『俺は……桔梗でいたほうが、あなたを守れたでしょうか』
――そんなことない!
楪の声は聞こえるのに、姿が見えず、話しかけられないもどかしさが焦燥を掻き立てる。
今、楪はどんな顔をしているのだろう。苦しげな声が、切ない。
『昔……よく、幸せ者だなと言われました』
神の力を得て。
優れた容姿を持って生まれて。
由緒正しい家に生まれて。
なんて幸運なおかた。
なんて羨ましい。
『ことあるごとに、会う大人みんなに、そう言われました。だから俺は、大人たちの刷り込みをまんまと信じて、幸せとはこういうことなのだと思って生きてきました』
自由がなくても、仕方がないのだと。
騙されても、騙されるほうが、信じたほうが悪いのだと。
財力も地位も権力もある。
これこそが幸せ。
たとえだれも信じられず、孤独の中にいたとしても。
『……でも、違いました。あなたに出会って、あなたを知って、初めて俺は本当の幸せを知ったんです。あなたと一緒に飲むお茶が、なにより美味しい。あなたに似合うと言われた着物は、毎日でも着たくなる。あなたと出かけたときに飲んだ、あの珈琲が忘れられない。この離れのにおいも、縁側から見る庭の花も、歩くとしなる板の間の音も……すべて。あなたと過ごした何気ない日常が、愛おしくてたまらないんです』
楪の声は、柔らかさの中にどこか切実さを帯びていた。
『これまで口にしてきたものは、安全で安心で、さらに最高級のものでした。それでも今、俺がいちばんに思い出すのは、あなたと一服したときに飲んだお茶や、あなたが美味しいと言ったものでした。あの喫茶店の珈琲も、チョコレートも。俺にとっては、『いつもの』ものでした。けれど、睡蓮と雨宿りで入ったあの日の珈琲は違いました。いつもと同じ珈琲のはずなのに』
紛れもなく特別だった、と、楪は言う。
『俺は、あなたと出会ってすっかり変わりました。あなたにだけ、欲が尽きないんです。あなたに好かれたいだとか、あなたに触れたいだとか……でも、なによりもあなたにきらわれてしまうことが怖くて』
これまで、みんなに現人神さまと敬われてきた。それが当たり前で、そこに疑問など感じたことはなかった。
けれど、あなたといると、どうも心が穏やかじゃいられないんです。
楪は言う。どこか、懇願するような響きを声に滲ませて。
『あなたのことになると、とても冷静じゃいられない。あなたに近づく男には無条件にいらつくし、あなたに隠しごとをされると不安でたまらなくなる。あなたのすべてを独り占めしたいと思ってしまうんです』
そのうち、少しづつ舞台が近付いてきた。
心臓がどくんと跳ねる。
『桃李に言われました。いくら思っていても、声にしなければ思っていないことと同じだと。そんなこと、と思いました。勝手に、伝わってる、と思っていました。……俺は間違っていた。桔梗としてそばにいて、あなたの性格はよく分かっていたはずなのに……』
舞台の上に、うっすらと楪の影が見えた。けれど、暗くて顔は分からない。こちらを見ているかどうかすら……。
ふと、楪の影が揺れた。こちらを見た、気がした。
舞台に辿り着く。
雅楽の演奏が止み、ぱっと照明が消える。
辺りが暗闇と静寂に包まれる。かすかな衣擦れの音がよく響いた。
「それではこれより、龍桜院家の神渡り式を行うこととする」
式が始まる。
「――睡蓮」
深閑とした中、楪の声が響く。今度こそちゃんと楪の声が耳に届き、顔を上げる。
楪と目が合った。ただ目が合っただけなのに、泣きそうになってしまう。
思えば今日、睡蓮は楪と一度も目を合わせていなかった。
「俺は、あなたのことが好きです」
息が止まる。声が出ない。さっきまで、あんなに言いたいことがあったのに。
「睡蓮が花嫁だとか、特別だとか、そんなことはどうでもいい。だれがなんと言おうと、俺は睡蓮のことが好きです」
