布団に倒れ込み、睡蓮は大きく息を吐いた。
「ちょっと睡蓮〜。大丈夫?」
 桐箪笥の中から、小さな影が睡蓮の横たわる布団へと飛んでくる。紅だ。
「大丈夫、大丈夫……」
 なんとか返しながら目を開けると、すぐそばにいた紅の心配そうな顔が視界に映った。
「でも、すごい顔色悪いよ」
 紅が心配そうに睡蓮の額に小さな手を乗せる。紅の小さな手はひんやりしていて、心地いい。なによりこんなじぶんを心配してくれることがありがたかった。
「心配してくれてありがとうね、紅」
 ほんのり笑ってみせると、紅は睡蓮の顔を覗き込み、しゅんとした顔をした。直後、ハッとした顔をして、
「もしかして、あの男が原因なの? それならあたしが今すぐとっちめてやる!」
 ぶぶぶっと、これまでにない羽音がする。見れば、紅の身体が橙色にぽうぽうと光っていた。これは、紅が怒っているときの特徴だ。
「睡蓮をこき使いやがって、あのくそ野郎。待ってて睡蓮! あたしの毒はどんな大きな獣だって一撃ひっさ……」
「ちょっ、待って待って!」
 なにを勘違いしたのか、紅は睡蓮の体調が悪いのは桔梗のせいだと思ったらしい。今にも部屋を飛び出していきそうな紅に、睡蓮は慌てて身を起こして止めに入る。
「ち、違うよ、紅! 桔梗さんはぜんぜん関係ないから落ち着いて!」
「え、そうなの?」
 紅がきょとんとした顔をする。
「そうそう」
 紅の羽音が落ち着いて、睡蓮はほっと肩から力を抜く。
「町へ出てちょっと疲れただけだから。……あ、そうだ。それより紅って西の出身だったよね?」
「そうよ。ここよりずっと西の、海辺の町。それがどうしたの?」
「家族は元気なの?」
「うん、みんな元気だよ。そもそもあやかしは、人間よりずっと寿命が長いし。お母さんも、ばりばり現役だしね」
 紅の家は、西の幽世にある。
 幽世に迷い込んだ人間の船を現世に(かえ)すという西の現人神から直々に与えられた役目を担っているらしい。
 家を守っているのは紅の母親で、且つ仕事を担っているのは紅の兄妹たちだ。
 紅もずっと家の手伝いをしていたが、兄妹がたくさんいるから紅ひとりいなくなったところで特に問題はないと以前言っていた。
「紅も、たまにはお家に帰ったほうがいいよ。家族がいるって、幸せなことだから」
「…………」
 睡蓮は遠い目をして呟いた。
「いくら家族がたくさんいるからって、お母さんが寂しくないわけはないよ。じぶんの子だもの」
「……睡蓮」
 睡蓮がふと奥の机を見る。つられるように紅もそちらへ目を向けた。机の上に見慣れぬ包みがある。
「それ、さっき買ってきたチョコレート。良かったら手土産に持っていって」
「ちょこれいと?」
 紅が目をしばたたく。
「うん。すごく美味しいお菓子なの。私もこの前桔梗さんに教えてもらって初めて食べたんだ。手土産なしで帰るよりいいかなって、ね。お母さんや兄妹のみんなと食べて」
「ありがとう……でも急にどうしたのよ?」
 紅はいよいよ睡蓮のことが心配になった。これまでにも何度か睡蓮が体調を悪そうにしていることはあったけれど、ここまでではなかった。
 まるで、紅を追い出そうとしているようにすら思う。
「ねぇ、睡蓮てば。なんかあるの?」
「……ごめん。私、ちょっと眠るね」
 心配する紅の声を遮るように、睡蓮は布団を頭まで被る。
「……分かった」
 紅はしょぼんとしたまま、睡蓮の部屋を出た。
 紅が部屋から出ていくと、睡蓮は布団から顔を出した。寝返りを打ち、壁にかけてあるカレンダーをぼんやりと見上げる。
「あと一回……」
 今日、睡蓮はとある人物と会ってきた。
 その人物は、睡蓮の願いを叶えるただひとりの人物であり、災厄の張本人でもある西の最強権力者――白蓮路(かおる)だ。
 薫と出会ったのは、睡蓮が楪と婚姻し、龍桜院の屋敷にひとり暮らしていたときだった。
 屋敷に現れた薫は、ぞっとするほど美しい声で言った。
『龍桜院楪はじきに死ぬだろう』
 ひとの死を予知する力があるという薫は、楪がじき死ぬ運命にあると言った。
 最初、なにを言われたのか分からなかった。
 楪が死ぬ。
 契約とはいえ、唯一睡蓮を必要としてくれたひとが。
 薫の言うじきとはいつだろう。もし楪がいなくなってしまったら、この東の地はどうなるのだろう。楪にはまだ後継者がいない。睡蓮と楪は契約結婚だし、世継ぎを残すとか、そういうことがないどころか、まだ会ったことすらないのだ。
 いくらか呆然としつつ、睡蓮は薫の話を聞いていた。
 ショックで放心する睡蓮を見かねたのか、薫は囁いた。
 楪が助かる方法が、ひとつだけあると。
 それは、死ぬはずの楪の代わりに、睡蓮が命を差し出し、身代わりになるというものだった。
 睡蓮は、そんなことで楪が助かるならばと、薫に魂を差し出す契約をしたのだ。
 これまで睡蓮は、数度にわたって薫と会ってきた。会うたび、分割した魂を差し出した。
 しかし、その魂も残りひとつ。
 次に魂を薫に差し出したとき、睡蓮は消失する。
 後悔はしていない。
 気がかりがあるとすれば、それは紅と桔梗のことだった。
 紅は睡蓮が匿ってくれたことに恩を感じてくれているのか、ずいぶんと睡蓮に懐いてくれた。そんな彼女に本当のことをなにも言わずに消えなきゃならないのは心が痛んだ。
 しかし、現人神にかかわることを民に知られるわけにはいかない。話すことはできない。
 代わりに、睡蓮は喫茶店であのチョコレートを買ったとき、中に手紙を忍ばせた。
 紅へ、これまでの感謝とこれからも元気でという別れの挨拶を綴った。
 あとは、桔梗だ。桔梗にはまだ、なにもしていない。桔梗にこそ、感謝を伝えなければならないのに。
 睡蓮はよろよろと起き上がり、棚を開けた。
 中には、楪から届いた三年分の手紙の束が入っている。それから、書く相手を失い、用済みとなったまっさらな便箋。
 睡蓮は力を振り絞り、文机に向かった。
 最後に一枚、手紙を書くために。
 せめて桔梗へ、これまでの感謝を伝えなければ。
 震える手で筆をとる。
 睡蓮はじき、消える。そうしたらもう桔梗とは会えなくなる。
 薫と契約を交わしたのは睡蓮自身。
 楪を守るために命を差し出すと決めたのも睡蓮自身。
 今、あのときに戻ったとしても、睡蓮はきっと同じ選択をするだろう。
 頭ではちゃんと覚悟を決めているはずなのに。
 そこに後悔などないはずなのに。
 手紙を書く手が震え、嗚咽が漏れた。
 桔梗ともっといたい。桔梗に助けてとすがりつきたい。
 そんなことを思ってしまうじぶんがいる。
 桔梗と出会わなければ、きっとこんな思いは知らなかった。
 睡蓮の心は、初めての感覚に動揺していた。