花嫁の神渡り式が始まった。
睡蓮は豪奢な色打掛に身を包み、そのときを待っていた。
「睡蓮、大丈夫?」
小さく息を吐く睡蓮を、紅が心配そうに見つめる。
「大丈夫。ちょっと緊張してるだけだから」
「あのさ、睡蓮……今朝のことだけど」
紅はなにかを言おうとするが、言葉が見つからないのか、口をぱくぱくさせるだけだ。
今朝、睡蓮は紅に式が終わったら社を出ることを伝えた。楪から許可を既にもらっていることも。
どうして、と身を乗り出す紅だったが、睡蓮の様子になにかを察したのか、それ以上はなにも言わず、大人しくなった。
朝から驚かせてしまったことを申し訳なく思いながら、睡蓮は庭に咲いた桔梗から紅へ視線をやった。
「ごめん、こんなときにする話じゃなかったよね。ただ、式が終わったらすぐ帰るだろうから、ちょっと焦っちゃって」
「違うよ。たしかに驚いたけど、あたしが言いたいのはそうじゃなくて……あたしはね、睡蓮がどこに行くとしても、着いてくよ」
「……紅、ありがとう」
「でもさ、その……本当にいいの?」
「なにが?」
「なにが……って、だってその……別宅じゃ、楪さまいないんだよ。また前と同じような生活になっちゃうよ」
「それが私の性に合ってるんだよ。今回、現人神さまたちご夫妻を見て思ったんだ。楪さまと私じゃ、やっぱり釣り合わないなって」
「そんなことないよ。睡蓮と楪さまは……」
「待って待って、紅。べつに、後ろ向きの決断じゃないのよ。ただ、お互いのためを思ってのことなの。私がいると、きっと楪さんは気を遣っちゃうから」
「でも……」
じぶんたちが夫婦であることに変わりはないし、睡蓮は楪を愛している。
だからべつに、これは後ろ向きの選択などではないのだ。
愛されたいと願う気持ちは睡蓮の中にまだあるし、胸は今も引き裂かれるように痛いけれど、それとこれとはべつ。
楪は夫だ。それが唯一、睡蓮を慰めてくれる事実だった。
たとえ愛されなくても、楪は睡蓮を必要としてくれる。じゅうぶん、ぜいたくなことだ。
「だから……悲しくなんてないよ」
睡蓮はじぶんの心に言い聞かせるように呟いた。
「それに、私には紅がいるし。だから大丈夫よ」
睡蓮はそう言って、親友に笑みを向けた。
うそじゃない。睡蓮には紅がいる。だから、悲しくないし寂しくないのだ。
ずず、と鼻をすする音がして、睡蓮は顔を上げる。紅が泣いていた。
「ちょ……紅。泣かないでよ、もうすぐ式が始まるのよ」
「だって、勝手に出てくるんだから仕方ないじゃん」
紅は鼻声で文句を垂れながら、また鼻をすする。
「悔しいよ……楪さまも楪さまだよ。なんで止めないのかな。意味分かんないし。あのひと、なに考えてるのかもぜんぜん分かんないんだよ。ちょっと良い奴かもって思ったあたしの感動返せよ」
「落ち着いてって、紅」
「う〜」
睡蓮は泣きながら喚く紅の涙を優しく拭ってやる。紅は、その後もしばらく泣き続けながら、楪や桃李の文句を吐き捨てていた。
その姿を見て、睡蓮は少し心があたたかくなった。
じぶんのために泣いてくれるひとがいるということが、嬉しかった。
式の支度をするあいだ、睡蓮は一度も楪と会話を交わすことはなかった。楪は睡蓮と目を合わせるどころか、途中で殿舎を出ていってしまったきり、戻ってすらこない。
式直前になっても戻ってこない楪に、さすがに睡蓮も焦り始める。
昨夜はあんなことがあったし、怒って式に出ない、なんてことになったら……。
桃李や紅だけでなく、ほかの現人神たちにも迷惑がかかる。
探しに行ったほうがいいだろうか。でも、じぶんが行ったら余計機嫌が悪くなるかもしれない。桃李に頼んだほうが……。
ぐるぐると考えていると、桃李が優しく声をかけてきた。
「睡蓮さま、大丈夫ですよ。楪さまは夜麗殿に用事があって、そのまま式に向かうとおっしゃっていました」
「あ……そうだったんですね」
よかった。
「それでは睡蓮さま。そろそろ参りましょう」
紅白の巫女服を着た葉織が迎えにやってくる。
いよいよだ。
睡蓮は頷いて、葉織に続いた。