あの人のことをはじめて知ったのは、ちょうど去年の今頃だった。

 春を迎えるたびに、僕はあるシーンが脳裏に蘇る。
 桜吹雪がふんわりと空に泳ぐ中、ある女性がその中に立っている。
 それは、誰にも語ることのできない神秘的な思い出だった......。

 ・・・

 高校生最後の春休み。
 暇を持て余してしまった僕は、隣町の公園に散歩に行くことにした。

 その公園は大病院に隣接していて、住民の憩いの場になっている。
 桜の花は満開まであと一息というところだ。
 人通りはまばらながらも、寄り添うカップルや走り回る子どもたちで溢れている。

 僕はその景色を順番に写真に収めていく。
 だけども、ある一面だけはそれを拒絶してしまった。

 古くから咲いているであろう桜の木の下に、ひとりの女性が立っている。
 腰に掛かりそうな長さのロングヘアーと、フレアスカートを着ているようだ。
 顔はこちらを向いておらず、どこか遠い先を見ているようだった。何をしているのだろうか......。

 彼女の姿に太陽光がスポットライトを当てるように。
 エメラルドの宝石のような瞳が輝くように。

 まるで、その一部分だけステージに居る舞台女優を思わせる綺麗な姿だった。

 彼女はこちらを振り向いて、少しほほ笑むように目を細めた。
 それだけだった。
 それだけで僕の心は痺れてしまった。
 はじめて見る<美しいもの>を目の当たりにして、僕はついスマートフォンを落としてしまう。

 彼女はそのまま病院の方に歩いて行ってしまった。
 僕はその場に取り残されてしまった。彼女が落とした<忘れ物>をどうすることもできずに。

 ・・・

 家のベッドで横になっている僕は手にしたネックレスを眺めている。

 公園で女性が立ち去ってからしばらく、僕は写真を撮ろうと気づき直した。
 だけども、彼女が立っていたところに、このネックレスが落ちていたのだ。

 探したけれども彼女は見つからず、しばらくその場にいても戻ってくる気配はなかった。
 困り果てた僕は、落とし物を届けるのすら忘れてそのまま帰宅してしまったわけだ。

 もう大学の授業が始まると、ネックレスの対応などできなくなっていた。
 それでも、あの美しさは忘れることができない。
 宝石を身に纏ったような、きらめく姿。

 やがて、桜の花は散ってしまった......。

 ・・・

 それから一年経って、僕はふとネックレスの事を思い出した。
 春は出会いの季節。どこかにそういう直感があったのかもしれない、急いで公園に行ってみることにした。
 そして、桜の木の下で、やはり彼女はいた。
 あの日と同じ服装で、エメラルドグリーンの瞳で。

 ......姿が変わらず、そこに居た。

 嬉しくなった僕は一気に彼女のところに走っていった。
 でも、どうやって話そうかまったく考えていなかった。そよ風が気まずい緊張を運んできて僕を包みこむ。
 その不安を解き放ってくれたのは、彼女の一声だった。

「......あの、あなたは?」
 消え入りそうな声が僕の耳に届く。
 小さいながらも、なんだか透明感溢れる歌声みたいな声だった。

「あのう、去年の今頃もこの公園に居ましたよね?」
 ......。

「その時、ネックレス落としていませんか」
 ......。

 彼女は僕の手に乗せられているネックレスを見ても無言のままだった。

 その表情は不思議とも、不審とも思えないような。
 何を考えているのかすらこちらには伝わってこなかった。
 わずかに首を傾げているだけなのだ。

 やっぱり失敗だったのだろうか、諦めかけた僕の心に彼女が語りかける。
「そうなのですね。
もしかしたら、"私ではない私"の持ち物かもしれません」
 ねえ知っていますか?
 そう言って、彼女は頭の上に広がる桜の木を見上げた。
「この桜はソメイヨシノの木ですね。
日本全国に植えられているものは、ひとつの樹から作られたクローンなのよ。
まるで、"わたしはわたしではない"みたいな演劇の台詞みたいですね。
まるで、自分自身のようなの」
 僕たちの間にひときわ強い風が吹いた。

「桜の木はどれも美しいけれど。
総じて環境には弱い品種とされています。
すぐに突然変異するし、その場で朽ちていくものもある......」
 彼女の言葉についていけなくなった僕は、ひとつの質問しかできなかった。
 恐る恐る口が開く。
「......あの、あなたはいったい」
「......私は、弱い身体なのです。
何万にひとつの確率なんだけど、体内を構成する物質が著しく欠損しているの。
投薬を続けて生命を保っているけれど、またいずれ眠りにつくのです。
この木に咲く花が散る頃に私は瞳を閉じる......」
 もう、去年の記憶なんて残っていません。
 だから、クローンの方が良かったかな。

 そう語る彼女は握手するように、僕に手を差し出してきた。その掌は色白で綺麗だったけど、どういう訳か血色を感じさせないって思ってしまった。
 僕は思わず目を背けてしまう。
「これで分かったでしょう?
わたしの事は忘れて、帰ってください」
 彼女は歩いて立ち去ろうとする。
 戻る気になれなかった僕は、彼女を呼び止めた。
「それだったら、このネックレスを付けてもらえませんか?
今のあなたに、です」
 彼女は歩みを止めて、僅かにきょとんとする表情を見せて僕を見つめていた。

 さくらを表す<櫻>という漢字は、「首飾りをつけた女性」を意味する<嬰>に木へんが付いたもの。

「だから、今のお姉さんが綺麗になってくれれば良いんだ。
それに、来年また会えればいいなって......。
もしあなたが忘れても、僕はまたここに来て、話をしたいんだ」
 桜の花びらが開くたびに新しい命が芽生える、そんな感じをその女性に感じたんだ。
 だから、僕は新しい出会いを期待したい。

 彼女は僕の手からネックレスを取って、首にかける。
 こちらに向けてくれた微笑みからは、少しだけ切ないのが伝わってくる。
 それでも、嬉しさを感じさせたのは気のせいではないだろう。

 エメラルドグリーンの瞳が少し濡れて、僕に感謝を告げてくれた。

「ありがとう」

 ・・・

 それから、幾年かはソメイヨシノの木の下で彼女に逢った。

 話すことは毎回変わらない。
 自分が何者か、今日は何年の何日か、他愛のないものだった。
 彼女は楽しんでくれただろうか。

 やがて、彼女は僕の肩にもたれかかって瞳を閉じる。
 まるで眠るように......。

 そのとき、爽やかも切ない風がふたりをかすめていく。
 僕はひとり、静かに涙を流したんだ。
 彼女と見た景色は彩りのあるものだと信じたい。

 ......桜花の思い出は僕の心に今でも残っている。