滝波くんが再び大学にやってきたのは、翌日のことだった。
彼はまる一週間大学を休んだ。『日本文学史』の講義で彼を見かけたとき、久しぶりに見る彼の背中が、少しだけやつれているような気がした。
私は、真ん中の方の席に座っている滝波くんの肩をトントンと叩く。
彼は振り返り、「やあ」と右手を軽く挙げた。
「本間さん久しぶり。ずっと休んでてごめん。インフルエンザにかかってたんだ」
私は急いで席につき、鞄からノートを取り出す。そこに、『大丈夫?』と書き記した。
「うん。もうこの通りすっかり治ったよ。一人暮らしだしちょっと参ったけどね。急に休んで心配かけて本当にゴメン」
両手を擦り合わせるようにして私を見つめる滝波くんの目が、本当に申し訳なさそうに湿り気を帯びていた。私は大丈夫と首を横に振った。
『心配したけど、無事に治ってほっとしたよ』
ノートに返事を書いている最中、なぜか頭に昨日のkanoさんとのSMSのやりとりが浮かんだ。
私がノートにペンを走らせる様子をいつものようにじっと見つめていた滝波くんが、大きく目を見開く。どうしたんだろう。何か、重大な事実を発見してしまったかのような顔が、脳裏に焼き付いた。
「本間さん、何かいいことでもあった?」
私の心の内を勘ぐるような視線だった。私は、なぜか息苦しさを覚えて滝波くんから目を逸らす。
『どうしてそう思うの?』
「いや……、本間さんの書くノートの文字が、踊ってるように、見えたから」
『踊る?』
不思議な表現をする滝波くんに、私は純粋な気持ちで聞き返す。
気持ちが文字に現れるなんて、私ったら、どんだけ浮かれてるんだろう。
「ああ。気のせいだったらごめん。何か、嬉しいことがあったみたいに、本間さんの字が活き活きして見えたんだ。いつもと違って」
滝波くんの言う通り、私の頭の中はkanoさんとの約束でいっぱいだ。kanoさんと会うのが楽しみで、昨日だってよく眠れなかった。だからその気持ちが、無意識のうちに筆跡にまで影響していたのかもしれない。自分じゃ分からないけれど、滝波くんはそういう他人の繊細な機微に気がつけるんだろう。
『正解、だよ。実は昨日、ある人からお茶しないかってお誘いを受けたの』
私が答えると、滝波くんの瞳がふるりと揺れた。
「ある人って、誰か聞いてもいい?」
『この間、「なないろ」っていうアプリを見せたよね? そこでたくさんコメントをくれていたkanoさんって覚えてる?』
「ああ。覚えてるよ。本間さんの投稿に逐一反応してたよね」
『そう! そう人から、電話番号が送られてきて。ちょっと怪しいなって思ったけど、kanoさんに限って変なことはないだろうって、SMSをしてみたの。そしたら、すごい会話が弾んじゃって。今度の週末、「アメンボ」っていうカフェで、待ち合わせしてるの。知ってる? 大学の裏にあるカフェ』
「アメンボ」は、松葉大学の正門と反対側の路地裏にある小さなカフェだ。私が、場所を提案するよりも前に、kanoさんが事前に松葉大学付近のカフェを調べてくれていたのだ。その用意周到さにあっと驚かされた。
滝波くんは、私が意気揚々と書き綴る文字をじっと凝視していた。それこそ、目に穴が開くほどの勢いで。
しばしの沈黙が私たちの間を流れる。やがて『日本文学史』の抗議が始まる時間となり、チャイムが響いた。講義室に教授がやってくる。学生たちが、まばらに席に座っていた。
「……その人とは、遊びに行くな」
はっきりと否定の響きを帯びた声が、チャイムの音をかき消すほど強く、私の胸に突き刺さる。ジワリと広がる痛みが、なんの痛みなのか、瞬時には理解することができなかった。
咄嗟に浮かんだのは、「どうして?」という疑問だ。
どうして。
どうして滝波くんが、kanoさんとの会合を否定するのだろう。
滝波くんの目は、全然笑っていない。冗談で言っているのではないのだ。何より、ずっと柔らかい口調で話していた彼が、突然強い口調になったことが、気持ちの本気さを表している。
混沌、戸惑い、不信感。
いろんな負の感情が胸の中で真っ黒い塊をつくっていく。私はとうとうその塊を自分ではどうすることもできなくなって、ノートにこう書き殴っていた。
『なんで私がkanoさんと会っちゃいけないって、滝波くんが決めるの? 彼氏でもないくせに……気持ち悪いっ!』
