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「―――しんじゅ……っ!」
 がばっと布団を剥いで起き上がる。深夜、私は涙を浮かべながら目覚めた。
 深守が居なくなってしまう夢を見た。この一ヶ月ずっとそばに居てくれた彼が、跡形もなく消えてしまう夢。優しく『ごめんなさいね…』と呟いた深守を止めることができない。行かないで、と呼びかけても声が反響するだけ。何処にも居なくなった深守のことを記憶に留めておくことを許されず、どんどん思い出が抜け落ちていく恐怖。
 目覚めて、夢でよかったと安堵する。
 たった一ヶ月しか一緒にいないはずなのに、ものすごく寂しくて、苦しくて、辛い。
 私は婚約したばかりなのに。相手が誰だろうと結婚相手を無視して思いに耽けるだなんて、いけないことだとわかっているのに。

『―――これはアタシの結望に対する忠誠の気持ち』

 枕元に置いていた、彼から持った小さな笛を胸元で抱き締めるように握った。あんなことを言われ、唇まで落とされたら意識しない訳がない。
(私、深守のこと…)
 自覚をしたらだめだと言い聞かせたばかりなのに、考えれば考える程頭が深守で埋め尽くされていった。
 そういえば、深守は帰ってきただろうか。挨拶が終わったあたりから姿を見せず、夕飯だって深守抜きの三人で少し寂しさを感じた。
 一体何処で何をしているの…?
 遠くには行かないって言っていたのに、皆が寝静まったこんな時間まで帰宅しないなんて。
「まさか…」私は今さっき見た夢を現実に当て嵌めた。このまま帰ってこなかったらどうしよう。布団の横に畳んで置いていた彼の羽織を無意識に手に取ると、そのまま肩からかけて裏口へと走って行った。きっと、深守なら裏口を使う。森の中に足跡があれば間違いなく彼だ。
 探しに行く覚悟で外に出た。危険なのはわかっているけれど、いても立ってもいられなかった。
 そしたら目の前に、目を背けたくなる程血だらけの状態で帰ってきた深守がいたものだから、一気に涙が溢れ出し止まらなくなった。

「もう何処にも行かないで…。私だけの神様……」

 私はボロボロの深守を見ながら、夢のことを考えて添えられた手に縋る。触れることが出来て嬉しくなった。
 この人は本当に自分相手に力を使わない気だ。どうして自分を大切にしてくれないの? そう問い質したかった。だけど使わないと昼間宣言されたばかり。ならば早く手当をしなくてはとへたり込んでしまった体を上げる。
「……ごめん、なさい…。早く中へ入りましょう。…手当、しますね」
 深守の腕を肩に回し、支えながら一歩を踏み出す。血はぽたぽたと垂れ、私が勝手に羽織っていた羽織も赤く染めた。痛々しい無数の傷に、私は胸がぎゅっと締め付けられる。いくら本人がよくても大怪我過ぎる。
 これも鬼族が関わっているというの?
 どうして無茶をするの?
 私のせいで深守の命が脅かされているのなら、尚のこと申し訳なくなってしまう。

