向日葵ほど奇妙な花はないと、詠火は香林殿の庭を眺めて思った。
まっすぐ太陽に向かって顔を上げて咲く姿は凛として、みんなが美しいという。だけどその健やかさが詠火はどうも苦手だった。
睡蓮と楪たち龍桜院の者が京を離れたあとも、詠火たちほかの現人神は、まだ殿舎に残っていた。
現在は香林殿でお茶会の最中だ。最年長の現人神、楓夜の呼び掛けである。
「いやぁ、それにしてもまさか、楪があんなに熱い男だったとはねぇ。母は嬉しいぞ」
楓夜はごきげんに紅茶を飲んでいた。
楓夜が言っているのは、昨日の神渡り式のことである。
式の最中、花嫁一行が舞台へと向かっているときのことだった。
突然、頭の中に楪の声が響いた。わずかに驚いて顔を上げると、焔や楓夜も同様にわずかに眉を寄せていた。聴こえているのは、詠火だけではないらしい。
詠火は薫を見やった。どこか楽しげな表情をしている。
やはり、薫の仕業だ。これほどの念術を使えるのは、薫だけ。
声はずっと頭の中に響き続けている。楪らしくない、甘ったるくて身体中が痒くなりそうな言葉が。
楪は花嫁にしか聴こえていないと思っているのだろう。つくづく思った。薫は性格が悪い。
睨むような視線を送れば、薫だけでなく楓夜まで肩を震わせていた。おまえ、最年長だろう、と言いたくなる。
うしろを見る。焔はどこか嬉しそうに口角を上げて、そのとなりにいた美風は瞳を輝かせている。
楪は舞台の中央で花嫁を待っているため、現人神がいる主賓席の様子にはまったく気付いていない。
「……はぁ」
詠火はくだらないと呆れながら、式がさっさと終わるのを待った。
楪は花嫁へ向けて話していた。
誤解した花嫁に、心からの愛の言葉を送り続ける。
詠火は楪の花嫁――睡蓮のことを思い出す。
漆黒のつややかな髪は彼女の心根を映したようにまっすぐ、ほんのり桃色が乗った白い肌は玉のように滑らかで美しい。美しいが、どこか薄幸そうな印象を受ける少女だった。
少女とはいっても詠火よりは歳上だったが。それでも、なんというか放っておけなくなるような、守ってやりたくなるような少女だった。こんな少女が楪の花嫁だなんて哀れに思った。〝花嫁〟でなければ、幸せな結婚ができただろうに、と。
勝手に、同志のように思っていた。
だからつい、あんなことを言ってしまったのだ。
『突然現人神の伴侶となって慣れぬこともあるだろう。なにかあったら、遠慮なく参れ』
詠火や楓夜、薫は、ふたりが契約結婚だと思っていた。
だってまさか、楪がひとを愛するなんてだれが思うか。昔から、ひとをむしけらのようにきらっていたあの能面が。
しかし、それが花嫁を惑わせてしまったらしい。あのあと、ふたりには申し訳ないことをした、と少しだけ反省をした。
それにしても、あの男にいったいどんな心境の変化があったというのだろう。
まさか式典で、ここまでのことをしでかすとは。
「にしても、まさかゆずくんが本気で惚れた花嫁を連れてくるなんてねぇ」
薫が言った。
「神はひとだった。そういうことだな。なぁ詠火」
楓夜はなぜか詠火を見て言った。
「なぜわらわに言う」
「そなたも楪に似て、素直でないからな」
詠火はふん、と顔を逸らした。楓夜は薫以上になにを考えているのか分からない。苦手だ。
「そーそ。焔くんに甘えてばかりじゃだめだよ。詠火ちゃんも立派な現人神なんだからね。……あ、じぶんで言いづらいならわたしが代わりに詠火ちゃんの本音、焔くんに伝えてあげようか?」
薫が前のめりに言ってくる。顔に好奇心が滲み出ている。
詠火は静かに立ち上がった。