言ってしまった。言葉は、たとえ口で言おうが文字で伝えようが、一度発言してしまえば、取り消すことなんてできない。分かってる。でも、滝波くんにkanoさんのことを否定されたのがつらかった。私がようやく手に入れた唯一の友達が滝波くんで、私が初めて晒した病気のことに寄り添ってくれた人物がkanoさんだ。どちらも大切な友達なんだ。私が、蝶へと生まれ変わる後押しをしてくれた人たち。だから滝波くんに、kanoさんとの仲を応援してほしかった。
そうだ。私は、滝波くんもkanoさんも、二人とも大切なんだ。
だからどちらかに、否定なんかしてほしくなかった。
「……っ」
潤んだ瞳で私を見上げる滝波くんを見ていられなくて、私はバッと席を立つ。学生たちが、教授の講義を聞くために、ノートを広げてペンを握っていた。そんな彼らの中で、私はどれだけ異質な存在に映っていることだろう。
「待って本間さんっ。僕の話を——」
滝波くんが私を引き止めようとするのも構わず、私は講義室を後にした。
講義室の扉の前で、鞄を抱きすくめながら、私は泣いた。
「ううっ……うあああああ」
大学で、誰とも喋れないのに、泣き声だけは廊下に大きく響き渡る。
滝波くんは、私とkanoさんとの仲を応援してはくれないのだ。
滝波くんは所詮、みんなと同じ“普通”の人間だから。
私やkanoさんが抱えている悩みを共有することなんてできない。
今まで、目を背けていた事実がゆっくりと毒を垂らすみたいに全身を支配する。
私はこの大学で、最初からひとりぼっちだった。
その日から私は、大学に行くことができなかった。
あらゆる講義が滝波くんの履修と被っていて、大学に行くことは彼に会うことを意味していた。部屋に引きこもっていると、お母さんから「大丈夫?」と扉の向こうから声をかけられた。
「うん、大丈夫……」
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
これまで外の世界に出るたびに、何度もそう言い聞かせてきた。
「大丈夫よ。私にはkanoさんがいるから」
お母さんの息遣いが聞こえなくなってからそっとつぶやいてみる。
【今日、学校で友達と喧嘩しちゃった……】
気がつけばkanoさんにSMSを送っていた。ものの数分後に返信が来た。
【え、それはつらいね。今度ゆっくり話聞くから】
優しい言葉に涙が滲む。私はもう、滝波くんと友達の仲を修復することができないかもしれない。だって、滝波くんは“普通”の人間だから。
私やkanoさんとは違う。私たちは結局、どうしたって『なないろ』でしか息を吸えない。 羽ばたけないんだ——。
kanoさんと約束をした週末の土曜日。私はとうとう金曜日まで大学に出ることができなかった。もし、滝波くんと連絡先を交換していれば、お伺いのメッセージでも来ていたかもしれない。それ以外で、私のことを心配してくれる人はきっといないだろう。
【今から友達と初めて遊びにいく。楽しみだな】
『なないろ』でkanoさんと遊びにいくことをつぶやいてから、私は玄関で靴を履いた。
五月半ば、初夏の香りのする爽やかな風が、外の世界へと飛び出した私をまるく包み込んだ。今日、お母さんは職場の同僚たちと珍しく遊びに出かけるとのこと。お父さんは家の中でのんびりしている。私は一人、待ち合わせ場所のカフェである『アメンボ』へと向かった。
松葉大学の正門と反対側の路地裏にある『アメンボ』に行き着くまで、かなりの距離を歩いた。到着したのは待ち合わせの十分前。お店の前で待っている人はいない。
事前に聞いていた話だと、kanoさんは自分だと分かるように花柄のワンピースを着てくるらしい。私もわかりやすいように服装は伝えてあった。
kanoさんまだかな。
路地裏なので、通り過ぎる人はあまりいない。時々、犬の散歩をしているお姉さんや、子供を連れた母親が歩いていく。どの人もkanoさんでないことはすぐに分かった。
ふと頭上を見上げると、もうもうと立ち上る雲がゆっくりと流れていくのが目に入ってきた。私の人生も、あの雲のように穏やかに流れていけばいいのに。そんなことをぼんやりと考えていた時だ。
「ミトさん」
後ろから声をかけられて、私は振り返る。
目の前にいたのは、花柄のワンピースを着た同い年くらいの女の子——ではなかった。
黒いTシャツにジーパンを履き、黒いキャップを目下まで深く被る、知らない男だ。
「……?」
声の出せない私は、頭の中で浮かぶ疑問を、口にすることもできずその場で固まっていた。
「じゃあ、行こうか」
kanoさん——いや、男は私の腕を強引に引っ張り、その場から私を引きずるようにして歩き出した。
な、なに、これ。どういうこと……?
