「あら、綺咲。今夜も出掛けるの?」

 急ぎ気味に食事を済ませていると、向かいに座ってフォークにパスタを巻きつけながら、お母さんが目をぱちくりさせる。
 私は頷き、手慣れているとは言えないぎこちない手話で伝える。

"友達と遊ぶ"
「いつもの友達?」
"そう"
「いつの間にそんな親しい友達ができたの?」
"ちょっと前に"

 友達とは無論、刻先輩のことだ。今夜も一緒に悪いことをする約束をしている。

 刻先輩のことを詳しくはお母さんに話していない。根掘り葉掘り聞かれたら困るから。まさか自殺未遂現場に出くわして、なんて言えないし。なによりあの日のことは、だれにも話す気はない。

"遅くなるかもしれないから、先に寝ててね"
「わかった。でもくれぐれも気をつけるのよ」

 お母さんが口出しするといっても、この程度。
 元々大らかだったお母さんの放任主義に拍車がかかったのは、あの日がきっかけだろう。お母さんは、私にやりたいことはなんでもやってほしいと言う。人生は一度きり、後悔はしてほしくないからと。

 夕食を平らげると、そそくさと食器を流しに片づける。そして予めリビングに準備していたリュックを背負う。

「防犯ブザーは持った?」

 お母さんの声に頷く。声が出せない私に、防犯ブザーはなくてはならないお守りだ。

"じゃあ、行ってきます"

 腕時計を確認する。まずい、もう行かなくちゃ。

「行ってらっしゃい。……あ、でもそうだ、天気予報で今夜は……」

 お母さんがなにかを言いかけた気がしたけど、私の体はそれより先にリビングを出ていた。
 玄関を出て、空を見上げる。あいにくの曇天で星も月も見えない。けれど、辺り一面真っ暗闇に包まれているせいで、どれくらいの悪天候なのかはわからない。黒はすべての色を塗り潰してしまう。
 刻先輩と会える夜。できたら綺麗な星月夜だったらよかったな。
 そんなことを考えながら、刻先輩との待ち合わせ場所に向かって私は歩きだした。



 待ち合わせ場所である高校前に、刻先輩はすでにいた。
 暗闇の中で、刻先輩にだけ色がついて見える。刻先輩を見つけた途端にじんわり広がる、この安心感はなんだろう。まるで拠り所を見つけたみたいな。

 刻先輩はゆるっと着ている制服のブレザーもこのうえなく似合ってしまうけれど、なにを着ても着こなしてしまう。くたびれたパーカーにシャツという、あまりというかまったくファッションにはこだわりがなさそうな出で立ちだけど、それさえも刻先輩らしくていいなって思わされてしまう。

 "おまたせしました"、心の中でそう言いながら刻先輩の元に駆け寄る。

「久しぶり」

 スマホではこの日の計画について連絡を取り合っていたけれど、実際に会うの4日ぶり。たった4日なのか、もう4日なのか。でももうずいぶん会っていなかったような。

「軽装だけど、寒くないか?」

 今日は真冬並みに天気が低い。それにしては、刻先輩の言うとおり軽装だったかもしれない。
 私は親指をたてて、何度も頷いて見せた。

「じゃ、行くか」

 そうして私と刻先輩は、計画を実行することにした。
 今日の計画、それは夜の学校に忍び込むこと。
 いくらあの日命を捨てるつもりだったとはいえ、こんな無茶な計画にのってくれる刻先輩は、優しいとしか言いようがない。

 刻先輩が校門の柵をすり抜けた。石造りの塀と柵の間に、人ひとりが通れるくらいの隙間があるのだ。これじゃ柵の役割を果たしていないけれど、今日ばかりは助かった。私も刻先輩の後に続く。
 電気の点いていない校舎は、巨大なお化け屋敷のようにそびえ立っていて、威圧感があって少しだけ怖い。

 本来なら校舎はどこも施錠されている。けれど刻先輩の提案で、昼間のうちに刻先輩が使われていない化学準備室の窓の鍵を開けておいてくれることになっていた。

 そうして手筈通り、私たちはすんなりと校舎の中に潜入した。

「やっぱり暗いな」

 化学準備室を見回しながら、刻先輩がそう言う。月が出ていたらもう少し明るかったのかもしれないけど、今夜は星明りのひとつさえない。
 懐中電灯を点けたら目立ってしまうため、ライトを点けるわけにはいかない。かろうじて小さくしたスマホの灯りだけで、廊下に出る。

「なにする?」

 そう問う刻先輩に、私はスマホの画面を見せた。

《刻先輩の教室に行きたいです》

 

 3年1組の教室は、3階の端っこにある。いつもよりもゆっくり階段を上り、教室に向かう。

【刻先輩の席はどこですか】

 距離があるため、私はスマホの音声機能を使って刻先輩に話しかける。
 すると刻先輩は、教室の一番前の窓際を席に座った。

「俺は、ここ」
【端っこなんですね】
「だれにも話しかけられないし、俺にはちょうどいい」

 その声には、達観したような諦めたような、そんな色が滲んでいる。

 刻先輩が独りでいることを、私は知っていた。学校で見かけるたび、いつだってまわりの世界を遮断するみたいにその目を深く伏せていたから。俗世間の中にいる刻先輩は、雲ひとつない青空にぽっかり浮かぶ無口な白い月のようだった。

 私は一番前の教卓の前に座る。私はここだ。もしなにかあった時、先生がすぐに気づけるように。そんな先生の優しいのか優しくないのかわからない行き過ぎた配慮で、私は1年間この席から離れることはできないのだろう。いつだってクラスメイトたちの賑やかな声を、背に受けるだけ。

 隣を見れば刻先輩がいる。
 私は上体を倒し、机に横向きに突っ伏してみた。
 もし刻先輩とクラスメイトだったら、どんな毎日が待っていただろう。刻先輩の横顔に見惚れて、授業に全然集中できなかったかもしれない。

 すると、私の視線に気づいたのか、刻先輩がこちらを見た。
 そして私と視線の高さを合わせるように、机に上体を倒してこちらを見つめてくる刻先輩。

 暗闇の中で視線が交わり、瞬きに合わせて刻先輩の長い睫毛がわずかに揺れるのが見える。

「不思議だな。綺咲の視線って声が聞こえる気がする」
「――」

 私は意図するより先に、思わず刻先輩に向かって手を伸ばしていた。
 そうして暗闇に放り出された指先を、刻先輩は決して見捨てたりしないのだ。私に向かって同じように手を伸ばし返してくれる。
 机をひとつ分挟んだ、すぐ近くなのに触れられない、その絶妙な距離がもどかしい。けれどそれと同時に触れられなくてよかったとも思った。触れたらきっと心臓が爆発してしまうから。

 私たちは爪弾き者同士。でも1+1が1になる夜だってあるのだ、きっと。