信号のない横断歩道の前で、横断歩道が渡れず困っているばあさんを見つけたのは、まさに乗るはずのバスが発車しようとしている時だった。
 田舎道ではこの一本を乗り遅れたら、始業前に高校に着くバスはない。
 けれど、朝の通勤時間だからか、ばあさんの存在に気づかず流れていく車の激しい往来を見ていたら、放っておくことができなかった。

 教師たちの中で、俺の心証は決していいとは言えないだろう。
 昔から口下手で、表情筋の使い方がわからず、気づけば会う人会う人に決まって不愛想と言われるほどになった。
 しかも中学の時は荒れていて、仲間と数えきれないほどの悪事を重ねた。
 あることがきっかけでそいつらとは縁を切ったけれど、そういう好奇心をかきたてるような類の噂はあっという間に広まるものだ。当然高校の教師たちの耳にも届いているだろう。
 今回の遅刻も決していい目では見られないだろうということは頭ではわかりながらも、ばあさんの元に駆け寄る。

「大丈夫ですか」

 我ながら柔らかさとは無縁の硬い声だ。愛想のあの字もない。
 けれどばあさんは俺を見上げ、しわしわの顔に苦笑を滲ませた。

「ああ、なかなか渡れなくてねぇ」

 俺はばあさんの前にしゃがみ込んだ。

「それならおぶります。その方が早いし」

 そう言いながら、ばあさんの持つ大きなビニール袋を視認していた。朝早くから八百屋にでも行っていたのだろうか。ビニール袋にはこんもりと野菜が詰められている。
 どのくらい歩いてきたのかはわからないが、腰の曲がったばあさんがこの荷物を持って歩くのは大変そうだ。

 最初は悪いからと断られたけれど、俺がなかなか折れないことで観念したのか、俺の背中に小さな体を預けてきた。

 そしてばあさんを負ぶって200メートルほど先にあった家まで送ったところで、俺は手持ち無沙汰になった。
 本当は今からでも学校に向かうべきなのだろうが、生憎授業は始まってしまっている。
 途中から参加するにも、クラスメイトたちから冷ややかな目を向けられるのは目に見えていた。普段から人づきあいが苦手な俺はクラスの中でも浮いており、一部の生徒からは怖がられてさえいるのだ。

 今から学校に向かうにも億劫だし、サボるか……。
 履き潰したスニーカーの爪先が、高校とは違う方向へと向く。
 高校では自分なりに真面目に無遅刻無欠勤を貫いてきたけれど、たまにはあの人も目を瞑ってくれるだろうか。


 * *


 やって来たのは、土手のふもとにある河原だった。
 中学生の頃、よくここで学校をさぼっていた。田舎町であることに加え、この辺りは商業施設もなにもないから人通りがほとんどない。だからひとりになるにはうってつけの場所だった。
 久々に訪れるから雑草が好き放題暴れているかと思いきや、手入れが行き届いているのか、想像していたより遥かに記憶の中の光景に近かった。

 定位置である慣れ親しんだ河原に腰を下ろせば、吹きつけてくる冷たい風に首を竦めた。

「さむ……」

 風が冬を連れてくるようだ。

 俺は大きく伸びをすると、地面に横になった。ふわぁ……とあくびがもれる。
 ちょろちょろ流れる小川の音に耳を澄ませていると大きな睡魔の波がやってきて、俺は抗うことなく意識を手放したのだった。

 ――目が覚めたのは、吹きつける北風に頬を撫でられたからだ。

「ん……」

 深いまどろみを引きずりながら目を覚ました俺は――はっと息をのんでいた。

「……は?」

 そんな間の抜けた声がこぼれ、目を見張る。
 眠気が一気に吹き飛んだのは、目の前に女が寝ていたからだ。
 ――そう、それはまるで天使が空から落ちてきたかのように。

 けれど少しでも動けば鼻先が触れてしまいそうな距離に見知らぬ女が眠っているというこの状況を、寝起きの頭ですぐに理解しろという方が難しい話だった。

 探るような瞳で彼女を見つけて、ふと思い至る。彼女は、俺が昨日川に身を投げようとしたところを止めた女だった。

 俺が目を覚ましたことにも気づかず、彼女はすやすやと気持ちよさそうに眠っている。

 彼女がなんでここに……? っていうか、起こした方がいいのか、これ……?