真昼間の路地裏で、訳もわからず男に引きずられる私。
kanoさんは?
ねえ、kanoさんはどこ?
心の中で叫んだ言葉が男に聞こえたのか、男は「ああ」と口の端を歪めて、薄く笑った。
「僕が、kanoさ」
血の気がサーっと引いていく。男の言うことがどういうことなのか、じわじわと理解してしまった。
咄嗟に思ったのは、騙されたということだった。
私はkanoさんのことをずっと女性だと思っていた。
口調や子供の頃に見ていたアニメなど、どう考えても女性っぽかったから。
でも確かに、はっきりと女性だと言われたわけではない。私が勝手に、勘違いしていたんだ……。
男が私の腕を引っ張る力は思ったよりも強く、私は必死に抵抗をするも、圧倒的な力の差に、どうすることもできなかった。
助けて、誰か。
助けて……!
悲鳴を上げたいのに上げることができない。もともと緘黙症であることもそうだが、恐怖心が私の喉を締め上げているみたいに、身体が言うことを聞いてくれなかった。
「大丈夫だよ、ちょっと楽しいことするだけだから」
いつの間にか『アメンボ』の前からかなり離れてしまっていた。このままどこかに連れて行かれるのだろうか。車に乗せられる……? そうしたらもう今度こそ、私はどんな目に遭わされるか分からない。
怖くて身体がガクガクと震えていた。人気のない道がずっと続いている。助けてと、大声を出すことができたらどんなにいいだろう。私は無力だった。
「さあ、あの車に乗ろう」
男が指差した先に、一台の軽自動車が止まっている。まずい。あれに乗せられたら、何もできなくなる——。
必死に男から腕を振り解こうとするも、女の力では無謀だった。私は、覚悟をしてぎゅっと目を瞑る。どうか、どうか。せめて、命だけは奪われませんように、と心の中で祈った時だ。
「本間さんから離れろっ!」
後ろから、慣れ親しんだ人の声が振りかけられた。私は咄嗟に声のした方を見る。
そこには、息を乱しながら私たちの方へと走ってくる滝波くんの姿があった。普段、さらさらと靡かせている髪の毛が振り乱れ、見たこともないような怒りの表情を浮かべている。顔は真っ赤で、ここまで相当頑張って走ってきたことが分かった。
滝波くんの姿を見て、私はほっとしたと同時に、目の淵にじわりと涙が溜まっていくのを感じた。
「お前……誰だ」
思わぬ障害がやってきたことに焦った様子の男が、ギロリと滝波くんを睨みつける。
「本間さんの友達だ。警察を呼んである。今すぐ本間さんを離せ!」
いつものように落ち着いた口調ではなく、声を荒げて叫ぶ滝波くんが、まぶしいほど光って見える。滝波くんだって怖いはずなのに、どうしてそんなふうに必死になれるの。
「チッ……なんてことを。お前、覚えてろよっ」
捨て台詞を吐いて、意外にもあっさりと男は私の腕を離して車に乗って逃げていった。私は、呆気にとられたままその男の後ろ姿を見つめていた。
『警察……本当に来るの?』
スマホのメモ帳に、私は文字を綴った。
「いや、来ない。通報する余裕なかった」
『やっぱりそうなんだ……』
どうやら、警察に通報したというのは滝波くんのハッタリだったようだ。
私は、張り詰めていたものがぷつんと切れてその場にへたり込んでしまった。