楪は睡蓮を見つめ、困ったように笑った。
「不安にさせてすみません」
「……っ……」
楪の顔を見て、睡蓮はようやく気がついた。
楪のことが、好きだ。どうしようもなく。
最初から、愛されているかどうかなんて、関係なかったのだ。
もう好きになってしまったのだから。
ずっと、家族に愛されなかった辛さがどうしても足を引っ張って、睡蓮をその場へ留めていた。
深みにはまってしまう前に、引かなければと。それがじぶんを守る最善の行動だと。
……そんなこと、できるはずないのに。
楪の顔を見た瞬間、睡蓮の中にあった恐怖がほどけていく。
睡蓮は顔を上げ、楪を見る。
――好き。
今すぐに伝えたい。
けれど、ちょうど修祓と呼ばれる清めのお祓いがはじまってしまった。話せる機会を逃してしまった。
そのあいだも、式は淡々と進んでいく。
楪はもう、睡蓮を見ていない。ただ、まっすぐ前を見ている。
お祓いに続いて祝詞奏上に移り、そしていよいよ、式は誓いの儀を残すのみとなる。
向かい合わせになり、睡蓮は再び楪を見上げた。
言うなら今だ。
だけど……。
心臓が最高潮に脈を打つ。緊張して、とてもそれどころではない。
楪は睡蓮と目が合うと、心配はいらないというように微笑んだ。それだけで、睡蓮の心臓は壊れそうなほど鼓動を早める。
楪が身をかがめ、ゆっくりと睡蓮に近付く。しかし唇が触れ合う直前、楪は動きを止めた。ふたりの唇は、触れそうで触れ合わない。
睡蓮はまつ毛を震わせる。
楪は、ふりで終わらせるつもりなのだ。睡蓮を気遣って……。
そうこうするうち、楪がゆっくりと離れていく。儀式が終わる。
無性に寂しさを感じ、気が付いたら睡蓮は楪の手を掴んでいた。楪がハッとしたように睡蓮を見る。
「すい……」
かすかにじぶんを呼ぶ声が聞こえたが、睡蓮はかまわず楪の手を引き、背伸びをする。
「!」
そして、楪の唇に口づけた。
好き、と精一杯の気持ちを込めて。
――そんなことない!
楪の声は聞こえるのに、姿が見えず、話しかけられないもどかしさが焦燥を掻き立てる。
今、楪はどんな顔をしているのだろう。苦しげな声が、切ない。
『昔……よく、幸せ者だなと言われました』
神の力を得て。
優れた容姿を持って生まれて。
由緒正しい家に生まれて。
なんて幸運なおかた。
なんて羨ましい。
『ことあるごとに、会う大人みんなに、そう言われました。だから俺は、大人たちの刷り込みをまんまと信じて、幸せとはこういうことなのだと思って生きてきました』
自由がなくても、仕方がないのだと。
騙されても、騙されるほうが、信じたほうが悪いのだと。
財力も地位も権力もある。
これこそが幸せ。
たとえだれも信じられず、孤独の中にいたとしても。
『……でも、違いました。あなたに出会って、あなたを知って、初めて俺は本当の幸せを知ったんです。あなたと一緒に飲むお茶が、なにより美味しい。あなたに似合うと言われた着物は、毎日でも着たくなる。あなたと出かけたときに飲んだ、あの珈琲が忘れられない。この離れのにおいも、縁側から見る庭の花も、歩くとしなる板の間の音も……すべて。あなたと過ごした何気ない日常が、愛おしくてたまらないんです』
楪の声は、柔らかさの中にどこか切実さを帯びていた。
『これまで口にしてきたものは、安全で安心で、さらに最高級のものでした。それでも今、俺がいちばんに思い出すのは、あなたと一服したときに飲んだお茶や、あなたが美味しいと言ったものでした。あの喫茶店の珈琲も、チョコレートも。俺にとっては、『いつもの』ものでした。けれど、睡蓮と雨宿りで入ったあの日の珈琲は違いました。いつもと同じ珈琲のはずなのに』
紛れもなく特別だった、と、楪は言う。
『俺は、あなたと出会ってすっかり変わりました。あなたにだけ、欲が尽きないんです。あなたに好かれたいだとか、あなたに触れたいだとか……でも、なによりもあなたにきらわれてしまうことが怖くて』
