エピローグ

 列車が空港に近づいても、清美は私の肩にもたれて、まだ眠りの世界にいた。そんな清美の寝顔を眺めていると、私は、昨日の夢のような時間が、まだ続いているような気がした。しかし、所詮、夢は夢でしかなかった。列車が空港駅に着くと、清美も私もあっさりと現実の世界に引き戻された。 
 搭乗手続きを終えて、私たちは手荷物検査のゲートの前のベンチに腰を降ろした。そのゲートはまるで異世界への扉のように見えた。その向こうに行けば、二度と清美の許にもどることはないのだ。
「それにしても、お兄ちゃんも武君も冷たいよね。見送りに来ないなんて」
 清美は恨みがましく言ったが、私はそうは思っていなかった。最後は私を清美と二人きりにしてやろう、という温かい気持ちなのだと私には分かっていた。
 ゲート通過締め切り時刻のギリギリまで、私たちは、その場所で延々と思い出話に花を咲かせたが、とうとうその時がやってきた。私は、機内持ち込みの手荷物を持ってゲートの少し手前まで進んだ。
 感極まったのか、少し震えた声で清美が言った。
「智子ちゃん、毎日メール送るから、ちゃんと返事を送ってね」
「うん、そうする」
 私は嘘をついた。私は、日本の全てを断ち切る意志を固めていた。数日後に契約が切れるスマホは自宅に置いてきていた。退路を断ってアメリカで頑張るためにそうしたのだと、後で兄が清美に伝えてくれることになっていた。私には、とてもそれを直に清美に伝えることなどできなったからだ。
「じゃあね、元気でね」
 私は清美に右手を差し出した。
「ねえ、智子ちゃん、最後も握手で済ませるつもりなの?小説でも、お芝居でも、ここは抱き合う場面じゃないの?」
 清美は少し不機嫌な顔をした。
「舞台の上じゃないから、恥ずかしくて無理だよ」
 それも嘘だった。私が拒否したのは、そんなことをしたら、自分の感情を抑えきれなくなると思っていたからだった。
 もし、今、清美と抱き合ったりしたら、私は清美の腕を振りほどいて一人でアメリカに旅立つ自信がなかった。そんなことをしたら、全てが無駄になるのだ。お姉さんや、兄の思いを全て踏みにじることになるのだ。そんなことは絶対にできなかった。
 私を見る清美は、いつ涙をこぼしても不思議ではない顔をしていた。
「ねえ、智子ちゃん。どうして行っちゃうの?」
「え?」
「どうして私を置き去りにするの?私たち、ずっと親友だったじゃない」
 清美の瞳に涙が滲んでいた。
「ねえ、私を一人にしないでよ」
 清美は泣きながら訴えてきた。
「清美ちゃんは一人じゃないよ。お兄ちゃんもいるし、清一君だっているじゃない。クラスの子たちとも仲良くなれたじゃない」
 私の言葉は清美にはまったく響かなかった。
「違うよ。武君も、お兄ちゃんも、クラスのみんなも、智子ちゃんの代わりにはなれないよ。智子ちゃんは、この世に一人だけの私の親友なんだよ」
 私が何も言えないでいると清美は更に続けた。
「ねえ、智子ちゃん、私のことが嫌いになったの?だから行っちゃうの?」
 違う!そうじゃない!好きだよ、大好きだよ!だから行くんだよ!そう言いたかった。しかし、それは決して口にしてはいけない台詞だった。
「ねえ、行かないで」
 そう言うと、清美は私に近づき、私の体をきつく抱きしめた。
 その抱擁が、恋人にではなく、親友に向けられたものだとは悲しいほどに良く分かっていた。しかし、私は、昨日、兄の体を借りて清美と抱き合った時よりも、今の方が幸せだと思った。

                          終