「遅くなって、ごめん」
『ううん。むしろ、助けてくれてありがとう……』
滝波くんが私の手を取って、その場に立たせてくれた。私は、恥ずかしさやら不安だった気持ちやらで心の中がぐちゃぐちゃになっている。
『でも、どうして? どうして助けに来てくれたの?』
当然の疑問だった。
一体なぜ、滝波くんはピンチに陥っていた私の前に現れたんだろう。
今日、kanoさんと待ち合わせをしていることは伝えていた。でも、だからと言って私が危険な目に遭うってどうして分かったんだろう。
私は、彼のほうから何か主張があるだろうと思ってじっと滝波くんの言葉を待っていた。彼は、しばらく沈黙して、唇を噛み締める。やがてその重たい口を開いてこう言った。
「向こうの公園で、ちょっと話さない?」
土曜日の午後の公園は、小さな子供を連れたお母さんや、椅子に座ってゆっくりしているおじいちゃんたちで溢れていた。私は滝波くんと並んでベンチに腰掛ける。ようやく男に連れ去られそうになった恐怖心が安らいできた頃だ。
「ずっと、本間さんに隠してたことがあるんだ」
滝波くんは遠くのブランコに揺られる小さな女の子を眺めながらつぶやいた。私も、あれぐらい小さい頃は外でも普通に友達と会話をすることができていたんだっけ。お母さん、見て! と女の子の声が晴れた空の下で大きく響く。彼女の母親と思しき人物が、スマホでカメラを構えて笑っていた。
『隠してたこと?』
スマホで打った文字は、滝波くんにどれくらい届いているのだろう?
教室でノートに書き綴った気持ちも、ぜんぶ。滝波くんは私と会話をして楽しいと思ってくれているのだろうか。
「ああ。たぶん聞いたらびっくりすると思うし、なんなら信じてもらえないと思う。でも、本間さんになら話してもいいかなって、思って」
滝波くんの身体が、よく見たら小刻みに震えていることに気がついた。
ああ、私、知ってる。この感覚、何度も経験したことがある。
怖いんだ。
滝波くんは、これから私に話そうとしていることを、私に受け入れてもらえないんじゃいかって不安になっているのだ。だったら私は。私は、喋れない私にも普通に接してくれた彼に、何ができる?
『話してほしい。絶対信じるから』
ひとつひとつの文字を打つのに、相当時間がかかった。大学の講義室で、感情が昂っていたとはいえ、滝波くんに『気持ち悪い』と言ってしまったときのことがフラッシュバックする。滝波くんが、私の言葉に傷つかなかったはずがない。それでも今日、私を助けてくれた。その時思ったのだ。私は、この人のことを信じたい、と。
「ありがとう」
私の返答を見た滝波くんの瞳が、決意に満ちたものに変わる。彼の目に映る自分の顔が、少しだけ強張っている。でも、受け止めなくちゃいけない。何を言われても、きちんと耳を傾けよう。私は滝波くんに、間違いなく心を救われたんだから。
「僕さ、人とは違う能力を持ってるんだ」
「……」
人とは違う能力。それって、特殊能力ってこと?
「多分、信じてもらえないって言ったのはそういうこと。僕、人が書いた文字に色が付いて見えるんだ。色は、書いた人のその時の感情によって変わる。暗い気分の時は暗い色に、明るい気分の時は明るい色に見える」
文字に、色が付いて見える?
