日の暮れた空を眺めながら、紅は遠く離れた場所にいる親友のことを思った。
 紅は今、護衛となるための特訓に毎日明け暮れている。訓練を見てくれているのは、楪の側近である桃李だ。
 睡蓮は、以前言っていた。
 とても優しくて素敵なかただと。
 そうなんだ、なら特訓も楽勝かな。なんて思っていた数日前のじぶんを、紅は殴ってやりたい。
 桃李は鬼だ。いや、たしかに彼は鬼なのだが、そうではなく鬼だった。
 朝から晩まで、へとへとになるまでの飛行訓練。果ては乱気流の中へ放り込まれたこともある。
 妖力がついてきたら、今度は変化術だ。と、思えば。
 変化に慣れてきたら、ひとの姿に変化したままの特訓が始まる。
 料理や裁縫などのちまちました家事から、書類管理、文書作成、はたまた真剣での立ち合いまでやらされた。真剣のときは、死ぬかと思った。
 半泣きになりながらやっても、桃李はちっとも褒めてくれなかった。それどころか、ああだのこうだの非常にうるさい。姑のよう、と紅は思った。紅はまだ一度も結婚したことないけれど。
 特訓は、桃李が合格というまで続くらしい。
 地獄だ。
 既に何日も山篭りしている。こんな日々があとどれだけ続くのだろう。でも、これを乗り越えなければ睡蓮とは会えないまま、故郷へ返されてしまう。それだけはいやだ。ぜったいに。
「……はぁ」
 睡蓮は元気にしているだろうか。
 泣いてないだろうか。
 いや、泣いてはいないか。今は楪がそばについているのだし。
「……あたしのこと、忘れてないかな」
 日が暮れると、どうしてもひとりぼっちで葉の裏に隠れて過ごした家出時代を思い出して寂しくなる。
 睡蓮と出会ったときのことを思い出す。
 西を出て、東の土地へやってきた紅は、たまたま睡蓮の住まう花柳家の離れに辿り着いた。
 そこには少女がひとりで住んでいた。薄幸そうな可愛らしい子だ。だが、人間は信用ならない。
 万が一、彼女があやかしが見える体質でないとも限らない。面倒なので、紅は彼女に見つからないように、息を潜めて過ごした。
 そんな日々が数日続いたあるときである。
 庭先に、小さな包みが置いてあった。
 少女がそばにいないことを確認してから、紅はそれを開けた。中には星の欠片のようなお菓子。金平糖だ。
 美味しそう、というより、どうして、と思う。
 これは紅のために置かれたもの?
 それとも、お供えのつもりか?
 ここには地蔵も社もないが。
 紅はそろそろと縁側に近付いて、中を窺う。
 廊下の先、階段の上のほうで、影が動いた。
 少女がこっそりこちらを窺っていた。目が合って、しまった、と思う。ぴゅん、と葉の影に慌てて戻った紅に、階段から出てきた少女が慌てたように言う。
『あの……怖がらないで。私、あなたのこと追い出したりしないから。ここではそんなびくびくしないで、好きにしていいのよ。その……それも食べていいからね。驚かせて、ごめんね』
 優しい声だった。そのとき紅は、彼女もなにかに怯えてるように感じた。
 それから少しづつ、紅は少女と打ち解けていったのである。
 ひとりぼっちでふらふらしていた紅を、睡蓮は当たり前に受け入れてくれた。優しくしてくれた。
 睡蓮が死のうとしていたと分かったとき、紅はすごく悲しかった。ひとことの相談もなかったことが悲しくて、悔しくて、紅は怒った。
 でも睡蓮は、そんな紅の怒りもしっかり受け止めてくれた。泣いていた。
 だから紅も受け入れたのだ。
 睡蓮が最後の心の扉を開けてくれていなかったと分かって悲しかったけれど、それは彼女の優しさだと、ちゃんと分かったから。
 ぼんやりしていると、葉を踏み締める音がした。顔を上げると、白緑色(びゃくろくいろ)のお召に青白橡(あおしろつるばみ)の袴姿の桃李がいた。
 特訓のおかげでずいぶん耳が良くなったように思う。今ならたぶん、数百メートル先の葉が落ちる音まで聴こえる。……気がする。
「いつまで休んでいるつもりですか」
「ちっ」
 桃李に嫌味を言われ、紅は舌打ちをしながら立ち上がった。
 この男がいると、おちおち物思いにもふけっていられない。
「舌打ちとはなんですか。失礼でしょう」
「えぇえぇ、失礼しましたー。ついうっかり」
「まったく……」
 桃李がじっとりとした目を向けてくる。
「それにしても、あんたってほんと性格悪いよね」
「今のはどう考えてもあなたの態度のほうが悪かったと思うんですが?」
「あたしはあんたみたいに、ころころ仮面付け替えたりしないもん」
 桃李はなんというか、裏表がある。
 睡蓮や楪の前では、優しくて頼りになる、できる男の仮面を被っているのだ。
 だけどなぜか、紅の前ではその仮面を外している。完全に。
 いや、なぜ?
