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 階段の壁に貼り付けていた「おはよう」や「ありがとう」の紙を剥がしていると、お母さんから「え、それ取っていいの?」と心配された。

「うん、もういらないから」

 私の答えに、お母さんはじっと何かを思案しているようなまなざしを私に向けた。やがて「そっか」と呟く。

「良かったわね、美都。大学生活、楽しんでね」

「うん、ありがとう」

 言葉にしなくても、お母さんには伝わっているらしい。お母さんの目尻にうっすらと涙が浮かんでいるのは気づかないふりをした。私は、「今までありがとう」の気持ちを込めて張り紙を剥がした。
 私は多分、この「おはよう」や「ありがとう」の紙を見ることで、今まで逆にプレッシャーを感じていたのだ。もうこの紙は必要ない。だって私、大学で初めて友達ができたのだ。

 昨日、大学の食堂で久しぶりにある人物に会った。オリエンテーションの前にハンカチを届けてくれた上山花乃さんだった。私の隣には新がいて、新は私の背中を押した。

「あの、上山さん。上山花乃さんだよね。私、本間美都っていいます。入学式の日、ハンカチ落としたの、届けてくれてありがとう。あの時、何も言えなくて本当にごめんなさない。今更かもしれないけど……。友達になろうって言ってくれて、すごく嬉しかった。だからね、もしまだ間に合うなら、やっぱり友達になってくれないかな」

 突然私に話しかけられた上山さんは最初、瞳を大きく見開いてこちらの様子を窺っていたけれど、私が本気で友達になりたいと思っていると分かってくれたらしい。

「う、うん。こちらこそ。友達になりたいです」

 控えめに微笑みながら頷いた彼女の表情を見て、私は新と、顔を見合わせて笑った。

「よかったら僕も友達になってくれない? 滝波新です。よろしく」

 二人だけの空間が、三人の空間になって、どんどん友達の輪が広がっていく。周回遅れの私の友達づくりは、簡単ではなかったけれど、まぶしくて、心が満たされていた。
 私たちは三人で食堂の席につく。自己紹介をして、他愛のない会話をして、一緒に講義を受けた。

 あれから『なないろ』は開いていない。でももし、何かに悩んで挫けそうになったら、また『なないろ』に頼るのかもしれない。それでもいい。ひとりぼっちで悩んでいた自分を『なないろ』が助けてくれたのは事実だ。今度は私が、友達の話に耳を傾けよう。言葉で気持ちを伝えよう。新が私を救うために恐怖心に打ち勝ち、そうしてくれたように。
 ねえ、新。
 私はずっと自分のこと、普通じゃないって思って生きてきた。
 新は普通の人間だから、私の気持ちなんて分からないって線引きしてしまっていた。
 でも違ったんだね。新も私と、誰にも共有できない悩みを抱えていたんだ。
 今なら新の気持ちが分かる。

 だから私は、これからもずっと、新の友達でいたい。

 明日、またきみの名を呼びたい。


【終わり】