これまで、みんなに現人神さまと敬われてきた。それが当たり前で、そこに疑問など感じたことはなかった。
けれど、あなたといると、どうも心が穏やかじゃいられないんです。
楪は言う。どこか、懇願するような響きを声に滲ませて。
『あなたのことになると、とても冷静じゃいられない。あなたに近づく男には無条件にいらつくし、あなたに隠しごとをされると不安でたまらなくなる。あなたのすべてを独り占めしたいと思ってしまうんです』
そのうち、少しづつ舞台が近付いてきた。
心臓がどくんと跳ねる。
『桃李に言われました。いくら思っていても、声にしなければ思っていないことと同じだと。そんなこと、と思いました。勝手に、伝わってる、と思っていました。……俺は間違っていた。桔梗としてそばにいて、あなたの性格はよく分かっていたはずなのに……』
舞台の上に、うっすらと楪の影が見えた。けれど、暗くて顔は分からない。こちらを見ているかどうかすら……。
ふと、楪の影が揺れた。こちらを見た、気がした。
舞台に辿り着く。
雅楽の演奏が止み、ぱっと照明が消える。
辺りが暗闇と静寂に包まれる。かすかな衣擦れの音がよく響いた。
「それではこれより、龍桜院家の神渡り式を行うこととする」
式が始まる。
「――睡蓮」
深閑とした中、楪の声が響く。今度こそちゃんと楪の声が耳に届き、顔を上げる。
楪と目が合った。ただ目が合っただけなのに、泣きそうになってしまう。
思えば今日、睡蓮は楪と一度も目を合わせていなかった。
「俺は、あなたのことが好きです」
息が止まる。声が出ない。さっきまで、あんなに言いたいことがあったのに。
「睡蓮が花嫁だとか、特別だとか、そんなことはどうでもいい。だれがなんと言おうと、俺は睡蓮のことが好きです」
楪は睡蓮を見つめ、困ったように笑った。
「不安にさせてすみません」
「……っ……」
楪の顔を見て、睡蓮はようやく気がついた。
楪のことが、好きだ。どうしようもなく。
最初から、愛されているかどうかなんて、関係なかったのだ。
もう好きになってしまったのだから。
ずっと、家族に愛されなかった辛さがどうしても足を引っ張って、睡蓮をその場へ留めていた。
深みにはまってしまう前に、引かなければと。それがじぶんを守る最善の行動だと。
……そんなこと、できるはずないのに。
楪の顔を見た瞬間、睡蓮の中にあった恐怖がほどけていく。
睡蓮は顔を上げ、楪を見る。
――好き。
今すぐに伝えたい。
けれど、ちょうど修祓と呼ばれる清めのお祓いがはじまってしまった。話せる機会を逃してしまった。
そのあいだも、式は淡々と進んでいく。
楪はもう、睡蓮を見ていない。ただ、まっすぐ前を見ている。
お祓いに続いて祝詞奏上に移り、そしていよいよ、式は誓いの儀を残すのみとなる。
向かい合わせになり、睡蓮は再び楪を見上げた。
言うなら今だ。
だけど……。
心臓が最高潮に脈を打つ。緊張して、とてもそれどころではない。
楪は睡蓮と目が合うと、心配はいらないというように微笑んだ。それだけで、睡蓮の心臓は壊れそうなほど鼓動を早める。
楪が身をかがめ、ゆっくりと睡蓮に近付く。しかし唇が触れ合う直前、楪は動きを止めた。ふたりの唇は、触れそうで触れ合わない。
睡蓮はまつ毛を震わせる。
楪は、ふりで終わらせるつもりなのだ。睡蓮を気遣って……。
そうこうするうち、楪がゆっくりと離れていく。儀式が終わる。
無性に寂しさを感じ、気が付いたら睡蓮は楪の手を掴んでいた。楪がハッとしたように睡蓮を見る。
「すい……」
かすかにじぶんを呼ぶ声が聞こえたが、睡蓮はかまわず楪の手を引き、背伸びをする。
「!」
そして、楪の唇に口づけた。
好き、と精一杯の気持ちを込めて。