 正直、じぶんの前でも仮面をつけておいてくれてぜんぜんかまわない。いや、むしろつけていてほしいのだが。
「人聞きの悪いことを言わないでください。私は大人として、ときと場合を弁えているだけです」
 よく言う、と紅は思う。
「あなたこそ、神やその花嫁の前で素を出しすぎなんですよ」
 そう言って、桃李はすっと目を逸らした。
「あんた、昔から楪さまのお付なんでしょ? ずっとそうやってじぶんを偽るの、疲れないわけ?」
「これが私にとってのふつうですので」
 桃李はいつもどおりの笑みをたたえている。
「なら、あたしの前でもその仮面被りなさいよ」
 桃李はぽかんとした顔をした。
「は? なぜ?」
 殴っていいだろうか。
「あーもうやめやめ。あんたと話してもいらいらするだけだわ」
 紅はよっこいしょ、と立ち上がる。
「それは残念です。私は結構、楽しかったのですけど」
 ぎょっとして振り返る。
「はぁ?」
 突然しおれた声を出すものだから、紅は困惑した。
「ちょっと、あんた……」
「あ、そういえば。さっき睡蓮さまに会ってきたんですが」
「はぁ!?」
 なぜ、それを先に言わない。
「ちょっと、また社に行ってきたっていうの!? なんであたしも一緒に連れて行ってくれないのよ!」
「あなたはまだ睡蓮さまの護衛でもなんでもありませんから、行ったところで楪さまが入れませんよ」
「くっ……」
 返す言葉もない紅に、桃李が懐からなにかを取り出す。
「はい」
 紅は若干警戒する眼差しを桃李へ向ける。桃李は手に文を持っていた。それを差し出すようにこちらへ出す。なんだろう。
「……なに、それ」
「私からの恋文です」
「いらない」
 即答した紅に、桃李は苦笑する。
「冗談ですよ。睡蓮さまからのお手紙です」
 紅は、桃李から奪うように文を取る。その瞬間、桃李の手が紅の手首を掴んだ。
 紅はけげんな顔をして、桃李を見上げる。桃李は相変わらず、胡散臭い笑みを浮かべて紅を見下ろしていた。
「ちょ、なに。離してくれない?」
 ぐいっと引いてみるが、桃李は手を離してくれない。
「だれがあなた宛と言いました?」
「は? だってあんた宛なわけがないでしょうが」
「失礼な。これでも私は、楪さまの代わりにずっと睡蓮さまと文を交わしていたんですよ」
「あー……睡蓮は残念ながら、あんたには一ミリもなびかなかったけどね」
 すると、なびかれても困りますよ、と桃李が笑う。
「花嫁は現人神さまのものですので」
「…………」
 いつになく感情のない、ひんやりとした声だった。その声に、紅は唐突に気付いた。気付いてしまった。
「……あんた、睡蓮のこと好きだったんだ」
「……はぁ?」
 今度は桃李がぽかんとした。動揺したのか、桃李は紅から手を離す。
「へぇ〜。あんたって恋愛とか興味あったんだね! てっきり楪さましか目に入ってないと思ってた」
「いや、だからそうでなく……」
「いいってば。べつにだれにも言わないからさ。あたしは鬼じゃないし。あんたと違って」
 言いながら、なんとも言えない気持ちになる。
 睡蓮はいい子だ。優しくて、可愛らしくて、守ってやりたくなる。
 でも、睡蓮は楪しか見ていない。桃李の想いは残念だが、報われないだろう。桃李には悪いけど。……いや、いい気味なのか?
「違いますよ。なんで私が……」
「まぁいいや。それよりそこに隠してる金平糖食べようよ」
 紅が言うと、桃李はまた目を丸くした。
「気付いてたんですか」
「嗅覚も鍛えられたからね」
 うそだ。
 本当はただ、睡蓮に会ってきたなら金平糖を持たせてくれたとだろうと思っただけだ。
 金平糖は、紅の好物だから。睡蓮はそういう子だ。
 桃李がとなりに座る。
 懐から、小さな包みを取り出した。
「金平糖だぁ!」
 星の欠片のようなお菓子を見て、ころっと機嫌を良くした紅に、桃李はわずかに目を細めた。
「食べ過ぎはだめですよ。身体に良くないですからね」
 言いながら、桃李は一粒の金平糖を摘む。
「あんたって、たまにお父さんみたいよね」
「おと……」
 となりから飛んできた言葉に、桃李心底いやそうな顔をして紅を見た。
 紅は、呑気にがりがりと金平糖を口の中で転がしていた。
「うま〜」
 桃李がため息をつく。
「あなたはもう……」
「ほら。ぶつくさ言ってないで食べようよ」
 紅が金平糖を一粒、桃李に差し出す。
「……ありがとうございます」
 桃李は紅からもらった金平糖を一粒口に入れた。
「……甘いな」
 言いながら、桃李は金平糖をもうひとつ指先で摘む。
「金平糖なんだから当たり前でしょ。文句言うなら食うな」
 紅はむっとして桃李から金平糖を取り上げる。
「文句じゃなくて感想でしょ」
「言いかたが気に入らない」
 そう言って、紅は桃李から取り上げた薄紅色の金平糖を口に含む。
「……美味しそうに食べますね」
「睡蓮がくれたものだと思うと、より美味しい」
「ふーん」
「ふーんって……」
 紅はため息混じりに金平糖をもうひとつ摘む。桃李はそれをじっと見つめた。
「……食べる?」
「…………」
 桃李はその手をじっと見つめる。そして、おもむろにその手を掴むと、ぐっと引き寄せた。
「ちょっ……」
 そして、紅の手から金平糖を食べた。桃李は軽く指先を噛むと、ちらりと紅を見上げた。
「お父さんはこんなことしないでしょう?」
「!」
 紅の顔が真っ赤に染まる。
「……なるほど。たしかに、さっきより甘くて美味しいかもしれません」
「……こ、この、変態!」
 紅はばっと手を引っ込めると、平手打ちを仕掛ける。しかし、桃李はひらりとそれを交わすと、涼しげに笑った。
「まだまだですね」
「くっ……殺す! ぜったい殺す!」
 紅は蜂の姿になると、桃李目掛けて目にも止まらぬ早さで飛んでいく。
「これは……言葉遣いの訓練も入れなくてはですね」
「うるさい!」
「おっと」
 桃李はひそやかに笑いながら、紅の攻撃を交わすのだった。