それから私たちは夜の校舎を探検した。
 音楽室に足を踏み入れると、壁に飾られたベートーヴェンやバッハたちがこちらを睨んでくるようで、思わず刻先輩の背後に隠れる。

「高校の音楽室に入ったの、初めてだ」
【入ったことないんですか?】
「選択授業はいつも体育だから。歌、苦手だし」
【聴いてみたい気がするかも】

 ……でも正直なことを言うと、私も初めて。声が出ない私には、この場所は無縁だ。でも小学生の頃から音楽室独特の匂いは好きだった。

 音楽室の奥に据え置かれたグランドピアノに歩み寄る。
 と、その時だった。突然、ガシャーン!となにかが割れるような音がしたのは。

「雷か……?」

 遠くで刻先輩の声が聞こえた気がした。けれど、私は立っていることさえままならなくなっていた。
 
「はあ、はあ、はあ……」

 目の前がちかちかする。激しい動機に襲われ、足場が崩れていくような感覚。
 空を切り裂く雷の音は、今も憎らしいほど鮮明にあの日の景色をフラッシュバックさせる。

《残念ですが、お父様は――》

 ……お父さん、お父さん、お父さん……っ。

 上着の胸元を握りしめ、荒い呼吸を繰り返す私の異変に気づいたのだろう。私の肩に、刻先輩の手が触れた。

「綺咲? どうした?」

 その声と感触に、飛びかけていた意識が現実に引き戻される。
 刻先輩の存在が、私をこの世界に繋ぎ止める唯一のもので。モノクロになりかけた意識の中に、絵の具を一滴落としたように、そこに色がつく。
 今にも泣きだしそうになりながら、刻先輩を振り返る。そして。
 ときせんぱい――と声にならない声で、私は彼に助けを求めていた。



 雷が鳴っている間、刻先輩は私の頭からパーカーを被せ、ずっと耳を塞いでいてくれた。雷が鳴っている間、パニック状態の私を前に刻先輩も混乱しているだろうに、なにも聞いてはこなかった。
 どのくらいそうしていただろう。雷が遠ざかると、そっと耳から手が離される。

「雷が苦手?」

 静かに刻先輩が問うてくる。
 私は首を横に振った。

「そっか」

 刻先輩が、壁に背をついて横に座る。私もその隣で体育座りをして虚空を見つめる。私たちの間に、重い沈黙が降り注ぐ。

 こうなったからには話すべきなのだろう、すべて。きっと刻先輩も、私になにかしらの事情があることは気づいているはずだ。
 けれどだれかに自分の過去を話したことはなくて、言語化することが、そしてそれをどう受け止められるかが、怖いのだ。
 言語化することで、それはきっと途方もなく大きな現実となってのしかかってくるだろう。ずっと心の奥底に閉じ込め蓋をしてきた過去に向き合わなければいけなくなるのだ。

「……話したくないなら、無理に話さなくていい」

 沈黙を破ったのは刻先輩だった。
 隣を見れば、闇を見つめる綺麗な横顔があって、ひとりじゃなかったことを改めて思い知る。

「でも知っててほしい。俺は綺咲の力になりたいと思ってるって」

 刻先輩の言葉が、私の強張った心を解していく。
 刻先輩と出会って、言葉というものがこんなにも優しいものだと初めて知った。私にとって言葉は凶器でしかなかったから。

 私はスマホを握りしめた。怖くて仕方ないけれど、刻先輩はきっと受け止めてくれる――そんなたしかな実感が私の臆病な心を奮い立たせる。

《聞いてくれますか》

 震える指先でスマホにそう打ち込むと、刻先輩は頷いた。

「聞くよ。綺咲の言葉なら全部」

 その言葉が私に勇気をくれた。私は自分の過去を紡ぎ出す。
 刻先輩は私に身を寄せ、私が打ち込む文字に意識を集中させている。

《私の声が出なくなったのは、私のせいなんです》
「え?」
《私には大好きな父がいました》

 正義感が強くて、優しくて、お父さんは私の自慢だった。
 そしてお父さんもまた、一人娘の私に惜しみない愛情を注いでくれた。

 私の将来の夢は小さな頃からずっと、キャビンアテンダント。きっかけは家族旅行で初めて飛行機に乗った時に、お父さんがくれた些細な一言だった。

『愛嬌がある綺咲にぴったりだろうな、キャビンアテンダントは。世界中を飛び回る綺咲の姿、見てみたいなあ』

 お父さんの言葉が夢の芽となって、私はキャビンアテンダントという職業に憧れるようになり、外国語やマナーなどたくさん勉強をした。
 夢が叶った日には、お父さんを一番目のお客様にするんだって、そう約束だってしていた。