「――腕とかは言うまでもないけれど…背中とかも凄い傷……」
 手当し包帯を巻くために着物を脱いだ深守の背中をまじまじと見る。なるべく染みないようゆっくり丁寧に血を拭いながら、私は聞いた。
「……空砂さんと、喧嘩でもしたの…?」
 突然決まった婚約、代表して挨拶に来た空砂さん、鬼族から守りたいと言ってくれる深守が行動に出そうな条件が揃っていた。
「……彼らとゆっくり話し合うってのは、難しいコトなのよ。アタシがそうでも、向こうは違う。アタシは邪魔者だから………」
 背中越しでも伝わる歯がゆさを私は受け止めることしかできなかった。
「……ずっと理由を聞きたかったの。どうして私の為にあなたが頑張るのかなって……私なんかの為に頑張らないでって、今日心の底から思った」
「結望……」
「だって、私あなたを失いたくないんですもの。例え離れ離れになっても、あなたが生きてるなら…それでいい」
「………結望、それは告白ってやつかい?」
 後ろを振り返りながらふっと笑った。
「ゎ、わっわた……ぅぅ、もう……私は真剣なのに…」
 私は顔を真っ赤にさせると頬を膨らませる。ここまで気を許せるようになったのも、深守の性格のおかげかもしれない。
 ちょうど上半身の包帯が巻き終わり、右手と右腕の酷い部分に触れる。少しだけ痛そうな声が聞こえてきて、「ごめんなさい」と呟く。
「アンタ……ここ一ヶ月の記憶しかないのに気持ちはいっちょ前なんだから、もう……」
 頭を抱えると溜息が零れる。
 深守は私が短期間でこうなってしまったのを憂いているように見えた。
「…結望、こっちおいで」
 深守は私に正面に来るよう促し静かに笑う。包帯をきゅっと巻き、そのまま大人しく移動をする。深守の目の前に正座をすると、深守は私の手をそっと握り締めた。
「……今の時点で言えることと、言えないことがある。それでもいいかい?」
 私は頷いて言葉を待った。
「…アタシはね、ある人から結望を守るようにお願いされたんだよ。……ほら、アタシって神様だから、いろんなことお願いされちゃうってワケ。あ、因みに勘違いしないでほしいんだけど…アタシはいやいや結望の傍にいる訳じゃないのよ? 心の底から大好きな気持ち、ちゃんとあるの。だって結望ったら食べちゃいたいくらいイイ子なんですもの」
 おちゃらけながらも、その時のことを思い出しているのか懐かしそうに語る。そっと私の手をさすりながら「出来ることならもっと前から一緒に過ごしたかったわ……」と嘆いた。
「……つまりは約束を果たしに来たのさ。神様として叶えない訳にはいかない。そもそも、結望にも必ず幸せになる権利はあるんだから」
 これが唯一今話せること。それから――と、斜め上の天井を見上げ考える素振りを見せる。珍しく複雑な表情を見せながら、もう一度向き直して言った。
「結望……。ごめんなさい、一番重要なことは……まだ知らないでいておくれ。……然るべき時が来たら必ず話す。だけど、今結望に伝えるのは…気が引けてしまうのよ……」
 深守の手が私の両頬を包む。深守の体温を感じてまた目頭がジンと熱くなった。
 本当に伝えたいこと、きっと悪い話だということはなんとなく察した。だけど、今無理矢理聞いて深守を困らせても悪いし、私が冷静でいられなくなっても駄目だ。
 だって今の時点でもかなり焦っているんだもの…。
 これ以上迷惑をかけるのは論外だった。なら私が出来ることと言ったら、深守を信じることだけ。
「…ありがとう、深守。それだけで、十分……ありがとう」
 何も出来ない私の代わりに頑張ってくれる彼にお礼を伝える。だけど、自分の身体は大切にして…。あなたはあなた一人だけなのだから。
 嬉しそうに微笑む深守が私にとっての太陽みたいに見えた。

「―――お茶、持ってくるので安静にしてて下さい」
 布団を敷き、ぽんぽんと深守を催促した。ボロボロになった着物を預かり、代わりに寝巻に身を包んだ深守は渋々中へと入る。普通に考えれば今の時間寝ているはずなのだから、決しておかしなことではなかった。
 私はというと目が覚めてしまったので、お茶を入れて一息つこうとしている。
「寝てていいですからね。力を使わないなら今日くらいゆっくり寝て、英気を養って下さい」
「………わかったわ」
 深守が答えるのを確認すると私は急いで、だけど、皆を起こさないように部屋を飛び出した。

 深守は大人しく枕に頭を付けると、天井の木目を見ながら溜息をついた。
(体バキバキね…)仰向けだと背中の痛みが直で襲ってくる。とてもじゃないが寝られないと判断し身体を左に向けた。
 遣戸がしっかりと閉まっていない部分から月明かりが注ぎ込んでくる。
 こうして見てみると、蝋燭の灯りよりも月明かりの方が眩しく感じられた。
 月を見ながら思う。結望の誕生日までに何が出来るだろうか。
 本来ならば眠ってなんかいられないのに、結望の言葉に大人しく従って寝転んで。お茶を運んで来るのを待っているなんて。
「………“昔と変わらない”わね」
 深守は呟くと、そっと目を閉じた。