初めて聞くその能力に、私は確かに混乱した。大学の心理学の講義で、「共感覚」というのを習ったことがある。“ある感覚刺激によって、ほかの感覚を得る現象”だと教えてもらった。例えば、「A」という文字が赤色に見えるというようなものだ。
でも、滝波くんの言う能力は、共感覚とは違っているように思える。
『すごい……変わった力だね』
「ああ。僕も、初めてこの能力に気づいた時はびっくりした。小学生の頃だったかな。友達からもらった手紙の文字が黄色に見えてさ。母さんに伝えたんだよ。そしたら、『それ、誰にも言ったらダメよ』って母さんが言うんだ」
滝波くんは目を細めて、当時の母親の言葉を鮮明に思い出している様子だ。
「僕が『どうして?』って聞くと、母さんは『みんなと違うから』って答えた。僕はその時母さんの言うことに分かったふりをして頷いたけれど、心の中ではずっと疑問が消えなかった。『どうして、みんなと違ったらいけないんだろう』って」
とくん、とくん、とくん。
身に覚えのある感覚に私の鼓動が反応している。場面緘黙症になったばかりの頃、周りの友達に冷ややかな視線を向けられていたことを思い出す。
みんなと違ったらダメだ。
それは私が場面緘黙症になってからずっと、心のどこかで思い続けてきたことだ……。
「そんな疑問もさ、中学に上がる頃には解決したよ。僕は母さんの言いつけを守らずに、友達が書いた文字が青色に見えた時、『何か悩みがあるの?』って聞いた。ピンクに見えた時は『彼女でもできた?』って。最初はみんな、『滝波ってすげえな。エスパーみたい!』って僕のこと褒めてくれたんだ。僕も、調子に乗っていろんな人の感情を言い当てていた。でも、さすがにやりすぎたんだ。みんな、次第に僕のことを『気持ち悪い』って言うようになった。人の気持ちを読めるなんて、どうかしてるって」
じわり、じわり、と生ぬるい液体が服の下の肌を伝うように、気持ち悪さを覚えた。
「ようやく分かったんだ。母さんが僕に『みんなと違うから、能力について喋っちゃだめだ』って言った理由が。僕は、浅はかだった。みんなと違うことが、こんなにも自分を追い詰める牙になるなんて、思ってなかった」
拳を握り締め、唇を噛んで悔しそうに顔を歪める滝波くん。私は、今にも決壊してしまいそうな想いが、喉元まで迫っていた。
「それからはもう、二度と能力のことは口にしないって誓った。おかげで高校生活は普通に友達と楽しむことができたんだ。大学に入っても、僕は“普通”でいよう。そう、思ってたんだ。でも」
滝波くんは私の瞳をじっと見つめる。私は、声にならない悲鳴をあげたくなった。
「……初めて本間さんに会った時、あれは確か『ジェンダー論』の講義だったよね。僕は本間さんの斜め後ろの席に座っていた。たまたま、本間さんが一生懸命ノートに板書しているのが見えて。その文字が、灰色だったんだ。シャーペンの鉛色の黒じゃない。くすんだ灰色をしていた」
灰色。
私はあの日、大学でも友達ができないことにひどく落ち込んでいた。その気持ちが、文字に表れていた。滝波くんにしか見えない、色を帯びてしまっていた。
「最初は無視しようと思ったんだ。でも、本間さんが一生懸命ノートを書いているのを見て、やるせなくなった。彼女の悩みを、僕が聞いてあげたい。馬鹿だよね。その時はまだ、友達でもなんでもないのに、心が勝手に叫んでたんだ。だって、本間さんが抱えているものを、僕しか気づいてあげられないかもしれない。もしここで無視したら、本間さんが大学に来られなくなって、後悔するかもって。そこまで考えて」
「あの」と滝波くんは勇気を出して私に声をかけてくれた。
——あ、突然話しかけてすみません。僕、滝波新っていいます。一年生です。すごい熱心にノート書いてたから気になって。
滝波くんが、平静を装って私に話しかけてくれた時のことを思い出す。私はただ、滝波くんがものすごく社交的で、一人ぼっちで可哀想な私に声をかけてくれたんだと思っていた。でも、違ったんだ。