手のひらから赤黒い炎を生み出し、薫に向き合う。
「ひとの丸焼きというのは美味しいのか、おぬしで試してやろう」
「じょ、冗談だよ……」
顔を引き攣らせて後退る薫に、詠火はふん、と息を吐く。
「にしてもあのゆずくんが慌てる姿、最高に面白かったなぁ」
「はっはっは。あやつには昔からもう少し表情を顔に出せと言ってたんだがな。残念なことに、ああなってしまった。ま、花嫁にはでれでれのようだから、母は許そう」
楪がああなったのは、十中八九こういう大人がそばにいたからだろう、と詠火は内心思う。おそらく、詠火も楪路線を進んでいる気がする。まぁ、ふたりには言わないが。言ったらそれはそれで面倒なのである。まぁ、薫には読まれているかもしれないが。
「楪は、わらわたちに声が漏れていたことを知っているのか?」
詠火は気を取り直して薫へ訊く。
「うん。だって楓夜さまがぜんぶぺらぺらしゃべっちゃうんだもん。おかげでとんでもない水攻めを受けたよ。一張羅だったのにさ」
薫は今、いつもの衣ではなく、東の衣装である浴衣を着ていた。品のいい浅葱色の衣だ。楪のものだろう。
なるほど。
ことの次第を知った楪が激高し、そこへ睡蓮が慌てて止めに入って着替えさせた……といったところか。もらった着物をそのまま身につけているところがまた、薫らしい。薫はそういう男である。
「……くだらない」
「そう言うな。だれより若いそなたが愛を信じなくてどうする」
「愛など……現人神には必要ない。現人神に必要なのは、花嫁と花婿だ」
詠火には、焔が必要だ。幻の花と呼ばれる魂を持つから。
詠火は紅茶を飲み干すと、黙って立ち上がった。
「帰るのか?」
「あぁ」
「そうか。焔にもよろしくな」
詠火は小さく頷いて、衣をひるがえらせた。
門を出るところで、ふとあることを思い出した。立ち止まって振り返る。
見送りに来ていた楓夜と薫が、振り返った詠火にん? と目をしばたたかせた。詠火はいつも、出ていくときはうしろを振り返らないのである。
「そういえば、そなたの花嫁が晩餐会のときに言っていたんだが。楪の初恋とは、だれのことなのだ?」
詠火が薫に訊ねると、楓夜が目を丸くした。
「なんだって? あいつにそんなのがいたのか? 母は聞いてないぞ」
そりゃ晩餐会のとき、楓夜はべろべろに酔っ払っていたからな。
さすがにその言葉は飲み込んで、詠火は楓夜に呆れた視線だけを送る。すぐに薫へ視線を戻した。
「あぁ。あれね。あれはね、睡蓮ちゃんだよ」
「は?」
睡蓮が楪の初恋?
「……じゃあ、美風は睡蓮本人に楪の初恋の話をしていたっていうのか」
「いやぁ実はさ、奥さんにその話をしたとき、そういえば名前を言ってなかったなって。だから勘違いしちゃったんだね!」
軽く言ってくれる。そのせいで睡蓮はずいぶん心を痛めただろうに。
「…………そなたらは楪になにか菓子折でも持っていってやったほうがいいぞ。口を聞いてもらえなくなる前に」
なんだと、と、楓夜が驚愕の顔を向ける。わざとらしい。
「とうとう反抗期がきたか」
「違う」
「ま、わたしはつんけんしてるゆずくんも好きだからね! にしても傑作だったなぁ、あのゆずくんの告白!」
「母は泣くのをこらえるのに必死だったぞ。あれはもう……ぷっ」
「くくっ……」
思い出し笑いをするふたりに、詠火は白い目を向ける。
「……わらわは失礼する」
詠火は、耐え切れずけらけらと笑い出した楓夜と薫を見て、楪たち夫婦を憐れむとともに、こういう大人にはならないようにしよう、と心に決めるのだった。