 次から次へと湧いてくる疑問を消化できないまま呆然と目の前の女を見つめていると、不意に彼女の瞼が揺れた。そして瞼の下から、ヘーゼル色の大きな瞳が現れた。
 長い睫毛に縁どられた瞳が、真っ先に俺を捕らえる。

 彼女はむくりと起き上がるとひとつ伸びをし、大きな目をアーチ状にして、まるでおはようとでも言うようににっこり笑みを浮かべた。

 違和感しかないこの状況に突っ込まずにいられたのは、自分で言うのも恥ずかしいけれど彼女の可愛さに一瞬見惚れてしまったから。雪の結晶がきらめいたような、花が綻んだような、そんな瞬間を目にした小さな衝撃に声を出すことも忘れる。
 決して派手な顔立ちではないし化粧っけもないけれど、ひとつひとつのパーツが整い、透明感とナチュラルな魅力を持っている。

「えっと……あんた、昨日の、だよな……?」

 ようやく唇が動いてそう問えば、彼女は居ずまいを正すように俺の前に正座をした。
 そしてまたスカートからスマホを取り出し、なにか文字を打ち込む。

《私は相羽綺咲と言います。
青葉高校の3年生です》

 青葉高校の3年、ということはやはり俺と同じ高校の生徒だということになる。

《気持ちよさそうに寝ていたので、
私もつい一緒に寝てしまいました》

 そして彼女は穏やかな光をたたえた瞳で微笑んだ。

《近江刻先輩ですよね》
「なんで名前……」

 言いながら自嘲的な思いつきに自分で納得する。
 "近江刻先輩"といえば、悪い意味で有名な存在だった。高一の時に留年をした俺は、実際は高校を卒業している年だ。まわりに留年している奴なんて当然おらず、浮いている存在の俺は、侮蔑的な意味を込めて先輩と呼ばれているのだ。
 だから彼女が俺の名前を知っているのはおかしい話ではなかった。

 なんて呼んだら……と彼女のスマホを操作する指が宙をまごついているのに気づく。
 学年的には同じ学年だが、年齢はひとつ上であるということから、分類分けされる時にとても厄介な存在だということは、自分がよくわかっている。

「呼び方は別にそのままでいい」

 すると彼女は安堵したように笑った。それからコンパクトな手帳とペンを俺に差し出して、唇が、か、ん、じ、と動いた。……ような気がした。名前の漢字を問われているのだと直感で察し、俺は手帳に自分の名前を記し、改めて声に出して名乗る。

「……近江、刻」

 すると彼女が返された手帳を大切そうに胸に抱いた。
 そしてその唇が、「とき……」と動く。けれどそれが音になることはなかった。

 そこで俺は、昨日出会ったばかりだけど、ずっと気になっていたことを口にする。

「どうしてずっとスマホで会話してるんだ?」

 すると彼女はスマホに文字を打ち込み。

《私は声を出すことができません》と。

 そう文字が並ぶディスプレイを俺に見せた。

「話すことができない……?」

 呟く俺に向かってスマホを操作し、また俺に見せてくる。

《失声症といいます。
だからスマホで話させてください》

 ああ、だからか――と、すべての合点がいく。
 昨日あれだけ必死に俺を支えながらも、一言も声を発しなかったこと。泣いているのに吐息が漏れるばかりで泣き声が聞こえなかったこと。ずっと不思議だったから。

 声が出ない生活なんて考えられない。
 他人には推し量れないほどの苦労を重ねている彼女がなんだか大きく見える。

 するとその時。彼女が何かスマホを操作したかと思いきや。

【音も出るんですよ】

 突然彼女のスマホからそんな電子音が聞こえて来て、俺は思わず驚く。

「え? それ」
【音声アプリです】

 カタコトの電子音を流しながら彼女がおかしそうにきゅるきゅる笑う。

 なるほど。話をするにはこんな手もあるのか。これなら画面を見られない状況でも会話ができる。もちろん文字を打ち込む手間はかかるが。

「文字打つの、だいぶ早いんだな」
《ありがとうございます。
もう4年経つので慣れました》

 そう見せて、得意げに笑う彼女。

 てっきり失声症は生まれつきのものだと思っていたから、俺は驚く。
 失声症は初めて出会った病気だ。だから勝手に先天性のものだとばかり思い込んでいたけど、彼女の場合は後天性のものなのか。
 だとしたら、4年前になにが……?
 ふと気になったけど、昨日出会ったばかりの身で踏み込むのは不粋な気がして押し黙る。

《学校、サボっちゃいましたね》
「そうだな」

 そういえば彼女はどうして学校をサボってこんなところにいるんだろう。

 彼女──綺咲は、俺の目を覗き込むようにして笑った。その瞳に、少しのいたずらっぽく魅惑的な色を含めて。
《私たち共犯者ですね、刻先輩》と。