「びっくりさせたことは悪かったって思ってる。でも、きみのノートの文字が灰色なのがどうしても気がかりで。……僕と知り合って、大学で会うたびに、灰色だったノートの文字は少しずつ明るいものに変わっていったのが分かった。だから本間さんはもしかしたら、友達がいないことに悩んでたのかなって。自惚れだけど、そう思ってたんだ」
間違っていない。私は、友達ができないことに悩んでいた。
それを、場面緘黙症のせいにしている自分が嫌いだった。
滝波くんは、見抜いていたんだ……。
「『なないろ』のアプリの存在を知った時、何か他にもヒントがあるかもしれないって思った。そこで初めて、きみが場面緘黙症だって知った。正直びっくりしたよ。でも、それもきみの個性の一つだと思って、それ自体はそこまで気にならなかった。でも、kanoっていうユーザーのコメントを見て震えそうになったんだ。kanoが書くコメントの文字が、どす黒く、澱んでいたから」
「……」
なんということだろう。
滝波くんは、私のスマホで『なないろ』を見た時、kanoさんの文字の異様さに気づいていたなんて。
「kanoの文字が真っ黒なのに対して、kanoに返信するきみの文字はだんだん明るくなっていたんだ。一目で、kanoがきみに何か企んでいるんじゃないかって分かった。kanoに今日のことを誘われたって言った時、きみのノートの文字はピンク色だった。だから、何かいいことがあったのかなって気づいたんだけれど。それがkanoとの約束だって分かって、僕は鳥肌が止まらなかった。kanoは間違いなくきみを騙そうとしてる。そう思ってたから」
すう、はあ、すう、と滝波くんの呼吸音が大きく震える。私は生唾をごくりと飲み込んだ。
「きみに嫌われてもいいから、今日の約束のことを反故にしてほしいって思った。だから、
kanoと遊びに行くなって言ったんだ。不快にさせてごめん。でも、僕はきみを放っておけなかった。きみの傷ついた心の文字の色を、もう見たくないって、思ったんだ……」
滝波くんの声だけじゃなくて、身体も震えていた。
どうして気づかなかったんだろう。
文字の色について、確かに私は気づけるはずもない。滝波くんだけが持っている特殊能力だから。そうじゃなくて、どうして私は、滝波くんが私を想ってくれていることに気づかなかったのか。『なないろ』というアプリの向こうの顔も知らない人物より、彼の言うことをまっすぐに信じていたのなら。今日、滝波くんが怖い思いをして私を助けなくてもよかったんだ……。
「ううっ……」
気がつけば、口から嗚咽が漏れていた。私の声を初めて聞いた彼の瞳が大きく見開かれる。
滝波くん。ごめん、ごめんね。私はあなたのことを信じていなかった。
悔しいよ。だって、初めてできた友達だったのに。
もう失いたくない。言葉にして伝えたいという想いが、腹の底からぶわりと湧き上がる。私は、すうっと大きく息を吸った。苦しくない。大丈夫だ。滝波くんは私を信じてくれていた。私を救おうと、能力を明かす恐怖心と闘って、もがいてくれていた。だから私だって。この恐怖に、立ち向かうんだ——。
「……ありがとう」
蚊の鳴くようなか弱い声だった。自分の声かと疑うくらい、ひ弱で、震えていた。家でお母さんと話す時とは全然違う。今にも壊れてしまいそうな音。消えてしまいそうな言葉。でも、そんな私の小さな声を、滝波くんはしっかりと拾い上げてくれた。
彼が、目を瞬かせて私をじっと見つめる。
「助けてくれてありがとう、滝波くん」
今度は少しだけはっきりと、彼の目を見て伝えることができた。
小学校で場面緘黙症になって以来、初めて外で他人に自分の気持ちを伝えられた。心臓の音がトクトクと速くなるのが分かる。滝波くんの表情が、一気に泣き笑いみたいに崩れた。
「本間さん……すごい、すごいよ。喋れるようになったんだね。本間さんはやっぱり、強いよ。僕のほうこそ、友達になってくれてありがとう」
滝波くんが私に右手を差し出す。私は、その手を掴みながら鼻を啜った。
