ。理由も…」
折成さんは頭をかきながらはぐらかす。
兎に角と、私を引っ張り上げようと腕を引っ張り上げた。前言撤回、強引なやり方はやはり礼儀がなっていない。
「離して…っ!」
「つべこべ言わずについてこい!」
槍を小さく構えられ身震いした。私なんかに勝ち目など、ない。そう現実を突きつけるような凶器。何より、槍で刺されるのはごめんだと、抵抗する術を失ってしまった。
嫌々引き摺られる形になり、草履が擦れる音が響く。
一体何なのか、この折成という人は。それにこんな時に限って大きな叫び声も出せなく、もどかしくなる。人が少ない環境は好きだけれど、こうなるのなら、近くに人がいればよかったと感じ始める。社は少し離れていて、多少の物音など昂枝達に聞こえるはずもない。私は何も出来ないまま、これから何処へ連れ行かれるのだろうか。
(嫌だ…大人しく誘拐される訳にはいかない……)
「助けて…!」
私は一か八かで精一杯声を出す。だが恐怖に脅えてからか、やはりしっかりとした叫び声にはならず、ただの囀のようになってしまった。
抜け道を歩くと万が一の事があると彼は判断したのか、森の中を割って進んでいく。行こうとしていた森の中、だけど、こんな事は望んでいない。
――本当に?
私は、ふと頭に過ぎってしまう。
宮守家の人は驚く程に親切だし私を大切にしてくれるけれど、私がいることによって村の人に何か言われたりしているのなら? いなくなってしまった方が好都合ではないか。
迎え、と言われるくらいなら私は、少なくとも目の前の…折成さんからは必要とされている。私の存在に価値があるのならそちらを選ぶべきなのではないか。
ぐちゃぐちゃと、頭の中が混乱し始めた。今考えていること以外にも、いろんな感情が抑えきれなくなくってしまう。
「…っ」
涙が頬を伝っていくのがわかり、恥ずかしくもなる。
「………」
折成さんは一瞬こちらの方を向いたが、何も言わずにすぐ視線を戻した。
当たり前だ。折成さんにとって私が泣こうが喚こうが関係ない。行くべき場所へ連れて行くだけなのだから。
もう一度、あの狐に会いたかっただけなのに、ここで私の平凡な毎日は終わってしまう。
お茶を飲んで、お饅頭を頬張って。宮守の人達と団欒して――。
(楽しい…)
あの空間が、あたたかくて大好き。離れたくない。
だけど、これ以上迷惑をかけたくないのも事実。いなくなった後、お荷物が無くなって喜ぶ姿――いいえ、きっと彼らなら私がいなくなったら全力で探してくれるだろう。それだけ、優しい人達なのは私が一番知っているのに。いなくなることが迷惑だと前向きに考えたくても、どうしてか、絶対に考えてはいけない方向に揺れ動いてしまう。
「わからない…っ、わか、らない……」
考えて、考えて。
溢れる涙を止めることができなくて。
皆の事を思い出しながら、掴まれている手首を見つめながら、足を動かしている自分もいた。
「──遅れてごめんなさいね、結望」
…ふと、誰かの声が聞こえた。
不思議に思ったが、声が聞こえた時には既に手首から折成さんの手は離れ、代わりに優しく体を包み込まれていた。
「──────」
私は目を丸くする。
そこにはまた、知らない男の人がいたのだ。
でも、なんだろうこのあたたかさ。知っている気がするのは、何故…?
「あ、貴方は…」
「そんなのは後よ。まずはちゃんと家に帰らなくっちゃ」
白髪の男の人は私を抱きしめながら、いつの間にか私から離れた折成さんを睨みつける。
折成さんは「チッ」と舌打ちをすると、「…今日の所は諦める」と言い残しそそくさと消えて行った。
私は突然の事に体の力が抜け落ち、その場にへたり込んだ。
「………」
恐怖心は残ったまま、目の前にいる白髪の人を見た。
耳と尻尾が生えた、人ではないような、不思議なその人は優しく呟いた。
「怖い思いをさせてしまったわね…。家まで送るわ」
貴方は、誰…?
聞こうとしたが、そこから記憶が途絶えてしまった───。