《でも私、父に言っちゃったんです。
お父さんなんて大嫌いだって》

 あれは中学2年生の私の誕生日のこと。
 その日は家族3人で夕食を囲む約束だったのに、急遽お父さんに仕事が入ってしまったのだ。
 お父さんもお母さんも普段から仕事が忙しく、やっと家族が揃う今日という日を心待ちにしていた私は、憤慨した。
 家族より仕事の方が大切なんでしょって、心にも思ってもいないことを、お父さんが反論してこないのをいいことに、お父さんにぶつけた。本当はお父さんがなにより家族のことを大切に思ってくれていることなんて、痛いほどわかっていたのに。

 お父さんはうつむき、悲しそうに何度も『ごめんな』を繰り返していた。

《それが最後に見たお父さんの顔でした。
お父さんは仕事に行ったきり、帰ってきませんでした。
突然の病で亡くなったんです》

 あの日もこんなふうに雷が鳴っていた。
 私とお母さんが連絡を受けて駆けつけた時には、お父さんは病院の白い寝台の上で冷たくなっていた。何度泣き叫んだって、お父さんは目を覚ましてくれなかった。

《なんてことを言っちゃったんだろうって。
自分の声を憎んで恨んで。
そしたらある日、声が出なくなりました》

 隣で小さく息をのんだ気配。
 
 お父さんが亡くなって、私は自暴自棄になった。私があんなことを言ったせいでお父さんは帰ってこなくなったんだって、自分を責め続けた。

《自分への罰だから、こんな声なくなってよかったって思いました。
でもある時、下校中にひったくりを見かけて。
それなのに私はなにもできませんでした。
声を失った私は役立たずなんです》

 お父さんなら絶対に助けに入っていたはずなのに。声が出ない私は、助けを呼ぶことも、警察に通報することもできなかった。
 人助けもできず、将来の夢も潰えて、私はお父さんの望む娘であることすら叶わない。
 こんな私はなんのために生きているのだろう。

 鼻の奥がつんとする。私は涙の予感を無理やり飲み込む。
 罪の告白に、涙を流す赦しなどあるはずないのだ。

《あの日に戻りたい。
お父さんに会いたい。
お父さんに謝りたい》

 お母さんはそれまでの日々が壊れないようお父さんの分も愛情をかけてくれているし、そんなお母さんのことを支えなきゃとも思っているけれど、胸にぽっかり空いた空虚な大きな穴はだれとなにをしてても埋まってくれなくて。

 そこまで文字を打った私は、自己嫌悪に陥る。いくら刻先輩が話を聞いてくれていたとしても、あまりに独りよがりな罪の独白だった。

《ごめんなさい。
気分のいい話じゃなかった》――

 その先を紡ごうとした手が、その先の言葉が、刻先輩の手によって封じられた。
 はっとして顔を上げれば、すぐそばにあった刻先輩のふたつの静かな湖面が揺れていた。切なげに、そして哀しげに。

「綺咲はそうやって、自分の声を殺してきたんだな」

 え――?
 
 刻先輩の凛とした声が、真っ直ぐに私の心を貫く。

「怖いなら、つらいなら、助けを呼んでいい。どんなに小さな声でも俺が拾い上げるから」
「……っ」

 いつだって声をなくした私のことを、まっすぐに受け止め肯定してくれる刻先輩。そんな刻先輩に、私は何度助けられてきただろう。

「綺咲はなにも悪くない」

 刻先輩に手を引かれるようにして、私の涙腺はいよいよ本格的に崩壊した。

「っ、っ……」

 ぽろぽろと大粒の涙が絶え間なくこぼれ落ち、声にならないまま嗚咽を漏らす。私の吐息だけが室内に響き渡る。

 いつだって、お母さんやまわりの人に暗い気持ちが伝染しないように、私は大丈夫だって言い聞かせていた。でも気づけば心が麻痺をして、自分のキャパを超えるほどの悲しみを背負っていることを忘れていたのだ。本当はずっと、だれかに助けを求めたかった――。
 でも刻先輩は気づいてくれたのだ。声のない私の叫びに。

「……っ」

 ――と、泣きながら喘ぐ私の体は、不意に大きな温もりに包まれていた。
 え……? 気づいた時には、私は刻先輩に抱きしめられていて。

「……悪い。泣き止ませ方がわからなくて」

 戸惑ったようなぎこちない声が、私の鼓膜を優しくくすぐる。
 刻先輩らしい慰め方に、私は泣きながら思わず小さく笑ってしまう。
 私を包み込む優しい温もりに、私はこのまま体と心のすべてを委ねてしまいたくなった。

 ――刻先輩は私のヒーローです。
 心の中で刻先輩にそう囁く。

 まるで子どものようにわんわん泣き続ける私を、刻先輩はずっと抱きしめてくれていた。