公園ではしゃいでいた子供の声が消えた。いつのまにか、夕暮れのまぶしい光が公園を橙色に染め上げている。
「滝波くんの連絡先、教えてもらってもいいかな?」
「いいよ。あ、でも、メッセージだとやっぱり文字の色が気になっちゃうかも」
「それなら……電話にしない?」
「ああ、本間さんさえよければ」
滝波くんに私の電話番号を伝えると、彼が私に電話をかけてくれた。かかってきた番号を、私は連絡先に登録する。
滝波新。
私の、新しい友達の名前だ。
連絡先に刻まれた彼の名前を見た時、私は狂おしいほどの愛しさが込み上げてきた。
「あの、もしよければ呼び方も……その、新って名前で呼んでもいい?」
もし自分に友達ができたら、名前で呼び合うのに憧れていた。滝波くん——いや、新は私の目をじっと見て、それから大きく頷いた。
「もちろん。これからもよろしく、美都」
彼が、柔らかな笑みを浮かべて私を見ている。この人と、私はずっと友達でいたいと心から思った。
橙色の空が、群青色に変わり始める。私たちは、変わりゆく空を、二人並んで見上げていた。お互いの体温は、すぐ近くにあった。
*
*
*
*
階段の壁に貼り付けていた「おはよう」や「ありがとう」の紙を剥がしていると、お母さんから「え、それ取っていいの?」と心配された。
「うん、もういらないから」
私の答えに、お母さんはじっと何かを思案しているようなまなざしを私に向けた。やがて「そっか」と呟く。
「良かったわね、美都。大学生活、楽しんでね」
「うん、ありがとう」
言葉にしなくても、お母さんには伝わっているらしい。お母さんの目尻にうっすらと涙が浮かんでいるのは気づかないふりをした。私は、「今までありがとう」の気持ちを込めて張り紙を剥がした。
私は多分、この「おはよう」や「ありがとう」の紙を見ることで、今まで逆にプレッシャーを感じていたのだ。もうこの紙は必要ない。だって私、大学で初めて友達ができたのだ。
昨日、大学の食堂で久しぶりにある人物に会った。オリエンテーションの前にハンカチを届けてくれた上山花乃さんだった。私の隣には新がいて、新は私の背中を押した。
「あの、上山さん。上山花乃さんだよね。私、本間美都っていいます。入学式の日、ハンカチ落としたの、届けてくれてありがとう。あの時、何も言えなくて本当にごめんなさない。今更かもしれないけど……。友達になろうって言ってくれて、すごく嬉しかった。だからね、もしまだ間に合うなら、やっぱり友達になってくれないかな」
突然私に話しかけられた上山さんは最初、瞳を大きく見開いてこちらの様子を窺っていたけれど、私が本気で友達になりたいと思っていると分かってくれたらしい。
「う、うん。こちらこそ。友達になりたいです」
控えめに微笑みながら頷いた彼女の表情を見て、私は新と、顔を見合わせて笑った。
「よかったら僕も友達になってくれない? 滝波新です。よろしく」
二人だけの空間が、三人の空間になって、どんどん友達の輪が広がっていく。周回遅れの私の友達づくりは、簡単ではなかったけれど、まぶしくて、心が満たされていた。
私たちは三人で食堂の席につく。自己紹介をして、他愛のない会話をして、一緒に講義を受けた。
あれから『なないろ』は開いていない。でももし、何かに悩んで挫けそうになったら、また『なないろ』に頼るのかもしれない。それでもいい。ひとりぼっちで悩んでいた自分を『なないろ』が助けてくれたのは事実だ。今度は私が、友達の話に耳を傾けよう。言葉で気持ちを伝えよう。新が私を救うために恐怖心に打ち勝ち、そうしてくれたように。
ねえ、新。
私はずっと自分のこと、普通じゃないって思って生きてきた。
新は普通の人間だから、私の気持ちなんて分からないって線引きしてしまっていた。
でも違ったんだね。新も私と、誰にも共有できない悩みを抱えていたんだ。
今なら新の気持ちが分かる。
だから私は、これからもずっと、新の友達でいたい。
明日、またきみの名を呼びたい。
【終わり】